蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

NHK、HV特集「取り残された民衆」―元関東軍兵士と開拓団家族の証言―を視る。

2006-08-11 02:23:37 | 時事所感
8月10日(木)晴れ、暑い一日。

 昨夜、9時~11時、NHK、HV特集「取り残された民衆」―元関東軍兵士と開拓団家族の証言―を視た。
 残留孤児問題の原因である、満州開拓、ソ連軍の侵攻、傀儡国家満州国の崩壊、敗戦、満州からの逃避行の悲惨等々、これまで断片的にはいろいろのもので見聞きしていたが、今回の番組のように、現地で様々な立場で生活し、軍務についていた人の生の証言ほど、生々しくこちらの胸を、痛恨の思いでいっぱいにさせるものはなかった。

 先ず、朝日の番組紹介記事にはこうある。
『1945年8月9日のソ連軍の満州侵攻により、多くの日本人が犠牲となった。その大半が無防備のまま敵前に残された民間人だった。彼らを守るべき軍隊は、事前情報により、主要な鉄道を占有してすでに南部に撤退していた。置き去りにされた人々は自力で避難をはじめるも、ソ連軍の標的となり数多くの悲劇が生まれた。
 軍はなぜ民間人を見捨てて、人々はどのような思いで逃避行を続けたのか。番組では元兵士と民間人の証言をもとに、軍の
行動過程や民間人の足取りを丹念に追う。』とあった。

 番組冒頭の証言者は、関東軍の最前線、虎頭で歩哨として見張り立っていた兵士である。日本軍は、満州とソ連の国境を流れるウスリー河沿いに望楼を立て、対岸のソ連領の動きを監視していた。
すると1945年、4月頃から対岸を走るソ連のシベリア鉄道輸送に大きな異変が見られた。夥しい戦車や兵員が続々と輸送されてきたのである。そのことを新京(長春)の関東軍司令部に報じても、関東軍は何ら即応する姿勢は見せず、事態を放置していたという。
 そして、運命の8月9日(6日の広島に続く長崎原爆投下の日)、突如、兵150万、大砲3万、飛行機5000機、T型重戦車で、ソ満国境を三方から包み込むように雪崩を打って侵攻してきた。

 これに対する、関東軍公称60万は、既にその主力(20万)は、日ソ不可侵条約を信じて、ソ満国境には憂いなしとしてか、戦線急を告げる南方へ移動しており、蛻(モヌケ)の殻同然の有様であった。後は、開拓団、民間工場、商社等で働く未経験のにわか召集兵(25万、根こそぎ動員と呼ばれた)で糊塗(コト)されていたという。
 そのころには、武器もろくに無く、軍靴は穴あき、軍服はつぎはぎだらけだったという。

 最前線からソ連侵攻を司令部に通報しても最初は容易に本気にしない有様。それがまた対応を遅らせて犠牲者を多くするのだ。
 
 そして、事態の急変を知った関東軍司令部は、大本営と連絡をとり、朝鮮半島死守の命を受けさっさと朝鮮国境に近い南部に司令部を移動させるのである。
 その作戦命令を大儀に、関東軍、満州国政府、満鉄関係者を最優先させた列車で、現地の民間人や開拓団の人々は丸腰丸裸で置きっぱなしにして、一足お先にさっさと逃げるのだ。

 それを指揮命令した草地参謀は未だに、軍は民間人を見捨てたのではなく、あれはあくまで作戦命令による行為であったと強弁して恥じるところがないという。

 しかも、軍は、同年4月5日、ソ連が日ソ不可侵条約の延長をしないと通告してきた時から、遅くも秋ごろにはソ連の侵攻があるやに予想していたという。
 そのため、7月ごろから、ドイツの崩壊、ヒットラーの自殺を見て、関東軍の中でも妻子を内地に返したり、内地に親族のある事務職員などには内地へ帰ることを密かに進める上官もいて、続々退職して帰国するものも多かったという。

 ところが、こうした情報を、関東軍上層部は自分たちだけで情報を独占し、一部の親しい者だけに情報を漏らし、一般には全く知らせなかったのだ。
関東軍の中でも、心ある軍人の中には、早く前線の開拓団関係者、民間人を後方に下げるべきだと上申する者もあったが、そうしたのでは、反ってソ連軍を呼び込むこととなり収受がつかなくなるとして却下されたという。
 要は、開拓団や民間人たちは体のいい関東軍の隠れ蓑、山田の捨て案山子(カカシ)にされたのである。

 この年の2月、アメリカ、ルーズベルト大統領は、自国兵士の損耗を少なくするため、ヤルタ会談でソ連のスターリンに対して対日参戦を申し入れたという。
 その見返りとして、ソ連は満州の鉄道権益、樺太、南千島の領有を要求したという。
 その結果、ソ連は当初9月乃至8月末の参戦を予定していたところ、アメリカの原爆実験成功を知り、しかも広島への投下を見て、これで日米が停戦したのでは自分の取り分がなくなってしまうとばかりに、急遽。8月9日に侵攻したという。

 こうして見ると、狡猾な旧ソ連、その系譜を色濃く引いているプーチンのロシアが簡単には、北方領土を返そうとしないのも頷ける話である。

 さて、こうした中で、頼りとなる成人男子は既に、関東軍に補充兵として召集され残されたのは女、子供老人ばかりの開拓団の人々は、日頃からお前らの後ろには百万精鋭関東軍がついているといわれていたにもかかわらず、空からの機銃掃射、満州大陸の大平原を土ぼこりで霞かと見紛う雲霞のごときT型戦車の驀進と砲撃にさらされる驚天動地の事態に直面し為すすべを知らない有様。着の身着のまま手に手を取って近くの山に逃げ込んだという。

 そしてひたすら、南へ南へと山中を野宿して彷徨(サマヨイ)続けたという。その間、流れの速い急流ではわが身一つを対岸に運ぶのがやっとの有様で、老人子供は泣く泣くその場で置き去りにされたという。

 ある婦人は、妊娠の身で気を失っているところを助けられ、お産をし乳が出ないのを見かねた満人の男性が貰い乳をしてくれ、ついにその男性と一緒になり、その人を見送ってから、1980年、初めて日本へ帰国したという。

 別の婦人は、山中から逃れて奇跡的に残っていた開拓集落にたどり着き、やっと一息ついたところで、その集落の近くに、不幸にも不時着したソ連軍機の兵士を、村人が袋叩きにしていまったため、ソ連軍の報復を恐れて、自決するか逃げるか議論は二分し、元気なものは逃げ、老人子供病弱者は自決することになったという。

 彼女は母親と幼い弟の三人家族。どうせなら一緒に死のうと決意する。だが同行していた担任教師から、子供は君に忠、親に孝行すべきもの。逃げてお国のために尽くせと諭され、母親からもお前は体が丈夫だ、どうかお前だけでも皆さんと一緒に逃げてくれといわれ泣く泣くその場で別れたという。
 そうしてその二日後、集落はソ連軍に包囲され、残っていた1600人だかが皆殺しにされたという。その証言者は昨日の出来事を語るかにあふれる涙を拭った。

 またある人は、警察官の計らいでトラックに乗せられて、鉄道の駅(東安)にたどり着き、警察官が交渉して残っていた発車直前の貨車に乗ることができる。しかし、何故か列車はなかなか出発しない。
 そのとき軍の命令でホーム近くにあった弾薬庫の爆破命令が出され導火線に火が付けられ、弾薬庫は次々に誘発しその瓦礫や鉄片が列車に降り注ぐ。
 そこでも700人近くが死んだという。真相は未だにあきらかでないという。
 この事件に関係した男性は、60年間この事実を恐くて今までしゃべれなかったという。いい思い出ならならいくらでも話せる。しかしつらい思いでは話せないと。

 また、ある兵士は語った。前線の陣地に付近の取り残された開拓団の女性が数人逃げ込んできた。最後の瞬間、自殺用にと手りゅう弾を渡すと、女性たちは断ったという。それは兵隊さんが使ってくれと、私たちはこれで死ぬと毒を飲んで果てたという。その女性たちの名前も伝わらない。

 ある女性は語った。いつも青酸カリを持って歩いていた。何かあればこれで死ねると思うと、反って恐いものがなかったと。

 終戦、玉音放送が流れる。だが、まだ停戦命令は出ていないと。これからも我々は戦うんだと。
 飛行機が一機残っていた。上官が乗り込む。これからバイカル方面の敵を叩くといって、歓呼の声で見送ったら、離陸し上空で旋回したらバイカル湖とは反対方向の東(日本へか?)へ向けて飛び去ったという。
 まるで漫画のような、これが戦陣訓を部下に強要してきた高級将校の成れの果ての醜態なのである。

 一方、ある将校の夫人は、夫が前線で果てたと信じ冥福を祈っていたところへ夫の部下が、上官は新たな司令部に転進され無事であることを告げられ、これでは、皆様に申し訳がないと自らの命を絶った方もいたという。これはそのご子息が涙ながらに語っていた。

 またある開拓団の夫人は語った。8月9日、朝、親しくしていた満人の家族からお花見(菜の花)に誘われ一日楽しく遊んで別れた。あの満人一家は事前にソ連の侵攻を知っていて、それとなく別れの宴に誘ってくれたのではなかったかと。

 またある兵士は語った。敗残の行軍に疲弊し、もう如何とでもなれとばかりに、前方に見える満人集落に入っていって休ませてくれというと、思いのほかに優しく迎い入れてくれて、濡れた着衣を脱がせ、洗濯までしてくれて、オンドル(床暖房、土の床下に煙を這わせる)で暖め乾かしてくれたという。

 関東軍では、居留民(開拓団の人々等)を守る思想も訓練も受けていなかったという。
 結局満州で停戦が完了したのは8月29日だったという。14日も余計に戦闘は続き、死ななくてもいい人が亡くなったのである。

 満州でこの戦争で亡くなった開拓団の人は8万人、開拓団の三分の一にあたるという。
 こうしてまた、多数の戦争孤児、残留孤児が生じたのである。

 重い重い話だった。戦争の悲惨さとは、こうした生の実体験者の話に勝るものは無い。

 そこに見て取れる構図は、政治指導層、権力に近い人間ほど、かって大法螺吹いて国民庶民を欺き、巧い汁をたらふく吸って、あまつさえ負け戦の土壇場でもうまく、するりと身をかわして逃げる狡猾さである。

 そして、あいも替わらず、性懲りもなくこの手の子孫がまたぞろ、A級戦犯だろうと死ねば神様だ、拝んで何が悪いと開き直り、それどころか愛国心、愛国心と、昔の歌を歌いだすのだ。

 それは、ブレーメンの笛吹き男のように。そして、何でも善意にとって、疑うことを善しとしない、全うで働き者の庶民は、性懲りもなく、またぞろ、うかうかとその歌についていこうとするのではないのか?

 「民衆」とは、いつの時代も散々踊らされて、取り残されて、ババを掴まされて、泣きを見る者の代名詞ではないのか?

と、やりきれない思いのする二時間のドキュメントであった。

 ただ、救いは、自国の領土にかってに傀儡国家をつくられ、自分たちの耕していた田畑を理不尽にも力ずくで収奪した侵略者の片割れを、暖かく保護し匿ってくれ、孤児をわが子として育ててくれた、心優しき満州人(中国人)の存在である。

 そして、今、我々が目を開けて虎視眈々として、直視しなければならないのは、満州国建国は我が最大の傑作、会心作と心ひそかに豪語していた、満州国官僚、東条内閣通商大臣、内閣総理大臣岸信介大宰相閣下の最愛の孫,安倍晋三官房長官が、次の宰相閣下になることが、誰疑う人も無い既成事実となりつつあることである。

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?


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3 コメント

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知らない事の怖さ (さくら)
2006-08-11 23:34:01
また番組を見ていませんが、蛾遊庵様の詳しい内容説明でよく理解出来ました。



戦争を知らない世代が増え、ますます本当の悲惨さがわからなくなりますね。



取り残された民衆・・・何と悲しく残酷な出来事でしょうか。完全に信頼してきたものに裏切られるとは。

老人、女性、子ども、と本来一番先に守られなければならない人達が切捨てられてしまうのですね。



次男が帰省しました。「珍しい本を手に入れましたよ」(いつもこういうしゃべり方です)と言うので見れば『のらくろ少尉』の漫画を3800円で買っていました。どんな漫画か興味があります。
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のらくろ少尉ですか? (蛾遊庵徒然草)
2006-08-12 13:46:38
 <蛾遊庵様の詳しい内容説明でよく理解出来ました。>とのこと、ありがとうございました。



<老人、女性、子ども、と本来一番先に守られなければならない人達が切捨てられてしまうのですね。>

本当ですね。

 軍隊とは、所詮、軍隊のために、権力者の道具として存在する。それが、古今の真理のようです。

 国民を守る、なんてのは、所詮、まやかしのお題目のようです。

 

 さて、現在の自衛隊、災害救助の現場では随分とお役に立っているようで頼もしい存在ですが、いざ戦争となったらどうなんでしょうか?



 『のらくろ少尉』の漫画、とは田河水泡のでしょうか?懐かしいですね。小さいころよく読みました。

 軍隊も、あのように毒気がなければいいですね。



ご次男、<「珍しい本を手に入れましたよ」(いつもこういうしゃべり方です)>今時珍しい優雅な言葉遣いですね。さくら様の育児振りがうかがえるようです。

 



 
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Unknown (D51−1116)
2020-06-04 04:45:49
お坊っちゃん世襲政治屋安倍晋三や麻生太郎等苦労も知らず、国会議員になり、戦後貴族になっている奴らが観る番組でした。
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