夏の週末は浴衣に着替えて。選挙に自分の旗を立てる人(2007.7.30)

2007-07-30 10:54:25 | Weblog

*やよいちゃんチーム。

日々ボーっと暮らしているのですが、夏の週末のにぎわいは、開け放した窓から流れてきます。小さな庄和町でも商店街が通りにせいいっぱい七夕飾りをします。

<6時20分に私たちが踊りますから・・・>とのメールをパソコンに見つけたのは6時15分です。出かけました。通りは、すでに浴衣に着替えて駆けつけた大勢の子どもたちであふれています。はしゃいでいる子どもたちがとてもいい。通りは、華やいだにぎわいがありました。路上で踊る子どもたちにも、ちょっとテレながらも晴れやかで誇らしさが伝わってきていいですね。大喝采をあびていました。

 *まちちゃんチーム。

伝統的なお祭りのない新興住宅の多いこの町です。景気がいいとか悪いとか、そんなことどうでもいい。子どもたちが待っているお祭りを開くことは、地域に住むおとなの役割でしょう。

  【おまけ】

* 選挙開票速報は、8時そうそうに、自民惨敗、歴史的敗北とうっていたので、いつもの一喜一憂の興味はすぐに消えました。ラジオをつけっぱなしにして、ベッドにひっくり返っていました。

*このぐらいなら、ブログに出しても許されるでしょう。

* 投票前に書くと<逮捕されそうなので>抑えていたことを書きます。
私の家のまん前に、候補者のポスターがはってあるのです。お向かいオウチの塀です。ほんとにまん前なのです。ちょっとずらして貼ってよ、というほどまん前なのです。団地の中の狭い4m幅の路地です。私の家族しか見ないでしょう。
その党とかその候補者とかの問題ではありませんが、34歳現職の女性候補者です。<私ら老人の話なんか聞いてくれそうにない>、真っ赤なスーツ、色濃く真っ赤な口紅なのです。

* 誤解されないように。お向かいは、日ごろとてもよくしてもらっているオウチです。それと、<公*党さん>のポスターではありません。
それに、自分の旗色を<ぶれずに>堂々と表明できることには、羨ましさも感じます。

* 前回は、3年前(2004年)のちょうど今ごろ参院選挙でした。私の住む庄和町では住民投票と一緒でした。春日部市、庄和町、宮代町、杉戸町で、一市三町合併可否を問う住民投票があったのです。宮代町、杉戸町は“NO;×”の住民判断、庄和町は“YES;○” でした。だから、○の庄和町だけ、春日部市と合併したのです。


庄和の夏には、平和フェスティバル、そして夏まつりです(2007.7.28)

2007-07-28 11:45:29 | Weblog

 *会場案内(ポスター)部分、デザインは、たぶん Mさん。

今朝1番、私のウチから3分の正風館で会議と思って出かけました。明日のことでした、いかんなあ。

今日(7月28日)は、平和フェスティバルです。
オープン前に、よく知っているいつもの皆さんが懸命に準備中でした。邪魔しない程度に立ち話。ロビー中に笹竹があふれていました。子どもたちが、<平和への願い>を短冊に書いて七夕飾りです。いっぱい飾ります。
夏の初めに、戦争と平和を考える<平和フェスティバル>を持ち続ける庄和町(今は、春日部市庄和地区)を、地域の住民として誇らしく思います。市町合併で、第2回かすかべ平和フェスティバルとなっていますが、もう20年ぐらい続いています。

ずっと出ているパネルっ子の皆さんのパネルシアターも、子どもたちと平和を考えるお話です。平和の尊さを見つめるパネルは、先週から展示してありました。地域の七夕行事・まこもの馬作りも恒例。大ホールでは、映画<硫黄島からの手紙>の上映があります。

春日部市になって、市民参加推進課が担当です。係りのTさんとは、庄和町時代から旧知です。立ち話していて、8月18日(土)の“夏まつり”の<できたばかりの>ポスターをもらってきました。

 *デザインも写真も、Tさん自身です。うまいなあ。

庄和総合公園いっぱいに繰り広げる、旧庄和町民あげての“夏まつり”です。 5時から、よさこいソーラン、八木節、阿波踊り、盆踊り、おみこし、そして、たぶん花火。
庄和の子どもたちは、浴衣(ゆかた)に着替えて、うちわを持ってでかけます。夜店もたくさんでます。無料の金魚すくいもあります。おとなも子どもになれる“夏まつり”です。
正式名称は、第2回春日部コミュニティ夏まつり、ですが、昔からの庄和の夏まつりです。皆で出かけましょう。

 【おまけ】

そして、夏休みが終わります。宿題です<昔は、夏休みの友とか、夏の友とかありましたね>。
今年は、9月1日が土曜、2日が日曜で、3日が始業式です。2日儲けた!
その1日、2日に、同じ正風館では、<庄和地区公民館まつり>があります。<夏まつり>に、外で踊った人たちが、今度は、ステージで踊ります。
担当は、春日部市教育委員会の中の公民館になります。


ふるさと岡山から、印刷会社の文化情報誌”F&A”と行政の広報誌(2007.7.27)

2007-07-27 13:13:33 | Weblog

*左;最新号、右;第1号から。

ほんと、たまに送られてきて嬉しくなるのです。年に3回程度でしょうか。<岡山を知る印刷・出版文化情報誌“F&A”>です。1991年創刊ですから15年以上も送ってもらっています。無料です。実にいいのです、8ページの薄さですが中身が濃いのです。捨てられません。発行は、岡山市の富士印刷株式会社。いつも礼状と感想を送ろうと思うのですが、送ったことはありません。

私は、中学を卒業するまで、岡山県西部の山間地に育ちました。
今は、岡山県井原市です。何にもない町で早く都会に出たいと思って育ちました。はたちをすぎて40年間、出かけた(帰った)ことは、1回だけです。

<お嬢さんのジーンズ、お洒落ですね、メードインUSAと思っていますか?>
<実は、たぶん井原で作られたのですよ>

同窓会に出てみようかとか、田舎を歩いてみようかと思い始めるのは、<老化のきざし>なんだそうです。
ふるさと便りのような、この小雑誌が届くと嬉しくなります。中でも特集がいいのです。

過去の特集から拾い出します。<岡山の>といれて読んで下さい。
――の和菓子、野菜、豆腐、味噌、醤油、塩、水、ばらずし、棚田、石、流れ橋、漆、鬼たち、路面電車、農村歌舞伎、相撲、映画、異人、洋風建築、貝塚。
最新号は、岡山の文学碑です。

地元の研究者、大学の先生ら専門家に編集者がインタビューしながら、紹介します。わずか4ページなのですが、いいのです。私の子どもの頃の<その辺に>普通にあった、とるに足らないと思っていたことが書かれています。

こういう特集が作れる内容を持った県は、そんなにないでしょう。
こういう特集を作って無料配布する会社は、他の県にはないでしょう。これが、岡山県の文化・県民性なのだと、少し誇らしげに思うのです。

それから6月中旬に届いた、岡山市に住む兄からの手紙に、“井原市の広報(広報いばら)5月号”が入っていました。家庭に配られる状態で、市のチラシをはさんだまま送ってくれました。送ってくれたのは初めてのことです。

*全国どこでも同じ感じでしょう。

<いばら市議会だより、いばら市社協ふれまちだより、“生涯学習まちづくり講座”いきいき・いばら出前講座、井原市環境フェアー、笑いと健康講演会、すくすく子育てカレンダー・・・・>

今私が住む、埼玉県春日部市のチラシではないかと、本気に思いました。広報やチラシが内容だけでなく、紙面体裁・レイアウト・見出しの言葉や書体・・・・まったく同じ雰囲気なのです。うまく言えませんが、ちょっと変な気持ちになったのです。

たぶん、お上、中央官庁の方針どおりに、行政が進められていることなのでしょう。よく、全国各地の駅前が、全く同じ、画一的になってしまい、地域の特色がでていない・・・・といわれます。こういうことをいうのかと、思ってしまいました。地域格差・・の話ではないでしょう。

遠くはなれた故郷は、いつまでも昔のまま、貧しいままであってほしいとは、思いません。ほんとに思いません。むしろ遠い地域も人も豊かになってほしいと思います。ただ本当は、東京に近い私らの方こそ、貧しいかも知れません。

でも、新興ベッドタウン・春日部市と遠く離れた田舎・井原が、全く同じ雰囲気の行政情報を発行することには、考えさせられました。
急速に膨らんで文化の育っていない街と、伝統文化を大事にしない古い街、という文化を忘れた行政のあらわれでしょうか。

  【おまけ】
* “F&A”誌の特集を使いながら、カバヤ・キャラメル、カバヤ文庫を書こうと思っていたのですが、またにします。カバヤ・キャラメル、カバヤ文庫こそが、貧しかった私らの子ども時代を唯一明るくしたのです。どうも岡山ローカルの話でなく、全国的なカバヤ・キャラメル、カバヤ文庫だったらしいのです。いずれにしても、昔の話です。

*中学の同窓会の案内が来ています。9月16日(日)です。いつも暇な私ですが、その日は、なんと早くも、2つの予定が入っています。申し込みの締め切りが8月5日です。どうしようかなあ~。


孫育て支援。老人はカエル。電車のベビーカー(2007.7.26)

2007-07-26 10:24:56 | Weblog

*ゾウさんはいつも愛想がいい、パンダは・・・・・ふてくされでした。

半月ほど孫(4才)を預かっています。
肘にヒビが入っているらしく添え木(副木)をしています。この状態では、保育園は預かってくれない。娘は仕事を休むことはできない。
メイン保護受託者は、家人ですが、サブの私もともども、<動物園にでも行こうか>ということになりました。

子育て経験はあるのですが、30年もたてば、過去の経験は役に立ちません。
まず電車賃。<4歳の子どもは無料>は、変わってなかろうが、駅へ歩きながら<ハタ>と悩んだ。自動改札が、小学1年生と4歳をどう区別するのだろうか。
妊婦のお腹めがけて、“ばしゃ~ん”と“閉まる”・・・・って聞いたことがあります。4歳の顔面を直撃するのではないか。どのように、ふたりで越えればいいのか。肩車で通過するお母さんをみたこともないし、ふたりが間隔をあけずに通過といっても・・・・そんなにうまくいくだろうか。それとも、お金払った方がいいのだろうか。

うまく東武電車には、乗れました。出る時は大丈夫だろうか。帰りは別の地下鉄です。地下鉄のセンサーは、大丈夫だろうか。

*お気に入りのフラミンゴです。

4歳です。ベビーカーをもっていたわけではありません。
1ヶ月ほど前、JR神田駅で、ベビーカーがはさまったまま、電車が走ったニュースがありました。

この頃、ラッシュの時間帯に乗りませんが、いつごろからか、ベビーカーをたたまず乗る子どもづれが目立ちます。
私は、ベビーカーを迷惑と思ったことは、ありません。傍若無人の集団高校生の座席占拠に比べるまでもありません。高校生も集団の時だけなのですが。

ただ、<いつからOK>になったんだろう、<OKになる宣言か何か>あったんだろうか、と思うのです。
町に閉じこもっていると、世間についていけないのです。

昔、おばちゃんが<電車の中ではたたみなさい>というのを聞いたことがありますが、神田駅の事故ニュースでも、<たたまない>おかあさんを非難する新聞の論調はありません。

新聞拾い読みの“ぼやき漫才”です。

6月2日付朝日新聞27面(大竹美香記者)の記事。
“かってはたたむのはルールだったが、今は、ベビーカーのまま利用できるのが原則”と。そして、昨(2006)年12月施行の「バリアフリー新法」について、国交省はベビーカーも対象になる、との見解を示している・・・・・・と。
その法だとか施行規則だとかを読んでいませんが、ほんとかな。まだ、たったの半年にしかならない。
ほんとかな。法律や規則の変更なの? ただの慣習の変化(つまり若いお母さんパワーなの)、後追いの容認なの?

今、電車(私がよく見る東武電車)では、車椅子に補助する駅員さんをよく見ますね。

 いつの間にか、法律がかわって、しかも本当の目的が隠されていることが、この頃目につきますから、ちょっとぼやきたくなったわけです。

  【おまけ】

*このノリで、チケットがほしいと言う。

* 上野動物園です。旭川の動物園に負けるな、日本一は上野だ、と都知事が言ったかどうか知りませんが、都営・都立です。
正式には、東京都恩賜上野動物園です。ありとあらゆるところにそう書いています。だから都内の小学生は無料です。

* 埼玉県だけど4歳は、無料だなと思っていたら、後ろの家人から<アンタは、半額ですよ>との声、老人割引です。<うるさい!>と心で叫んで、家人の半分、300円を払う。
*<****はカエルと、孫が・・・>。

孫が、入場券をくれといいます。家人のチケットは<きりん>の図案。私のチケットには、<変な色のカエル>です。
何も<ライオン>でなくてもいいけど、<カエル>はないだろう。よくよく考えて<カエル>にしたのかなあ。老人を大切に!!!朝日新聞に投稿したくなりました。気配りが足らんよ!!!


"黒人"は差別用語かなあ?<チビクロ・サンボ>の話

2007-07-23 12:54:55 | Weblog

*右は、吉田ルイ子さんの一冊目、サブタイトルは、ブラック イズ ビューティフル。

ブログは、出稿原稿ではありませんから、何を書いても、どんな書き方をしても問われないようですが、世間の目にふれるものです。日頃いいかげんな私も多少は、気をつけています。

“黒人”と書きながら、まずいだろうなと思うのです。
肌の色が黒いように見える人の意味なのです。もちろん完全なアメリカ人です。アフリカ系アメリカ人と書くのが、ほんとにいいのかなあと思うのです。

公民権運動もそうです。英語では、Civil Rights Movementです。黒人解放運動と書くのは、おかしいし、無礼な話かもしれません。
短く判りやすいかなという気持ちが働いていたのです。

*アメリカ黒人解放史(1971年)、右を持っているのに、埼玉県立熊谷図書館の廃棄本(左)を出かけて拾ってきた。

日本には、女性解放運動なんて、言い方もありました。今、女性解放と書くと、女性たちの“総スカン”に会いそうですが。
このあたりの、私の意識は、1960,70年代のままなのかもしれません。

さて、アメリカは、United States of America だから、アメリカ合衆国でなくアメリカ合州国と、こだわった本多勝一(元朝日新聞記者)さんは、最近の著書では、普通に、白人・黒人と使われています。

私は、本多さんの本はほとんど買っていません。それ以上に買って読んでいたのが、吉田ルイ子さんの写真とエッセイです。70年代にニューヨーク・ハーレムに住み、黒人社会の実情を書いて来られました。<黒いアメリカ人>と書かれることがあります。たくさんはでてきませんが、黒人と書くことに慎重だとは感じません。逆に、<ブラック イズ ビューティフル>の自信さえ示されています。

ここで、思い出すのが、子ども向けの本<チビクロ・サンボ>です。
正確にいつごろのことだったのか覚えていないのですが、人種差別だといって、図書館などから排斥されました。そして、かなりの年月がたって、その排斥行きすぎ論や勇気ある復刊が話題になりました。
(ちらっとみただけですが、今もブログやWebにその痕跡が残っています)

私のうちにも、<チビクロ・サンボ>が一冊あります。私が買った覚えはありません。たぶん、ご近所からもらったものでしょう。

2,3日前に、4歳の孫に読んでみました。私は、<読みながら、おもしろくないなあ>と思ったから、熱がはいりません。
トラがグルグルまわって、バターになるなんて、面白くもなんともありません。小学生のあたりの感性は、違うのかもしれません。

*この絵は、岡部冬彦さんと書いてあるから、日本版だけ?

この絵には、差別を感じました。しかし、黒いサンボと、お父さん・お母さんら家族は登場しますが、白人との対比が出てくるわけではありません。
アフリカ?トラが出てくるからインド?椰子の実が出てくるから東南アジア? の人たちがどう感じるかでしょうね。

私は、子・孫には、読ませたくないと思いました。

  【おまけ】

* ウチにある<ちびくろ・さんぼ>は、岩波子どもの本(岩波書店)の一冊で、1953年第1刷、1978年第23刷です。原本は、Little Black Sambo by Helen Bannerman and Frank Dobias, 1927。

* カルピスのこの広告(マーク)を覚えていますか。最近見かけません。使われないのは懸命でしょうね。


アメリカ放浪;怖くなかったですか② 映画<イージーライダー>(2007.7.22)

2007-07-22 15:07:29 | Weblog

*内緒で撮影。息子の部屋に<イージーライダー>のポスター。

アメリカにはまっていた頃の映画に<イージーライダー>があります。
70年代の文化論やニューシネマの話には一番先に出てきます。

アメリカ大陸をロサンゼルスからニューオールリンズへ、バイクでぶっとばす旅なのです。流れるサザンロックも心地よく旅好きには、とても気分のいい映画なのですが、それ以上、いまひとつよくわからないのです。
ふたりのライダー(ピーター・フォンダとデニス・ホッパー)は、ミシシッピー州の田舎を走行中に撃ち殺されてしまいます。転がるふたりとバイクがラストシーンです。
テレビで、何度も放映されました。むろんビデオ録画しています。

バイクに乗り始めた頃の息子が、私に<イージーライダー、うちにある?>と聞いて、見ていました。その後も見ていたのも知っています。バイクでアメリカ横断を本気に思ったこともあるようなのです。

 私は、ロサンゼルスから車で2時間ぐらいのリバーサイド(カリフォルニア州)という街にひと月ぐらいいたことがあります。普通の仕事です。そこでの、ただなんとなくの話の中で、アメリカ・バイク横断の話になったのです。一緒に仕事していたアメリカ人は、<撃たれるよ><やめた方がいいよ>と言ったのです。

ごく最近、私のアメリカ放浪のことで、会社の大先輩(アメリカ南部と人に深い知識と愛情がある方)とメールをやりとしていました。そして、(元)朝日新聞の本多勝一記者の<アメリカ南部ルポ>について厳しい非難の内容が届きました。

そのルポは、朝日新聞(1969年)に連載されていて読んでいます。1969年、公民権運動の激しさの余韻の残るアメリカ南部の取材ルポです。黒人解放運動とか、それに対する弾圧の取材というより、黒人差別の実態をレポしていたような印象でした。

*最初に買ったのは、一番右です。

単行本は、ずっと後になってブックオフで買っていました(105円です)。読んでいなかったので、あらためて読んでみました。
単行本(1970年発行)の序文は、多くを<イージーライダー>に費やしています。
<イージーライダーのふたりが撃たれたのは、保守的な人間には気にくわない反体制的行動をとる青年たちだからです>。本多記者の車も走行中に撃たれます。

そして、<もし、読者が、私のように黒人と一緒に旅行するか、またこの映画のように「自由な風俗」をして旅行すれば、私と同じようにピストルで撃たれるか、またこの映画のようにライフルで射殺されるでしょう>と書いています。

この映画の主張とか芸術性の議論でなく、どうして撃ち殺されたかを、ほんとうに理解した日本人が何人いるでしょうかとも書いています。
<アメリカでは、全く普通の出来事なのです>と。

この本<アメリカ合州国>の序文を読んだのは、初めてですが、映画<イージーライダー>はもう何度も見ています。おそらくアメリカは撃ち殺される社会であることは刷り込まれていたでしょう。
しかし、本当に怖いのは、<黒人ではなく白人である>という知識はあっても、そういう意識があったかどうか、はなはだ疑問です・・・・と今、思うのです。

それから私自身、80年代、90年代と、ちょこちょこアメリカで仕事もしてきました。
またルポ<アメリカ合州国>や映画<イージーライダー>から、もう40年がたっています。
つい先だって、ようやく私は、アメリカ南部を歩いてきたのです。

   【おまけ】
*本多勝一さんは、<アメリカは変わったか>というタイトルの本を、2002年に出しています。
2001年5月の5週間の旅で、32年ぶりのアメリカ再訪ルポです。同年8月から、「週刊金曜日」に連載されました。


今日から夏休み、ラジオ体操、地球のステージ(2007.7.21)

2007-07-21 11:12:45 | Weblog

*会場は、すぎとピア(杉戸町)多目的ホール

いつからかなあ~、と思っていた夏休みは、どうも今日かららしい。団地に子どもたちの声がしないので、さっぱりわからない。今朝も雨で、朝のラジオ体操は中止だったのでしょう。

私は、朝5時には眼が覚めます。そして新聞を読み、6時30分にラジオ体操をします。わが家に誰か起きていれば中止です。3年前から2年間の信州・山暮らしからの、テレビなし新聞なしの日々に、ラジオを“心の友”としていた頃からの習慣です。
やっておかなければ“そのうち身体が動くかなくなるぞ”という意識があります。

夏休みはラジオ体操です。今も、うちの団地でもやっているのかどうか知りません。
うちの子どもが小学生の頃には、団地の隅の公園でやっていました。PTAの役員さんがラジカセを鳴らします。小さな音で鳴らすのです。<もっと元気よく鳴らしたらどうですか>と、おせっかいをした時、<ご近所からクレームがあるのです>と役員さん。<う~~~~ん、ウチの団地にも?>と。思わず公園近くのオウチを見回しました。

一昨日(7月19日)の夕方、北隣の町・杉戸町での、“地球のステージ4”に出かけました。
今年の3月、南隣の町・松伏町で、初めてみて<けっこう涙ボロボロ>になって、そして、それ以上に、この“地球のステージ”を地域の子どもたちに見せたいと、企画・運営していったPTAのお母さん、それに応えた町行政さんの取り組みに感動したのです。ブログを書いています。<ここです>

6月中旬には、春日部・緑中学の<学校・PTA>行事として行われたようです。
杉戸町では、4年連続とのことでした。地球ステージ1、2、3、4とプログラムが新しくなっているそうです。毎年続ける、その思いと馬力はすごいなと杉戸町を見直しました。

地球のステージは、海外の紛争や災害地域に、医療支援しているNGOメンバーである山形の若い(ようにみえる)医師(桑山紀彦さん)の現地報告を縦軸に、人の生き方、異文化を、子どもたちとの関わりを中心に伝えます。写真や映像とともに自作の詩をギターで感動的に歌い上げる構成です。

この沿線(埼玉県東部・埼葛エリア)では、地域のPTA(PTA連合会)の口コミで広まっているのだそうです。
私自身2度目であったので、さすが<涙ボロボロ>になりませんでした。ステージに立つキーボード(石橋優子)さんの動きを見ていました。音楽構成は、キーボードさんの役割が大きい。むろん現地同行者でもあるようです。
本当は、一度もやっていない旧庄和町でやるならば、と多少事務的に見ていたのかもしれません。

平日6時の開演。観客の98%は、PTAのお母さん。男性はほとんどいません。お母さんのご主人=お父さんは、まだ、東京から自宅に帰りついていない時間帯です。
へんだなと思ったのは、子どもたちがほとんどいないことです。過去3回の事情は知らないのですが、小学高学年・中学生がいません。ボランティア・スタッフには、4,5人の中学生がいます。庄和町では中学生にこそみせたいなと思っていたのです。
初めて有料・チケット制(前売り300円)にしたのだそうです。有料入場者数230余人と報告がありました。正確には、主催者は杉戸町国際交流協会の国際化推進委員会(町の国際化、スゴイですね)です。後援は、杉戸町、同教育委員会、同PTA連合会。

コンサートの最後は、桑山さんが高校時代の夏休みに、自転車で日本各地・日本一周した出会いの旅のお話でした。
<自転車とユース・ホステルの夏休み>です。その時代の、<先進的>な夏休みの過ごし方ですね。むろん昔から、部活練習だけの夏休みもあります。

かなり時代がさかのぼる私は、<徒歩とテントの夏休み>もありました。ユース・ホステルで北海道をまわったこともあります。知床・岩尾別ユースから広まった<知床旅情>の時代です。
朝のお掃除は、平気でしたが、実は、<あの、夕食後の交流会風ミーティング>が好きでなかった。“超長期バイトの<ヌシ>のような大学生”がすすめる集まりが苦手でした。

ステージの桑山さんもイヤだったと言ったように思ったのですが、ステージでの口調は、まさに<それ>だな、と思いました。

  【おまけ】
*NPO法人 地球のステージのホームページ(Web)は、<ここです>

*清里のコスダさんへ。地球のステージで、桑山さんが、最近コンサートを開いた清里が、高校時代自転車で立ち寄った清里と変わってなく嬉しかったと、ステージで話していましたよ。


アメリカ放浪、怖くなかったですか(2007.7.18)

2007-07-18 09:29:11 | Weblog

*グレイハウンド・バスの旅は、安いし快適だし、大好きです。

この一年、ほぼ2,3日おきに、近くのクリーニング屋さんに行きます。唯一、私のルーチン・ワーク、口を開く数少ない機会でもあります。ヤオコーでもツタヤでも、会話の必要はありません。
先日の旅行中、代打の家人が<ご病気ですか?>と聞かれたらしい。営業トークもあろうが、少し嬉しく思いました。先日復帰して、ほんの少しおしゃべり。<怖くなかったですか?>と聞かれた。

アメリカ南部は、黒人地帯(!!)と書いていいのかどうか。1960年代、激しい公民権運動(これも正しいかどうか、黒人解放運動ですね)のあったアラバマ州、ミシシッピー州に、その公民権運動の史跡を訪ねようとしていたのです。

日本で発行されるアメリカ観光のガイドブックには、どの都市にも<このあたりには近づかないで>という情報が必ず載っています。しかも、この旅で、主に利用していた長距離バス(グレイハウンドバス)のターミナル付近は危険<深夜・早朝は近づかないように>と載っているのです。

深夜・早朝発着のバスを使わないと、効率的なバスの旅はできません。
30年前にバスでアメリカ大陸を東から西へ旅したときは、運転手は白人、乗客は白人旅行者、ヨーロッパの学生旅行者もいて、おしゃべりしたり、ゆったりしたバスの旅でした。
今回は、運転手は黒人(ターミナル職員もほとんど黒人)、乗客も95%黒人、しかも観光旅行でなく生活移動者でした。実に大きな荷物を持ち、赤ん坊づれも目立ちました。バスは、ほぼ満員ですが、車中では皆寝ているのか静かでした。

*バスの待合室。並ぶ場所、タイミングに慣れない。<早く行けばいいというものでもなさそう>

バスに乗るまでは、うまく乗れるかなど、かなり心配しますが、乗ってしまえば、数時間は車窓を楽しむのも、うたた寝をするのもよし、<最上のリラックスタイム>です。

バスを降りて、観光見物はすべて徒歩でした。多少遠くても徒歩です。今回訪れた街は<観光地でない街>もあります。暑かった真夏の日中です。誰も歩いていません。ガイドブックには、<旅行者にみられないように>なんて書いていますが、そんなことができるわけではありません。デジカメ時代になって、カメラがお尻のポケットに入りますので、完全手ぶらで歩けますが、どうみても日本人旅行者です。
移動は早足で、という緊張が常にありました。
私に、<黒人=緊張>の気持ちがあったとすると、それはとんでもない間違いだったでしょう。
ニューオールリンズやナッシュビル、メンフィスといった観光客の多い街での気持ちは緩みっぱなしでした。

怖いのは、下町でも、夜の繁華街でもありません。公園です。ガイドブックで推薦されている公園でもです。公園に<人>がいません。人がいると<ホームレス風>に思ってしまうのです。

<公園の怖さは、日本も同じ。庄和町でも同じでしょうか>

   【おまけ】

想定外事件は2つです。
①モントゴメリー;どこでもバスターミナルの近く、つまりダウンタウンにホテルを確保していたのですが、モントゴメリーでは、バスターミナルが郊外に移転していたのです。
ダウンタウンへの足がない。タクシーを頼んでも来ない。バスもあるらしいのだが少なく、乗換えがよくわからない。バスを降りた客には、次々と迎えの車がくる。載せてくれないかと頼んでも成功しない。途方に暮れていると、掃除係の黒人のアンちゃんが<乗せようか>と。ものすごくボロイ車だが、堂々のキャデラック。20分ぐらいの所へ40$、タクシーの3倍の白タク。助かった。

*警察の黒人解放運動弾圧モニュメント<人気のない公園は怖い>
*警察犬の間を通って怖さを思う。本当は、その先にたむろする人たちの方が不気味だった。

②バーミングハム;黒人解放運動の激しかった街。弾圧される黒人を象徴するモニュメントがいくつかある公園。人気がない。若い黒人が寄ってきて、ハングル語で声をかけられる。ヤバイと思ったが、つきまとわれる。写真を撮っていると、モニュメントを解説をしてくれる。<うざいなあ>と日本語で言ってみる。結局、サンキューといったら、ドネィション(寄付)と言ってきた。2$渡す。
別れた後<そのくらいだったら、ガイドブック情報を持っていないこの街をもっと案内させてもよかったな>と思った、ですね。


春日部地域情報;公民館有料化・公民館まつり(2007.7.15)

2007-07-15 10:49:03 | Weblog

 *今日の情報なんですが。

* プレム・レイ・コンサート
今日(15日)、私の知人が歌う(ヴォーカル;片桐久子さん)のハワイアン・バンド。いやポップス・バンド“プレム・レイ”さんのコンサート。第12回、毎年、この時期です。会場が宮代町の進修館も恒例です。
私が知って、10年ぐらいになります。ステージの楽しさは、片桐さんのキャラクターそのものです。
しばらくご無沙汰していますが、今年も行けません。私らのバンドの練習日です。片桐さんは、旧庄和町にお住まいですから、私らのスウィング・ベアーズで歌ってもらったこともあります。

* 庄和地区公民館まつり
昨日(14日)に、出演者・出展者の全体打ち合わせをやりました。
ホールでのステージに23団体、館内展示に22団体、その他4団体で、計49団体。これをベースに、ゲスト・イベントもりだくさんに、飾ります。<村の>公民館まつりを越える、公民館でないみたいな、イベントできれば、と思っています。
9月1日(土)、2日(日)という、夏休みの終わりの、<今でも夏休みの宿題ってあるんでしょうか、大変な時期ですね>。おぼえておいて下さい。

* また公民館有料化説明会
庄和地区では、7月29日(日)10時~です。有料化説明会は、すでに3月にありました。はっきりさせていませんが、今度は<減免制度>の話でしょう。
公民館利用料の有料化は、先の議会で決まりました。6月議会では、“利用料の減額免除制度”も、教育委員会提案どおりに決まったようです。
正式には、誰が減免を受けられることのなったのか、知りません。
噂によれば<団体に障害者がいる>こと以外には、減免の対象にはならないようです。地域のコミュニティのために、地域の子どもたちのために、なんて<関係なし>です。
そもそも公民館は、コミュニティセンターとか生涯学習センターといった貸館を主業務とした施設ではないのですよ。おわかりでしょうか。公民館だけは、図書館と同じ、教育委員会の教育施設です。
<使う人(該当者)が一部だから・・・有料という論理を、行政すべてにあてはめる>と、これはもう大変な話なんですが。
<議会が決めてしまった>以上、今、何を書いても空しいだけですね。
誰にも減免しないというなら、それはそれでサッパリしています。玉虫色の<誰か、えらい人の裁量>なんてない方がいい。

      【おまけ】
* ときどき紹介してきた、私も、気持ちだけ応援している<EM石けん作り>の講習会が、庄和町外の春日部豊春公民館で、市の環境保全課も関わって開かれます。
8月26日(日)豊春公民館、定員は30人。申し込み受付は、7月10日から。
受付2日目の、11日に娘のために申し込みにいったら、29番目でした。


森山良子イン ナッシュビルというレコード(2007.7.10)

2007-07-10 19:22:53 | Weblog

*1970年頃のレコード(Philips FX-8003)です。

テネシー州だ、ナッシュビルだと、長々書いていても、読んでもらえないとなんにもなりません。・・・・・と少々反省しています。
ホントは、町ネタにしたいのですが、何にもないのです。

それで、今日は、森山良子さんのお話にします。
<森山良子イン ナッシュビル>とういうレコードを持っています。1969年9,10月の録音ですから、たぶん70年頃の発売でしょう。1900円です。その頃買ったのでなく、このレコードのことをよく覚えていて、ずっと後になって、セコハンを300円ぐらいで買ったのです。

森山良子さんは、1967年1月の、ジョーン・バエズの初来日コンサートの時、同じステージで歌った高校生です。私はテレビ放映されたコンサートを録音していました。今も大事に持っています。

1964年頃からに、ボブ・ディランが、<社会問題>を歌うことをやめ、1968年頃には急速にカントリー・ミュージックに寄っていきます。それまでニューヨークで録音されていましたが、1969年2月に、ナッシュビルで録音された“ナッシュビル・スカイライン”が売り出されます。カントリー・ロックと呼ばれました。
――余談;私は、今でも、このあたりのディランが一番好きです。

まだまだ、ベトナム反戦をうたい続けるジョーン・バエズもまた、発売レコードは、ナッシュビル録音のカントリー・ロック色を強めます。 そうして、森山良子さんも、1969年秋、ナッシュビル録音・発売になったのです。

ナッシュビルで録音することは、サイドメン、バックミュージシャンに、ナッシュビル、つまりカントリー・ミュージック界で活躍するメンバーを使うということです。
今日、ジャケットを見てみますと、ハーモニカ(オルガン)のチャリー・マッコイ(Chary McCoy)が目立ちます。ギター・バンジョーが、Rodert ThomPsonになっていました。これは、Robert Thompsonの誤植でしょう。ロバート(ボブ)・トンプソンでしょう。
その頃はいいかげんだったのでしょうか、ひどいなあ。

このレコード12曲の半分以上は、日本のポップスの作詞・作曲者です。<森山良子カントリーを歌う>では、ありませんが、“思い出のグリーングラス”、“キャトルコール”が入っています。

ナッシュビルとは、そういう街です、といいたかったのです。


アメリカ放浪、カントリーミュージック誕生の地ブリストル(2007.7.8)

2007-07-09 23:46:24 | Weblog

カーター・ファミリーの故郷への入口の街ブリストル(Bristol)の名は、カントリー・ミュージックの歴史に<特別の意味のある>街であることは知っていました。

*左下のBristol sessionsのCDは持っていたが、この旅で、左上のCDを買った(内容は同じでしょう、でも買うのですね)。右の本も買いました。

いうならば山の音楽家、カーター・ファミリーが世に出るきっかけとなったのが、近年、ブリストル・セッションといわれている、今風にいえば、新人オーディションがあったのです。
1927年です。円盤型レコードができたばかりの頃のことです。 RCAビクターの録音技術者(ディレクター)であるラルフ・ピアが、録音機(カッティング・マシーン)持ってブリストルに滞在し、録音しレコードにするチャンスを与えますと、新聞広告を出したのです。
周辺地域の声自慢、腕自慢が応募してきました。その中に、カーター・ファミリー、後で、カントリーソングの父といわれたジミー・ロジャースがいたのです。

レコードというメディアができて、そこに新しい“音楽の広まり”ができたのです。山の、田舎の音楽好きが、一気に全国的な人気者になったのです。なれる時代が来たのです。さらに、このレコード・メディアと合わせて、これまた始まったばかりのラジオが、全国的な広がりに大きな役割を果たしていきます。

ブリストルでの録音は、一過性のものです。しかし、この録音は、歴史に残ったのです。だから、ブリストルの街は、Birth-place of Country Music(カントリーミュージック誕生の地)として町おこしを進めているようです。

3日間滞在した私は、小さいけどなかなかいい町だったな、と思っています。“地球の歩き方”風に街を紹介します。

長距離バス(グレイハウンド)バスの停留所は、街中心部にあります。その近くを通っているステートロード(州道)を境に、北側がバージニア州で、南側がテネシー州です。このステートロードの両側が中心部です。

*壁の絵;左から、ラルフ・ピア、カーター・ファミリー、右端に、ジミー・ロジャース。

音楽広場あります。“カントリー・ミュージック誕生の地”は、ここにある壁に書かれた絵でしか確認できません。録音した場所(ビル)はとっくに取り壊されています。この広場では、毎年9月に、マウンテン・ミュージック・フェスティバルをやっているそうです。気をつけて歩いていると、通りには、カーターファミリー・ストリート、ジミーロジャース・ストリート、ラルフピア・ストリートの名前が読めます。

*ユニオンステーション(鉄道の駅)

*往時の街並み

この街の、東の端に、鉄道(アムトラック)の立派な伝統的な駅がありました。おそらく今は、一日数本の発着でしょうが、往時からの街の隆盛がしのばれます。駅前には古風なビルの銀行があります。中心部に“史跡的”な劇場(Paramount Center for the Art)がありました。場内見学もできるようです。

*左に劇場、右端が、カフェ・レストラン

通りには、いくつかのおしゃれな店がありました。マウンテン・エア・ミュージック、CD屋さんというより、この街の若者向きの音楽拠点のように感じました。しばらく話し込みました。壁に、カーター・ファミリーのレコード。

食事をしたのは、パラマウント劇場の隣のソウルフードの店。若いウエートレスさんがとても気持ちのいい店でした。結婚式の2次会パーティ案内のチラシがおいてありました。

日曜のお昼を食べたのは、上海料理店。日曜ブランチはバッフェです。どんどん家族連れが入ってきました。人気のお店なのでしょう。お箸を持ってきてくれた娘さんが、“9月のフェスティバルはとてもにぎやかですよ”と。

*古レコード、古ギター、古ライフル、古ピストル(真ん中下);骨董品屋さんのショーウィンドウ。

通りの北側は、アンティークのお店が並んでいます。古い田舎町らしい。きっと掘り出し物があるに違いありません。旅をはじめたばかりで、ここでいろいろ買い込んだら大変だったでしょう。さいわい日曜の午前中で、まだ開店前でした。

通りのずっと西のはずれ、私が泊まったモーテル(Night inn Bristol)の近くに、ショッピング・モール(Bristol Mall)がありました。地域の人々の買い物は、昔の街の中心部でなく、ここでも郊外に移っているようです。

このモールの中に、マウンテン・ミュージック博物館(BCMA:Birthplace of Country Music Allianceが運営)がありました。ほんとに一部屋だけでしたが、カーター・ファミリーを中心として、とても素朴な、この世界を大事にしているなと感じさせます。CDや関連書籍を買うこともできます。まもなく街中心部の新しい施設に引越しするようです。

 【おまけ】

*帰りのバスは、日曜の午後1時45分発車です。その後は夜行バス。日曜は、停留所は閉まっています。ちょっと不安げに表で待っていましたが、無事バスに乗ることができました。


アメリカ放浪、カーター・ファミリーの故郷へ(2007.7.7)

2007-07-07 18:30:41 | Weblog

*真正面がカーター・ファミリー(ブリストルのミュージアムの展示)

この間の旅に、人にはわかってもらえない明確な目的がいくつかありました。
カーター・ファミリーの故郷を訪ねるというのもそのひとつです。そこは、カントリーソングの故郷でもあるのです。

米国東部を南北に貫く、アパラチア山脈の南端の山麓に、イギリスから移民定着した開拓者が、故郷の民謡を歌い継いだのが、カントリーソングの起源です。山の中の話です。
日本でいえば、ひえつき節のルーツを宮崎県の山奥に訪ねるということでしょうか。

テネシー州とバージニア州の州境の町、ブリストル(Bristol)から、クリンチ・マウンテンの山麓のプア・バレーという谷、といった情報しかないのです。
ガイドブック“地球の歩き方”にも載っていません。インターネットのかすかな情報を頼りにでかけたのです。

カントリーソングの街ナッシュビルを深夜0時45分にグレイハウンドバスに乗って発ち、明けて朝9時45分に、ブリストルで降りました。さて、・・・・街中にホテルはありません。街はずれのモーテルを教えてもらい、40分歩いてひとまず落ち着きます。モーテルで、レンタカーを配車してもらうつもりだったのですが、この町にレンタカー屋がない。思案の上、結局、タクシーをチャーターすることにしました。

カーター・ファミリーは、私ら世代、アメリカのフォークソングに染まった世代には、記憶のある人もいるでしょう。
AP・カーター、サラ・カーターの夫婦に、サラの従妹のメイビルを加えたコーラス・グループです。1930~40年(戦前ですね)に大人気だったグループです。メイビルのギター奏法が、後のフォークグループに大きな影響を与えたのです。むろん、皆さん故人です。

このカーター・ファミリーの出身地を訪ねようとしているのです。
そこには、カーター・ファミリー記念館(Carter Family Fold)があり、毎週土曜の夜には、コンサートがあるというのです。現地に宿泊施設はないというので、土曜の昼過ぎから出かけ、その地の山野・風土を実感し、レンタカーで夜明かしするつもりだったのです。

ブリストルからタクシーで山中を40分走って着きました。(このタクシー、夫婦で乗っていて、奥さん運転、ダンナが電話で配車注文をとっていた) 自分でレンタカーを借りてもたどりつけたかどうか疑わしいほどの、山中でした。連なる山と山の狭い谷間にありました。途中からカーター・ハイウエイとの標識はでてくるのですが、かろうじて2車線の道です。

カーター・ファミリー記念館は、AP カーターがやっていた雑貨屋の建物です。まるで納屋です。納屋を開放しているという感じなのです。古い写真、色あせた新聞記事と思い出の品々が並べられていました。壁には、カーター・ファミリーのレコード。私には、宝箱をひっくり返したような感じでした。

隣の、素朴な木造ホールでのコンサートは、7時30分からです。300人収容でしょうか。いっぱいのお客さんです。クリンチ・マウンテン・コンサートがはじまります。お客の多くはすぐに、ステージ前で踊りだします。スクエア・ダンスの、あのステップです。一気に山のお百姓さんのダンスの集まり気分になりました。知ってる人はいないし、私も踊ってみました。

*どこへ行っても空いてれば、ミキサーの隣に席をとります。

*ほんとは、こんな風なマウンテン・ミュージックが一番好きなのです。

 いったい何時まで続くのかわかりません。迎えのタクシーの約束時間があって、9時過ぎ帰途につきました。街灯(道路灯)の全くない夜道がしばらく続きます。夜をあかし、翌朝のゴスペル・コンサートも聞いていく計画はつぶれましたが、レンタカーで来れたかなあと、思いながら真っ暗の山を見ていました。
ともかく30年の思いが実現したんだ、という感動のようなものも沸いていました。


こんどは、サント・ヴィクトワール山を見に行きたい(2007.7.6)

2007-07-06 18:46:22 | Weblog

旅から帰って、しばらく読んでいなかった新聞を“はさみ”を持って読みました。
シャープの全面広告<液晶テレビAQUOS>が眼をひきました。セザンヌが晩年描き続けた<セント・ヴィクトール山>がガーンと載っていたのです。
朝日6月30日付け22面、日経に至っては、25日付けと29日付け(いずれも38面)と、たて続けに2度載っています(シャープさん、期末で広告宣伝費が残ったのかな?)。

セザンヌのこの山の絵は、好きでした。美術館や展覧会で<この山の絵>を見つけるとすごく嬉しくなったものです。

 *この絵も、シャープのホームページにあります。

この広告によると<セザンヌが世間に知られるようになったのは、56歳で初めて個展を開いてから>、<その頃はすでにパリを離れ、プロヴァンスの故郷で制作に没頭していました>、<なかでもこのサント・ヴィクトワール山を、油彩と水彩で80枚以上描いています>。
<セザンヌは、最晩年まで「自然に即して勉強しています」といい、「自然から受けた強烈な感動」を表現することこそ芸術の目標と考えました>

 う~~~ん、そうか。少々考えさせられます。

フランス南部プロヴァンスに旅し、一度この山を見たいとは思っていましたが、今の身分では、そうもいかないでしょう。
それより、80枚のこの山の絵の方こそ見てみたいですね。
<日経さん、この絵ばかり集めた展覧会を開いて下さい>

今は、ネットの時代、シャープのホームページで、20枚ほどまとめてみることができました。
とてもいいですよ、ぜひご覧下さい。<ここにあります>

東京・八重洲のブリジストン美術館のこの山の絵が、その中に入っていないのは、なぜでしょうか。
ブリジストン美術館では、いつでも見ることができたと思うのですが。

  【おまけ】
*わが町<庄和町>に住んで30年。この町に不満があるとすれば、山が見えないことです。窓をあければ、そこにでっかい山、そういう風に住みたいなあ、と思っていました。信州に“家出”したくなるのは、そう感じるときです。

 

*20日も家を空けていれば、お隣のあじさいはすっかり色あせていました。わが家の桔梗が今さかりです。


アメリカ放浪、ギター・ピック・コレクション(2007.7.5)

2007-07-04 22:05:00 | Weblog

 *ピックの文字が読めませんね。

その昔、あちこち山に登っていた時代に、小屋で“山バッジ”を買っていたことがあります。山に来た記念というか、証拠のような気持ちだったのです。かなり持っていますね。

*あちこちの看板にギターピック。

アメリカ南部を歩いていて、来たぞという何かを買いたくなります。小さく安く(?)、荷物にならないものに、ギターのピックがありました。

私らは、ギターをピックを使って弾きます。カントリーソングの街ナッシュビル(Nashville)、ブルースの街メンフィス(Memphis)を歩いていて、集めるなんて意識なく、いくつか貯まっていました。

左上から時計まわりに。
1、 Nashville;ナッシュビルにあるカントリー・ホール・オブ・フェイム(カントリー音楽の殿堂)
2、 Memphis;メンフィスのただのお土産やさん
3、 SUN Record;エルビス・プレスリー、ジョニー・キャッシュら、ロカビリーの発祥のレコーディング・スタジオ(メンフィス)
4、 Gibson;ギブソン・ギターの工場(メンフィス)
5、 Hank Williams Museum;私が初めて名前を覚えたアメリカの歌手、ハンク・ウィリアムス記念館(モントゴメリー)
6、 Ernest Tub Record Shop;超有名なウェスタン歌手のレコード屋さん。CD随分買ってしまった(ナッシュビル)

たぶん、実際に使うのは、“Gibson”だけでしょう。
ハンドバックと同じように、ギターにもブランドがあります。
フォークやカントリーソング世界の、アコースティック・ギターのマーチン(Martin)
ジャズ世界では、アコースティック・エレキ・ギターのギブソン(Gibson)
ロック世界では、ソリッド・エレキ・ギターのフェンダー(Fender)

これらブランドを、YAMAHAも、刻印したギター・ピックは、日本中の楽器屋さんで買うことができます。私も、使っています。
ピックの違いで音色が違うかどうか私にはわかりません。ギターのブランド品を使えないなら、せめて100円のピックぐらいは、ブランド品を使いたいのです。
もっとも“日本では、大阪の小さな工場で、すべてのピックを作っているそうです”が。

*ギブソン・フェンダー・マーチン

ギブソンの工場見学ツアーにのって、ギター作りの工程を見学してきました。むろん、でっかいショールームに燦然と高価ギターが並んでいました。そこで、ピックを買ったのです。
Gibsonの下に、PUREと刻印されています。ギブソン・純正・ピックなのですぞ!!

  【おまけ】

*これは、チョコレートです。

* ナッシュビルのカントリー・ミュージック殿堂の売店に、ピック型のチョコレートがありました。旅行初日だったもので、バッグに押し込んでいたら、割れてしまいました。

*マザー・メイビルのピック。ピンボケですが。

* ミュージック系のミュージアムには、有名歌手のギターが並んでいるのですが、納屋のような記念館に、メイビル・カーターのピックがありました。
メイビル・カーターは、カーター・スクラッチとか、カーターピッキングとかいわれる奏法を生み出した“フォークの母”さんです。
“そうか、ギブソンのM(中厚)を使っていたのか”。一部欠けたピックを見つけた時は、ほんとに嬉しかった。


アメリカ放浪、貧しい食事も旅経験(2007.7.3)

2007-07-03 23:07:09 | Weblog

*料理名は知らないけど“たぶん高級ソウル・フード”。右手前のさつまいもは美味しくなかった。

ブログ復帰の第一信で、ヤオコーの食パンだけのマイ・ブレックファーストを書きました。ほんとうに美味しいな、としみじみ思ったのです。

20日間ほどのアメリカは、ま、それほどひどい食料事情だったのです。
気持ちは、バックパッカー、貧乏旅行です。正確には、今回は“背負うことはなかったのですが”。
ひとりだけのアメリカ放浪は、1976年以来、2度目の30年ぶりです。

今回もまた、キャンプ・登山気分の荷造りで出ました。コンロこそ持っていきませんが、電気湯沸かし器は持ちました。カップラーメン3個などなど、“非常食”という意味です。
さすがに、若い国内旅行みたいに、バスセンターで湯を沸かしてカップラーメンを食べたことはありません。夜中遅く宿に着いた時などの備えです。だからといって、早くから非常食に手をつけるわけにいかないのですが。
ちょっと書くのがはずかしいのですが、ほんとに、役立ったのです。

誰かが一緒の旅なら、無理してでも、多少見栄はっても、“それなり”の食事をするでしょう。一人旅なら、臆病にもなるし、“まあいいか”になるのです。

全旅程中、布のナプキンが出てきたのは、たったの1回。次に、紙ナプキンにくるまれていても、プラスチックでないフォーク・ナイフが出てきたのは、2,3回でしょうか。絶対に依存しないと誓っていたマックが1回、バーガーキングも1回。それが夕食です。
昼、朝となると、もう惨憺たるものでした、抜くこともショッチュウでした。

・・・・と書くと暗いですから、見栄張って、見せられる食事だけ、紹介します。
Rikaさんに影響されて、食事の前にデジカメを出す習慣ができているのです。
でも飛行機での食事にデジカメを出したら、両隣の外人さんの“失笑”を感じました。

 *ホテルのデイナーだが、バーガーキングで買ったのです。

*このあたりが日常の食事。ホットドッグとサンドイッチ。

*ほんとうは、ピザは好きではないのですが、頼むのが楽なのです。最初の一週間は全く野菜を食べなかったので、意識してシーザーサラダです。

*ただのサンドイッチですが、感動した“ツナ・サンド”です。ボタージュ・スープも正解でした。

*中華料理屋の“日曜のブランチ・メニュー”。食べ過ぎてしまった。

*朝食付きで喜びました。野菜がありません。このお皿、このフォークのレベルのホテル(!)でした。

*ニューオールリンズは観光地で食べやすい。これは、ガンボ<手前はご飯。つまり雑炊です>。ほっとした雑炊です。美味しかった。

*同じニューオールリンズです。これは、ジャンバラヤ<おじや+焼き飯>。最初は美味しかったけど。

*サンアントニオ。メキシコ料理のタコス。メキシコ庶民料理に不可欠な、とうもろこしが、バイオ燃料として自動車に食われる危機だそうです。世の中、なんかおかしいです。

*旅中でただ一回だけの2枚組み写真のお料理。まずシーザーサラダ・・・・・。

*終わったら・・・・・・、ただのパスタです。左上の激辛のスープと上のチップ(?)は食べなかった。

 【おまけ】

*いつも空腹だったわけではありません。常に、寝不足・疲労状態なのか、すぐに手を出すコーラのせいか、やたら食べたいと思っていたわけではありません。“費用”に対する意識も常にありました。

*撮ってきた写真は、1Gと500M、つまり750枚ぐらい。ときどき、こんな風に“旅の話”を書くでしょう。おつきあい下さい。