蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

誠心誠意の生涯―最後の幕臣・川路聖謨(としあきら)のこと―

2006-05-29 11:33:39 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
5月28日(日)曇りのち夕方薄日差す。朝15度、午後暖し。

  『村人がどんな食事をしているのかと思い、朝夕の食べ物をださせたところ、…そば殻と冷えの粉のなかに、ほんの少し米を混ぜただけのものであった。…豆粒ほど口にいれてみたが、とても呑みこめるものではなかった。…私たち役人の着物、食物(給料)は、全てこのような暮らしの中から絞り集めた民の膏(あぶら)である。そのことを思えば一文たりとも無駄にはできない。』

  これは、幕末、日露和親条約締結の日本側全権(外国奉行)として、ロシア帝国プーチャーチンと困難な交渉を重ねる中で、プーチャーチンからその誠実かつ豊かな人間性と知性を高く評価され、幕府瓦解に際しては、引退して中風の身でありながら、家人に悟られないように用心しつつ、割腹の上、ピストル自殺により劇的な生涯を遂げた、幕臣・川路聖謨(1801~1868)が、若き日、佐渡奉行を命じられ、島内巡検の見聞を、母に書き送った日記「島根のすさみ」(東洋文庫刊)に出てくる一節である。

  彼はまた、こうも書いている。
『十三万石の領内の民百姓の暮らしの良し悪しも、自分の心がけ(施政)にかかっている。たとえ衣類一枚ぬすまれたと訴え出る者があれば、それは自分の日頃の心配りが足りないのだ。そう思うと少しも油断はできず、心を休めている暇はない。』と。

  私は、無責任な政治家や、公務員の腐敗、堕落事件が報じられるたびに、パブロフの条件反射の犬ではないが、誠実無比な幕府官僚であった川路聖謨のことを思うのである。
 どうして、この人物のことを、松下政経塾(?)や特に公務員の研修で必読の書として普及させないのかと、甚だ残念に思う。この人物の言行が頭の隅にほんの少しでもあれば、破廉恥は言わずもがな、無責任なことはできなくなるのではと思うのだが。

  敢えて言えば彼の姿勢が立派すぎて、講師自身が、わが身に比べて恥ずかしくなり、それで敬遠されてしまうのかもしれない。
 私自身にしたって、もし彼の部下だったら、ちゃんとどの辺まで付いていけたかどうか心許ないのが正直なところである。

  彼自身も言っている。自分の心に適う家来はなかなかいないと。今の我々が時代劇なんかで見る侍社会は、上司の命令一つでどうにでもなるように思うが、いつの時代も組織の中の人間関係は面従腹背が幅をきかせていたようである。

  私が、川路聖謨のことを知ったのは、昔、大仏次郎の長大な小説、「天皇の世紀」で、実に魅力的な人物として描かれているのを読んでからだ。そして彼に関する本が他にもないかと探した。この「島根のすさみ」は、その中の一冊である。

  幕末の著名人でも、他人が書いた伝記の類は多いが、本人が自分の手で自分の言葉で書いた著書は甚だ少ない。百年余り前のそれも候文のため、直ぐには少々意味の取りにくいところもあるが、一字一句に著者の息遣いまで伝わってくる。実に当時の時代の雰囲気までもが、リアルにドキュメンタリーとして、こちらに見えてくるのである。

  川路聖謨という人は、多忙にも関らず実に筆まめなひとで、女性的なほど心細やかな人柄であったようだ。
そして、今なら確実に、偉大なブロガーになったのではないかだろうか、なんて想像させられるほどである。

  幕末というと、近頃、近藤勇や土方歳三の新撰組ばかりが取り上げられるが、あんな連中は、時代遅れの、暴れん坊の、ドサクサまぎれの、一旗狙いの、殺戮集団(近藤等は士道にもとるとしては、連合赤軍並みに仲間を処刑しておきながら、自分はおめおめと流山の米屋の土蔵に隠れているところを切腹もできずに、ひっ捕まって千住で打ち首獄門の体たらく)と極言したら、どこからか闇夜の礫が飛んでくるだろうか?。
  こんな人物を美化して大河ドラマに仕立て上げた、NHKや三谷何とかの気が知れないというもんだ。おや、これはとんだ脱線をしてしまった。

  それよりも、この川路聖謨とか、罪無くして謀殺・虐殺されたに等しい気宇壮大な構想力と実行力に富んだ幕末幕府官僚、小栗上野介(1827~1868)のことをもっと多くの人に知ってもらいたい。そして、今の政治家、偉いお役人様にはゴルフなんかしている暇があったら、川路聖謨の著作でも読んでつめの垢でも煎じて飲んでもらいたいものだ。
と、思う今日この頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?。

 ー追記ー

 川路聖謨著作:他に「長崎日記・下田日記」、「東洋金鴻」いづれも東洋文庫(平凡社)
 小栗上野介:最後の幕臣ー小栗上野介 星亮一著、中公文庫

■ 川路聖謨補遺: 豊後国日田(大分県日田市)の幕府代官所下級吏員、内藤歳由の次男に生まれる(1801年)。12歳のとき江戸に出て、幕府御家人、川路家(小普請組、90俵三人扶持)の養子となる。勉学に励み「日ごとに未明より出で、暮れに帰るがごとく奔走」し、18歳のとき、勘定所の筆算吟味役に合格(財務省、初級試験に匹敵か、今でいうノンキャリアである)、その後は才能を認められてとんとん拍子に出世、最後は幕府閣僚にまでなる。しかし、晩年は将軍継嗣問題で井伊直弼の逆鱗にふれ、蟄居を命ぜられ不遇の内に中風に倒れ、1868.3.15官軍の江戸城総攻撃の報を受け、家人は避難させ自分だけは麹町の屋敷に残り自決したのである。
 私が、彼を尊敬するのは、自らの出身階層を生涯忘れず、彼なりに既成制度の枠の中で庶民(被治者)のこと国家利益を常に頭に置いて公務に生きた人物だからである。
 これに比べ、スケールの違いはあるが、太閤秀吉なんかは、自分の出身階層のことなんか振り返りもせず、むしろ自分の出自を美化し、いかにすれば百姓を押さえ込めるか、自らが良く知る百姓の弱点を逆手にとり(刀狩、太閤検地等)、あまつさえ無知無謀、誇大妄想の朝鮮への海外出兵で、内外の人民を塗炭の淵に追い込んだ暴君でしかなかったのではないか。
 謂わば、自己の出身階層の裏切り者でしかなかった。こんな人物の本質を見ずして、その人生行路の上昇過程だけに目くらまされて、今も拍手喝采する人々の気が知れないと思うのだが。
 そして、今もこの手の成り上がり者が、跋扈跳梁して止まないのは、皆様ご承知のとおりである。
 (5月29日、追記)