蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

ブラジル映画「セントラル・ステーション」を視る。-すさまじいもう一つの現実!―

2006-05-10 01:20:34 | 日常雑感
5月9日(火)快晴。暖、朝16度、日中は真夏日。

  昨晩、NHK衛星第2で、偶々、ブラジル映画「セントラル・ステーション」(1999年製作)を視た。この映画、ベルリン映画祭で金熊賞を受賞し、主演の代書屋ドーラを演じたフェルナンダ・モンテネグロは主演女優賞を受賞したとか。それで、今頃、遅まきながらNHK様が、高いか安いかは人によって受け止め方が違う視聴料の見返りに放映してくれたわけだ。

 まあ、こんな悪態はともかく、視た後味は悪くなかった。

 ブラジルの首都リオデジャネイロの中央駅の通路で、代書屋を営む老女ドーラ、彼女は人生にもう何の期待も希望も持ってはいない。その日その日の糧を稼ぐために、文字の読み書きができない通りがかりの通行人相手に、代書してやるのである。(昔の渋谷の恋文横丁を思い出した。といっても聞きかじりだが)1件1ヘリアル。日本円の感じでは100円ぐらいか。投函までを依頼すると2ヘリアル。しかし、彼女は頼まれた手紙を態々切手をはってまでは出してなんかやらない。持って帰って大概は、自分の部屋のゴミ箱に捨ててしまうのだ。届かないのは不確かなブラジル政府(?、民営化されているのかどうか)郵便制度の所為(せい)にするのだ。

 そんなしたたかな彼女が、ある日一人の少年(10歳ぐらいか)を連れた母親から、別れた夫にこの子が父親に会いたがっているから連絡がほしいという手紙を書いてくれと頼まれる。
 ところが、その直後母親はバスに轢かれて病院に運ばれてしまい、子供だけがその場に残されて途方にくれている。

 それを見たドーラが珍しく仏心を起こして自宅に連れ帰る。しかしその後どうしていいか分からない。やむなく人に聞いた里親斡旋業者のところへ連れていく。子供を引き渡した謝礼に業者から1000ドルを受け取る。彼女はそれで帰途、前から欲しかったTVを買い換えて悦にいっている。

 そこへ、唯一らしい隣室の友達の女(娼婦か何からしい)が帰ってきて、夕べの坊やはどうしたのと詰問する。ドーラは答える。「里親紹介所へ連れて行った。あの子はお金持ちのところへ行って幸せになれるのよ。この国の教護院へ連れていくよりも幸せになるのよ」と答える。

 友人の女が言う。「あんた、何言ってるのよ。その子達、臓器移植業者に売り渡されるのよ。そのTVどうしたのよ。その子を売り渡したお金で買ったんでしょう!。あんた、そんなことすると後できっと後悔するわよ」と。
 
 翌日、ドーラは業者を訪ね、うまく騙して、いぶかり、あんたなんか大嫌いと叫ぶ男の子の口をふさぐようにして連れ戻しに成功する。

 それから、ドーラと少年の、母親から預かった手紙の父親の住所を頼りに、長いバスの旅が始まるのだ。
 
 しかし、ようやく尋ねあてた住所には、他人の家族が住み、父親らしき男はとっくにほかへ移って行ったと聞かされる。

 そこから、また僅かな噂話を頼りに、新たな旅が始まる。ドーラの持金も尽きる。無一文になる。雑貨屋で食べ物の万引きする。店主に鋭く問い詰められる。しかし、運良くヒッチハイクの二人を拾ってくれた、親切なトラック運転手の機転で救われる。しかし、その運転手の優しさについ女心を目覚めさせたドーラが擦り寄ろうとしたため、運転手からもおいてきぼりをくう。

 またまた、ピンチである。しかし、いい塩梅に、ある村で巡礼の大群衆に会う。そこで、少年の発案でにわか代書屋を始める。大当たりする。危機を脱した二人。

 最後に、もうあきらめて、二人で明日のバスでリオに帰ろうかというとき、偶然通りかかった若者が異母兄弟と分かる。しかし、父親は、少年の母親を尋ねてリオへいったきりだという。
 その晩は、兄弟の家に泊まる。少年は異母兄弟に挟まれて仲良く寝ている。

 それを見届けて、ドーラは、少年が買ってくれた(代書屋の成功でドーラが少年に渡した小遣い銭)ドレスを着て明け方のバス停に向かう。バスが発車する。ドーラの居ないことに気づいた少年が飛び出してきて必死にバスを追っかける。

 バスの中で、ドーラが呟き涙を拭う。「ジョゼエ(少年の名)は、いつか自分のことを思い出してくれるだろうか?いや、大きくなったらすぐに忘れしまうだろう」と。

 渇ききった筈の人生に絶望していた老女の心に、つかの間の少年との触れ合いが、みずみずしい人間の愛の心を取り戻したというお話である。

 この映画、現在のブラジルのありのままの姿を描写しているという。これが、そうならすさまじい現実の社会が、この地球の反対側の世界にあるのだ。
 ストリートチルドレンをまさに攫ってきて、臓器移植業者に売り渡す商売があるのだ。
 サンドイッチを万引きして逃げた若者が追い詰められて「どうか殺さないでくれ!」と哀願するのも聞かずに、その場で追っ手らしき男たちにたちまち射殺されてしまっても当たり前とされるような社会。
 まさに、日本の人権尊重主義者が見たらその場で悶絶死するのではないかと思ってしまう。

 しかし、だからこそ、子供たちでさえもがたくましく、したたかに生き抜いていこうとする人間としてのエネルーギーに満ち満ちているようにも思える。10歳の男の子がドーラと同じベットの中でセックスがどうとか大人の会話をさらーとするのである。

 それに、反して、小学校はおろか中学生にもなっても、親が付き添わなくては、スクールバスが無くては、目と鼻の先の学校にも登下校できないほど、過保護な日本の今日この頃とは。
 そして、すぐに切れたとか何とか言って、他人だろうと肉親だろうと、一人や二人殺しても、死刑にするどころか、きっといい子に成る筈だからと、数年したら元の娑婆に熨斗つけてお返してくれる大甘づっこけ社会とは、一体何なんだろう?

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?。