蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「国家と国民」―その擬制の欺瞞性(?)について考える!―

2001-01-01 07:18:48 | 時事所感
9月21日(木)晴れ。日中暑し。

  政権党、自民党新総裁にして今や次期内閣総理大臣閣下にご就任遊ばされた、安倍晋三氏の著書「美しい国へ」を、手にして、今、私は「国家」というものと、「国民」との関係について、思わず改めて、頬杖ついて考え込んでいる。

 そして思わずふと無関係に浮かんだイメージは「黄の蝶の 尊(タット)かりけり 唯一頭」―蛾遊庵山人、駄句―ということである。

 つまり、私たち地上を這いずり回る一生物体としての人間を、神様の視点か何かに立って、天空から眺めた見た場合、一々にこれは、日本人、これは中国人、これはアメリカ人なんて区別がつくだろうかということである。
 
 私たちは、気が付いてみたら、勝手に戸籍登録されて、日本人という両親の慣れ親しんできたカテゴリーの中に本人の知らぬ間に組み込まれてきたにすぎないではないかということである。その結果として、本人の意思とは無関係に、「日本人」に色分けされてしまったのである。

 勿論、結果的には、私自身は、日本人とされたことに格別の異議を唱えるものでなんかは毛頭ない。否、今世界中の多くの国々の有様を見るにつけ、この日本人であることの有難さを色々の面で日々実感ささせられていることがどれだけ多いことだろうか。

 その意味で私は、十分に自分がどこの何方様かの赤に他人様に言われるまでもなく「愛国者」の一人だと確信するのである。

 だが、しかし、国家と国民の関係に立ち返って考えてみた場合、私は国家の一員として、何をしなければなならないのだろうか?国家は私に対して、一国民としてどのような程度の犠牲・義務を求めうる権限を有するのかということである。反対に国家は私に何をしてくれ、それはどこまで確かなものとして、私は期待し得るのか、このことである。

 先日の、NHKで放送のあった、満州開拓団の国家による棄民に均しい行為について、日本国家を相手にして訴訟を起こした、満州移民開拓残留孤児の内海氏たちの訴えに対して、司法は、国家の責任を認めなかった。
 さらにあの戦争で国家が国民に血の犠牲を求めてまで、約束した戦争の結果は何だったのか?

 そして、今、問題の国民年金保険制度への国民の素朴な不信感、これは同時に日本国家への不信感そのもではないだろうか?

 国家が国民に対して一種の不渡り手形を渡しておいて、いけしゃあしゃあとして、次なる犠牲を求める国家権力とは一体なにものなんだろうか?

 閑話休題、ここでふと思い出すのは家内の母の言葉である。「お上なんてあてにならない。」このことである。義母は「おしん」同様、禄な教育も受けることもなく人生の辛酸を舐めた。しかし、10人近い子を設けて育て上げ、夫の定年後は、ほそぼそ始めた布団打ち直しの内職仕事を発展させ、布団店を開き繁盛させた。そして老後は子供たちの世話になるどころか、いくばくかの遺産まで残して無くなった。国民年金保険の恩恵なんてほとんど蒙ることはなかった。文字通り、日本国家が無謀にも始めた戦争の結果、東京大空襲で最愛の長男を行方不明で失いこそすれ、何一つお上の世話になることなくその生涯を終えた。そして、その長男の死に対して、日本国家からは、悔や状の一つも、一円のお悔やみ料も支給されることは未だにない。

 現在の、国民年金保険の不安定さ、さらには先の大戦で貧しい国民の無知蒙昧(?)につけこんだかの満蒙開拓の夢売り詐欺に均しい国家施策(?)の犠牲者。彼らは、何故、泣き寝入りしなければならないのだろうか?

 国家と国民、そこに何の明示の契約書は存在しようもない。だが、だからといって、国家は国民に、何時も空手形でその場を誤魔化すことが許されるのだろうか?

 国家はしばしば、国民に対して、血の犠牲を求めるが、そんなことを何故当然のこととして国民に要求できるのだろうか?そして、国民は国家のそのような無体な要求をどこまで拒否できるのだろうか?
 さらには、国家の見込み違いに対して、どこまでその責任を追及しうるのか?
国家と国民、その間については、考えさせられることが真に、余りにも多すぎるのではなかろうか。

 そして、今こそ、この「国家と国民」という擬制のもつ欺瞞性について、一人の地球上に生を受けた人間として、生物として、改めて考えなおしてみる事は、決して無駄な暇つぶしにはならないのではないだろうか?

 私は、今、「美しい国へ」なんて乙女チックな甘ったるい語り口を耳にすると、あの破滅への小道へ誘い込むハメールーンの笛吹き男の笛の音に聞こえくるような気がするのだが、それは私の空耳だろうか?

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?
 
―参考―

国家
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国家(こっか、英:state、独:Staat、仏:état、伊:stato)とは、一定の土地または領域と人民とに排他的な統治権を有する集団もしくは共同体のこと。
目次
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• 1 国家の語源
• 2 国家の概念
• 3 国家の起源
• 4 法学上の定義
o 4.1 国家の三要素
o 4.2 現代的な基準外の国家
• 5 様々な国家論
• 6 関連項目

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国家の語源
漢語における「国家」は、諸侯が治める国と卿大夫が治める家との総称で、特定の境界を持つ支配地・支配民を意味した。対語は、いかなる限定もされない支配地と支配民、つまり「天下」である。支配機構を出発点にする方向性は西欧の国家概念と同じだが、支配の対象である土地と人民を含む点で、微妙なニュアンスの違いを持つ。西欧語と同じく支配機構に限って論じる場合も多いが、日本産の政治思想では(上から統制することに重点をおきつつも)政治共同体として国家を扱うことも多い。
西欧各言語の語源はラテン語の「status(スタトゥス)」である。イタリア語の「stato」は「状態」という意味だが、マキャベリが、lo stato「かかる(その、こうした)状態」を 「現在の支配体制」という意味に転用して今日の内容を持つようになった。
日本語においては、国と同義にも用いられる。この場合、一定の領域内に住む人間集団が作る政治的共同社会を指す。通常国民と訳される「nation」は、団体的側面を強調したり、他「nation」との関係を強調したりする文脈で用いられるときには「国家」と訳すことがある。
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国家の概念
マキャベリは、政治共同体がはじめにあり、次いでそれに対応した支配機構が作られるというそれまでの政治思想の想定を、近世ヨーロッパの現実に即して逆転させた。マキャベリは「君主論」において「国家」における君主の有様を論じ、「政略論」においてローマ史に即して共和制国家における国民について論じた。まず支配機構たる「国家」があり、それが各々の力に応じて土地と人民を領有する。
このようにして、政治共同体の要素をそぎ落として把握した支配機構が「国家」である。
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国家の起源
国家の起源には諸説あり、定説はないと言っていい。それは国家が、特に現代においては、多様であり、ひとつのモデルで説明しきれないことを表している。しかし、国家を静態的ではなく、動態的に捉えることは非常に重要である。動態的な国家起源のモデルを設定してそれを理念型とすることで、多様な国家の成り立ちをよりよく理解することができるようになるからである。
国家起源の動態モデルとして最も有用なのがカール・W・ドイチの説である。
ドイチは国家の起源を社会的コミュニケーションの連続性から説明する。彼によれば、国民(nation)とは次の2種類のコミュニケーションの積み重ねの産物である。すなわち、第1に、財貨・資本・労働の移動に関するものである。第2に、情報に関するものである。西欧における資本主義の発展に伴って、交通や出版、通信の技術も発達し、これら2種類のコミュニケーションが進展し徐々に密度を増すと、財貨・資本・労働の結びつきが周辺と比較して強い地域が出現する。ドイチはこれを経済社会(society)と呼ぶ。また同時に、言語と文化(行動様式・思考様式の総体)における共通圏が成立するようになる。ドイチはこれを文化情報共同体(community)と呼ぶ。日本のように経済社会と文化情報共同体が重なり合う例も存在するが、この2つは必ずしも重なり合うとは限らない。現在でも、複数国家で共通の言語が使われている例は珍しくない。一定の地域である程度のコミュニケーション密度が長期間継続すると、そこは「くに」(country)となる。そして、そこに住む人たちが「民族」(people)と呼ばれるようになる。この「民族」(people)が自分たち独自の政府(government)つまり統治機構(state)を持ちたいと考えた瞬間に「民族」peopleは「国民」(nation)となるのである。people、nationをともに「民族」と訳さざるをえない場合があるのは日本語の社会科学概念の貧困に由来する。ちなみに、民族自決を英語でself-determination of peoplesというのは以上のような思考過程を表すものと考えられる。
こうした「民族」(natoin)あるいは「国民」(nation)が実際に政府を樹立し成立するのが「国民国家」nation-stateなのである。
現代における国家は必ずしもこうした理念型に合致するものではない。まともなコミュニケーションの進展も存在せず、それ故、「国民」(nation)と呼べる実体が全く不在の場所に国家(state)だけが存在するという場合もあれば、ひとつの国家(state)の中に異なる政府の樹立を求める民族(nation)が複数存在する場合もある。ヨーロッパにおいては、これまでの国民国家(nation-state)を包括するような大きな主体の出現が議論されている。それに対して、さらに細分化された民族peopleが自らの政府の樹立を望んで国民nationとなろうとしているようにも見える地域も無数に存在している。こうしたことはEUの発展するヨーロッパにおいても見られる。
静態的な国家論だけでは国家を捉え切ることは非常に困難であると考えられる。
参考文献 Karl W. Deutsch, Nationalism and Social Communication, The M.I.T. Press, 1966
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法学上の定義
法学・政治学においては、以下の「国家の三要素」を持つものを「国家」とする。これは、ドイツの法学者・国家学者であるゲオルク・イェリネックの学説に基づくものであるが、今日では、一般に国際法上の「国家」の承認要件として認められている。
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国家の三要素
• 領域(Staatsgebiet:領土、領水、領空)- 一定に区画されている。
• 人民(Staatsvolk:国民、住民)- 恒久的に属し、一時の好悪で脱したり復したりはしない。
• 権力(Staatsgewalt)ないし主権- 正統な物理的実力のことである。この実力は、対外的・対内的に排他的に行使できなければ、つまり、主権的で(souverän)なければならない。
このモデルにおいては、国家とは、権力が領域と人民を内外の干渉を許さず統治する存在であると捉えられているのである。領域に対する権力を領土高権(Gebietshoheit)、人民に対する権力を対人高権(Personalhoheit)という。国際法上、これらの三要素を有するものは国家として認められるが、満たさないものは国家として認められない。この場合、認めるか認めないかを実際に判断するのは他の国家なので、他国からの承認を第四の要素に挙げる場合もある。
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現代的な基準外の国家
なお、以上のような要件を満たさない支配機構や政治共同体も存在しうる。上記の国家は近代の歴史的産物であり、それ以前には存在しなかった。例えば前近代社会において、しばしば多くの国家が多様な自治的組織を持つ多種多様な人間集団、すなわち社団の複合体として成立し、中央政府機構はこれら社団に特権を付与することで階層秩序を維持していた。こうした国家体制を社団国家と称し、日本の幕藩体制やフランスのアンシャン・レジームが典型例として挙げられる。
こうした社団国家においては個々の社団が中央政府機構からの離脱や復帰を行う現象が見られ、また江戸時代の琉球王国が日本と中華帝国(明もしくは清)に両属の態度をとっていたように国民の固定化は不完全であった。当然、社団の離脱、復帰に伴い領域も変動しえた。
さらに権力に関しても、幕藩体制における各藩が独自の軍事機構を持ち、幕府の藩内内政への干渉権が大幅に制限されていたように、決して主権的ではなかった。
現代社会において近代国家の表看板を掲げていても、アフガニスタンのように内部の実情は複数の自立的共同体が必ずしも国家機構の主権下に服さずに国家体制の構成要素となっている国家は存続している。今日の国際関係は、近代的主権国家間の関係を前提として成立しており、こうした国家の存在は様々な紛争の火種を内包している。さらに、この問題は同時に、近代的主権国家の歴史的な特殊性の問題点を投げかけているともいえる。
国家と対立する、テロまたはテロ国家の概念が、イラク戦争や、アメリカ同時爆破テロ以降問題になりつつある。
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様々な国家論
• 多元的国家論
• 階級国家論(マルクス的国家論)
• 有機的国家論(国家有機体説)
• 夜警国家論(夜警国家)
• 福祉国家論(福祉国家)
• 行政国家
• 兵役国家
• 王権神授説
• 国家理性
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関連項目
• モンテビデオ条約 ( 国家の権利及び義務に関する条約 )
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国民
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その他の国民については国民 (曖昧さ回避)をご覧ください。

国民(こくみん)とは、国に属する個々の人間を指す場合と、国に対応する人間集団をまとめて指す場合とがある。
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国民:国籍を持つ人 (national, citizen)
個々の人間を指す場合、国民とはある特定の国において、その国の国籍を持つ者をいう。国民と対比して、その国の国籍をもたないものを外国人という。
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国民:政治共同体 (nation)
何らかの共通属性を根拠にしてまとまった広域の政治的共同体を、集合的に国民と呼ぶこともある。国民は、居住する地理範囲に一つの国家を作ることが予定される。そのような条件を満たす国家を、国民国家と呼ぶ。この意味での国民は、民族と重なる例が多いが、言語・文化にもとづかない国民もあるため、完全に同じというわけではない。
国民が持つとされる属性は、文化・言語・宗教・歴史経験など国によって基準が異なる。また、どのような基準をとっても国内外にそこから外れる人がでてくる。そのような逸脱に対しては、同化・排斥・領土拡大などの動きが生じる場合がある。
国民は、共通属性の産物ではなく、政治の産物である。国民の擁護者が出現し、その宣伝や教育が成功して、人々が自らを宣伝された区分での国民であると自覚したときに、国民が生まれる。ベネディクト・アンダーソンは以上のように説き、国民を「想像の共同体」と規定した。実際に、共通属性を持つ集団が国民意識を生まないことは非常に多く、スイスの例のように共通属性がないところに国民意識が生まれることも稀にある。
一方、対内的には、国民という概念は、政治を一部の特権者や有力者だけに関わるものとする考えを退ける。少なくとも観念的には、その範囲内のすべての人を身分、財産、能力等に関わらず政治共同体の中に含め、国家の行為をすべての人の共同行為とみなす。
それゆえ、国民という概念からは、ある共通属性から外れる人を排除し(場合によっては差別し)つつ、区切った範囲内においては人を平等化するという二重の作用が生まれる。このような国民を求める運動は、歴史的には、18世紀のヨーロッパで国民主義として始まり、20世紀には世界中に広まった。憲法において国民主権を定める国家において、国民は主権を有し、主に選挙権及び被選挙権を以って参政権を行使することができる。
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関連項目
• 国民主義
• 市民
• 公民
• 臣民
• 住民
• 人民
• 人々
• 民衆

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