この間、ひょんなことから小田原に行かねばならないことになりました。
小田原ならば、松永耳庵(じあん)の旧邸・茶室も見に行こうということになったのです。
石炭ブローカーからのし上がり、東京電力を発足させ、後に電力王と呼ばれた<松永安左ェ門>は、明治・大正・昭和の財界人らしく“茶道”を愛好する茶人(数奇者)だった。60歳からの茶道に関心持ったので、論語の「六十にして耳順(したが)う」から、号は、耳庵なのです。
1942(昭和17)年の電力事業の国家統制に抵抗し68歳で、隠居、茶道三昧に入る。しかし戦後、国営電力会社を分割、民営による九電力体制を築き上げた。常に国のありようを念頭においていた人生といえるでしょう。
昭和21年から小田原市板橋丘陵に住みます。この地には、茶人・益田鈍翁らも居をかまえていました。
耳庵は、1972(昭和46)年に97歳で没します。そして1979年に、土地・建物が小田原市に寄贈されたのです。
今、松永記念館(小田原市郷土文化館分館)として、無料公開されています。小田原から箱根登山鉄道で一駅、箱根板橋駅下車徒歩10分。ゆるやかな山の中腹、海の見える地です。住まいであった<老欅荘(ろうきょそう)>や茶室<葉雨庵>、茶室<烏薬亭>を持ちます。風情のある見事な佇まいです。これらは、市民で有料で貸しており茶会の開催ができます。詳しくは、<ここにあります>
気持ちの安らぐ散策に中に、管理の不行き届きも感じます。
これらは文化財とはいえるでしょうが、古来の文化遺産ではありません。観光資源にはなりましょうが、小田原市の管理体制、管理経費に問題があるかもしれません。その時、訪問者は私らだけです。職員さんも親切でしたが、どことなくヒマそうでした。
小田原はもう春。梅の花ものどかでした。庭の池のまわりを歩いていると、あっと驚く立て札がありました。
池の水の浄化にEM菌を使っていたのです。NPO(?)“西湘わいわいネット”と市が実験利用しているのです。ここで、古都の名所旧跡にない現実を感じたのです。しかし、小田原市民の文化を維持する活動の心意気を感じました。
わが旧庄和町の“まちづくり・まちおこし”を考える人たちとの会話の中に、“核になるものがほしい”があります。文化にしても、観光にしても、産業にしても、それに結集できる“核になるものがほしい”ということになるのです。
小田原市のように、いっぱい核になるものがある街でも、あったとしても、結局は市民の活動や思いは同じかもしれないな、と感じたのです。
【おまけ】
* わが町にも、EMを使って町を浄化していこうとする人たちがいます。小学校のビオトープの浄化を試みています。EM石けん活動の皆さんです。<ここにあります>
* 最も著名な数奇者(茶人)、三井物産の大番頭、益田鈍翁の邸宅(掃雲台)は、2万数千坪ともいわれたが、現在は分譲地になっているようです。明治の政治家・軍人の山縣有朋別邸(古希庵)は、保険会社の研修所になっています。近くの同じような旧邸は、このありさまです。栄枯盛衰というか、維持していくことは、なかなか難しいのでしょうね。