蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「12月8日」開戦記念日は忘れられたのか?

2007-12-11 22:44:24 | 時事所感
12月11日(火)曇り後雨。

  このところ何かと慌ただしい日々。ふと、今日は何日だっただろうかとカレンダーを見る始末。これは、早、我が老耄の進行のしるしだろうか…。
  いや、そればかりではあるまい。これまで、12月の声を聞けば、ああ、12月8日、開戦記念日か。また、いろいろと新聞やメディアは煩いことだろうなーと、心積もりしていたのだ。
  ところが、今年に限って何故か、自身が忙しく飛び回っていたためか、一向に何も耳にも目にも入ってこない。
  そこで、一瞥して居間の隅に積み捨て置いた新聞の束から、12月8日付けの「朝日」を、今しがた取り出して改めて見た。
ところが、1面見だしは、「租税特別措置」民主「4割不合格」の活字が無機質にあるばかり。アレーっと、目を下にすべらすと、やっと僅かに「天声人語」にそれらしい記事が出ていた。

内容は、ジャネット・ランキンという方の紹介。彼女は、米国初の女性連邦議員で、信念に満ちた平和主義者として、日本軍の真珠湾攻撃に対する米国議会での対日宣戦布告決議に対して、只一人反対票を投じたそうだ。その結果、「売国奴」のレッテルを貼られ、二度と議員に選出されることはなかったという。

私は、初めて聞く話である。アメリカにもたいした方がいられたのだ。こういう話は、いつ聞いても嬉しい。

それにしても、我が同胞のみならず周辺アジアの何百万にも人々を、奈落の底へ突き落とすという引き金を引いた日のことを、こんなにも寂しく過ごしていいのだろうか。
少なからずの有識者はもとより、当の軍部においてさえも、彼我の国力、戦力を試算してみたら負けることが明白だったという冷厳な事実に、目をつぶり、一か八かの大博打にうってでたのだ。 
その当然の結果としての、惨憺たる敗戦。
もはや、皆んな、あんな嫌な思い出は忘れ捨てたいのだろうか。
聞き飽きた歳末風景のジングルベルの鐘の音が心なしか、この頃、少し下火になったように…。

しかし、その開戦記念日の3ヶ月前に、この世に生を受け、終戦の前の年に父を戦争で失った身には、開戦記念日からの今日までは、自分が生きて歩いてきた日々そのものである。

思えば、この間、父を失うというどん底から始まった我が人生は、今になれば、戦後の高度経済成長の上り坂とともに歩み、正直なところ、それなりに恵まれた世代であったように感じる。

そして今、ここのところ新聞を開き、TVを見れば上から下まで、ビックリ箱をぶちまけたようなことばかりである。
こんな有様を見るにつけ、わが子や孫たちの行く末を思えば、様々な不安材料ばかりである。

だが、これが、人間社会の当たり前の姿なのかもしれない。今日明日の暮らしに、須らく飢えの心配がない限り、人類滅亡の鐘の音を聞かない限り、人間は決して、お互いに他人に優しく、賢く、真剣には生きることができない生き物なのではないだろうか。

60数年前、無謀・無計算な戦争を始めた軍部。その者たちに巻き込まれたことを、忘れ去りたい多くの人々の中で、今また、似たような軍事組織は、亡霊のごとく蘇り、5兆円とかの国防予算に蟻の如く群れ戯れてる者たちが、跳梁跋扈しているらしい。
その者たちにとって「世の中が平和であること」は、何とありがたいことだろうか…。

<参照>
12月8日
対米英開戦記念日(太平洋戦争開戦記念日)
1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年6箇月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発した。
「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208」が船橋海軍無線電信所から送信され、戦艦アリゾナ等戦艦11隻を撃沈、400機近くの航空機を破壊して、攻撃の成功を告げる「トラトラトラ」という暗号文が打電された。
元々は、ワシントンで交渉していた野村・来栖両大使がアメリカ側に最後通牒を手渡してから攻撃を開始することになっていたが、最後通牒の文書の作成に時間がかかったため、事実上奇襲攻撃となってしまった。
アメリカ軍は「リメンバー・パールハーバー」を戦争遂行の合言葉とした。
www.nnh.to/12/08.html