蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

人生晩年の風景

2008-01-31 02:02:06 | 時事所感
1月30日(木)曇り後晴れ。寒気緩む。

  昨日の地元山梨日日新聞の社会面を見ていたら、『拓銀破たん 旧経営陣に賠償101億円 訴訟3件 最高裁判決 全5件が確定』なる見出しが目に飛び込んできた。
  
  記事には、『破たんした北海道銀行にずさん融資で損害を与えたとして整理回収機構が山内宏元頭取ら旧経営陣に損害賠償を求めた訴訟の3件の上告審判決で最高裁第二小法廷は28日、請求を全面的に認めた。機構が計14人を追及した5件の訴訟は終結した。総額101億4千万円に上る13人の賠償責任が確定した。…』とあった。

  他人様のことながら、人生の最晩年になってこんな高額な賠償責任を突きつけられたらどんな気持ちになるだろうかと想像せずにはいられなかった。

  これに類した事件では、旧足利銀行の経営陣が、その責任を問われ、一人当たり100万円を残して全財産没収、関係者はこれからの生活に途方にくれているとの新聞記事を見たのも、昨夏だっただろうか。

  かの高名なホリエモン氏や村上ファンド氏のようにまだ30台や40台の若さでなら、敗者復活も夢見られるだろうが、60、70台となっては、とてものことではないだろう。

  こんな記事を読んでいた手元に『座右の諭吉 才能より決断』(斉藤孝 光文社新書)があった。
  その1章に「極端を想像す」なる一文がある。
 そこには、福翁自伝の1節『元来私が家に居り世に処する法を一括して手短に申せば、すべて事の極端を想像して覚悟を定め、マサカの時に狼狽せぬように後悔せぬようにとばかり考えています。』が引用されていた。
  
  成る程、人生の達人の心構えはさすがである。
  このような心構えで一家のみならず、国家をも差配していただければ、先の大戦のような悲惨さも回避されたにちがいない。
 このような支配者の下ならば、国民はいかに安心して幸福に暮らせることだろうか。

 しかし、そのような心構えの大切さは大方の人間にとってごくあたりまえのことだろう。私とて頭の中では百も承知している。
  だが、それを実行するとなると、一体百人のうち何人ができるだろうか。私は駄目だった。
  そして今臍をかんでいる始末である。我が祖父もそうだった。壮年期には相応の財をなしながら、晩年は先の大戦の大波の中で全てを失い、惨めな生涯を終えた。
  それを幼心にも見ていながら、私もまた似たような老いの坂をころがりおちつつある。
  そのような我が身の視点から、冒頭の諸氏に課せられた重い責任を思うと決してそこに至った経過をあざ笑う気にはなれない。

 むしろ、我慢ならないのは、今、大方の国民がやりきれない思いにさせられている年金問題を発生させた厚生労働省や、社会保険庁の関係者の責任のほうこそ、一体誰がどのようにとらされるのかということである。
もれきこえくるところによれば、こちらの歴代最高責任者は、誰一人責任をとるどころか、天下りの梯子で億万長者様とか。
 同じ法治国家の国民でありながら、官と民との身の置き所の違いで天と地の差が出るとは、一体どういうことなのだろうか。
 こちらは、一人を殺したものは殺人犯で、万人を殺したもは英雄とされる人間心理の不可解さに溶解されていくのだろうか…と、老耄の頭を悩まされるばかりではある。
  
ところで、文中の『座右の諭吉 才能より決断』(斉藤孝 光文社新書)は、我が息子のマンションの居間に転がっていたのを何気なく拾ってきたものである。
 まだ30台の若さでこんな本を読んでいるとは、よほど親の生き行く姿が危なっかしげに思えたのだろうか。
 息子は我が轍は踏むことなく、安泰な晩年を迎えることは疑い無しのようである。
 愚昧な親としては、以ってせめてもの慰めとすべきかだろうか。






「テレビ朝日のうそ」!?…それでは、こちらはどうなのか?

2008-01-09 01:05:56 | 日常雑感
1月8日(火)晴れ、暖、三月上旬の気温とか。

 1月5日付け、『さるさる日記 - 佐藤立志のマスコミ日記』に、「テレビ朝日のうそ」として、要旨、次のような記事が出ていた。
 
  『コンビニ弁当が期限切れで廃棄されるのは、日本人の新鮮なもの好きによる。そのため日々膨大な食料が捨てられている。何と無駄なと言いたげなテレビ朝日の放送。
 それは、真っ赤な嘘で、消費期限の迫った弁当は、本当は値段を下げれば完売できるという。そうさせないのは、製造元のセブン何とかや、かんとかの本部が、完売したのでは一個60円のロイヤリティーしか入ってこないのが、廃棄処分すれば、140円も本部に入ることになる仕組みにあるという。佐藤氏は、こんなものがまともな商売かと筆鋒鋭く告発する。
 そんなことを知っていて、それを言わないのは、スポンサーが怖いからだと喝破している。』

 なるほど、これは酷い話ではないか。
 今、省エネ、食料資源が急迫する中で、自分のところが儲かることしか考えない大企業。

 そして、この話を読んで、昨日、7日の朝スパで放送していた、「48時間ワーキングプアに密着取材」なる映像を思った。

 こちらは、暮れに6800円の所持金しかないネットカフェ暮らしの男性を追っかけての映像である。
 暮れから正月にかけて倉庫での仕分け作業に従事しても、派遣会社が年末年始の休暇で、賃金が休み明けの7日までもらえないのだ。
 ついに、正月4日には、所持金が底をつき、気温4度の夜間から夜明けを歩いてすごすという。98円で5個のアンパンは1個を残すのみ。
 カメラは、そんな男性が夜の街灯のなかへ消えていく後姿を追って終わった。

 これを視ていて、どこまでが本当だろうかと思った。
 先ず、私が、取材対象の男性だったら、自分がこんなにも逼迫していて、惨めな姿を、為政者告発の正義感に燃えてのあまり、無償でカメラに収まり、インタビューに答えたりは、とてもできない。
 先ず、これは〆た、良い金づるが捕まったとばかり、取材協力費をいくらもらえるかを交渉するだろう。
 
 もし、そうでなくて反対に私が取材する立場なら、取材を終えた後で、相応の謝礼か何か、相手が直ぐにどこかのビジネスホテルで1泊して、暖かい食べ物でもおなか一杯食べれるぐらいのものは、そのポケットにねじこむだろう。
 そんなものは受け取れないというのなら、自分の事務所にでも無理やりひっぱってくるだろう。
 それが、人間ではないのか。
 
 もし、映像どおり、一銭の取材協力費も払わず、48時間も追っかけまわし、挙句凍死しかねない深夜の街に一銭ももたない人を平気で見捨てことができるマスコミ人とは、もはや人間とはいえないなにもかではないのか?

 まさかそんな間が、取材しているのでなければ、何かがあるのではないか…。これもテレビ何とかの嘘では、と思うのは私だけだろうか。
 
 佐藤立志氏の怒りからこんな妄想をたくましくしてしまった。

 それにしても、もし、この映像が事実どおりとしたら、世界一、二かの民主主義、文化国家、金持ち国家と言われるなかで、働く意欲がありながら、寒夜、雨露を凌ぐ軒端も与えられないとはどういうことだろうか。

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。

2007年から2008年への思いーこの世間は陽炎か?-

2008-01-03 00:38:30 | 日常雑感
1月2日(快晴)寒気強し。

 昨年夏、自宅半地下をホーム・ギャラリーとして自作の展示・販売の場としてオープンして以来、私の生活は、少し大げさになるが一変した。
 赤松林の中にも関わらず、10月末までは日に一組か二組の来客があり、200人近くの方にお出でいただけた。
 それが機縁で、思ってもみなかった似顔絵描きを頼まれたり、絵葉書をつくったりと、いっぱしの三文絵描きの端くれの端くれぐらいには連なったような感じである。
 こちらの方でも、7ヶ月の赤ちゃんから80歳の大先輩まで、老若男女、もう百数十人の方々とあれこれお話が楽しめた。

 それまでの家人が勤めにでてしまえば、日がな一日誰とも口を訊くことの無かった生活とは大違いとなった。
 すると不思議なことに、日々新聞やTVを視ていて、あれほど腹が立ったり、黙っていられなかった気持ちが何処かへ雲散霧消した感に陥った。戦闘意欲喪失である。何故か?

 もっとも、こういう気分になったのは、私が長年の公務員暮らしで、この世間の厳しさを身に沁みて知らず、挙句、僅かばかりの有り金を、身の程も弁えず、株式投資などに放り込んで、お定まりのスッカラカン同然になったことも大きな要因かもしれない。
 
 思えば、私は、公務員と言う立場で、知らず知らずの内に公というものは、そういい加減な事はしないものであり、身を託して信頼にたるものだと思い込んで過ごしてきた。
 そして、この社会の仕組みは相当に完成度の高いものであるとも、漠然とながらお目出度くも信じ込んできたようである。

 ところがどっこいビックリ箱で、先の無謀な世界大戦への突入振りを見ても、現在の私たちの社会システムというものは、官民を問わず、外見の形はそれなりの立派なビルに収まったりして、最も確からしく見えるが、その内実は、実にあやふやな陽炎のように見えてきたのである。
 
 私がホゾを噛まされた株の世界でも、日本に株式市場ができて半世紀以上も経っているにも拘らず、時の政権与党の幹事長閣下や財務に明るいと定評の何とか平蔵大臣までもが、この若者に続けとばかりに、その手をとって高く掲げたその輝ける栄光の若社長が、そうノタマッタ大臣の舌の根も乾かないうちに、インチキか何かがバレテ拘置所のなかに転落する始末。

 東証は、そんなインチキ会社を陳列台に、どうぞお買い下さいとばかりに並べてきたのである。だが、何とそんな会社の監査法人の監査のいい加減さは、開いてビックリではなかったか。

 確かなのは、官だけは、底なしの泥沼に浮かぶ筏のようなもので、絶対に自分たちだけはどんな状況になっても、そこにしがみ付いている限り、泥田には落っこちない仕組みになっていることだ。
 そんな結構な筏に乗っていればこそ、厚生労働省にしろ、外務省にしろ、防衛省にしろ、どんなに世間が騒ごうとも馬耳東風なのではないだろうか。

 そんな筏のご利益のお相伴にあずかり、こんな美味しいご馳走は誰にも渡せるものじゃないとばかりに、帆柱にしがみ付いているのが、時のうらなりなすび宰相閣下率いる与党のお歴々というわけでは…。

このような結構な、筏の乗り手ならぬ身は、己が才覚、手業を頼りに生きていくこそが、己が身を守る唯一確かな手立てということか…。

 こうと見定めれば、暖簾に何とか、何をいったところで唇寒し秋の風ならぬ歯の根も合わぬ霜柱というところではないか。

 と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか。

 新年早々、えらく気勢のあがらない駄文、恐縮に存じます。