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三好徹『評伝 緒方竹虎』(岩波書店、1988)

2013-10-19 23:34:16 | 日本近現代史
 副題は「激動の昭和を生きた保守政治家」。だいぶ前に古本で購入し、最近読了した。

 緒方竹虎(1888-1956)は大正・昭和期の言論人、政治家。朝日新聞の主筆、編集局長、副社長を歴任。1944年に小磯内閣の国務相兼情報局総裁として入閣し,敗戦後の東久邇宮稔彦王内閣でも国務相兼内閣書記官長兼情報局総裁を務めた。A級戦犯に指名されたが病気のため収監はされず、1951年に公職追放が解除され、翌年の総選挙で福岡1区から当選。吉田茂内閣で国務相兼内閣官房長官、さらに副総理を務め、吉田の後継者と目された。吉田の退陣後は自由党の総裁を継ぎ、鳩山一郎首相の民主党と保守合同を進め、1955年に結党された自由民主党の総裁代行委員の1人となり、後継首相の有力候補であったが、翌年急死した。

 著者の三好徹(1931-)は読売新聞記者出身の作家。推理小説、歴史小説、ノンフィクションなどの作品が多数ある。

 本書は岩波書店の総合月刊誌『世界』の1987年7月号から1988年2月号にかけての連載に補筆したもの。連載時期は中曽根内閣の末期から竹下内閣の初期に当たる。
 著者は本作の前の1982年から1986年にかけて、『週刊ヤングジャンプ』で「興亡と夢」を連載している。二・二六事件から敗戦までの歴史を当時の風俗や海外情勢も含めて若者向けに描いた概史で、集英社から全5巻で単行本化されており、昔読んだことがある。本書もその絡みで興味をもち、購入したのだった。

 初めの方にこんな記述がある。

 いま緒方竹虎の名を知る人は少いであろう。〔中略〕逆にいまごろなぜ緒方をとりあげるのかという疑問をもつ向きもあろう。だが、いまの政界の現状を見るとき、保守派でありながら前掲のような文章〔引用者註:新聞が太平洋戦争を防げなかったことへの反省〕を書いた政治家を分析してみることの必要性を感ずるのである。政治とは、本来、権力をめぐっての権謀術数策の別称であってはならないものだが、現在の日本においては、この公理がまったく通用しなくなっている。政治家はその識見をステートする必要はなく、多数派工作が政治そのものになっている。その点、昭和三十一年一月に急死した時点において、緒方は衆目の見るところ、保守合同のなった自由民主党の鳩山一郎についで、総裁つまり総理大臣になることは確定的であった。むろん合同したばかりの自民党の内情は複雑をきわめており、緒方が総理総裁の座につくまでは一波乱はあったかもしれないが、それでもなおかつ緒方の器才と将来を否定するものは一人もいなかった。彼の死を悼んで、英紙タイムズまでが論評を掲載したことでも、それは明らかなのである。(p.6-7)


 また、「あとがき」には次のようにある。

 緒方に対する期待は、政界だけでなく、各界を通じて存在した。しかし、緒方はその期待にこたえる前に急死してしまった。保守政治家として、緒方は理想に近い条件を備えていた人物であった。彼は、議会制民主主義の本質を心得ており、それを実現しようという強い意欲をもっていた。その基盤である言論の自由の大切さについて、現役の記者にも劣らない認識を有していた。それだけに昨今の政治情勢をみるとき、緒方の早すぎた死を思わざるをえないのである。保守合同は緒方一人の力によるものではないが、彼の存在を抜きにして語ることはできない。いま政界の現状、つまり自由民主党の半永久的な政権独占とそれに伴うさまざまな弊害をみるとき、これが緒方の望んだものだろうかという疑問に筆者はとらえられる。
 いうまでもなく、万物は流転する。この構造が永久に続くことはありえない。しかし、それがどういう形で変るのか、政治学者もジャーナリズムも予測し得ていない。要するに誰にもわからないのであろう。ただ、緒方の時代には存在した進歩的保守がしだいに影を薄め、超保守が勢いを増しつつあることは否定できないであろう。そういう状況下であるが故に、緒方を見直してみることが必要である、と考えて筆者は長い文章を書いた。保守党の中にも良識派はいるに違いない。保守政治家の理想像とはどういうものか、それを考える手がかりにしてもらえれば幸いである。(p.292)


 とのことなので読んでみたが、緒方の生涯についてはひととおり理解できたものの、彼がどう「保守政治家の理想像」に近い人物であったのかはよくわからず、著者の言う理想像とはどういうものなのかもまたわからなかった。

 私は中曽根、竹下の時代は体験しているが、緒方と同時代は生きていない。だから、緒方が当時どのように国民に受け取られていたのか、実感としてはわからない。
 著者は政治部の記者ではなかったが、必要があって国会議事堂の中に入った時、しばしば緒方の姿を見たという。そうした同時代人でなければわかりづらい何物かがあるのかもしれない。昨今の若い方が、中曽根や竹下、あるいはその同時代のレーガン、サッチャー、ゴルバチョフといった名前を聞いても、おそらくピンと来ないのと同じように。

 緒方を高く評価し、その早すぎた死を惜しむ声は著者に限らず多々ある。そして、緒方を悪く言う声を私は聞いた覚えがない。それは確かに、緒方の人格・識見のたまものなのだろう。
 しかし、それをもって、「良識派」はともかく、「保守政治家の理想像」と言えるのだろうか。

 著者は、(本書が書かれた1987~1988年には)「多数派工作が政治そのものになっている」と批判し、緒方は急死した時点で「衆目の見るところ」「総裁つまり総理大臣になることは確定的であった」と評価する。
 しかしそれは、多数派工作に及ぶまでもなく、緒方は自由党において吉田に次ぐ実力者として迎え入れられていたからではないのだろうか。
 朝日新聞の主筆や重役を務め、政治家や軍人と親交があった緒方は、その縁で小磯内閣の閣僚を務め、東久邇宮内閣でも起用された。そうしたキャリアが、吉田の後継者としてふさわしいものだと見られたからではないか。
 本書でも挙げられているように、緒方の公職追放解除当時、吉田の四天王と言われた広川弘禅(1902-1967)、池田勇人(1899-1965)、佐藤栄作(1901-1975)、保利茂(1901-1979)のいずれも、緒方のキャリアには及ぶべくもなかった。

 仮に、緒方が政界復帰に際して、吉田の自由党ではなく、他の中小政党に加わったり、新党を結成したりしたのなら、やはり多数派工作に手を染めることになったのではないだろうか。
 また、のちに緒方が尽力した保守合同も、一種の多数派工作とは言えないか。

 小磯内閣で国務相兼情報局総裁を務めたこと、さらにそれ以前に長期にわたって主筆を務めていた朝日新聞の報道姿勢から、私には緒方は戦争協力者だとのイメージが非常に強い。
 著者は、緒方は右翼を嫌っていたと述べている。議会制民主主義を支持していたとも。なるほどそうなのかもしれない。
 しかし、そうであっても、時勢にうまく順応した人物だったと言えるのではないか。
 そして、そうした緒方の立場に鑑みて、戦犯指名や公職追放を経たとはいえ、政界に復帰するということが果たして妥当だったのだろうか。
 そうした違和感は本書を読んでも解消されなかった。

 緒方が第5次吉田内閣で副総理を務めていた時、造船疑獄が起こった。東京地検特捜部は与党自由党の佐藤栄作幹事長を逮捕する方針を固めたが、犬養健法相(五・一五事件で殺害された犬養毅首相の子)が指揮権発動により逮捕を中止させた。
 犬養は当初指揮権発動はできないとして、緒方に辞表を提出した。緒方は自身が法相を兼任することも考えたが、吉田の方針により、結局犬養の辞表を受理せず、指揮権発動を実行させた。犬養は発動の翌日に辞任し、その政治生命は終わった。
 本書で著者も疑問を呈しているのだが、これは「保守政治家の理想像」にふさわしい振る舞いだろうか。

 再軍備をめぐって、次のような記述がある。

 緒方は、日本が独立を回復する以上、最小限の自衛戦力を持つべきであり、そのためには憲法九条の改正が必要である、と主張していた。この問題について書いた彼の文章は、信濃毎日にのせた一文があるだけで、その考えの深層までたどることができないが、緒方はこの点に関する限りは、まぎれもなく保守政治家だった。
 かつて軍部に痛めつけられた緒方が、再軍備論者になったこと自体、一つの矛盾であるが、シビリアン・コントロールが確立していれば戦前のような軍部横暴は避けられるという考えを彼はもっていた。しかし、その自衛戦力の規模をどの程度のものにするかについては、緒方は何も明らかにしていない。(p.234-235)


 不思議な「保守」の用い方だと思う。
 再軍備や憲法9条の改正は、本来保守・革新といった立場とは無関係だろう。
 軍部に痛めつけられたからといって再軍備を支持するのが「矛盾」だとも言えまい。
 少し前まで野党第1党が非武装中立論を唱えていた時代ならではの記述だと思った。

 著者は、緒方は自らの言論によって国民にわかりやすい政治を実現しようとした、まれに見る政治家であったと評価している。
 確かにそうしたいくつかのエピソードは紹介されているが、しかし、本書を読んでも、緒方が戦後のわが国をどのようにしたいと考えていたのかは、よくわからない。
 終章「早すぎた死」で、著者はこう述べている。

 みずから積極的にポストを狙ったことのなかった緒方が、生まれて初めて最高のポストを狙い、まさにそれを手中にしようとする寸前、死がすべてを無駄にしてしまったということは、何か人生の皮肉といったものを感じさせる。そしてまた、鳩山引退後の石橋首相の病気退陣は、岸に政権をもたらした。結果として、日本の政治の方向を変えたという意味においても、緒方の死は日本の政治史上、痛恨事であったといえるであろう。(p.288)


 鳩山の後継が緒方ではなく、石橋湛山の短期政権を経て岸信介となったことにより、結果としてわが国の政治の方向が変わった、これは痛恨事であると言っている。
 しかし、緒方政権と岸政権は、それほどかけ離れたものとなったのだろうか。
 緒方は吉田以上の反共であったことは本書でも語られている。鳩山による日ソ国交回復に批判的であり、米国との協調を重視していた。再軍備も9条改正も肯定していた。
 仮に緒方政権が成立していたとしても、岸と同様、片務的な旧日米安全保障条約の改定が志向されていたように私には思える。元A級戦犯容疑者であり復古的なイメージの強い岸よりも、それはスムーズに成立させることができたかもしれない。

 何故、著者がこれほど緒方に傾倒するのか、私にはよくわからない。
 特段の汚点もなく、次期総理総裁を確実視されながら急逝した人物に、勝手な理想を託しているだけなのではないだろうか。
 連載当時、『世界』の読者には緒方と同時代を生きた者もまだ多くいただろう。彼らは著者の示す緒方像に疑問をもたなかったのだろうか。
 そんな読後感をもった。

 重光葵や外交についての記述が興味深かったので、少し書き留めておく(〔〕内は引用者による註、太字は原文では傍点)。
 いわゆる繆斌工作に対する重光の反応について。

 外交は外務省(大臣)に任せてもらわなければならぬ、という考えは、重光においては不動の信念であったろう。繆斌問題がこじれたときに、重光は、外交の一元化に反するようなことは認められない、といった。同じことは、松岡洋右もいったし、現在の外交官もそういうだろう。
 その当時、歴代の外相が一元化をいったのは、陸軍の動きを封ずるためだった。相手と交渉しているさなかに、陸軍は勝手に別の窓口から話をつけようとしたり、外交交渉をぶちこわす動きをした。これでは、日本の大使のいうことは信用できない、といわれてしまう。外務省に任せて、余計な動きをしないでくれ、というのは当然である。
 しかし、じつはここに微妙なスリカエがある。前記傍点の部分は、正しくは「外務省の交渉ルート一本にしぼって」であり、それが外交の一元化である。そのことと、外交はすべて外務省に一任することとは別である。
 第一次大戦後のベルサイユ会議のときから、外交は外務省(大臣)専任のものではなくなった。ロイド=ジョージ、クレマンソー、ウィルソンがそれぞれ国の外交をとりしきった。欧米では、このときから、外交は外務省のものではなくなった。十年後、ムッソリーニ、ヒットラー、スターリン、チェンバレン、チャーチル、ルーズベルトが登場し、かれらは外相を伴って東奔西走した。外交は一元化されていたが、外務省の専任ではなくなった。
 先進諸国のなかでは、日本だけが例外だった。一九二〇年代から三〇年代にかけて、日本の首相が外国へ出かけて、相手の首脳と外交をしたものは一人もいなかった。ベルサイユ後、日本の首相で海を渡ったのは、東條英機が初めてだった。外相でさえ、めったに出て行かず、出先の大使に任せるか、特使を送るのがセキのヤマだった。もし近衛首相が中国へ行き、アメリカへ行っていたら、歴史はかなり変っていただろう。
 もっとも、近衛は開戦前ルーズベルトに会おうとした。ルーズベルトは、はじめのうちはハワイにしよう、などといっていたが、そのうちに態度をかえた。ルーズベルトは野村大使をあしらっておく方が好都合であることに気がついたのだ。
 外交は外務省に、というのは、日本のみに通用し、即一元化と錯覚されていた。
 繆(江)の出してきた手を、重光が素気なく払いのけたのは、このルートが外務省ないしは彼の開拓したものではなかったからであろう。重光にしてみれば、外交一元化に反するものだったのだ。
 もちろん、繆斌ルートがこの時点で活用されたとしても、重慶工作が実を結んだとは限らない。(p.182-183)


 そういえば、日ソ国交回復交渉においても、重光には外務省の独断で事を進めようとする傾向があった。

 とはいえ、著者も留保を付けているように、繆斌工作が成功したとは限らない。というより、繆斌の末路から考えても、成功する見通しがあったとは到底思えない。
 小磯や緒方が繆斌工作に固執したことは、かえって降伏を遅らせたと見るべきではないか。

 東久邇宮内閣における閣内対立について。

 組閣は、首相、近衛、緒方の三人の協議で進められた。近衛の秘書官になった細川護貞の日記によると、首相と緒方が主としてあたり、近衛がこれを助ける形だったが、互いに自分の意中の候補を出すことを遠慮しあったふしがあるという。
〔中略〕
近衛は副総理格の国務大臣、緒方は書記官長〔現在の内閣官房長官に相当、ただし国務大臣ではない〕だったが、焦点は、米国との今後の交渉の矢表に立つ外相を誰にするかであった。
 首相は、はじめ東郷の留任を求めた。しかし東郷は、自分が開戦時の外相だった経歴を理由に強く辞退し、有田八郎を推した。有田は即答をさけ、近衛と相談する許可を求めた。そして、別室に入り、やがて出てくると、近衛ともども重光を推した。
 繆斌工作からまだ半年もたっていなかった。しかし、首相は即決し、重光を呼び出した。重光は〔中略〕
「〔中略〕とくに注意していただきたいのは、全ての交渉は一途に外務当局を通して行うことです。これが行われないと、思わざる結果を生ずると思いますので、この点がお約束いただけるなら外務大臣をお受けいたします」
 といった。
 首相はそれを了承した。
〔中略〕
 緒方は内閣の番頭として、夜遅くまで激務をこなした。首相の演説の草稿に目を通し、ときには筆をとって補正した。首相秘書官は、朝日の記者だった太田照彦だった。〔中略〕
 こうした人的配置をみると、首相・書記官長サイドと、外相および木戸内大臣、近衛サイドとの間に、微妙な緊張をかもし出す要素のあることがわかる。
〔中略〕
 間もなく、両グループの対立が浮き上がってきた。
 米軍との交渉を担当する「終戦連絡事務局」の問題である。
 重光は、外務省の専任機構たらしめることを主張した。こういうときこそ、外交一元化が絶対必要だ、といった。
 首相と緒方は、内閣直属を計画していた。この局は、単なる外交ではなく、国体(天皇制)、産業復興、その他を扱う。それを考えれば、外務省に一任するわけにはいかない、というのである。
 近衛が仲に入って、問題は誰を責任者にするかである、と両者を妥協させた。
 緒方らは、池田成彬を選んだ。池田は固辞した。
「自分は人嫌いをしない方だが、重光君だけは困る」
 というのだ。どうやら根は深いようであった。
 翌日、重光が辞表を提出した。

 首相の東久邇宮と外相の重光との間に、意思の疎通を欠くものがあったことは、両者の手記を比べてみれば明らかである。
〔中略〕
 〔降伏文書調印を終えた九月〕二日の夜、重光が帝国ホテルで寝ようとしたところへ、終戦事務局長官の岡崎勝男がやってきて、重大情報をもたらした。占領軍司令部は、日本に軍政を布告することに内定して、その布告文まで用意してあるというのである。
 重光は三日の早朝宿舎を出発して横浜へ行き、マッカーサーと参謀長のサザーランドに会見して、アメリカ側の真意を確かめた。軍政を行うことは、日本政府の存在を否定することであり、また、ポツダム宣言の違反にもなる。
 重光によると、マッカーサーは彼の話を聞いて「よくわかった」といい、サザーランドが「命令を取り消しましょう」といって電話で部下に指示を出したことになっている。そして帰京後に首相に報告、午後七時に参内して天皇にも報告した。
 一方、細川によると、これは岡崎が米軍参謀の一人から入手したもので、マッカーサーは下僚が勝手にやったものだといって撤回したことになっている。(p.187-194)


 この軍政撤回を重光の功績ととらえる向きがあるが、本当にそこまで準備されていたのなら、重光の抗議一つで覆ったとは考えがたい。ポツダム宣言の内容に照らしてもおかしい。マッカーサーが言うように下僚が勝手にやったことか、或る種のブラフだったのではないだろうか。

 そんなことがあって、岡崎機関つまり外務省内に設けられた終戦事務局に不信の声が生じ、近衛は、幣原喜重郎を国務相にして、この役をやらせようと考えるに至った。しかし幣原は承知しなかった。
 そのことがあって以来、重光は何回か総司令部を訪れたが、マッカーサーは重光には会わず、サザーランドが出てきて重光の話を聞いた。
 首相の方は、マッカーサーが日本にきたときから、会見する必要を感じて、重光に伝えたのだが、重光は、まだその時期ではありません、といって、首相の意向をマッカーサー側に連絡しなかった。
 ところが、首相秘書官の太田照彦が九月十四日に横浜の総司令部へ別の要件で行ったとき、マッカーサーの副官にそれとなく聞いてみると、マ元帥は首相のくるのを喜んで待っている、という返事だった。
 そこで東久邇宮は九月十五日に太田を連れて横浜へ行った。宮はフランスに七年留学してフランス語は堪能だったが、英語は使えなかった。そこで、緒方、太田のルートで、朝日新聞の鈴川勇を通訳として同行した。鈴川は朝日きっての英語の練達者だった。
 〔中略〕
 重光は、この首相の訪問を個人的なものだ、としている。首相と司令官の公式会見であるならば、外相が立ち会うべきだし、通訳は外務省の人間でなければならない。が、外相にも知らされず、通訳に至っては民間人が用いられるような会見は、正式の記録が残らないわけだから、私的なものとみなすことになるのだ。
 形式論では、重光のいうことは正しいであろう。しかし、そういう日本政府内部の事情や対立は、アメリカ側には関係がない。東久邇宮が個人として総司令部を訪問してきた、とみなすはずはないのである。また、首相の側からいわせれば、総司令官と政府の最高責任者との会見は緊急に必要なことであるにもかかわらず、外相はそれを妨げようとしているかのようである。だから、形式はどうであれ、実質を重んじたのだ。
 当時の憲法からいえば、各省大臣は、その職務について天皇に対して直接に輔弼の責任を負っている。重光としては、外交一元化の建前からしても、マッカーサーとの交渉は外相に一任さるべきだ、と確信していた。また、外務省は、政府の表玄関であり看板にひとしいものである。つまり、外国に対して日本の主権を代表している。首相や緒方がいうように、外国(この場合は総司令部が唯一のものである)と折衝する機関を内閣の直属にすることは、外務省が対外関係の窓口機関であることを否定するようなものとある。さらに、そういう直属機構が生れれば、外務省不用論が出てきて、それは外務省が政府の表看板ではないことになり、日本側でみずから主権否認をするにひとしいことになる。外務省がすべてに出しゃばるつもりはないが、外務省の職責をなくすようなことを、日本側がすべきではない――と重光はいうのだ。
 首相や緒方にいわせれば、これは偏頗な考え方だった。
 首相、緒方だけでなく、どの省もアメリカが何を考えているかを知りたいと思っている。その情報を外務省に独占させたのでは、自分たちの仕事にさしつかえる。
 現に、首相と総司令官との会見を、外務省はいつまでたってもセットしなかった。こんなことでは先が思いやられる。
 このころ、総司令部は焼け残った建物を徴発しはじめ、大蔵省もその対象となった。蔵相の津島寿一は、何とか解除してもらうよう重光に依頼したが、総司令部は徴発した。津島は、重光を無能であると、正面切って非難した。
 重光は、東久邇宮がマッカーサーと会見した日に、内閣改造を進言した。閣僚の中に戦争遂行に責任があって戦犯に指定されるようなものがいては、新生日本への脱皮は不可能だし、アメリカの新聞もそれを指摘している。ポツダム宣言の実行のためには、戦争に責任のない新しい人を当てなければ、不慮の事態が起こりかねない。
 重光によると、首相は、至極賛成である、と答えたにもかかわらず、十七日に呼ばれると、改造はしない、それより外相に辞めてもらいたい、といわれて、そくざに辞表を出すことにしたという。
 が、首相サイドは反対のことを記録している。そして、重光は全閣僚から反感をもたれていた、というのだ。
〔中略〕
 重光にその気があれば、首相の要求をつっぱねて内閣を倒すことができたろうが、潔く彼は去った。(p.194-197)


 重光については、外交官としては優れていたが、政治家としては劣っていたという評価があるが、この閣内対立にもそれが現れているように思った。