最後の数奇者(茶人)松永耳庵の旧庭にEM菌で水質浄化(2008.2.29)

2008-02-29 21:41:10 | Weblog

*松永耳庵(じあん)の旧邸の庭に看板。

この間、ひょんなことから小田原に行かねばならないことになりました。
小田原ならば、松永耳庵(じあん)の旧邸・茶室も見に行こうということになったのです。

石炭ブローカーからのし上がり、東京電力を発足させ、後に電力王と呼ばれた<松永安左ェ門>は、明治・大正・昭和の財界人らしく“茶道”を愛好する茶人(数奇者)だった。60歳からの茶道に関心持ったので、論語の「六十にして耳順(したが)う」から、号は、耳庵なのです。

1942(昭和17)年の電力事業の国家統制に抵抗し68歳で、隠居、茶道三昧に入る。しかし戦後、国営電力会社を分割、民営による九電力体制を築き上げた。常に国のありようを念頭においていた人生といえるでしょう。

昭和21年から小田原市板橋丘陵に住みます。この地には、茶人・益田鈍翁らも居をかまえていました。
耳庵は、1972(昭和46)年に97歳で没します。そして1979年に、土地・建物が小田原市に寄贈されたのです。

 *老欅荘(ろうきょそう)

今、松永記念館(小田原市郷土文化館分館)として、無料公開されています。小田原から箱根登山鉄道で一駅、箱根板橋駅下車徒歩10分。ゆるやかな山の中腹、海の見える地です。住まいであった<老欅荘(ろうきょそう)>や茶室<葉雨庵>、茶室<烏薬亭>を持ちます。風情のある見事な佇まいです。これらは、市民で有料で貸しており茶会の開催ができます。詳しくは、<ここにあります>

気持ちの安らぐ散策に中に、管理の不行き届きも感じます。
これらは文化財とはいえるでしょうが、古来の文化遺産ではありません。観光資源にはなりましょうが、小田原市の管理体制、管理経費に問題があるかもしれません。その時、訪問者は私らだけです。職員さんも親切でしたが、どことなくヒマそうでした。

 

小田原はもう春。梅の花ものどかでした。庭の池のまわりを歩いていると、あっと驚く立て札がありました。

池の水の浄化にEM菌を使っていたのです。NPO(?)“西湘わいわいネット”と市が実験利用しているのです。ここで、古都の名所旧跡にない現実を感じたのです。しかし、小田原市民の文化を維持する活動の心意気を感じました。

わが旧庄和町の“まちづくり・まちおこし”を考える人たちとの会話の中に、“核になるものがほしい”があります。文化にしても、観光にしても、産業にしても、それに結集できる“核になるものがほしい”ということになるのです。
小田原市のように、いっぱい核になるものがある街でも、あったとしても、結局は市民の活動や思いは同じかもしれないな、と感じたのです。

  【おまけ】

* わが町にも、EMを使って町を浄化していこうとする人たちがいます。小学校のビオトープの浄化を試みています。EM石けん活動の皆さんです。<ここにあります>

* 最も著名な数奇者(茶人)、三井物産の大番頭、益田鈍翁の邸宅(掃雲台)は、2万数千坪ともいわれたが、現在は分譲地になっているようです。明治の政治家・軍人の山縣有朋別邸(古希庵)は、保険会社の研修所になっています。近くの同じような旧邸は、このありさまです。栄枯盛衰というか、維持していくことは、なかなか難しいのでしょうね。


この間の富士山ほどの美人じゃないけど心は日本一(2008.2.28)

2008-02-28 16:42:11 | Weblog

*ワイド・スクリーンいっぱいの素晴らしさでした。

2月もおしまいです。写真の在庫セール、月末大安売り的なブログにします。

<冬の富士は日本一の山だった>
*富士山といえば風呂場の絵です。

誘われて山中湖あたりに行ってきました。
富士山に“銭湯の絵”的に小ばかにする気持ちがあったのですが、目の前に、冬の富士山が現れると、“がーん”となりましたね。こりゃすごいや!ほんまにすごかった。ほんとの日本一だな、ですね。
湯につかりながら、ほんものの富士山の<絵>を見ていました。

*この山をひとりで見ていると、気持ちをコントロールされたみたいになってしまいました。

<美人じゃないけど心は日本一>
*徳之島から届いたのです。

先日<たんかん>が届きました。大阪に住む義妹さんが、だんなの出身地<徳之島>に頼んで送ってくれたのです。タンカンってなんだかよくわかりません。聞いたこともありません。柑橘類(かんきつ類)です。まあ、これが美味しいのです。農園のチラシに<低農薬の為、美人じゃないけど心は日本一>です、と書いてありました。確かに、こんな美味しい柑橘を食べたことありません。農園のオヤジが日本一と胸をはるのもわかります。

*美人じゃないけど心は日本一です。

<子育て日本一の市、春日部市>
*庄和町から富士山もかすかに見えます。

春日部市長のセリフです。どこが日本一でしょうか。ここらあたりから、日本一も口から出まかせ、いい加減になってきます。私の住む旧庄和町は、<日本一の大凧の町>です。
それなら、<おまけに> これはどうでしょうか。

<やはりウチの子が日本一>
*先生の呼びかけにも応えない、よそ見人生を歩みそう。


広島山地から“菱餅、カーター大統領のピーナッツ・かりんとう、ねこ柳の一枝”(2008.2.17)

2008-02-27 17:21:51 | Weblog

*真ん中手前が<ほとぎ>です。

しばらく出かけていて、久しぶりにわが家に戻ってきたら、ちょっと嬉しい荷物が届いていました。

広島県・東広島市といってもピンと来ません、昔風にいえば、お酒の里の加茂郡西条町に住む、弟一家からでした。
送られてきたのは、広島県三次市甲奴町(旧甲奴郡甲奴町)の農産加工部の手作り商品<おひなまつりセット>です。ピンクなどの丸餅、そのままひな壇における菱餅、ほとぎ(ひなあられ?)、きな粉など、いろいろで楽しい。
岡山生まれの私は、お餅が丸いだけで嬉しくなります。それに蓬(よもぎ)の草餅が入っているのです。そういえばお正月前には、この地では見ることもない“豆餅”を送ってくれました。

私の住む旧庄和町(現春日部市)は、農家と東京通勤向き新興住宅地が半々です。
この地の農家、農家のお嫁さんも、“地産地消”の旗をあげて、“農”を守っています。いろいろな工夫をしています。
私も気持ちだけ応援しているのです。例えば、このブログでも、少しだけ触れています。<ここです>

都会の新聞には、全国の<田舎の農>の問題が指摘されています。
広島県三次といえば、中国山地です。そこで、農家の嫁たちが、“町の活性化”のために活動し、日々工夫しているのです。甲奴町農産加工部(代表 田村清子さん 0487-67-2255)の農産商品なのです。


<現材料につきましては、甲奴町で採れた物ばかりを使用しており、全て手作りですので安心してお召し上がり頂けます>

そして、<部員一同で、一針一針心をこめてお作りいたしました>という、小さな雛人形が添えてあります。

そして、かりんとうが一袋。<かりんとうに使用しております「カーターピーナッツ」は、元アメリカ大統領のジミー・カーター氏よりお譲り頂いて栽培したもので、甲奴町の特産品です>

そして、<寒さの中、力強く芽吹き始めた“ねこ柳”を一枝添えました>、と。
暖かさを覚える、嬉しい<おくり物>だったのです。

   【おまけ】
* 非常に僭越ですが、カーター大統領は、好きな大統領でした。ピーナッツ農園主でもある、ジミー・カーター米大統領と甲奴町の関係をネットで調べてみました。

* 米国アトランタの「カーターセンター」にある「ヒロシマの鐘」が、第二次世界大戦中に同町の円通山正願寺から供出されたものだったことが縁で、元大統領との交流が始まったというのです。
2001年、ジミー・カーター元米大統領から友好の印として贈られたピーナッツ(ランナー種)15キロの種、3アールから始めた広島県甲奴町のピーナツ栽培は、今や1.5ヘクタールにまで拡大した。小粒で丸みを帯び、軟らかく甘みがあるのが特徴だそうです。そして、「甲奴の特産品」として作り上げたのがこの「黒糖入りピーナッツカリントウ」ということです。

* 甲奴町には、ジミー・カーター夫妻も訪れ、ジミー・カーター・シビック・センター(たぶん公民館でしょう)もあります。カーター通りもあるらしいのです。詳しくは、<ここにあります>


3月1日の“地球のステージ”公演(東京)案内が朝日新聞に(2008.2.23)

2008-02-23 08:23:34 | Weblog

*2月21日朝日新聞夕刊7面

昨夜、突然呼び出され、三味線のお稽古。で、予定の<重く・長い>ブログは延期しました。もう間もなく、冬の旅に出発します。帰ってくる日を決めていません。
ブログに長く<穴>があきそうなので、<おまけのお知らせ>を入れておきます。

このブログでときどき話題にしている“地球のステージ”ですが、なかなか広く一般の方に広報されることが少ないようです。この朝日新聞の案内記事はめずらしい。事前予約せずともOKのようです。3月1日です。ぜひ一度、お出かけ下さい。

“地球のステージ”の詳細は、ウェブ・サイトで。<ここです>


今日から27日まで埼玉県立熊谷図書館の廃棄本放出(2008.2.21)

2008-02-21 18:57:40 | Weblog

*廃棄図書放出現場で、これだけに絞った。

行こうか行くまいか、と気持ちがフラフラしていたのですが、朝のコーヒーを飲んだら、行こうと決めたのです。ならば、開館前に行かなければ・・・・。もう遅い!

当地、埼玉県の東の端から、熊谷駅まで1時間20分。駅から20分歩いて、やっと熊谷図書館にたどりついた、と思った、その時に、携帯電話がなりました。う~~ん。“i ですが、今いいですか?”と、<こんな所にいるとは言えません>。大事な方から大事な内容でした。ここで10分弱ロス。着いたのは、10時40分でした。

*県立のわりに小さい図書館だった。

図書館の廃棄本放出の日には、かなりの方が駈けつけます。10時開館なのに、9時から並んでいたそうです。私が、図書館に入った時には、何人もがいっぱい本を抱えていました。遅かった!!

今日は、ガツガツせずに、気持ちゆったり散歩のつもりでした。それでも、だんだん眼が血走ってきます。しばらく床に散らばったダンボール箱を漁(あさ)っていました。

6,7年前のこと、県立川越図書館の廃館の時には、ライトバンで出かけ、全館、皆廃棄本状態で、私も100冊近く持ち帰った夢のような一日だったのです(正確には、計2日いきました)。家人にとっては悪夢の<どこに置くの!!!!>であったようで、今日は、ライトバンで出かけることを禁止されていたのです。
それに比べれば、はるかに小規模な“廃棄本の放出”でした。

それでも電車賃を出してきたのだから、持ち帰るか、否かの、判断レベルをぐっと低くしました。

大阪センチメンタル・ジャーニー(富岡多恵子);1997.8 集英社
野菜賛歌(庄野潤三);1998.10 講談社
すべてきみに宛てた手紙(長田弘);2001.4 晶文社
私の取材紀行(新田次郎);1981.2 文芸春秋
ディープ・イングランドを行く(林 望)1998.11 文芸春秋
ブリティッシュ・ロックへの旅(山川健一);1998.9 東京書籍 (*)
モスクワっ子のアメリカ探検(B.ストレーリニコフ他);昭和47.2 読売新聞社
空からのフォークロア(香月洋一郎);1989.7 筑摩書房
日比野克彦エッセイ集(日比野克彦エッセイ集);1999.1 淡交社 (*)
おんな(中山千夏);1997.10 三省堂
私の死亡記事(文芸春秋編);2000.12 文芸春秋社
中東横断1二つの旗(NHK-萩野弘己);1977.4 NHK放送出版協会
アフリカ便覧―サハラ以南の国々―;1980.9 外務省情報文化局
新・記者ハンドブック;昭和1973.6 共同通信社

今日は、“目玉”となるほどの一冊はありません。この頃、わが青春の大阪時代を懐かしむことが多く、その時代の大阪のトップランナー・富岡多恵子さんの、“大阪センチメンタル・ジャーニー”に、期待しています。
他に、ここに書くのが恥ずかしい本を一冊。そのうちに、このブログで紹介します。
(*)は、すでに持ってるのに持ち帰った本で、家人には内緒の2冊目です、やはりアホですね。

この催し(県民リサイクル)は、2月27日までです。一般に、毎日、新しい本が放出されるはずです。


踊らぬアホな私に三味線をやらせるアホがいた(2002.2.20)

2008-02-20 17:44:53 | Weblog

*これを着ろと渡されたのです。ウチのバンドで、この頃やらないけど、松ケン・サンバをやる時に使えます。白鼻緒のぞうり、白足袋、それに、ちらっと見せる白の和風パンツ(?)は、自分で買え、と。

さて旧庄和町ローカル話題に戻ります。平日は、ほぼ閉じこもっています。
昨日(19日)、“正風館”に出て来いと町の知人からの電話です。コーヒーを一口飲んだところで、“これを着て下さい”と着物一式渡されたのです。

阿波踊りです。この頃は、全国どこででも、商店街阿波踊りが盛んです。当地近くでは、越谷市でやっているようです。昨年の夏、一度だけ知人と練習場をのぞいたことがあるのです。そのとき、三味線でちょっとだけ遊んだのです。

それから半年の今が、シーズン・インの季節らしいのです。 “今年の南越谷阿波踊りは8月23,24日。前夜祭はホールの舞台でねり歩きをやるから”と。どうも舞台にずらっと三味線を並べたいようなのです。
“う~~ん・・・・・・・、わかった。後半年あるな、わかった”と言ってしまったのです。

三味線は、“連”のものを借りることができそうですが、買わねばならないでしょう。簡単な、単調なリズムのくりかえしなら、まあできるでしょう。ただ座って弾くとき、ギターの胴をお腹にくっつけて弾くのに対して、三味線は胴を離して弾くようです。立って歩きながら弾くときは、同じような気もしますから大丈夫でしょう。それと三味線のバチがちょっとくせものです。ピックで弾くなら問題なしかもしれませんが。
スウィング・ベアーズで、“涙そうそう”を演奏する時にサンシンがあるのもちょっといいし。

コーヒーもご馳走になったし、“まあいいか、どうせ、暇なのだから、やるか。わかった”と答えたのです。
帰り際に“・・・・・4月27日に春日部藤まつりに出るんだけど、出ませんか”と二の矢が飛んできました。“おっと、それで着物まで持ってきたのか!・・・後1ヶ月か・・・・”

お隣の春日部市の藤まつりというイベントを知ってはいましたが、今まで一度も出かけたことがありません。なのに今年は、知人nさんがカフェを出すようだし、別の知人グループは、昨年のイベントの赤字補填を考え、お弁当販売とフリーマーケットやる計画らしい。どれも、ちょっと顔をださねばならないでしょう。困った・・・・。そんな知人の前で、着流しなんて見せたくありません。

 【おまけ】

* 私は、時々、わが町のイベントに関わっていて、ロック・ソーランだとか、ブレークダンスをやっている人たちに、”踊れ、おどれ・・・“という側だったのですが、いよいよ、それだけではすまなくなってきたのです。

*夫婦雛みたいですが、左;私、右;娘、一緒に踊ったのではありません。

* 今日のブログ用に阿波踊りの着物の写真を撮っていたら、昔着た法被(ハッピ)があるのを思い出しました。ひとつは、長野市の“びんずる”のハッピ、ひとつは、茨城県下妻市の、(下妻物語の下妻)の夏祭りのハッピ・・・・もう絶対に着ないのに捨てられません。フリーマーケットに出してしまうかなあ。


お昼は、“カフェがつなぐ地域と世界”のカフェ・スロー(府中)でした(2008.2.18)

2008-02-18 13:08:49 | Weblog

*ここがカフェスロー。自転車が似合っています。

昨日(17日)、私らのバンド、スウィング・ベアーズの練習日、久しぶりにリズム隊が全員そろい、まずまずのできです。4月12日(土)のジャズディ春日部に出演します。
こうして、いったん現実に戻ると、あの旅は、もう随分前のことのようになりました。

入谷のマザーハウスを出た私らご一行は、“地球のステージ”公演をめざして、八王子に移動します。ただし、お昼は、“カフェ・スロー”で、と決めていました。秋葉原から中央線特快で国分寺へ。そこから南に歩きます、15分。いかにも、元工場を皆でリフォームした感じの、すっと立ち寄れる雰囲気のいい店構えです。

 *お昼は混みあっていました。

着いたのは12時30分すぎのランチタイムです。テーブルは満席。“はやっているんだなあ”。プリメリアさんと私は、スロー・ランチ。北九州のSさんは、テンペバーガー・セット。テンペは、インドネシアの納豆とHさんが教えてくれました。むろん、それにフェアトレードなコーヒー。


オーダーしてから店内探検です。私は、どこでもまず書籍コーナー、そしてチラシ・スタンドをのぞきます。ここは情報交換・交流スポットのようです。いくつか持ち帰ります。2階は、サークルの集まり、体験教室などなどに使われるスペースがあるようです。フェアトレードな食品、エコな雑貨が並んでいます。ウチのコーヒーがなくなったので、“新しい・知らない・ちょっと自慢の”コーヒーを買うつもりだったのですが、今日はさっと覗くだけにしました。

*棚には、スローな暮らしの本がいっぱい。いつまでも座り読みできるブック・カフェ。

私のスロー・ランチはグッドでした。コーヒーも、誰からなく“おいしいね”の声が出ました。 気持ちもゆったりとくつろげるカフェ・スローでした。<ホームページはここです>
ほんとは、午後ゆっくりしたかったようなのですが、私は時計をにらみ、気持ちのいいスタッフさんに、タクシーを頼んだのです。もし京王線府中駅に歩くと25分だそうです。

同じ町に住む、“みゅーこさん”とか、ブログ“優しい時間”<ここです>のRikaさんとか、に吹聴しよう。
わが旧庄和町に、(春日部市でもいいけど)。こんな風なカフェがほしいな、と思っているのです。といっても、イベントに一日カフェを開くようにはいきません。
とりあえず、誰かれなく“作れ、つくれ!!”いうことにしよう。

   【おまけ】

* 清里のプリメリアさんは、ご自分のお店・昔ながらの自然なお漬物の店“花みずき”の“コミュニティ・カフェ化”計画がはやまるかも知れないな、と感じました。扱っているお漬物は、<ここに紹介されています>

* また一冊、本を買ってしまいました。“カフェがつなぐ地域と世界”です。こんなタイトルを見つけると手を出してしまうのです。カフェ・スローの計画から今日までを紹介しています。2001年5月22日に開店です。この本は自然食通信社の発行です。

*このブログでおなじみの“食べる前にカメラ”。今日のカフェスロー・ランチです。これで、けっこうなボリュームでした。


メード・イン・バングラデシュのすてきなバッグをマザーハウスで(2008.2.16)

2008-02-16 16:35:19 | Weblog

<裸でも生きる>山口絵理子著

<「かわいそうだから、買ってあげる」のではない。かっこいいから、かわいいから、高くても買いたくなる・・・・・。そんなバッグを途上国で作り、日本などへ売りこもうと会社を立ち上げた26歳の女性がいる。>
途上国は、バングラデッシュ。女性は、山口絵理子さん。立ち上げた会社は、マザーハウス。

清里のプリメイラさんが、私の隣町・岩槻の中学校での“地球のステージ”公演に来た時だから、この間12月6日です。同じ町のみゅーこさん、nanamitoさんを交えて、ランチになったのですが、プリメイラさんは、一冊の本を出して、“この方の生き方、素敵”だったか、すごいなあ、だったか、と話したのです。
私の気持ちはハンバーグにあって、どちらかというと上の空だったかも知れません。

2月14日の八王子の中学での“地球のステージ”公演に行きましょう、と連絡をもらった時に、公演の前に、山口さんのお店<マザーハウス>に行きたいとリクエストがあったのです。

プリメイラさんは、オウチからクルマ、佐久平駅から長野新幹線がいつものコースです。上野10時26分で到着、北九州からの2人とも合流しました。入谷のそのお店は11時開店だから、歩きましょうか。

11時ちょっと前、シャッターが半分閉まっている“マザーハウス”に到着しました。
ホームページのスタッフ紹介欄で知っている(ような錯覚!の)“鈴木朝美”さんが迎えてくれます。

 *赤い商品カタログに理念が印刷してあります。

商品カタログの裏面に、マザーハウスの理念が印刷されていました。
長いですがそのまま引用します。

 <「途上国」という言葉で一括りにされた場所にも
素晴らしい資源と可能性があることを伝えたい。
それが、マザーハウスの使命です。

途上国にある工場で、同じテーブルに向かい合い、
同じ言葉で議論し、同じ目標に向かって、
ひとつひとつ丁寧にもの作りをしています。
同じ目標、それは、お客様の心動かす商品を
「途上国発のブランド」として胸を張ってお届けすることです。

よりよい社会をつくるために情熱をかたむける一企業の活動が、
今までに「貧しさ」という暗闇の中で
見過ごされてきた途上国に、
希望の光を灯すことを照明したいと思います。>

*左に、スタッフの鈴木朝美さん
*日経マガジンが立てかけてありました。

プリメイラさんは、ジュートと革のおしゃれなバッグを選びました。私は、見覚えのある石原絵里子さん著作<裸でも生きる>を眺めたりしていましたが、立てかけてある“THE NIKKEI MAGAZINE(2007年9月2日号)”に出くわし驚いたのです。

それに載ったマザーハウスを大きく扱った記事はしっかり読んでいたのです。
まるで遠い世界の記事と思っていたのです。“ここが、そのお店なのか”と、ほんの少し感動が沸いていたのです。

 <援助よりビジネスこそが、彼らの自立につながる>、26歳の創業者、山口絵理子さんは、ドイツのコンベンション・フェアに出かけているとのことでした。

   【おまけ】

* マザーハウスのウェブ・サイトは、<ここです>。

*左;日経マガジン、右;商品カタログ

* THE NIKKEI MAGAZINEは、1ヶ月に一度、日本経済新聞に折り込まれます。付録です。取り扱う内容、写真、レイアウト、全部が、日経本紙らしからぬ斬新さで捨てる気持ちになれない<小雑誌>です。ですが、首都圏だけに折り込まれているようです。


東ティモール、ソマリアで何が。できたばかりの映画“地球のステージ”(2008.2.15)

2008-02-15 23:00:57 | Weblog

*中学生たちは、東ティモール、ソマリアについて調べたようです。会場の掲示板に貼ってありました。

昨日(2月14日)は、バレンタイン・ディ。そして“地球のステージ”の八王子市立打越中学校公演です。清里からやってくるプリメイラさんに誘われてでかけました。“地球のステージ”を一緒に見るのは、これで3度目です。

*会場に貼ってあった打越中学校公演オリジナル・ポスター。(ていねいに剥がして持ち帰った“地球のステージ”ファンがいました。コレクションは10枚ぐらいとか)

東京で30年も働いていて、行ったことのない八王子市、乗ったことのない電車で京王・北野駅へ。そして打越中学校はすぐでした。
午後3時15分開演にちょっとだけ遅れて、公演中の体育館にそっと入りました。
真っ暗の体育館にぎっしりの生徒たちのようです。 ステージでは、フィリピンの少女の映像が映され、桑山紀彦さんの言葉のはっきりした力強い歌声が響いていました。

私が初めてみた1年前の松伏町公演では、涙ボロボロになった感動も、3度目ともなると、桑山さんの活動に共鳴、応援同行しているような心地よい気持ちに変わっていました。
シーンとした会場の中学生の心に静かに感動が伝わります。

この公演は、ここでもまた“地球のステージ”を見て感動、“ウチの子どもたち”にも見せたいと、お母さんPTAが実現させたのです。こうして1600回という“地球のステージ”が、ひそやかに確実に日本中をカバーしているのです。

*山形の精神科医・桑山紀彦さん。紛争地域での医療活動で感じたままを、映像の中に、語りとギターで歌い上げます。

この日、プリメリアさんの友人、この朝に北九州から着いたHさん(リトルままさん)とSさんも一緒でした。お二人の名刺には、“地球交友クラブ;私たちは地球のステージを応援しています”と印刷されていました。

終演後すぐに、私たちは電車で、“地球のステージ”スタッフはクルマで、東京・広尾の“JICA地球のひろば”に向かいました。
“地球のステージ”の映画版が完成し、この夜は、試写会なのです。開演は6時30分。予定していたJICAにある“カフェ・フロンティア”での食事も、フェアトレードなコーヒーも味わえず、開演時間です。



地球上の紛争地や被災地であった人と町と自然、そして人間の営みを、“地球のステージ”という活動をとおして歌う、医師・桑山さんの心が映画になったのです。
映画化したのは、元NHK のプロデューサーで、今独立されている佐藤威一郎さんです。

上映が終わって、会場は大きな拍手に包まれました。監督の佐藤さんがご挨拶。そして、桑山さんが“今日も、打越中学校の公演がありました”と。それを見てきた私のご近所席の皆さんは、にっこりうなずいていたでしょう。暗くてよくはわかりませんでしたが。
そして、桑山さんが“今日のお礼に”と一曲歌ってくれました。ほんとにギター一本だけで歌ってくれました。ほんとにいいですね。

*クロアチア のアリッサのことを歌います。

映画の最後に、テロップで、この映画の完成を応援・支援した人たちの名前が流れ続けました。その中に、“小須田悦子”の名前を見つけたとき、隣の席のプリメイラさんの膝にトントンと合図を送ったのです。

   【おまけ】

*いつものスタッフさんの背中です。

*映画“地球のステージ ありがとう物語”はウェブに、紹介されています。プロモーション・ビデオも見ることができます。<ここです>

*映画制作スタッフは、全国で自主上映されることを望んでいます。料金など申し込み方法など、上記のURLにあります。


オレンジ香るカリフォルニアのリバーサイドという町にいたことがあります(2008.2.12)

2008-02-12 19:50:59 | Weblog

*アメリカのスイーツもいろいろ出てきます。

ロサンゼルスから東へクルマで1時間半走ったあたり、緑がなくなり赤茶色の丘が目立つようになる所に、リバーサイド(riverside)という町(city)があります。
私は、この町と仕事で1990年ごろから縁ができていました。2000年8-9月には1ヶ月ほどいました。誰ひとり日本人と会いません。 “地球の歩き方”など、どのガイドブックにも載っていません。

ところが一年程して本屋の立ち読みで、“アメリカのおいしい食卓”というエッセイ集をみつけました。表紙にオレンジの箱に貼り付ける<ラベル>を散りばめてあるのです。ひょっとすると、と思ったのです。ありました。リバーサイドが載っている!!のです。

<「オレンジの母」と呼ばれている女性がいる。1870年代、荒野の集落にすぎなかったリバーサイドの町にワシントンから入植してきたエリザ・ティベッツである。ワシントン時代の友人に手紙を書き、ブラジル産のシトラス(*日本語では柑橘・かんきつ)を3本送ってもらった。苗木は生長し立派な果実をつけた。大きくすべすべした鮮やかなオレンジ色の肌をもち、むきやすく、種なしで、素晴らしい香りを備えている。それまで知られていたどんなオレンジとも異なる果実は「ワシントン・ネーブルオレンジ」の名で有名になり、リバーサイドの町を第2のゴールドラッシュに巻き込んだ。1862年には、カリフォルニア州全体で2万5000本しかなかったオレンジの木が20年後には、50万本に増えていた。このうちの半分がリバーサイドだった(徳井)>

私は、リバーサイドのダウンタウンに宿をとって滞在し、毎日レンタカーでシュロの木が街路樹の道を30分ほど走らせていたのですが、今、広大なオレンジ農園を感じることはできないのです。赤茶けた大地が見えるだけなのです。ただ郊外には 元の木が“ペアレンツ・ネーブル・トゥリー”という記念樹として、柵の中で大事に育てられていました。
ダウンタウンにあるアンチック・ショップ街には、オレンジの箱の鮮やかなラベルを売っていました。きれいなのです。少し買っておけばよかった。

*左;アメリカのおいしい食卓 徳井いつこ著 平凡社 2001年8月発行、右;町のパンフレットには、CITRUS(かんきつ類)の美しい絵があふれています。

リバーサイドの博物館で買った小学生向きの郷土史で知って、驚いたことがあります。この町には、まず中国人移民がきます。そして1882年(明治25)から日本人移民が農園で働き始めるのです。1900-1910年(明治33-43)が最も多かったようです。日本の真珠湾攻撃後の戦争中は、カリフォルニアの日本人は収容所に入れられます。この地にも、日本人移民の戦争の歴史があったのです。でもそれを感じるものは、今ありません。
日本人の後に農園で働いたのは、アフリカン・アメリカンと書いています。

4,5日前にブログ<ここです>で、オクラホマから、オレンジ香る天国、カリフォルニアをめざす農民たちの話、“怒りのぶどう”を書きました。彼らは、ここリバーサイドをめざしていたのです。正確にはリバーサイドの町は登場しません。彼らを入れなかった、拒絶した農園には、日本人が働いていたのかもしれません。
明治の頃、江戸時代が終わったばかりです。アメリカに移民となって行くパワーは何だったろうか。日本の農民も、それほど貧しかったというだけなのだろうか。

   【おまけ】

* だから、私のリバーサイドは、オレンジ香るリバーサイドではありません。赤茶けた大地のリバーサイドです。それでも、ひとりで1ヶ月もいれば町に愛着もわきます。良さもわかってきます。

*ホテルから毎日見ていたRubidoux山。

* 1700年代には、スペイン統治下でした。キリスト教の伝道団(ミッション)がきて、教会をたて布教活動をします。今、ミッション・イン(mission inn)というホテルになっています。私は、その近くの安ホテルに滞在していました。赤茶けた大地です。山とはいえないけれどよく目立つ山があります。Rubidoux山です(1ヶ月ほどいましたが読めないのです)。もちろん登りました。頂上には、リバーサイド開拓時代からの十字架が立っています。

*Rubidoux山頂からのリバーサイドの街(絵はがき)。左;その昔、右;2000年ごろ。

* リバーサイドですから川ぞいなのです。サンタ アナ川です。地図上は大きな川なのですが、水の流れは、ほんの少し。ここは、水のない大地なのです。

* 今日知ったことですが仙台市の姉妹都市です。もっとも仙台は世界中に7つも縁組をしているようです。姉妹都市ってなんでしょうね。

*ロサンゼルスに出かけた時に、一泊二日で旅するといいですね。アーリー・アメリカンなアンティック屋さんのはしごをするといいですよ。昨日まで、その辺にあったという感じで並べています。


 


暗いなあ、ついに日本版サブプライム問題発生への指摘(2008.2.11)

2008-02-11 20:33:28 | Weblog

*日経(2008年2月11日付)

今の世界不況への流れは、昨(2007)年7月あたりに出てきた米国のサブプライムローン問題だといわれています。信用力の低い個人向けの住宅融資と説明されています。
最初は金利を低くして、途中から金利をあげる(変動金利)で、そのうち住宅の価値があがるからと、要するに、返済能力のない人にも、ジャンジャン貸して、金融機関の活況をはかったのです。
日本庶民の虎の子に対して、預貯金より投資にという政府のキャンペーンと同根です。

私ら世代の時代は、まじめに働いていれば、地域さえ(!)“我慢”すれば、雨露をしのげる家を買えました。むろん長い間のローンに苦しんだけど、持てました。
今の世代、わが子の世代の、若者には、持てるだろうか、と心配になるのです。

今日(2月11日)の日本経済新聞の“経済教室”面に、専修大学客員教授(というより、経済産業省出身に注意)の石川和彦さんの寄稿に、見入ってしまったのです。
<日本版サブプライム問題>の指摘なのです。今日は、それを紹介します。

<日本版サブプライム問題(日本の住宅ローンで破綻者が急増するという社会問題)が発生する可能性がある。しかも、甘い見通しによる国策によってもたらされた結果である>のだ、と。

<バブル崩壊後の経済立て直しを目的に、1990年代、政府は経済政策を多発した。特に波及効果が大きいとされる住宅投資では、主に93-98年に旧住宅金融公庫の住宅ローン条件を緩和した> 将来の所得増額を前提としたゆとり償還制度(ゆとりローン)といわれた。融資限度額の増大、住宅取得額に対する融資額割合制限の撤廃、変動金利制・・・・などなど。

これで多くの世帯が持ち家を購入できたのでしょうが、一般家庭が住宅ローンという多額債務を安易に背負ったのです。それを国が助長したのです。それが90年代の一連の住宅政策なのです。

<住宅ローンを組んだ時点では、将来の返済能力を不問とし、もともと貸してはいけない人々の中で、その後の経済状況や雇用情勢の変化により返済能力の低下が露呈したのです>所得は増えていかない中に、変動金利の約束から、返済額はグンとふえるのです。
リストラが頻発する社会情勢になるなんて、考えもしなかったでしょう。

景気を活況にするための、安易な住宅拡充政策とは、こういうことなのです。それが、国の経済政策なのかも知れません。

   【おまけ】

*官製不況・・・の見出し、やはりなあ!

*石川先生は書いています。
<経済政策を連発し終えた直後、政府は住宅ローンの根拠であったゆとり償還制度の廃止(2000年)などの融資条件を厳格にし始めた。「国家的な貸し込み」という過ちに政府自身が気づき、正常化に動いた>と。う~~~んです。

*誰のための政策でしょう。国もまた、金融業者やサラ金と同じように、甘い言葉をなげるのです。自分で、よく考えるしかないでしょう。


10年前の長野五輪は里谷多英さん、札幌五輪はジャネット・リン(2008.2.10)

2008-02-10 16:30:04 | Weblog

*札幌オリンピックは1972年です。

先週末の飲み会で、その頃に現役だった面々(選手じゃありません)と長野オリンピックの話になりました。ちょうど10年前です。
その夜の人気は里谷多英さんでした。モーグルで金。誰も金メダルをとるなんて思っていないから、<滑ってる里谷の写真はないか・・・>と報道各社は大騒ぎだった? 
それから<どんなときにも里谷、こんな時だからこそ里谷!>を応援という時代をへて、今年またワールドカップに出場する。がんばれ里谷!! ほんとにがんばれ!!

札幌オリンピックは、ジャネット・リン、だな、と、飲み会でしゃべってシラケさせてしまいました。私の現役第一線時代は、札幌オリンピックなのです。
1972年です。私は、1970年に大阪から札幌に転勤・引越していたのです。

ジャネット・リン、18歳、女子フィギュア・スケートのアメリカの選手です。尻もちをついたのですが、その時のにっこり笑顔が良かったのです。銅メダルでした。
日本選手の名は、70m級ジャンプの金銀銅の独占以外に、覚えていません。

札幌は、とにかく可愛いジャネット・リンなのです。 ジャネット・リンは、選手村の自室を去るとき、壁に、Peace + Love Janet Lynと落書きして帰ったのです。

*上;これが噂のサインです。下;ジャネット・リンのアドレスです。1972年のアドレスです、念のため。本にはさまっていました。本人に聞いたわけではありません。ファンレターなど書いていません、念のため。

Love and Peace は、1970年初め、若者の合言葉だったのです。ヴェトナム戦争に行くことになるかもしれないアメリカの若者は、Love and Peaceを心底、望んでいたのです。
私ら、日本人も、そのことを理解し、共鳴していたのです。
ジャネット・リンは、Love and Peace の象徴の役割りを果たしたのです。

選手村は、団地になりました。五輪団地と呼ばれています。ジャネット・リンの部屋は、分譲住宅です。購入者の希望で落書きは、消されなかったのですが、今まで4,5人の所有者が代わってすっかり風化して読めないそうです。

*ははは、こんな本。左は、日本の出版社(小学館)がゴーストライター使って聞き書きで作ったのだと思います。わかってて買うアホ!<さわやかに美しく。いま、ジャネットから日本へ・・・・。働く女性の新しい生き方を発信!ワーキング・カップルに贈る珠玉の一冊!“アレルギー性ぜんそく”を自然食療法で克服した「食事療法ーー私のレシピ(作り方)」もイラスト付で掲載>と、なかなか泣かせる腰巻の宣伝文。
 右;昭和50(1975)年6月 英友社 発行
 左;昭和59(1984)年7月 小学館 発行

ジャネット・リンは、プロ入りします。結婚し、家庭と子どもを持ちます。

敬虔なるクリスチャンであるジャネット・リンの信仰生活・布教活動の話も聞こえてきました。
長野オリンピックの時には、広告の仕事で来日しました。42歳だったかな。

   【おまけ】

 *朝日新聞連載のフジ三太郎も作者のサトウサンペイさんも、ジャネット・リンのファンだったのです。無断掲載です。右から、1972年2月、6月24日、9月掲載でした。

*その頃、こんなのを腕に巻いていました。もうずっと昔の話です。

 


“怒りのぶどう”の1930年代不況と危機が、今またやってきたのかも(2008.2.9)

2008-02-09 22:45:04 | Weblog

*岩波文庫 2007年10月16日発行 第35刷

昨夜は、後輩の飲み会に誘われて東京に出かけました。電車通勤時代の気分になったので、一冊読む本が必要でした。飲み会ですから手ぶらが条件です。ならば文庫本です。都合よく、春日部市立図書館から“怒りのぶどう(上・中・下)”を借りていたのです。

私は、文庫本をほとんど買いません。本なら“ちゃんとした”ハードカバーだなんて、気持ちがあるのです。この間、図書館で新着コーナーをチェックした時に、普通は手を出さない文庫本、スタインベックの“怒りのぶどう”を見つけ、借りていたのです。
若い頃に読んでいますが、表紙カバーが気に入ったから手を出したのです。

1930年代のアメリカ。そこから世界大恐慌になっていきます。大不況です。それに加えて、アメリカ・中西部(砂嵐地帯<ダスト・ボール>)が砂あらしに見舞われます。農地は全滅します。オクラホマ州の農民は悲惨のどん底になります。
この砂嵐は、日本では実感がわきません。竜巻もそうです。“オズの魔法使い”で、ドロシーが飛んでいくのも竜巻です。アメリカ中西部の竜巻は、日本の感覚とは全く違う凄さのようです。

それで、オクラホマの農民(オーキー)は、一斉に、ぼろグルマで、新しい天地、安住の地、夢のカリフォルニアを目指します。苦しい旅です。しかし夢のカリフォルニアは、天国ではなかったのです。カリフォルニアの農民との葛藤、大農園主との争い。“怒りのぶどう”は、そういうお話なのです。

1940年にジョン・フォード監督で映画にもなりました。 この“怒りのぶどう”は、1939年発表された時には、アメリカ中で非難、論争になったのです。あまりに社会の恥部を暴露しているとかで、禁書、焚書(焼却処分)扱いされたようなのです。後にノーベル文学賞をもらうジョン・スタインベックの文学なのです。私らが、民主主義の手本の国と習ったアメリカの国のことなのです。

1960年代に私は、まず映画を見ました。オクラホマ州から、ルート66(国道66号線)をおんぼろグルマで一家のカリフォルニアをめざす苦難の旅を見ました。その時からルート66を走ってみたいと思っていたのです。

1978年初めてアメリカ貧乏旅行した時に、グレイハウンド(バス)で走りました。今でもレンタカーでも走りたいと思っています。

だから、文庫本の表紙が、ルート66を含む苦難の旅の地図だったから、手をだしたのです。

 *左;角川文庫 1972年4月30日発行 第7版

その昔、私が読んだ文庫本の“上巻”だけ(!)がありました。昭和47年(1972)に買っています。出版社も、訳者も違います。表紙カバーの絵が全然違います。それは、貧しさから苦難の旅に出る農民の苦悩が直接感じられる表紙だったのです。
この方が原作の趣旨にふさわしいに違いありません。しかし今また、こんな暗い表紙なら私は、手を出さなかったでしょう。今の時代には売れないでしょう。

アメリカ、地図、青春、冒険・思索の放浪・旅。アメリカの文学、映画に良く出てくる世界です。
ほんとうは“怒りのぶどう”の旅は、全く違う旅なのです。

今、社会は、アメリカに端を発して世界不況に突入しているように感じられます。
“怒りのぶどう”の時代と同じかもしれません。
ほんの4,5日前、NHKが午後7時30分の番組“クローズアップ現代”で、ポーランド国民がどんどんイギリスに働きに流れて行く話がありました。“怒りのぶどう”と同じように感じました。
アメリカ国内での話から、世界中に移動する話に変わっていますが、貧しい国から夢のような国への旅です。しかし、そこは、決して天国ではないのです。

スタインベックは書いています。<カリフォルニアに大量の果実や穀物が実っています。そこには、飢えた人々が多くいるのです。しかし、それら果実や穀物が収穫されず、むざむざと腐れ果てている。農園主が収穫しないのです。>

  【おまけ】

*ウディ・ガスリーの伝記映画がありました。邦題は、“わが心のふるさと”で、原題は、Bound for Glory です。

*“怒りのぶどう”の時代、オクラホマからカリフォルニアめざした多くの農民の中に、もうひとり、ウディ・ガスリーがいました。ボブ・ディランに刺激を与えた“フォークシンガー”です。ということで私は、ウディ・ガスリーのレコードを聞き、解説本、攻略本!を何冊も読んでいたのです。

*右のLPのタイトルは、Bound for Glory です。Boundの意味がよくわからなかった。今では、新幹線のアナウンスで、バウンド・フォー・大阪、とか言っています。でも、自伝や映画のタイトルの日本語訳は、うまくできませんね。<栄光への脱出>なんて意味でしょうね。

*書きだせば、いくらでも書きそうです。今日はやめます。また別の日に書きましょう。


春日部に“コミュニティ・カフェをつくろう”、いや誰かに作ってもらおう(2008.2.7)

2008-02-07 23:47:26 | Weblog

*WAC編、学陽書房2007年12月10日発行

一週間ほど前に、アマゾン・ドット・コムで、無意識に本を注文してしまいました。きっと新聞の広告か書評で見ていたのでしょう。4,5日前に届いていたのです。今日、開きました。
なんと“コミュニティ・カフェをつくろう”(学陽書房)なんです。コミュニティ・カフェの作り方の本なのです。

毎日、旧庄和町で過ごすようになって、ボヤキの筆頭は、“ちゃんとした本屋がないなあ”です。そして、“ちょっといい感じのカフェがほしいなあ”、なのです。ブログの中でも、ぼやいています。<ここにも> 書いてます。
この町に住む、余裕がありそうな人にカフェの話しをすると、<とにかく客の回転を早くしないとなあ!>と、私の思っていることと、逆の話になるのです。

人に頼ってもだめだな、<自分で作るか、どうせ暇なんだから、自分のカフェを作るか>と、ふっと思ったりもするのです。

私の比較的新しい知人、フェアトレード・コーヒーを扱っている人の話を聞いたりもします。<例えば、こんな話です>

そんな日々の中に暮らしていて、“コミュニティ・カフェをつくろう”なんて、本を“クリック即発注”してしまったのです。

この本を開いて、すぐに、カラーページの一番初めに、東京・府中の“カフェ・スロー”が紹介されていました。

<おっとー!!!>なんです。

ときどきこのブログに登場する<例えば、ここです>清里のプリメイラさんが、来週、“地球のステージ”の八王子の中学校公演のために上京されるのですが・・・・。
<昼食に行きたいCafeがあるんです。・・・・・Cafeスローというフェアトレードや環境や貧困、食の安全などに造詣が深いお店です>というメールが届いたのです。
<カフェ・スローはここです> だから驚きました。

一緒に出かけるとすると、私には、まるで研修・修学旅行になりそうです。
ということならば、ちょっとしっかり読んで、コミュニティ・カフェの作り方を勉強して出かけよう。
でも、私には、カフェのオーナー(?)は向かないだろうから、誰かに作ってもらうことを考えることになるでしょう。


朝・読・日経の共同ウェブサイトを見ながら新聞の危機を感じます(2008.2.5)

2008-02-05 20:20:43 | Weblog

1月31日から“朝日・読売・日経の“よみくらべサイト「あらたにす」が始まりました。<ここです>

あらたにす、allatanys 、わかり難い言葉と思っていたら、あらたは、新聞の新、New-S、新たにス、をつけたんだそうです。なるほど・・・。あまりいいネーミングではないなあ。

新聞は、朝日と日経をわりあい丁寧に読んでいます(時間がありますから)。現役中は、他3紙ぐらい眼をとおしていました。朝日と日経の論調の違いが、今、きわだっています。<改革はどうした!>の日経です。それが、ネット上で比較、読み比べができるというのですが、Web画面の印象からは、どこも同じように見えてしまいます。
おそらく全体記事量、ネット化した記事量によるものでしょう。
とうてい新聞の代わりにはなりません。

新聞の危機(!)は、まず若者が新聞を読まないことだそうです。彼らは、ニュースはネットでわかるといいます。全然、違うのだけどなあ~。
それでも就職前には、読むらしいのです。リクルート・スーツと同じです。

*2007年10月2日付 朝日

新聞は、普通、朝・毎・読そして日経、産経といいます。日本の全国紙です。
この共同サイトに、毎日新聞がないのです。噂どおりに、“毎日は危機”なんでしょうか。
ここでも、外資規制緩和、市場原理主義、規制緩和の声が聞こえてきます。

ここで、ブログ向きでないお話、世界の新聞の話をします。経済新聞の話です。
経済新聞、日本には、日本経済新聞、米国には、ウォール・ストリート・ジャーナル、英国には、フィナンシャル・タイムズがあります。
今、政治が経済を動かすではなく、経済が政治を動かす時代です。金融が社会を動かしています。つまり経済紙の役割りは大きいのです。

日本は、証券取引所のある東京日本橋・兜町が証券街です。アメリカは、ニューヨーク南部のウォール街(ストリート)です。だから、米国の経済紙はウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)なのです。

ネット時代になって同紙(WSJ)の経営不振(会社名はダウ・ジョーンズ)が伝えられていました。
そしてWSJは、一昨年(2006年)12月、相場など数字データはネット(デジタルメディア)に、新聞には分析記事を増加して行く、新聞とネットの融合の方針を発表しました。

*2006年12月5日付 日経

そして、すぐにダウ・ジョーンズには、メディア・新聞買収王と言われるルパート・マードック氏による買収が伝わってきました。新聞編集に影響を及ばさないよう編集局は買収反対を展開しましたが、結局、買収されました。
マードック氏は、オーストラリアの新聞経営者だったのですが、米・英の新聞、放送、雑誌など、あらゆるジャンルのメディアを買収、イギリス第一の新聞、タイムズも買収しました。
今、世界の新聞175紙を傘下にいれています。発行部数は、4000万部だそうです。世論形成に、とてつもなく大きな力になってしまうのです。
アメリカの有力経済紙も傘下にいれたのです。

そして、ついこの間、2008年1月30日付け新聞に、<ウォール・ストリート・ジャーナルの編集局が年内にも、媒体名の由来となるニューヨーク・ウォール街周辺地区から、同ミッドタウン地区にある米ニューズ・コーポレーションの本社内への移転を検討していることが明らかになった>と報じられました。スポーツ面も持つらしい。論調も変わってくるでしょう。

 *2008年1月30日付 日経

TBSに買収騒動がありました。外国資本による日本の一般の会社の買収も進んでいます。すべての分野での外資規制緩和、規制緩和の掛け声の大きい日本政府です。日本でも、買収王マードック氏の名前を聞くことになるかも知れません。

  【おまけ】

*ニューヨーク南部に2本のタワー

* 2001年9月11日、米国同時多発テロがありました。倒れた世界貿易センターの2本のタワー、その隣に、ダウ・ジョーンズ社がありました。
<ウォール・ストリート・ジャーナルは社屋を失った。命からがら逃げ出した記者たちは、遠く60km離れたニュージャージー州の仮の編集局を開き、新聞発行を続けている・・・・・>

*2001年9月22日付 朝日

* 2002年7月30日 日経<・・・一時移転を余儀なくされていたウォール・ストリート・ジャーナルの編集局が28日からニューヨーク市のウォール街に復帰を始めた。・・・・地域の象徴である同紙の復帰を求める声が高まっていた>

*2002年7月30日付 日経

* 私自身、ウォール・ストリート・ジャーナルと接点をもっていました。知人もいました。昨2007年一年間の同紙の買収報道には、少々寂しさを感じていたのです。