しょうわ町には、図書館がないし行きたい本屋もない(2006年9月6日)

2006-09-06 17:15:51 | Weblog

読書量の一番多い人種は、遠距離通勤のサラリーマンだろう。つまり、私ら。大手町まで、乗り換え2回でいずれも座れない、絶好の読書条件である。座って一本でいける人は寝ている。本好きでも、車内では20分が限度、だから乗り換えが必要。“朝の15分、日経で勝負”といわれても、車内で新聞を広げるわけにはいかない。

仕事をやめて、しょうわ町だけですごすようになって、鬱積する一番の原因は、ふらりと入れる本屋さんがないことです。“いらっしゃいませ!こんにちは!”と、店員の何人もがエコーのように大声で響き渡らせる。・・・最近、言わなくなったなあ・・・(それはそれで少し寂しい)・・・そんな本屋のことではない。いい本屋がほしいのだ。

本は持つもの・自分で選んで買うものという、私の気持(このごろ願望になってしまった)は別にして、図書館もない町・庄和町!という思いは、住み始めてから、いつもあった。文化度の低さの象徴であるといっていい。それでも計画はあって、お金も貯めていたと聞いていた。

庄和町民でも借りることができた春日部の図書館には、遠いけどずっと通っていた。けっこう好きで、今でも月2度くらい出かける。決まって窓際の新入荷の棚をざっと見て、気になった本は、手当たり次第に引き抜く。利用券を家族分も併せて4枚もっているが10冊弱に自己規制。図書館のいいのは、結果として読まない本も手元におけることだろう。一冊全て読む本は買う価値あり、ということだ。他の棚は、通常は見ない。増えているはずはないし、新発見もない。図書館は、いつも、けっこうな人出である。ずっと寝ているおじさんもいる。開館当初は、同じ本が何冊もあり、スタンプから域内公民館の図書室からの召し上げ本だな、と思わせた。さすがに、この頃そんなことはない。新刊も充実している。ふらりと歩いて行ける所にあるといいのだが。

ついでに近くの古本屋さんに。ここも風情がない“いらっしゃいませ、こんにちは”の古本屋。本を探す楽しみはない。それでも100円の棚だけ、さらっと見る。その先に中古レコード屋。見る箱が決まっているから、滞在時間5分。そして気持ちに余裕があれば、デパートの1階で、コーヒー。たまにだが、1時間かけて歩いてきた時は、帰りは電車。付け加えれば、春日部の女性センターの図書室は、なかなかである。女性問題は当然だが、社会科学分野は、市立図書館以上かもしれない。

カットに使える写真がないので、こんな話で。自動車文庫というのが、図書館のない町を巡回していた。正確に庄和町のどこに停車していたのか、今はどうなったのか知らない。5,6年前に、県立久喜図書館が自動車文庫業務を終え図書一掃・廃棄することがあった。ライトバンで駆けつけ、100冊弱を持ち帰って、家にいれてもらえなかった。それから1年ぐらいして、こんどは県立川越図書館の廃館(近所にたくさん図書館があるからという理由。さすが県中央部だ)。車で行くことは家人に禁止され、ザックで背負った。しかし期間中に2度行った。80冊。若い頃に、ほしくて買えなかった本が、捨てられるのだ。もったいない。手が出てしまう。むろん持っている本もある。2冊ある本はいくつもあって、3冊のものも少々。

写真は、ジョーン・バエズの自伝。買ったもの、久喜図書館、川越図書館の処分本の3冊、原本もハードカバー本を持っていながらペーパーブックスも買っている。反社会的歌手といわれ、日本のコンサートで司会者が、CIAに脅迫されて発言を正しく訳さなかった事件のことも出てくる。たかだか、はたちそこらの娘だったのに。そういう時代もあったのだ。わが青春と同世代、1960年代のことだ。

今でも、むしろ国が指導していたのに、急にジェンダー(性差別問題)を書いた書物を図書館から廃棄させるなんてことが、ほんとにあるのである。