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「甲案」「乙案」とはどのようなものだったか(上)

2014-05-26 00:19:36 | 大東亜戦争
 前回も取り上げたMSN産経ニュースの連載「子供たちに伝えたい日本人の近現代史」の第56回「米は「裏口からの参戦」を図った ハル・ノートでついに戦端」の一節。

 これを受け11月5日、中国や仏印(フランス領インドシナ)からの暫時撤退などを盛り込んだ甲、乙2つの妥協案をつくり、米ルーズベルト政権の国務長官、コーデル・ハルに打診する。


 「中国や仏印」「からの暫時撤退」とはどういう意味だろうか。「暫時」とは「少しの間。しばらく。」(デジタル大辞泉)の意味だが、少しの間撤退し、また進駐するというのだろうか。馬鹿な。
 撤退までに少しの間かかるという意味なのか、それとも「漸次」(しだいに、だんだん)とでも取り違えたのだろうか。
 前回の記事でも取り上げた「変節」といい、この記事の筆者は日本語にやや疎いのだろうか。

 それはさておき、このようにわが国は甲案乙案による妥協を図った、しかし米国は「ハル・ノート」でわが国が絶対呑めない要求を突きつけた、だからわが国は開戦せざるを得なかったと語られることがしばしばある。
 だが、その際に、では甲案乙案とはどの程度の妥協案だったのか、日本軍の中国や仏印からの撤退は歓迎すべきことであったはずだが何故米国はこれらを受け入れなかったのか、そうしたことが、甲案乙案の文面を引いた上で語られることは少ないように思う。
 そこで、その文面を挙げて、検討してみたい。
 重光葵『昭和の動乱(下)』(中公文庫、2001)に資料として収録されたものを引用する。
 まず甲案。

九月二十五日我方提案を左の通り緩和す
一、通商無差別問題
 九月二十五日案にて到底妥結の見込なき際は「日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即ち支那に於ても本原則の行わるることを承認す」と修正す
二、三国条約の解釈及履行問題
 我方に於て自衛権の解釈を濫に拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に三国条約の解釈及履行に関しては我方は従来屡々説明せる如く帝国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す
三、撤兵問題
 本件は左記の通り緩和す
A 支那に於ける駐兵及撤兵
 支那事変の為支那に派遣せられたる日本国軍隊は北支及蒙彊の一定地域及海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すべく爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従い撤去を開始し治安確立と共に二年以内に之を完了すべし
(註)所要期間に付米側より質問ありたる場合は概ね二十五年を目途とするものなる旨を以て応酬するものとす
B 仏印に於ける駐兵及撤兵
 日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す 現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍隊は支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては直に之を撤去すべし
 尚四原則に付ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明たるとを問わず)中に包含せしむることは極力回避するものとす


 「九月二十五日我方提案」とは、
「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」
「平行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む」
「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」
として1941年9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」に基づいて米国に提出した最終案であった。
 しかしこれに対して米国は10月2日、いわゆるハル4原則、すなわち
1.領土の保全及び主権の不可侵
2.内政不干渉
3.通商上の機会均等
4.平和的手段によるものを除く太平洋の現状不変更
に照らして日本の提案はこれを縮小するものだとして、近衛首相が求めたルーズベルト大統領との首脳会談を拒否した(大杉一雄『日米戦争への道(下)』講談社学術文庫、p.98-99)。よって対米開戦の可能性がいよいよ現実のものとなった。
 近衛は撤兵で譲歩することにより米国との妥協を図り、海軍は近衛に一任したが、東條陸相が断固として撤兵を拒否し主戦論に立ったため、内閣は瓦解した。
 後任の首相に東條が起用された経緯は、上記の産経の記事が

内大臣、木戸幸一の推挙で東条が後任に指名されたことは国内外に驚きで迎えられた。東条はとりわけ中国に対しては強硬派である。対中妥協ができないなら米国との交渉は至難で、開戦必至と見られたからである。

 だが木戸の狙いは逆だった。開戦に走る陸軍を抑えられるのは陸軍の東条しかいない。しかも忠誠心の厚い東条なら、昭和天皇が懸念を示した(と受け取られていた)9月6日の「戦争辞せず」の決定を白紙に戻すのを躊躇(ちゅうちょ)しないとの読みがあった。


と伝えるとおりである。

 さてその東條内閣で東郷外相が作成した甲案の内容だが、確かに東條が陸相時代に断固として反対したはずの、支那及び仏印における撤兵が盛り込まれている。
 しかし、即時全面撤兵ではない。「北支及蒙彊の一定地域及海南島」には「概ね二十五年を目途と」して駐屯するとしている。
 そして仏印からは、支那事変が解決するか「公正なる極東平和」が確立されれば撤退するとしている。それまでは居座り続けるということであり、その時期は明確でない。米国にしてみればこれらもまだ4原則違反ということになるだろう。

 だが、当時外相だった東郷茂徳にしてみれば、これでも他の閣僚や統帥部の反対を押し切って譲歩させたのである。
 東郷は敗戦後A級戦犯となり、東京裁判で禁錮20年の刑を受けて獄死したが、獄中で著した手記『時代の一面』(改造社、1952)で甲案について次のように述べている。

日本内部に於ては譲歩に失するものなりとの反対が強かった。即ち通商無差別問題に付き地理的近接の事実による緊密関係に関する従来の主張を抛棄することには既に外務省内で反対の声があつたが、之は多大の面倒なく抑えた。しかして又支那との交渉成立の上は仏印より撤退するにも連絡会議でも大した異存はなかったが、支那の撤兵につきては果然大問題となった。参謀本部側では駐兵を期限附とする時は支那事変の成果を喪失せしむると共に、軍隊の士気を沮喪せしむるから到底期限附撤兵は承諾し難しと強硬なる反対があり、東條首相亦本問題は慎重考慮の要ありて軽々に撤兵に応ずるを得ずと述べて暗に統帥部の意見を支持したが、鈴木国務相〔引用者註:貞一。企画院総裁。陸軍出身〕も略同様の態度を持した。又嶋田海相も最近自分が支那方面艦隊司令長官として見聞した所では、日本軍隊の撤退を見る場合に日本人企業の維持は勿論、其安全も期し難しとして駐兵に賛成し、兼ねて如何なる場合にも海南島の撤兵には応じ難しと云い、豫て穏和派であった賀屋蔵相すら北支開発株式会社総裁時代の経験を持出して、駐兵は在支企業に必要であるとのことで、自分は孤立無援の状態に陥った。
 しかし本問題は近衛第三次内閣の倒潰の原因であった丈け軍部より強硬な主張が出で来るのは覚悟して居たが、自分も入閣当時より若し期間附撤兵の意見が拒否せらるゝ場合には断然辞職するの決意を固めて居たので、前記の反対に対しては他国の領土に無期限に駐兵するの条理なきこと、従って期限附撤兵が士気に関すとの思想の誤てること、居留民の保護は究極的には軍隊の駐在により困難となること、尚日本が隣国支那に対し長きに渉り兵力を以て圧迫を加うることは東洋永遠の平和を維持する所以に非ること、並に軍隊の力を籍らざれば維持出来ざるが如き企業は採算上より見るも之を抛棄して可なること等の理由を挙げて激論数刻に渉り盡くる所なき状況であった。此時一幹事より然らば九十九年間駐兵することとせばず如何との案を持ち出したから、自分は九十九年は永久を意味することともなるので到底同意は出来ぬと撥ね付けたが、餘り自分の勢いが激しいのに軍部も手甲摺る模様があったのに此新案が出たので、一同期限附とすることは致し方あるまいと云う気配が見えた。しかし其期限に付き五十年以下は駄目だとの主張が一時は盛であったが、自分は五十年の間には如何なる事件が到来するやも知れない譯であるから、斯る長期間を劃するの無意味なるを説き、五年説を固持した。大勢は漸く二十五年迄に折れたが、其れ以下は断然容認すべからずとの主張が絶対的であった。自分はそこで八年及十年説を持ち出したが、他の者は二十五年説を固持し今度は自分に譲歩を求める譯合であったから、自分としては二十五年と云う長期とすることは交渉の成立も疑わるゝ譯で甚だ遺憾に思ったが、会議の情勢は差し當り此れ以上短縮することは不可能と認められたので、一旦有期限と定めて置けば他日米国側より長期に失すとの異議ある場合には之に対慮すべき方法もあるべしと考えた。此点は後に十一月二日に於て東條に対し特に了解を求めた点の一である。
(p.205-207、一部の漢字の字体及びかなづかいを現代のものに改めた。太字は引用者による) 


 だが、これほどの激論を経て撤兵を認めさせたにもかかわらず、東郷は、甲案の内容では交渉妥結にはなお不十分だと考えていた。そこで、この11月1日の重要閣僚及び統帥部との連絡会議の席上で、さらに乙案を提出した。

続く