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ハル・ノートは開戦を決定づけたか

2010-12-20 00:13:33 | 大東亜戦争
 私はしばらく前まで、「ハル・ノート」が開戦を決定したのだと理解していた。

 わが国は米国と戦って勝てるとは必ずしも考えていなかった。東條内閣は対米強硬派である陸軍のトップを首相に据えることにより陸軍を抑えることを意図した避戦内閣だった。
 しかし米国は妥協の姿勢を見せず、さらにわが国にとって苛酷な条件である「ハル・ノート」を突きつけてきた。これを受諾することはわが国にとって座して死を待つに等しいものであると当時の指導者は考えた。わが国はやむなく開戦を決意するに至った。
 概略このように考えていた。

 しかし、近年、

・須藤眞志『真珠湾〈奇襲〉論争』(講談社選書メチエ、2004)
・井口武夫『開戦神話』(中央公論新社、2008)
・別宮暖朗『誰が太平洋戦争を始めたのか』(ちくま文庫、2008)

といった本を読んで、どうもこうした理解は真相と異なるのではないかと思えてきた。
 「ハル・ノート」が来ても来なくても、わが国は開戦に踏み切っただろう。「ハル・ノート」は開戦への流れの中で最後の一押しをしたにすぎないのではないだろうか。
 ただ、その内容が当時のわが国の指導者にとってあまりに衝撃的であったために、「ハル・ノート」こそが開戦の元凶であるかのように受け取られたのではないか。
 そして、そうした主張が東京裁判などで被告・弁護側から展開されたために、一般に浸透したのではないか。
 そう考えるようになった。

 重光葵の『昭和の動乱』下巻(中公文庫、2001)に収められている資料の中に、12月1日の御前会議の決定がある。

十一月五日決定の帝国国策遂行要領に基く対米交渉遂に成立するに至らず
帝国は米英蘭に対し開戦す


 「十一月五日決定の帝国国策遂行要領」とは何か。
 これも同書に収録されている(収録部分では「帝国国策要領」となっている)。

 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設する為此の際対米英蘭戦争を決意し左記措置を採る
 一、武力発動の時機を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す
 二、対米交渉は別紙(甲案、乙案)に依り之を行う
〔中略〕
 五、対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す


 これに従ってわが国は11月7日甲案を提出し、さらに11月20日乙案を提出した。
 これに対して米国が11月26日に提出してきたのが「ハル・ノート」である。

 乙案がわが国として可能な最大限の譲歩だった。
 これに対して米国は原則論に立ち仏印のみならず中国(満洲含む?)からの撤兵、汪兆銘政権の否認、三国同盟の死文化(太平洋地域における)といった苛酷な要求を突きつけてきた。
 交渉妥結に尽力していた東郷茂徳外相が「眼も暗むばかり失望に撃たれた」と回顧しているのも当然だろう。

 だが、「ハル・ノート」は決して最後通牒ではない。
 最後通牒とは、コトバンクの「デジタル大辞泉」によると、

1 紛争当事国の一方が、平和的な外交交渉を打ち切って自国の最終的要求を相手国に提出し、それが一定期限内に受け入れられなければ自由行動をとることを述べた外交文書。
2 交渉の決裂も辞さないという態度で、相手に一方的に示す最終的な要求。「―をつきつける」


と定義されている。外交上は1の意味で用いられるのだろう。
 しかし、「ハル・ノート」は、米国の要求が「最終的」であるとも述べていなければ、期限の設定も自由行動をとる旨の記述もない。のみならず、冒頭に「試案ニシテ拘束力ナシ」と述べられているという。
 したがって、最後通牒の形式を満たしていない。

 それは形式面のことだけであって、実質は米国はこれ以上わが国との交渉を続けるつもりはなく、戦争を覚悟していたという反論があるかもしれない。そのとおりであって、上記の2の意味での最後通牒とは言えるだろうと私も思う。

 しかし、そうした最後通牒「的」な文書を受け取ったからといって、受け取った側が(文書を発した側ならともかく)戦争を始めなければならないとは言えない。
 何故わが国は戦争を始めたのか。それは、あらかじめ12月1日午前0時までに交渉が成立しなければ開戦すると決めていたからである。
 では何故わが国は自ら期限を設定したのか。それは、そのころまでに開戦しなければ、わが国の石油の備蓄がさらに失われる一方、米国が兵力の増強を進め、将来開戦した場合に戦闘がますます困難になると考えたからである。
 わが国が一方的にそう判断したのである。米国が交渉期限を切ったのではない。

 「ハル・ノート」は確かに苛酷な要求ではあったが、わが国が交渉の期限を設定していなければ、さらに交渉を試みるという選択肢も有り得た。あるいは欧州の情勢を展望するという選択肢も有り得た。
 それをしなかったのは、わが国があらかじめ開戦の意志を固めていたからである。
 「ハル・ノート」は受諾できなかった、だから開戦したという理屈は、その点を、意識してか無意識のうちにかは知らないが、無視している。
 
 「ハル・ノート」はわが国の開戦決意を後押しはしたが、決定的要因ではなかったというのが、現在の私の理解である。