TSUTAYAに昨日紹介した雑誌。ヤオコーにはCHIBIXのポスター(2007.5.31)

2007-05-31 20:51:24 | Weblog

*これでは、見つけられませんね。

ほぼ毎日夕方、スーパー・ヤオコーと本屋のTSUTAYAに行きます。ほとんど目的があるわけではありません。
本屋好きでも、TSUTAYAでは、雑誌をチェック(立ち読みではありません)する程度です。単行本の品揃えに期待していません。毎日出かけるとなると、書棚の間をとおりすぎるだけです。各社の新書でも、きちっと揃えてくれるといいのですが。
という風に、わが町の本屋さんを“馬鹿にしている”というか、TSUTAYAの頑張りを期待しているのです。

*この表紙です。日本・放浪が特集です。

昨日、このブログで紹介<知り合いが作っているから、べたほめ>した雑誌(季刊)“Spectator”、東京の大型書店か、書店でなく若者がやっている店にしかないでしょうと書きました。
その雑誌“Spectator”が、庄和町(春日部市)のTSUTAYAにあったのです。

たった一冊です。平積みではありません。たった一冊です。若者向き雑誌ですが、単行本コーナーにありました。
ぜひ、現物をチェックして下さい。見つからなかったら、カウンターで聞いてみてください。しばらくの間、毎日、残っているかどうか、確認する楽しみができました。
庄和町で、この雑誌を読む若者がいるといいのですが。  

  【おまけ】

*CHIBIXのポスターです。

* ヤオコーのお知らせ掲示板に、知人がやっている、子どもたちのジャズ・ダンス・グループのCHIBIX(チビックス)の発表会のお知らせが貼ってありました。
町の正風館では、<お金がかかる>ので、春日部中央公民館でやると聞いていました。町の住民とすれば、ちょっと寂しいことです。

* CHIBIX(チビックス)の発表会の盛会を祈ります。6月16日(土)午後3時からです。会場は、春日部中央公民館です。
リーダーが元気があって快活な知人ですから、いつも楽しいステージを見せてくれます。


冒険放浪者が書くスペクテーターという雑誌が面白い(2007.5.30)

2007-05-30 23:25:12 | Weblog

*青葉が濃い春日部市立図書館。

昨日(29日)春日部市立図書館に行きました。
久しぶりに行ったら、すっかり緑が濃くなっていました。いつも、いいたたずまいだと感じます。
この日も、窓際の新着棚から、手あたり次第に、貸し出し限度いっぱいの10冊を借りました。しばらく退屈せずに過ごせそうです。

2,3日前には、このところ、発行のたびに送ってもらえる雑誌“Spectator”が届きました。

*左が最新号、右が前の号
Spectatorという雑誌です。表紙に、Spectator for Happy Drifter と書いてあります。“ハッピーな放浪者の目撃者”つまり、ハッピーな放浪者の雑誌という意味でしょうか。
この雑誌の発行者で編集者の青野さんとは、去年の7月に、ネパールの本屋がやっていたイベントを手伝っていた時に出会って、しばらく話したというだけの縁です。青野さんは、おそらく30代でしょう。私らに世代に、1960、70年代を現実に通ってきた“目撃者”として扱ってくれる後輩世代です、その年代を丁寧に聞きたいということがはっきり伝わってきた好青年でした。

季刊です。2006年秋冬号は、特集“マウンテン・ハイライフ”で、1960、70年代から日本に入ってきた、アメリカ伝来のアウトドア・ライフでした。
<いま、日本の旅が新鮮だ、日本の地方が面白い。これまで長期に渡り世界を旅してきた連中が国内の旅に関心を寄せている>と、冒頭に書いているのが、最近届いた2007年春夏号です。つまり、特集は、日本国内放浪です。
写真がやたら大きくて美しい最近の若者向きの雑誌と根本的に違うところは、執筆した旅行者に、若者らしい冒険心があることです。大型バス一台を手に入れ全国にイベントを持ちながらツアーするグループや、軽自動車を寝泊まりできるキャンピング・カーに改造し全国をまわる者の、原稿は、旧世代の私をもわくわくさせます。

今の世の若者にも、私らが持っていたと同じように、冒険旅行の中に身を置いているのがいるのです。世評に無気力といわれる今の世の若者にも、若者らしい心意気を感じます。そういう雑誌なのです。

今、春日部界隈はもちろん、北千住あたりの本屋でみたことはありません。置いているのは東京の大型書店だけのようです。先日六本木の、青山ブックセンターに寄ったら、山のようにつんであって、嬉しくなってしまいました。

この雑誌は、大きく伸びるような予感がします。

 【おまけ】

*発行所は、有限会社エディトリアル・デパートメント。ホームページがあります。<ここです>


携帯電話(AUグローバルパスポート)を買ったら、徘徊人発見機能付でした(2007.5.29)

2007-05-29 21:45:30 | Weblog

*見かけ何にも変わっていないようです。古いのを何かに使えるといいのですが。

昨日(28日)に春日部駅東口で、携帯電話を買い換えました。
最近の携帯電話事情も知らず、新しい機能や料金事情も、何も研究せずに、店に入りました。

今まで使っていたのは、2代目です。その時は、DocomoからKDDIのAUに変えること、海外でもそのまま使えること、という明確な理由があったのです。店で調べてもらったら、この2代目さんは5年使っていたことがわかりました。もっと長いこと使っていたような気がしていました。今、電話とメール以外には、何もしないので、困っているわけではありません。最近は、何かいい機能があるのではないかと、期待していたのです。

海外で、そのまま使いたいという気持ちは続いています。
いつまでも海外=AUのグローバル・パスポートだけいう時代ではないだろうと思っていたのですが、<今もそのまま、持っていけるのは、グローバル・パスポートだけ>のようです。AUの分厚いカタログの一番最後に<めだたないように載っている>、あまり売れ筋ではないようです。

つまり、買ったのは、A5514SAで三洋電機の製品。QUALCOMの3G-CDMA方式です。2代目は、やはり三洋製、QUALCOMのCDMAで、型番は、C1001SAでした。

海外で使えること、なんて言っていますが、私自身が使ったことはありません。
出張時には、海外用の携帯電話をレンタルしていました。<電話代が会社持ちでしたから>、自分のものを使ったことはないのです。

息子が、アメリカ放浪した時には、持たせました。こちらから電話できることは、何か安心ですね。<電話をかけてきて、ユースホステルをネットで予約してくれなんて、言ってきたことがあります>、大きなホテルに泊まるのではないし、電話もしづらいものです。“旅慣れた私!”でも、公衆電話なんて、今でも使えません。それに、ユースホステルの旅では、充電に苦労したようです。
この携帯電話は、アメリカ、アジアはまずまず使えますが、ヨーロッパでは使えません。

それから、念願の<カメラ>がついています。これが、更新のほんとうの目的だったのかも知れません。

さて、マニュアルを読んでいると、EZナビ機能がついています(いるようです)。
GPS情報(位置情報)が使えるのです。つまり、車のナビのように使えるようですが、“お子様の居場所を確認できる<安心ナビ位置確認>”ができるらしいのです。

これは、徘徊する人の位置確認に使えるようです。でも、その使い方、設定は、けっこう面倒です。
まだ、それが必要になるには、もうちょっと時間があります。それまでには、使えるようにしておきます。

  【おまけ】

*2代目(右)には、パソコン接続用のPCカードもついていました。

* 今、若者の携帯使用能力と使用時間は、私の想像以上でしょう。私なんか、持っている機能のほんの一部しか使っていないでしょう。電話があれば、それだけでいいかもしれません。

* 私がまだ現役の頃、デジタル・デバイドという言葉、課題がありました。パソコン・ITに通じた人と得意でない人の格差の問題でした。その時代、老人に対する格差でした。<役場のお姉さんが、窓口に来て質問する老人に、“詳しくはホームページに書いてありますから”と応える>という課題です。

* 10日ほどの前の新聞記事です。若者に、デジタル・デバイド、パソコンの使えない若者が増えていて、例えば、就職にも不利だというのです。<携帯ばかり使っているから、パソコンに慣れていない、使えない>というのです。
ありえる話だなと思いました。

* 携帯メール・アドレスを変更しました。わけのわからないジャンク・メールばかりが届いていたのです。このさい思い切って変えました。


6月になったらアメリカの南部を放浪したい(2007.5.24)

2007-05-24 19:59:12 | Weblog

*まず地球の歩き方でしょうか。左の2冊は、5,6年前に息子が“バスとユースホステルでアメリカ横断30日”のとき持ち歩いた。アメリカ南部編も持っていたのですが、今年度版(右)を買いました。

毎年6月にあって、けっこう深く関わっていた町のイベントがなくなって、ポカッリ空白の気分になったので、旅に出ようと思っていたのです。
ネパールに行かねばならないと思っていたのですが、ポカラからサビナが日本に勉強に来たので、しばらく日本でネパールに関わっていくことにします。それで、アメリカで行ったことのない南部の方を歩いてみることにしたのです。

6月の飛行機の比較的安い時期に思ってはいるのですが、それでも、もうひとつ行こうと気になれない、だんだん気力が失せてきたのでしょうか。

漠然とは放浪するコースは決まっています。一度行ってみたいと思っていたところを、つないでいくわけです。
カントリー・ソングの発祥の地、アパラチア山脈南部のブリストルからナッシュビルへ。ソウル・ブルースを訪ねてメンフィスからミシシッピー・デルタ地帯を歩いてきたい、ここらは、バーミンガム、モントゴメリー、セルマといった、60年代に公民権運動が燃え盛った所でもあります。
そして、ミシシッピー河がメキシコ湾に出るニューオルリンズに着きます。

1970年代から、30年ぶりに、グレーハウンド・バスを使うアメリカの旅になります。
またまた、書庫から本を抱えてきて、いくつかの本や雑誌をめくりながら、断片的な、その地の記事、訪ねる場所をカードに書き込みながら予定表を作り始めました。

出発は、6月12日(火)、帰着は、6月30日(土)になるでしょう。3週間弱です。
ともかく早く、飛行機だけでも押さえなければ。もう“早割り”の時期はすぎています。航空運賃=割引の仕組みはよくわかりかせん。昨日も“でっかいHISの広告が新聞に折り込まれましたが、往復10日程度の切符は安くても使えません。

アメリカ南部の<ソウル=魂>を見なくて、アメリカ好きを名乗れないでしょう。
ボブ・ディランのハイウェイ61(Highway 61 revisit)を下る旅でもあります。
古レコードをたくさん買ってきそうです。

   【おまけ】

* 10日ほど前に、庄和町のTSUTAYAになくて、春日部ロビンソンの本屋さんまで出かけて買った“トム・ソーヤー”という名の雑誌6月号。<そして、アメリカ南部へ、わが心のブルース>という特集名にひかれました。結果的には、買うほどの雑誌ではなかったですね。

* 書庫に<ウィリアム・フォークナーのミシシッピ>(青磁書房1985年)を持っていました。読んだこと自体あまり覚えていません。日本の大学の英文学の先生がフォークナーのゆかりの地を訪ねて、その報告です。
もとの会社の先輩にフォークナー好き(研究者)がいました。何度かミシシッピー大学の研究会にも参加されておられる大先輩です。出発前に会っていこうかなと思っています。


窓からの風にのって、組曲ミシシッピーが流れます(2007.5.23)

2007-05-23 17:23:17 | Weblog

 *この頃、自慢のオーディオでなく、もっぱらラジカセです。

すがすがしい初夏の日でした。窓をあけて、ラジカセを持ち出しました。
3月ぐらいに買って聞いていなかったCDをかけてみました。

東武線の駅に、月初めに置いてある月刊の小雑誌(PR誌)<マンスリー・とーぶ?>を、現役時代はほぼ必ず読んでいました。
電車に乗っているつかの間に読んで、降りるとき捨ててしまうのですが、トレイン・ミュージック、トレイン・シネマという小さいコラムを破いて持ち帰えることがありました。
トレイン<汽車・列車>ミュージック欄には、アメリカのカントリー・ソングやフォーク・ソングの汽車を歌った曲がよく登場していました。放浪<ホーボー>ソングです。ボブ・ディランも何度も出てきました。

今年(2007年)の1月号だったか、ミュージック・CDコーナー欄に、JAZZ“グローフェ”と紹介されたのです。
“グローフェ”のグランド・キャニオン組曲とミシシッピー組曲がオーケストラ演奏ではなくビッグバンド演奏だというのです。<これらの曲は、元々はキング・オブ・ジャズといわれたポール・ホワイトマンのビッグバンドのため作品。このCDはそのオリジナル版による珍しい演奏です>と紹介されていました。
そして、<古き善きアメリカを満喫できる楽しい一枚です>と書かれたら買わざるをえません。

私には、クラシックの知識が全くありません。南桜井(庄和町)のTSUTAYAに置いているとも思いません。ネットで探しました。Amazon にはなかったのですが、Tower recordにありました。

 6月あたりに、アメリカ南部、ミシシッピー河あたりを、放浪しようと思っていて、なかなかきっかけがつかめないでいるのです。5月も下旬になって、まだ飛行機の手配すらしていないのです。

さわやかな風が吹いていて、窓をあけて、窓際にラジカセをおいて、ミシシッピー組曲を流していました。
期待したスウィング・ジャズ・スタイルでは、全くありません。JAZZと書いてあるのですが、シンフォニック・ジャズということでしょうか。真剣に聞くなんて感じではありません。風とともに流れくるだけです。それも悪くはありません。

まだ見ぬミシシッピーに思いはとんでいました・・・・というほどでもありませんでしたが。 

  【おまけ】

*JAZZと書いてあるのですが、Jazzって何かよくわかりませんね。

*Ferde Grofe & George Gershwin (ファーディ・グローフェとジョージ・ガーシュイン);グランド・キャニオン組曲(13分)、ミシシッピー組曲(31分);ポール・ホワイトマン楽団初演によるオリジナル版、〔BRIDGEレコード(米)BCD9212;2006年〕


レイチェル・カーソン生誕100年、食べ物の安全を復習(2007.5.22)

2007-05-22 12:36:44 | Weblog

*いつの間にか本が増えるのです。

ご近所情報交換ブログの意味・目的は、もうすっかり消えています。町に出ない日々が続いていて、情報は何もなし、日々新聞を読んでいるだけです。

今朝(22日)の朝日、ロンドン・グリニッチに保存されている帆船・カーティサーク号炎上の記事、海洋ファンでもある私にはブログになります。昨日(21日)の朝日(4面)に、レイチェル・カーソン生誕100年行事の記事がありました。ブログの話題にしようと思ったのですが、私のブログのいいかげんなトーンでなく、きちっと書かねばと思って一日躊躇して、流してしまっていたのです。

でも、いつものトーンでレイチェル・カーソンを書きます。また本を並べることから始めます。
今日まだ夜の明けないうちから、書庫にいき、一抱えの“レイチェル・カーソン”を持ち出してきたのです。
レイチェル・カーソンは、1962年に書いた“Silent Spring<沈黙の春>”で、殺虫剤・化学による生物への深刻な影響を発表、社会に警告を発したアメリカの女性です。アメリカそして世界中に大きな反響を呼び起こしました。<沈黙の春>はアメリカを変えた本といわれているのです。

私の一抱えの本の中に、<沈黙の春>そのものはありません。読んでいないのです。<沈黙の春>からレイチェル・カーソンの警告を受け取り、持続して社会に発言し続ける人たちの本を読んできたのです。またレイチェル・カーソンという女性の真摯な生き方を読んできたのです。だから、少年少女向きの伝記が3冊もあります。
むろん自分の子どもたちに“読め”といったことはありません。
どの分野もそうですが、子どもたち向きの本は、大人(私)にとって“やさしい解説書”であり入門書なのです。

私と同年代で、都会の子どもだった人は、米軍(進駐軍)から、虱(しらみ)退治にDDTを頭が真っ白になるほどかけられてきたようです。その頃、殺虫剤=DDTはごく当たり前に、どの家庭でも使われてきました。
私が育った岡山のウチの前の田んぼには、殺虫剤パラチオンが年に一回撒かれていました。パラチオンを撒くオジさんは、完全覆面武装して撒いていました。通学路のどの田んぼにも、竹の先に、赤い布やなんと農薬の空き瓶を逆さにさして危険警告がなされていました。あぜ道に脱捨てられた作業着に触ってはいけないと言われていました。農協の推奨作業だったのでしょう。だからパラチオンという言葉はよく知っていました。それから、ホリドールという名前も覚えています。たぶん商品名で同じでしょう。
日本全国、庄和町の田んぼにも撒かれ続けたのでしょう。

レイチェル・カーソンは、<沈黙の春>で、DDTやパラチオン、そして化学の生物への危険を説いています。死んでしまって生物のいなくなった“沈黙”した世界を書いたのです。雑誌“ニューヨーカー”で発表されたのは1962年です。殺虫剤などの化学会社は、猛然と反論しました。反論のために学者が動員されました。
それでも、アメリカ社会は、この警告を受け入れます。危険を認識します。
私が、60、70年代にアメリカにひかれていたのは、アメリカに、伝統的にあった民衆が立ち上がる行動によるものでしょう。

今、庄和町の田んぼのそばの溝に、生き物の動きがないように思います。日本でパラチオンやDDTが禁止されたのが、いつのことか正しく知りません。ようやく無農薬や有機肥料のお米や野菜が、大切であるとの考えが広く知られてきました。
それでも、効率重視の世の中です。収益事業としての農業があるわけです。食べたらすぐに、目に見えて影響がでるわけではありません。
まだまだ自分で、注意していかなければいけないのです。ほんの少しのことであっても、しないよりはいいのです。

  【おまけ】

* 日本で、レイチェル・カーソンとそれに続く行動を紹介し続ける“レイチェル・カーソン日本協会”があります。著書・訳書それにテレビ番組で発言される上遠恵子さんがいらっしゃいます。私には、レイチェル・カーソンが上遠さんと重なるのです。上遠さんのお話を一度だけ聞いたことがあります。

* “レイチェル・カーソン日本協会”のホーム・ページは、<ここです>
誕生日の5月27日に、生誕100年記念行事が予定されています。何もかも東京であることも問題ですが、首都東京で何もないこと、その行事が関西(京都)であることも知っておきたいと思うのです。

*ホームページから引用です。

* ついでに書けば、葛飾中学校脇の用水路に、小学生の息子を引き連れていって(!)、まさに山のように、飼えないほど魚をとってみせたことがあります。用水路脇のおウチから、蛍が飛びはじめましたよ、と知らせてもらっていたこともあります。20年前のことです。今用水路は、コンクリート化され、とてもきれいになっています。生き物がいる気配はありません。


ライス・カレーよりカレー・ライスが好きです(2007.5.20)

2007-05-20 21:44:10 | Weblog

*晴れた一日にも陽が沈みます。

今日、日曜日。当地(庄和町、春日部市)の空は真っ青に晴れ渡っていました。
だから、ブログは何にしようか・・・。カレーの話にします。朝日新聞(20日付)の別刷りにカレーの話が載っていたからです。

*わが家のカレーは、ハウス・バーモント・カレーです。

ライス・カレーとカレー・ライスの違いが明確に書いてありました。
昔は、“ライスが山盛りだった” そして、“カレーがたっぷり”に変わった。その1960年代の変化が、名前の変化だというのです。なるほど。私は、その変化に立ち会ったことになります。
その頃、ほんの少し気取ってレストランに入って、食べるのが、“カレー”でした。今、外で、レストランでカレーを食べる人はいないでしょうね。外のカレーが、ウチのカレーより明確に美味しいといえないように思うのです。スーパーに“帝国ホテルのカレー”みたいなラベルで売っていますが、特別おいしいとも思いません。

私は、週2,3日食事を作りますが、隔週に一度は、カレーにします。いろいろ独自色を出したいのですが、カレーを作るときは、時間がないとか、面倒な時です。だから、市販のカレールーのカレーです。
ちょっと高いカレールーを使ってみようと思い、箱の絵で、美味しそうなのを選ぶこともあったのですが、結局、箱の絵はお子様向きですが<ハウス・バーモント・カレー・中辛>が一番おいしい。今3人家族ですが、迷わず1箱10皿分を作ります。息子も私もかなり食べます。
数年前、信州長野でひとり暮らしのときも、1箱10皿分作って、何日もカレーを食べていました。

私の知人に、若いネパール人カップルがいます。毎日、カレー、カレー味のようです。日本のどろっとしたカレーではありません。もちろん牛肉は食べません。トリ肉か野菜カレーです。
私がよくいくネパール・レストラン“ミルミレ”のカレーもわが家のカレーとは違います。カレー汁の感じです。ダル・バート(豆汁かけ飯)と混ぜて食べます。おいしい、やみつきになります。

私が、ネパールでふらふらしていた時の話です。どういう行きがかりだったか思いだせないのですが、“ミルミレ”のマスターのために、香辛料をネパールで買って帰ることになったのです。5年ほど前のことです。

*私のネパール放浪日誌です。

カレールーしか知らない頃で、クミン、カルダモン、ターメリック、など何にも知らないのです。買ってくる香辛料を電話で聞いたのですが、その発音があっているかどうかさえ、わからないわけです。市場のオヤジに伝える自信がないのです。それで、カトマンズの日本料理屋に行って、私が発声して、ネパール文字で書いてもらって、それを市場で見せて買ったのです。その香辛料の売っている袋、“単位”は、大きかったですね。

私が子どもの頃は、ご飯の多いライスカレーの時代で、カレールーはありません。牛肉もたぶんありません。でも母親は、小麦粉とカレー粉で、カレーを作っていたわけです。美味しかったですね、大好きでした。
私も、ルーに頼らず、オリジナル・カレーに挑戦しなくてはと、思ってはいるのですが。

   【おまけ】

* ほんとは大阪ですが、私の東京での青春の地は、新宿です。庄和町に来る直前のことです。新宿は、風月堂、高野フルーツパーラー、そして中村屋です。インド・カリー発祥の地、中村屋です。
息子がひとり暮らしをしていた学生の頃、カレーを食べようかと、中村屋にいったことがあります。1500円のカリーです。<たけーっ>と息子が叫んだことをよく覚えています。一日500円(?)の学食暮らしには、たかがカレーなのににびっくりしたのでしょう。味についての<コメント>は、まったく覚えていません。
まあ、カレーの名所、日本のカレー文化、発祥の店ですね。

*ヤオコーに中村屋のカレーがあります。
*明治・大正・昭和に続く“中村屋の新宿文化”に関心がありました。インドカリーを残したのはインド独立運動のボーズ。中村屋の女主人・相馬黒光が日本への亡命の手助けしたといわれています。

* 人生をリセットしてからの私は、新宿に出かけるとき、中村屋の店頭で売っている“カレーパン”ひとつと“ピロシキ”ひとつを買います。 お昼ご飯にするのです。


公民館は、私の町で唯一の文化施設です(2007.5.19)

2007-05-19 18:00:21 | Weblog

*ふれあい60センターが正式名称だったはずですが、役場は、その呼び名をすぐに正風館に変更。正風館の名で親しまれてきました。春日部市と合併して、市は、庄和市民センターに呼称変更し看板もかけましたが、誰もそう呼びません。このごろ、庄和地区中央公民館と呼ばせたいようです。60ということは、昭和60年にできたということです。

昨日(18日)の昼すぎ、私の家のごく近くで、知人にあって、“ちょっとお茶飲もうよ”と言って困りました。わが町に、おしゃれなカフェなんてありません。で、なんと公民館(正風館)でお茶飲んでしゃべっていました。何もない、のどかな、わが庄和町(現春日部市)です。
♪襟裳の春――は何もない、春です――♪

1年半前に春日部市と合併した、わが庄和町にとって、行政が関わることがすべて、春日部“本”市にそって変わったらしいのです。春日部市という大きな市と小さな田んぼの中の町、庄和町はすべての状況が違います。

庶民にとっては例えば、公民館の使い方、利用規則が大きく変わりました。
春日部市の担当者には、お茶するために公民館にいくとか、パーティーや宴会を公民館でやるなんて、想像できないでしょう。結婚式をやっているのを見たこともありますし、お葬式をやった町長さんさえいます。敬老会も、成人式も、公民館でした。
ここらは、春日部公民館条例だったか、利用規則だったかの制限事項に抵触するでしょう。公民館の目的が違うことになるのです。

小さな町、庄和町には、他に人が集まれる場所なかったのです。町民の集まりのためなら、なんでもできたのです。農業・農家を中心とする庄和町と、商業・非農家を中心の春日部市では、住民の求めるものには、大きな違いがあるのです。まあ、人口比で大きな違いがあって、飲み込まれる、合わせるのは、仕方ないのでしょうが。春日部市役所は、この違いを少しは考えてくれてもいいのにと思います。

さて、公民館の利用について、反対に、春日部“本”市が庄和町に合わせたことが、ひとつだけあります。それは、庄和町に合わせて公民館利用を、無料であった春日部“本”市側も有料にしたことです。
つまり利用規則は春日部市に、利用料徴収は庄和町に合わせたことになります。

いささか何かで読んだことの受け売りなのですが、公民館は、教育基本法で扱う社会教育の施設なのです。だから教育委員会が所管するのです。だから図書館と同じなのです。教育委員会に無関係な生涯学習センターや営業目的の民間カルチャー・センターとは全く違うのです。

3月議会で市議会議員さんが有料化を決めました。むろん、提案したのは、春日部市教育委員会(つきつめれば春日部市長さん)です。議会制民主主義の春日部市ですから、議員さんの可決賛成は、選んだ市民の賛成にほかなりません。

決まってしまったのだから、<今さらどうにもなりませんが>、ただ、理由が少々気に入りません。市財政の問題から有料にしますなら、春日部にもある<夕張化の心配>のこともあり、そうかと思いますが。使用者が限定されているからと、<受益者負担>を前面に出すことには、いささか気分を悪くします。
いつぞやの<自己責任>、<個人のやり方次第で、格差は当然>の論理ですね。そういう言い方は、行政の役割放棄だと思うのです。同じ論理なら図書館の有料化も併せてやったら、と言いたくなるのです。

この6月の春日部市議会で、公民館利用料の減額・免除規則が、審議、採決されます。行政が、どのような規則案を提出するのか知りません。
減額・免除の適用を“裏でこっそり”やるのでなく、やるなら、オープンにしてほしいですね。

  【おまけ】

*正風館の写真を撮るだけで、帰りました。

* 庄和町の公民館は、“まあ、よく使われています”と思います。朝から、”おうちから、ほうきで掃きだされて”公民館に向かう、私と同年代もいらっしゃいます。
放課後、帰宅部の中・高生も、公民館に立ち寄ります。宿題やっているのを見かけます。他に行くところがないのです。ゲームセンターなんてない町なのです。

* 何しろ、わが家と公民館は、徒歩4分です。<あの人また来ている>と言われないように、行き過ぎないように自重しています。

* ついでに、東京・原宿にも公民館があるようです。私らみたいにバンドの練習に使ってるのでしょうか。公民館って、農村地帯の施設だけではないのですよ。


もうトシだから、JTBの宇宙旅行にはいけそうにありません(2007.5.17)

2007-05-17 18:05:34 | Weblog

またアメリカ放浪でもしようかなと思って、息子に“安い飛行機の情報”を頼んだら、アメリカ旅行のパンフレッドと一緒に、“JTBの宇宙旅行”のパンフレットを持ち帰ってくれました。
旅行会社の店先には、まあ、いっぱいツアーのパンフレットが並んでいます。その中に、“宇宙旅行”のパンフレットも置いているらしいのです。

冒険=エべレスト登頂旅行、南極旅行で、大騒ぎするのは“チャンチャラおかしい”という時代だったのです。
確かに、新聞報道で、JTBが宇宙旅行を売り出したのは知ってはいたのですが、テレビ局が特番制作に使う程度の利用だと思っていました。
“一般大衆向け”にパンフレットまでおいてあるとは驚きでした。

紹介してみます。

*月旅行;$1億(約120億円)旅行期間9~21日間
*本格宇宙旅行;$2500万(約30億円)9日間、国際宇宙ステーション滞在、オプション(宇宙遊泳)は約18億円。
*宇宙体験旅行(弾道飛行);$10万2千(約1,224万円)5日間
*アメリカでの無重力体験;$3,500(約42万円)

なんか、書いていてあほらしくなって、もうやめましょう。
普通のアメリカ旅行に、42万円のオプションを加えて、無重力体験をする“一般人”もいるのでしょうね。
こちら、やすい飛行機のチケットを探していることが、さびしくなりました。

  【おまけ】

*パンフレットに載っているJTBのご挨拶文です。読んで、あまりいい気分がしないですね。
<夢やSFの世界であった宇宙旅行が、日本でもいよいよ現実のものとなります。宇宙飛行士ではない一般のみなさまにも、青く美しい地球を宇宙から眺めていただける機会を提供できるようになりました。お客様からの熱きご要望にお応えし、JTBは、地球上の旅行にとどまらず宇宙にまで翼を広げ、平和で心豊かな社会の実現に貢献してまいります。>

*興味のある方は、<このWEBにあります>

*月旅行のお申し込みには、ウチの息子を通して下さるとうれしいですね。


エベレスト・南極・太平洋、冒険・旅行は若い時こそ(2007.5.16)

2007-05-16 18:06:35 | Weblog

*岩波少年少女文庫“エヴェレストをめざして”。右;中学校の図書室で借りていたもの、中;再版本、左;英国発行の原書。右と左は、後に古本屋で買った。

今日(16日)の朝刊に、アドベンチャー・ガイドの主催で、チョモランマ(エベレスト)公募登山隊の62歳の男性参加者が頂上で15日に亡くなったと報道されました。山頂から衛星電話で連絡があったのです。だから、その日のうちに新聞に載りました。
同じ15日、野口健さん(38歳・環境冒険家と新聞に載っています)が中国(チベット側)から登頂に成功しています。一般に、エベレストの登頂シーズンは、冬が終わって雨季に入る前(今頃)と、雨季が終わって冬に入る前(11月頃)の2回です。

実は、私もアドベンチャー・ガイドの説明会にでかけ、定期的に資料・案内を送ってもらっているのです。

*送られてくるアドベンチャー・ツアー・ガイド。2005年11月には「南極昭和基地視察団」(200万円)メンバー募集があった。ぐらっときました。

私は、人生をリセットし自由を得たとき、エベレストを見るだけでもと思ってひとりで歩いたのですが、亡くなった方は、もう少し強い意志と経験と体力とお金があったのでしょう。おそらく、子どものころから、持ち続けた夢だったのだと思います。やっと自由に行動できる時間ができたのだと思います。よくわかりますね。

エベレストがイギリス隊によって、1953年5月29日に初登頂されたというニュースが新聞に載ったのは、3日ぐらいたった6月1日か2日です。そのニュースから、田舎の小学生だった私にも、冒険への憧れが、しだいに芽生えてきたでしょう。
中学校の図書室で借りた、少年向きのエベレスト登山隊隊長ジョン・ハントが書いた“エヴェレストをめざして”を、メモしながら読んだことをはっきりと覚えています。
大人になっていく中に、日本隊の登頂、先鋭社会人クライマー隊の登頂が続き、新聞社がバックアップすることもあって大きく報道されていました。指を加えて見るだけでした。エベレスト遠征隊の公式報告書やエベレスト登頂記は、たくさん読んできました。
20年ぐらい前、読売新聞社が中心になって、ネパール側とチベット側同時登頂をめざした大登山隊には、私の知人が、報道通信隊員としてベースキャンプに3ヶ月くらい詰めていました。衛星電話を報道に利用することを一緒に研究していた知人でもあります。この登山隊が初めて使ったのです。羨ましかったですね。まあ、それだけのことですが。

このブログで、2006年12月13日に、歩いてエベレスト接近のことを書いています。私の写真もあります<ここです>
もう行けませんね、もう少し近寄りたいとは思っているのですが。

日本の南極探検隊のニュースも、中学生の冒険心をあおりました。
高校生だったときに、大阪の23歳の堀江健一さんが、芦屋からサンフランシスコまで、太平洋を単独でヨットで横断に成功しました。94日間です。

*“太平洋ひとりぼっち”。右;1962年文芸春秋新社発行、左;1989年ぐるーぷ・ぱあめ発行。

私とそう年も違わない若者が自力でやったのです。そのころの冒険は、大きなプロジェクト、大きなチーム、まさに国家的なサポートの中に実現していました。
だから、堀江さんの航海日誌である“太平洋ひとりぼっち”は、個人で行く冒険旅行のバイブルのように何度も読みました。

冒険旅行の夢は、現実生活の中にしだいにしぼんでしまうのです。休みがとれない、お金がない、仕事をやめてまで出かける勇気はついに出なかったのです。せいぜい“書斎の冒険者”、正確には、“通勤電車の冒険者”だったわけです。冒険旅行記はずいぶん読みました。

今、自由があります。ヒルズ族ほどではありませんが、多少の無駄遣いはできます。健康・体力たぶんOK、気力も充実しています。ただ、この年齢で出かけても、何にもなりません。
若いときの冒険・見聞の旅は、血となり肉となります。若いときこそ、自由な旅に出かけるべきです。可愛い子には旅をさせよ・・・・なのです。

  【おまけ】
*先日の飲み会での会話。<今どうしていますか><別に何も><世界一周船の旅に行かれたらどうですか・・・><そうきたか>。
私のほんとの最後“オーラス”、すなわち足腰がだめになった時が、世界一周船の旅の時だと思っているのです。船のデッキの椅子に腰掛けて、海を見るだけの旅です。だから<まだまだよ>なんです。
それでも、辻元清美さんが長くかかわっていた“ピースポート”の新聞広告をじっと見つめています。正月すぎから出る100日間で最低クラス150万円が、南極に接近するのです。気持ちがぐらっと来ているのです。


ボブ・ディランの秘盤LPがCDRで売っていました(2007.5.15)

2007-05-15 20:34:03 | Weblog

*この間、買ったCDRです。

先日(11日)、新宿に出かけた日、いつものように、ディスクユニオン本店によりました。5階ルーツミュージックの売り場だけです。このジャンルを揃えている店はここだけになったような気がします。新宿に出たときは必ず寄ります。

この間は、CD3枚を買いました。そのうちの1枚に、レジの若い人から、<CDRですがいいですか?>と聞かれました。

レコードもっていてもCDがあれば買うのです。
“Broadside Ballads vol.1(FH-5301)”です。見なれたジャケットの絵から、すぐに買うこと決めました。

このLPは、アメリカでは、1963年ぐらいに売り出されたのですが、日本では、13年後(日本でもフォークブームが消えかけた頃、私がギターを持たなくなった頃)の、1976年に日本コロンビアから発売され、それを買っていたのです。

*1976年に買ったLPレコード

<無名時代のボブ・ディランの貴重な録音(2曲)を含む秘盤!>と赤い帯に書いてありました。
<秘盤>はすごいですね。<秘盤>と書かれたら、買わないわけにはいかなかったのです。
そのころ私は、アメリカの60年代をもっと深く理解をしようとしていた頃です。10年前のボブ・ディランを訪ねるように、海賊盤(ブートレッグ)集めに夢中になり始めた頃でした。

ボブ・ディランは、私が岡山から大阪に出た年、1960年にアメリカの田舎ミネソタからニューヨークに<上京>します。アメリカの<都会>は、フォークソング・リバイバルのど真ん中、昔からの素朴なアメリカの歌、ギター一本で歌える歌が、公民権運動など社会運動の中で、盛んであったのです。

BLOADSIDE(ブロードサイド)という名の、チラシのような小雑誌に、こぞって歌を発表し歌って、はやらせていったのです。ボブ・ディランもまたそうです。“風に吹かれて”(Blowin’ the Wind)もここに発表されました。
小雑誌と同じように、それに載った歌のレコードが、フォークウェイズというレコード会社からでていました。同社は、アメリカの古い民謡の採集にも力をいれていました。

 4,5年遅れで、アメリカの流行を追っていた日本にもフォークブームがあったのですが、私ら日本の“若者”で、ブロードサイド誌やフォークウェイズのレコードに、リアルタイムで接していた人は、ほんのわずかだったでしょう。
フォークウェイズ社は、その後、スミソニアン博物館の音楽・音源保存部門の援助を得て、“スミソニアン・フォークウェイズ・レコーディング”になっています。

<CDRでもいいですか?>とレジで聞かれて、<ええ、たぶん聞かないでしょうから>と応えましたが、今朝、このCDRをパソコンで聞きました。
今<貴重な音楽>というほどの感動もありませんが、わずかな感傷はありました。
レコードがCDに代わって残念なことは、レコードに入っていたライナーノーツ(解説や歌詞カード)がなくなることです。
しかし、この買ったCDRのジャケットをよく読むと、ライナーノーツが、CDRにPDFデータで収録してあるというのです。まだ、それを取り出すことはできていません。また、スミソニアンのデータベースから、ライナーノーツデータをダウンロードすることが可能とあります。これはできました。

そうして、このデータベースで遊んでいると、このCDの全曲をダウンロードできることもわかりました。またCDRにして購入することもできるようです。たしか10$弱でした。ディスクユニオンでは、2390円でした。

   【おまけ】

*2000年に発売されたCD5枚組み

* ついでに、Broadasideは、第7集ぐらいまであるのです。LPで持っているのは、第1集だけです。しかし実は、10年ぐらい前に、CDRでなくほんとのCD化されているのです。ただし、すべてを網羅した再編集盤です。ライナーノーツもきれいに、“豪華本”風に作られていて、むろん買って(The best of Broadside 1962-1963 SFW-CD 40130 ; 8990円)います。だから、2重3重に持っていることになります。

* どうして、こうレコードやCDの<盤>にこだわるのでしょう。今の若者世代は、ダウンロード>i-podとなるのでしょう。場所もとりません。でも私ら世代には、見て読んで、撫で回して、それから聞くという形がいるのですね。聞こえればいいというのではないのです。それが私ら世代の、レコード文化だったように思うのです。


私が禅や老子の思想にひかれるのはアメリカ逆輸入(2007.5.14)

2007-05-14 22:35:30 | Weblog

今日は風さわやかな日、のんびりと木の葉っぱがすこし音をたてて揺れていました。
先週末(11日)、風の激しい日は、信州長野が縁の知人に誘われ、新宿で飲み会でした。飲み会の前に、最近一番好きな本屋、淳久堂書店に寄ってしばらく過ごし、一冊買いました。

 *買ってきても、すぐに読み始めるわけではないのですが。

“場所を生きる<ゲーリー・スナイダーの世界>”琉球大学の山里勝己さん著(2006年3月)です。あちこちの学会誌・研究会誌や雑誌に書かれていたものを一冊にまとめられたものです。私は、ゲーリー・スナイダーの詩集、発言集、エッセイを何冊かよんでいるのですが、最近の動静の“やさしい解説本”がほしかったのです。

ゲーリー・スナイダーは、アメリカ、50、60年代からのビート詩人です。<アメリカ現代詩、アメリカ環境思想を牽引し・・・・>と本の腰巻に書いてあります。
ビート・ジェネレーションと呼ばれた人々、私ら世代のアメリカの先輩世代に、私は、大きな関心を持ってきました。また、彼らが、例えば、禅仏教といった東洋思想に強い関心を持ち、影響を受けていることはよく知られています。

 *青春文学ですが、けっこう難しい本です。仏教の理解が必要なのかもしれません。

ビート文学の代表といっていい、“路上(あるいは,路上にて)<On the Road>”を書いたジャック・ケルアックは、その後に<The Dharma Bums>を書いています。“達磨の放浪者”が原題ですが、私の持っている翻訳書は、<禅ヒッピー>となっています。
この本の主人公はケルアック自身で、友人、精神の師として、スナイダーが登場します。ケルアックと、お茶を点て飲むスナイダーが登場します。
この本は、二人が、<ワシントン州の荒涼とした山の頂きで、大自然と向き合い、自己と宇宙を観照し、至福の記憶を胸に、寒山の山腹の路上を下界へと辿ってゆく>ことを描いています。
そして、スナイダーが日本に向かうところで、終わっています。

ゲーリー・スナイダーは、1956年と1959年に、日本に来て、京都の相国寺や大徳寺で修行をしています。そのようなゲーリー・スナイダーを、私は、書かれたものから知っているわけです。つまり、アメリカから逆輸入で、東洋本来の禅仏教、老子の思想に共鳴しているといってもいいでしょう。

私のごく親しい知人は、40年ぐらい茶道に関わってきていて、茶道の実践のひとつとして座禅を組んできています。
4,5年前のことですが、京都に住んでいた下の息子のアパートを拠点にして、よく京都・大徳寺周辺に出かけていました。あるとき、誰でも座禅に参加できるという小さな看板を下げた庵みつけ、早朝、何度も座禅に出かけたようです。
“外人ばかりだったよ”、“竜泉庵ですよ・・・・”と私にいうのです。驚きました。

この大徳寺の竜泉庵こそ、ゲーリー・スナイダーが1959年2度目の来日したおり、修行したところなのです。<臨済録>の英訳を手がけた米国人女性(ルース佐々木夫人)が修行していたところでもあります。ゲーリー・スナイダーの初来日のきっかけは、ルース佐々木夫人を訪ねることであったようにも思います。

活字の知識の中に、竜泉庵はあったのですが、どこにあるのかとか、訪ねてみようかとか、まるで考えたことがなかったのです。そのとき、知人をまぶしく感じたのです。

私は、座禅をくんだことはありません。だから、その後も、竜泉庵の門をたたいたこともありません。

日々の個人の自由を尊重する老子の道教(タオ)、さらに進めて日常茶飯のひとつひとつにある真理を追究しようとする姿勢にひかれるのです。
特別なことは何もない、ただ山をみて暮らして生きたいと思うのです。

 【おまけ】

*ずっと私にとって、新宿の本屋さんの代表は、紀伊国屋書店でしたが、知的雰囲気をなくしてしまいました。今は、断然、新宿なら、いや私の知る限りにおいては、東京なら、淳久堂(じゅんくどう)書店です。もとの新宿三越の中にあります。
ゆったり並んだ本箱に、まさに今手に入るすべての本がならんでいます。整然とした、分類の小分けもいい。平積み台なんてないという雰囲気です。人も少ないというより、本棚列の空間に余裕がある。最高の本屋さんだと思うのです。


アグネス・チャンのレコードは持っていませんが、本ならあります(2007.5.10)

2007-05-10 18:10:45 | Weblog

*この中では、左上が2004年発行で一番新しい。“パーフェクト・カップル”、なんと甘い(?)小説です。最近の本は、買っていません。

アグネス・チャンの香港でのフォークソングCDをこのブログに書いたら、読んで下さった清里のコスダさんから、コメントをいただきました。

 <2007.4.28>
またまた、おもわずコメントさせていただきたくなる話題です。私もアグネスさん大好きです。
特に現在のユニセフ親善大使のアグネスさんのFANクラブに入って、毎日HPの日記を読んで感動、涙して、元気と勇気を貰っています。
近くで講演会がある時は行ってます。賢いのに偉ぶらないで、感謝の気持ちを持って、世界の子どもたちの為に一生懸命に頑張るアグネスさんは憧れの女性です。沢山のことを学ばせて頂いてます。
最近のCD“そこには幸せがもう生まれているから”“しあわせの花”もいいですよ♪ 世界の子どもたちの為に歌っています。

こんなコメントをもらい、こちらもアグネス・ブログを書こうとして、アグネスのホーム・ページ<ここです>をのぞいてみたのですが、いつものように、きまじめ・しんけんアグネスが浮かんできて、“頼まれ原稿ジャンルを問わず業”の、私もちょっと難しいな、と思ってしまいました。

ともかく、手元にあるアグネスの著書を並べてみました。
でも、アグネスのレコードは一枚も持っていませんから、アグネスのファンにも、アグネス・オタクにも入れてもらえません。

アグネス・チャンの歌手時代を知っている世代、1970年に10歳であった人は、1960年生まれ以降、つまり、45歳以上ということになってしまいます。
その日本での歌手もほんの3,4年でしょうか。正確には、今でも歌手とも紹介されています。

*アグネス20歳くらいの可愛い著作、詩画集<小さな恋のお話>;右;1974、左;1975年発行。

アグネスのホームページの<著書欄>に書いてない本も含めて、こんなに持っているのは、どうみてもちょっと変ですね。
私が香港の仕事をするようになって、観光ガイドブックがわりに、アグネスの書いた<香港指南>を読んでいたのが、やたら買うようになったきっかけでしょう。
古本屋で100円で買ったものもあります。

*香港のガイドブックです。同じ内容の本を3冊も持っているのです。

上智大学から、カナダのトロント大学を経て、スタンフォード大学に行って、博士になって、信州大学で講義をするようになって、たくさんの著作をもち、ユニセフなどで国際的に発言するようになっても、テレビで歌っていた<かわいいアグネス像>が消えないのです。
不思議な女性ですね。そして、いつも真剣に生きている女性だなと、今も思います。

 【おまけ】
* 正確にいつのことだったか、全くわかりませんが、わが庄和町の正風館で講演を聞いたことがあります。この講演会は、私はタッチしていません。商工会かなんかが呼んだのだと思います。
こういう時、職業柄(?)メモしながら聞くのですが、そのメモが出てきません。どんなお話だったか思い出せません。そのメモで今日のブログを書こうとしたのですが・・・・。真っ青な、空色のツーピース姿だったことは、よく覚えています。
この町から東京方向、帰り道、国道4号線の大きなうどん屋さんに、アグネスのサイン色紙が掲げられていたから、帰りに、食事をしたのだなと、思っていました。
私が、アグネスの本を時々読むようになる以前のことでしょう。

* アグネスには、アグネス論争というか、アグネス・パッシングの時代があって、1987~1988年ですが、<私は、こういう時こそ、アグネスのみかた>という思いがありました。庄和町の講演は、その後でしょう。

*ここにある<アグネス・チャン>さんの本、必要な方には差し上げます。


ひどいなあ、町の環境行政って、こんなものなの?(2007.5.9)

2007-05-09 19:58:31 | Weblog

*環境にやさしい庄和町の町民カードは木っ端微塵だった。

この1月に、パスポートが有効期限切れになってしまいました。更新をしなければなりません。戸籍謄本とか住民票をとってくる必要があります。庄和町(現春日部市)では、私のウチから徒歩4分の公民館にある端末操作で手に入れることができるのです。

・・・と思ったのですが、端末操作に必要な“個人認識用のカード(町民カード)”を、タンスから出して驚きました。木っ端微塵に割れているのです。有効期限切れのクレジットカードはハサミでさえ切りづらいのに。大事なカードなのに、この有様です。
家人に話したら、“もうとっくに新しいのを作ってもらっている”と。

なんか腹立たしいのです。
この欠陥カードを役場に納入したメーカー(業者)は、最近よくテレビでみるように、深々と頭を下げなくてはいけない・・・・・とか思ってしまいました。
いずれにしても、町は、作り直しの二重の出費をしたのに違いないでしょう。

結局、旧役場まで出向いて、<まあ、いつもの散歩コースなのですが>、窓口のお嬢さんを介して、戸籍抄本と住民票を作ってもらいました。
木っ端微塵のカードを見せたら、ほんとに事務的に<作り変えましょう>とだけ言って、すぐに新しい<春日部市の市民カード>を作ってくれました。
私は、ただ“お世話をかけました”というのが、背いっぱいでした。

その後、少し取材してみると、どうも <環境にやさしい、廃棄後に土に返せる材料で作ったのです。しかも、町の環境保護政策をPRするために、そのことを記者発表までしたようで、いくつかのマスコミが扱ったというのです>。

もし、そうだとすると、ひどい話だと思いますね。
正確には調べていないのですが、10年ぐらい前の話でしょうか。町民の多くが、木っ端微塵カードを交換しているのでしょうか。皆、黙っていたのかなあ。
知らなかったのは、私だけだったのかも知れません。

欠陥カードだから、早めに交換するようにアナウンスがあったのだろうか。
これが、行政の仕事というものでしょうか。
やっぱり、誰かが、テレビ(!)で、深々と謝らなければいけなかったのでは、ないかなあ。

  【おまけ】

*それで、電車を2駅乗って、春日部“本”市にあるパスポートセンターに出かけ、更新手続きをしてきました。

*大騒ぎしてできた住基ネット、住民コードがあるので、もっと簡単にいくんじゃなかったかな、とも思います。でも10年に一度のことだから、そんなに便利である必要は全くないのですね。むしろ、欠陥の方が恐ろしいですね。


ほんとに美味しかった<木の下>という山菜(2007.5.8)

2007-05-08 10:22:07 | Weblog

*左;<木の下>、右;<山椒>、採ったばかりの山菜のようでした。

昨日(7日)朝、知人(このブログに初めて登場の知人)nさんが、山菜を持ってきて下さった。
山椒の葉っぱ、と・・・・・<木の下>です。・・・・・・?はっ?<木の下>です。

私しか居らず、どうして食べるの?と聞いて、山椒はてんぷら、<木の下>は、おひたしで、お醤油でも三杯酢でもおいしい・・・・と応えてもらった。

この日は、私が食事当番の日で、<木の下>に挑戦する。
実に、おいしく出来上がりました。美味しさは、このブログで表現できません。
私も採りに行こう!は無理としても、近くのスーパー・ヤオコー(庄和町・現春日部市)に売っていれば、たくさん買ってこよう、と思わせる美味しさでした。

うん十年前、岡山の山育ちですが、“山菜採り”の知識は全くありません。地域の違いか、時代の違いか、私らが、山で採っていたものは違うのです。
おかげで、たらの芽なんて、珍しがってスーパーで買ってくる始末です。<木の下>なんて聞いたこともありません。

でも、山椒はよく知っています。ごくごくたまに、夕飯前に、母親に“山椒を採ってきて”と言われ、5,6分歩いたところにある、かなり大きな木の、ほんの小枝を3,4本切り取ってきていました。特定のおうちの庭の端に生えているのですが、それを持ち帰ることは、ご近所の誰でもやっていました。

 知人nさんは、庄和町生まれと川向こうの関宿町生まれのご夫婦です。どうして<木の下>を手にいれた(!)のかは、聞きませんでした。

  【おまけ】

* わからないことは、ネットで調べます。<木の下 山菜>で検索したら、出てきました。本名に、“シドケ「モミジガサ」”とあります。これじゃ、シドケとモミジガサの関係がわかりません。“木の下にあることから「キノシタ」と呼ぶ地方があり、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の大好物といわれています”と書いてありました。

* <ゴマまぶしてんぷら><おひたし>のレシピも載っています。

* 実は、ネット販売しているのです。シドケ 300g=1,500円、1kg=4,500円です。<ここでネット販売しています>

* “シドケ「モミジガサ」”;雑木林の中、沢沿いの斜面、草原などのやや湿り気のある所に生えている多年草です。急斜面などの日当たりの良い所を好みます。 地下茎で増えて群生します。新芽の頃は傘をすぼめたようなユーモラスな姿です。モミジガサの茎はやや紫がかった褐色を帯び、葉が開きかけるとツヤツヤとして、傘と言うよりモミジの葉のようになります。まだ葉の開ききっていない20~30cm程の若芽を根元から折り採ります。葉の表面は無毛で光沢があり、裏面にまばらな細かい毛が生えモミジの葉のように数個の裂け目があります。花は夏から秋にかけて咲き、高さ90cmくらいの高さに成長します。奥山の山菜で固有の良い香りがあります。採取時期:5月中旬~5月下旬。