蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「きっこの日記」の衝撃

2005-12-30 01:18:32 | 時事所感
12月30日(金)

 今年もあと一日となった。何となく寂しい。「もういくつ寝るとお正月」なんてお年玉目当てに歌った昔は遠い日のこととなった。

 さて、こんな思いの今日この頃、今、世間を震撼させている「姉歯耐震設計偽装問題」の真相について、立花隆氏がメディヤポリティックスで「きっこの日記」が問題提起している旨の示唆があった。

 さっそく「きっこの日記」にとんでみた。衝撃的だった。

 この事件のどす黒い背景を垣間見る思いがした。

 是非、多くの人に読んでもらいたいと思った。

 犬でさえも初対面においては、お互いにくんくんと臭いを嗅ぎあいお互いがなにものであるかを確認しあってから次の行動に移ると言うのに、万物の霊長の代表者たる自民党の選良の方々はろくに相手の臭いを嗅ごうともせず、裏政治献金という餌を鼻先に突きつけられるとパブロフの実験犬さながらに見境も無く、かぶりついてしまうらしい。

 いまや周囲に並ぶものなき大親分のカリスマライオン宰相が、「自民党は変わった」と大見得をきったその瞬間もその衣の陰で、親分ともどもかどうかは下賎のわが身の知る由も無いが、子分どもの哀しい性情は少しも変わってはいなかったてことが白日の下にさらされている。

 そして今、旧態已然、安閑として我が世の春に酔い痴れている「政治や猿群」を一掃すべく、一般大衆の政治参加の大津波の予兆が生じている。

 それが「ブログ」だ。

 今までは、政治やどもは何をやったところで、その日暮らしの大衆は三日もたてば忘れてしまうはと高を括ってすませていただろう。

 だが、これからはそうはいかない。こうして書くことにより、タバコの煙のようにあっという間に消えてはなくならない。書かれたものは音もない民衆の怒りの怨念の塊となって、それらたかくくり猿群に鉄槌をくだすことになるのだ。

 「きっこの日記」と「馬渕すみおの不易塾日記」がコラボレイトして今、大きな鉄槌となろうとしている。

 こんなふうに感じている今日この頃ですが皆さんはいかがでしょうか?

(注:最後の1行「きっこの日記」の結句を拝借させていただきました。)


年賀状雑感

2005-12-25 00:50:53 | 日常雑感
 12月24日(土)

 今、ようやく146枚の年賀状を書き終えた。これで今年の締めくくりがついた思いだ。一仕事おえた良い気分だ。一杯呑みたくなる。

 現役の頃は、とても今頃書き終える余裕はなかった。大晦日ぎりぎりまで書き深夜、車を飛ばして東京駅前の中央郵便局に持ち込んだこともあった。

 年賀状については様々な議論を聞く。虚礼だと言う人も多い。

 私はそうは思わない。

 一年に一度、この世の中で生きていく中で様々な形で係わり合いを持つお互いの位置関係を確認し合えることは結構意味あることだと思う。

 三が日に受け取る賀状は文句なく嬉しく気持ちがいい。

 それに対して、5日以降に届くのはこちらからのを受けて慌ててお返しでくれたのかなとつい忖度してしまう。

 この場合、早々に賀状ありがとうございました云々とあると、そんな余計な揣摩臆測が不要となるだけさっぱりとした気分で受け取れる。

 一番、応えるのはお互いに信頼と好意をもっていると信じていた先方から、ある年から突然何の応答もなくなってしまうことである。
 
 まさか、どうして今年は賀状くれないのかと聞くわけにもいかない。新年、早々あれこれと思い悩むことになる。

 賀状のやりとりでこれが一番嫌なことだ。

 反面、小中学生時代から一度も絶えることなく続いている何枚かは、私の人生の宝物だと感じる。

 しかし、お互い人間の心情は変わり易いこともたしかである。この世に不変なものなどありはしないのである。「そうか、もうこちらとは付き合いたくなくなったんだな」と諦観するほかは無いのである。
 このごろ、漸くそのような心境になれるようになった。

 お互い生きていく中で人間関係は様々に変化する。それを過去のしがらみで形式的に引きずっていたのでは増えていくばかりでたまらないだろうと思う。

 そこで4日以降に頂いた相手には翌年は、こちらから出すことは控えることにした。こうすれば、お互いにさりげなく賀状のやりとりをやめることができる。

 頂く賀状を見ていると、結構そこにそれぞれの方の物の考え方が伺えるような気がする。

 頂いて嬉しいのはやはりそこに何か一工夫されているものである。

 私も年賀状の絵柄には凝るほうである。毎年10月に入るとそろそろ今年はどんなものにしようかと頭のすみにおき始める。

 そして褒められるととてもうれしい。新年早々良い気分である。

 さて、後、数日で受け取る賀状ではどんな気分を味わうこととなるだろうか、今から楽しみなことである。
 
 

 

夜半の目覚め

2005-12-24 04:40:49 | 田舎暮らし賛歌
 2月24日(土)午前3時過ぎ

 寝ていて突然目が覚めた。何か夢を見ていたようだ。カーディガンを羽織ってトイレにたつ。ドアを開けると踊場の冷気がほほを打つ。

 寝室に戻りベッドに入る。最前のように闇の中で目をつむってみる。だが眠気はどこかへ蒸発してしまったようだ。今、見ていた夢の輪郭が気になりだした。誰かと会話していた。祖父のようでもあり、そうでないようでもある。誰か親しい中年の男である。
 相手はこれからどこかへ急用ができでかけるようである。不破という地名がでた。東北線の不破の関のことのような気がした。

 急いで切符の手配が必要になったらしい。私が「そうだ、インターネットで調べよう」と提案したらしい。相手は「いや、これでいい」といって何か卓上計算機のようなものをとりだした。そんなものでと私は思った。

 次に、中学生ぐらいの時の長女の後姿のようなものが見え、何か赤いランドセルのようなものを背負っているようである。

 相手はの男も何か(手提げかばんのようなものか?)子どもにねだられてそう必要ようでないと思われるものをこれからかい買いに行こうとしているようであった。

 その相手の男が祖父のようでもあるような気がして、私の頭のなかは、もう40年以前も昔に亡くなった祖父のことがあれこれとスナップ写真のように思い出されてきた。

 こうなるともう完全に眠れなくなってしまった。

 私は、再びベットから起き出し、戸襖一枚で仕切ってある隣室の妻を目覚めさせぬよう軽く着替えをし音をしのばせて階下の居間へ下りた。

 障子を開けて居間へ入ると、薄暗い補助灯のもとで囲炉裏のなかので埋め火がぽっと紅く残っていた。

 このままでは眠れぬ、少し飲むかと思い、残り酒をレンジでお燗し炉辺に座った。

 埋め火を掘り起こし、炭を一つつぎたした。

 夜半のしじまが辺りを領している。益子の小さなぐい呑みを口元に運びながら、さっきの夢の続きを思うとも無く追ってみた。

 囲炉裏にくべた炭火がほつほつと熾ってくる。

 何か祖父の思い出までもがあったまってくるような気がした。

 その思い出をどこかへ書き記しておきたいと思った。


車谷長吉 「雲雀の巣を捜した日」を読む。

2005-12-18 23:50:45 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
 車谷 長吉、平成10年 「赤目四十八滝心中未遂」で直木賞受賞。

 その時の経歴紹介で慶応大学独文科を卒業して広告代理店に就職しながら、2年ほどでやめその後、東京を離れ関西で下足番、料理人として働くというのに強く興味を惹かれ、受賞作を読んだ。

 さすがに面白かった。その後、新聞の文化面なんかでの随筆を目にした。その度にユニークな視点が興味深かった。

 先日、書店の店頭で表題の新刊を手にした。ページを繰ると面白い。早速買って帰ってきた。

 その中に「漱石の予見」という小稿があった。

 内容は、日本の将来について、このままではあと六、七十年で亡びるということである。
 夏目漱石はこういう状態を予見していた。として、漱石の「三四郎」の中の次の一節が引用されていた。

 …「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等こくになってもだめですね。…」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃないような気がする。「しかし是からは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。「亡びるね」と言った。…

 この箇所を読んで我が意を得た思いがした。

 私も、はるか昔、「三四郎」を読んだ際、この箇所が強く印象に残ったからだ。戦前のあの時代によくもまあ、「日本がこのままでは亡びるね」と小説のなかでの会話とはいえ問題にされなかったのが奇異に感じたのだ。

 しかも、この予言のとおり、太平洋戦争の結果、大日本帝国は亡んだのである。
 漱石の透徹した時代認識力に驚く。同時にこんな言葉を堂々と発表した漱石の勇気と覚悟にである。編集者も何も口を挟まなかったのだろうか。

 しかし、この漱石の予見について、触れた文章をこれまで見たことがなかった。何故、これほど多くの人に読まれている漱石のこの箇所が問題として取り上げてこられなかったのか不思議でならなかった。私の貧しい読書体験の中では車谷氏が始めてである。

 日露戦争直後は、当時の政府に世論に対してまだ余裕があり、このような言動に対して寛容であったのか。それとも、東京大学教授の経歴に対する権威で見逃されたのか。実に不思議である。

 昭和の戦争が始まっても漱石の著作が発禁処分を受けたともきいたことがない。よく見過ごされたものである。
 
 車谷氏の小稿に、忘れかけていた昔の疑問を思い起こさせられた。

 なお、この本、うちの嫁はんこと詩人の高橋順子夫人とのいきさつ、やりとりがとても温みがあって面白い。


 

チャングムの誓いー近年まれに見る最高のドラマだ!

2005-12-18 00:41:23 | 日常雑感
 ここのところ、NHK、BS2、夜8時から10時にかけて放映されている「チャングムの誓い」にはまっている。

 今回は再放送だが何度見ても新鮮であり面白い。何んでこんなに面白いのか考えてみた。

 先ず、脚本がすばらしい。ドラマの中でのセリフの一つ一つに無駄がなく、内容がある。
 特に、料理について、医術についても聞いていて実に教えられることが多い。

 どこまでが史実どおりであり、どこが脚本家の創造で補充されているのかはしるよしもないが、このドラマどおりとすれば、日本では室町時代に相当する当時の韓国において、これほどの医女養成機関があったとは驚きである。

 また、患者の診察にあたっても実に客観てきであり合理的であることに驚く。これほどの合理性をもちながらその後の韓国の歴史をみるとき、やすやすと日本や中国に蹂躙されるのが不思議に思える。

 結局、国家の発展は直線てきではなく螺旋的に前進、逡巡、遅滞、後退を繰り返していくほか無いからなのかと思う。

 日本だってそうだ、明治維新での躍進、大正の遅滞、昭和前半の後退、そして戦後の躍進と平成に入っての退嬰というところであろうか。

 そして、このドラマの面白さは、筋書きつまりドラマの構成がしっかりしていて安心して見られるからである。

 骨太な構成である。そこには人間性善説への確固たる信念が感じられる。教養小説ならぬ教養ドラマなのである。

 日本では、こういうドラマは「おしん」以来絶えてお目にかかれない。つまらない、何の人間に対する夢も理想もないどうでもいいような日常茶飯事をさもおもしろおかしそうに「これが新しいドラマなのよ」と賢しららしくいいたげなものばかりである。

 小津映画、向田邦子の亜流ばかりが目立つ。

 さらに、登場人物が主人公チャングムだけに偏らず、登場人物の一人ひとりに個性があり、ドラマに社会性をもたらしていることだ。

 また、それを演じている個々の俳優に優劣が付けがたいことだ。特に女優人は皆、個性的で美人ぞろいである。

 そして、音楽がすばらしい。

 とにかくこの一作のドラマが私のこれまでの韓国に対して抱いていたイメージを一変させた。

 チャングムの何事に対してもひたむきな生き方、誠実さこそ、人間として生ある限り誰もが持ち続けなければならないものであると感じた。

耐震強度偽装問題ー国会証人喚問TV中継を見て

2005-12-15 00:32:14 | 時事所感
12月14日(水)
 午前9時半から午後5時まで、耐震強度偽装問題国会証人喚問国会中継を視聴した。前回の参考人招致に引き続くいよいよ大詰め、主役登場といった場面である。

 こんな言い方は、被害にあわれた方々に対しては不謹慎であり冗談じゃないと叱られてもしょうがないが、客観的立場から多大な関心を寄せているものの率直な感想としてお許し願いたい。

 先ず、今日のやり取り見ていて誰が最大の黒幕かということが明らかになったと感じた。
 
 それは、総研の内河所長である。姉歯元一級建築士は単なる手先に過ぎないとみた。彼でなければば別の誰かが引っ張り込まれただけではなかったか。

 ホテルだろうとマンションだろうとバブル崩壊後の不景気のなかで過酷な価格競争に勝つためには、従来聖域とされてきた構造部分に手を突っ込むことが最も手っ取り早いと気付いたのが、内河所長だったのではないか。

 彼は、このアイディアを実行するために人の良いというか歳のせいで実務をやり手の部下にまかせっきりにしている木村建設に目をつけ旨い具合に利用したのではないか。

 木村建設の篠塚元支店長は、社長が老齢のため実務を離れいささかとろくなってきたのをよいことに、木村建設がそれなりに地元で長年培ってきた信用力を悪用し、総研とつるんで自身の栄達と利得をはかったのではないか。

 ヒュザーの小嶋社長は、マンション建設のコスト削減策を探す中で悪は悪を呼ぶのたとえでどこかで内河所長のやり口を知り、「これだ」と飛びつき、顧客たる善良な一般庶民を多数巻き込む事態になったのではないか。

 そして、こんな悪事が白昼堂々とまかりとおる舞台装置を用意したのが、やみくもに規制緩和の錦の御旗の下、建築確認業務を民間まかせにしたところにあるのではなかったか。

 その意味で政府行政の責任は重大である。

 今日の議員の質問を聴いていて馬渕議員の質問は、実に素晴らしかった。よく調べられており、優秀な検事の取調べを目の当たりにするような迫力があった。
 ベニスの商人、シャイロックの詭弁を暴く場面を彷彿とした。それまでの質問者に対してはたかをくくっていた感のあった内河証人の顔面が緊張で紅潮し、蝮のような細い目が充血していくのが見て取れた。

 せめてもの救いは、今後の事態の推移の中でどう実行されるのを待たなければならないが、木村建設社長が、自分の生命以外、妻の物も含めて全財産を投げ出してお詫びしたいと発言したことであった。

インターネット株取引の恐ろしさ

2005-12-10 01:20:30 | 時事所感
 昨日、みずほ証券では、「61万円売り1株」の発注に際して、誤って「1円売り61万株」として入力送信してしまったという。

 その結果、みずほ証券の損害額は300億円にも達するとのこと。しかし、さすがは大会社こんな損害をだしてもびくともせずに営業が続けれれるいう。
 私のようなしがない退職者であれば、破産、自殺するしかない。

 とは言え、ミスした担当者どうなるだろう?。そしてその上司は。どこまで誰が責任をとるのだろう。かって、いささかの組織で仕事をした身にとってはすぐにそんなところに連想がいく。

 そして思う。今、問題の欠陥マンションの被害者だってこれだけのお金があれば随分と救われるだろうにと。

 しかし、これは他人事ではない。

 私自身ささやかな自己資金で、なけなしの退職金の残りを少しでも有利に運用すべくさんざん本を買っていささか勉強し今はやりのインターネント株取引にのめりこんでいる。

 やってみれば実に面白い。今までなんの変哲も無い毎日が日々胸躍る毎日に変貌した。

 もう異性に胸をときめかせることもない初老のリタイアーマンにとってはもう一度現役の修羅場に戻れた錯覚さえ覚える。

 日々の新聞、TVのニュースに眼を耳を再びそばだてるようになった。

 だが、パソコンの入力画面の枠はごちゃごちゃ、文字は小さい。そんなところで瞬時の判断で売り買いを決断し、文字入力し発注のタグをクリックするのは、いつもながら清水の舞台から飛び降りる覚悟がいる。

 それでもこれまで数度発注ミスをしたことがある。思いがけない損をしたこともある。

 そのときつくづく思った。これは怖いなと。呆けはいつ始まるかわからない。

 これが窓口の対面取引なら良心的な普通の担当者なら、「ちょっとお客様」と注意を喚起してくれるだろう。
 しかし、パソコン相手にそんなことを望んでも無理である。

 引き際をどうするかそれが問題である。誰も自分が呆け始めたとは自覚できないからである。

 特に現物取引は怖い。うっかり自分の財布の範囲を超えた注文を出して約定したら一大事では済まない。決済日に決済できない金額となったら即、破産である。
 むしろこの場合信用取引の方が、建て枠の制限が有るからまだブレーキが効く可能性ある。

 したがって予防策としてはこの建て枠の範囲を自己の財布の範囲に止めておくことかと思案してみた。

 ついては諸賢のお知恵を伺いたいと存じよろしくお願いいたします。

相次ぐ幼児殺害事件 -犯人には死刑を!

2005-12-10 00:33:45 | 時事所感
 広島での「木下あいりちゃん」の犯人が捕まったとおもったら、それをあざ笑うがごとく今度は栃木での「吉田有希ちゃん殺害」事件である。

 しかもこんどの犯人は「インターネット」予告記事まで発信していたという。

 何を考えてこうゆう残酷な神を欺くような事件をひきおこすのだろうか?。そして犯人は今どこでどんな心境で自分の犯した犯罪報道を視聴しているのか?。

 このような犯罪が相次いで起こるのも、重ねて言うが現在の日本では極めてその刑罰が軽すぎるからではないか?。

 今朝の日経朝刊でも、群馬・高崎女児殺害事件(浜名愛ちゃん 7歳)の母親、浜名裕子さんが「多発する事件を抑止するために、終身刑を設けたり、幼少年者の虐殺犯の重罪化をしてほしい」と訴えている。

 終身刑など生温い。全て死刑にすべきである。そんな犯人を生かしておいたところで何のためにもなりはしない。

 同じ紙面で山口の母子殺害事件の犯人に対して、一、二審無期判決に対して検察側が量刑不当で最高裁に上告しているとの記事が出ていた。

 これによると二審・広島高裁は、母親を乱暴しようとして抵抗され絞殺し、傍らで泣いていた長女夕夏ちゃん(生後11ヶ月)を絞殺した18歳の被告に対して、「極刑がやむを得ないとまではいえない」として無期懲役を言い渡したという。

 一体この裁判官は何を考えてこんな判決を下して平然としていられるのか。これでどうして法と正義が守られるというのか?。こんな犯罪を犯した人間が今後べんべんとしてこの社会に生かしておいてどんな償いができるというのか?。

 この裁判官は人間としての、感情をもっているのか?。人の親、夫としてやり場の無い悔しさ、無念さをどう想像してみることができないのか?

 老若男女を問わず人を殺したら、原則死刑、この大原則が今こそ徹底されねばならない時ではないのか。

 このことが実現されない限り、今回のような事件はいつまでも繰り返えされるのではないか。

老いゆくことの哀しみ

2005-12-08 00:40:11 | 日常雑感
12月7日(水)晴れのち曇り 寒し

 曇り空の日は、何故かこちらの心までドンヨリト落ち込む感じがする。届いた荷をほどき取り出したキャンバスに、NHKラジヲを聴きつつ地塗りを始めた。

 ラジオは視聴者からの健康相談をやっていた。今日は眼科の相談である。聞くともなしに聞いていると相談の電話をかけて来る人はみな60歳以上の高齢者である。

 瞼が垂れ下がり手術しても涙が止まらない人。眼に霞がかかったようようでよく見えないという白内障の人。

 回答者は某医大の眼科の名誉教授だ。

 患者の訴えている症状は皆加齢によるもので今後はかばかしく症状の好転は期待できず、薬を飲みながら現状を少しでも長く維持していくしか方法は無いとのことである。

 聞いていて幸い自分にはまだそのような症状は出ていない。

 しかし時間の問題かもしれないと微かな恐れの気持ちが湧く。

 老いとはこうして我が肉体を構成している部品の一つ一つが少しずつ壊れていくことに他ならないのだと思う。いわゆる緩慢なる死への歩みの過程である。

 それは、ちょっとした拷問にもにているのではないかと想像する。

 そんなめに合うぐらいならいっそ一思いに死にたいものだと思う。心筋梗塞、心不全なであっという間に死ねたらどんなにいいだろう。

 あるいは夜、寝酒の勢いを借りて眠り、そのまま朝を迎えても覚めることがなかったらどんなにかいいだろうと思ってみる。

 しかしこんな思いは、現在、どこにも異常のないわが身においてはなんと言う神への冒涜かとも恐畏するしだいである。

 晩年、人間の最大関心事はいかに安らかに死ねるかと言うことに尽きるのではないかと言う思いに捉われる。

 しかし、一方では、そんなこと思い煩ってもしょうがないや。

 とにかく、今遣りたいと思っていること、自分にとっては一枚でも多く気に入った風景の絵を描いていくしかないかとも思い直してみるのである。

 



 

耐震強度偽装問題ー衆院委参考人質疑TV中継を見て

2005-12-01 01:44:10 | 時事所感
 11月29日(火)午後1時30分からの国会(国土交通委員会)中継を見た。

 肝心要の最重要参考人である姉歯一級建築士は、精神不安定のため欠席とのこと。よくまあこれだけの事件を起こした張本人がそんなことで許されるもかとあきれかえった。

 この国は何と甘くお人よしの国なんだろう。

 国家権力とは本来、このような事態、多数国民の生命財産が一部営利業者のあくなき我欲のためにその掌中でもてあそばれていることに対してこそ、直ちに強権発動されるべきではないのか。

 TV中継は実に雄弁である。関係者の人品骨柄を余すところ無く満天下に知らしめてくれる。

 3時間実に息もつかせぬ見ものであった。

 特に渦中の大物、H社の社長の面つきは東映ギャング映画の悪役も顔負けである。

 神聖なる国会議事堂の中で自己の意に沿わない発言に対しては、膝を叩いて発言者を怒鳴り上げる度胸は並みの神経ではないと見えた。

 あれでは、設計させていただく建築士などひとたまりもなく吹き飛んでしまうだろうと見えた。

 部下だろうが下請けだろうが眼中にないのではないか。

 これで本事件の構造が誰の眼にも明らかになったのではないか。

 これに対して、議員のほうから被害者救済の過程で偽装倒産の可否について質問があったが何と甘いことか。

 当該マンションの住民からみたら何と歯がゆいことか。せめて何故直ちに関係会社の資産凍結(資産保全、移動の禁止)等の措置がとれないのか?

 まさにこれでも法治国家といえるのだろうか。

 さらに会場を見ていて気になったのは、関係議員の態度である。質問者はそれなりに真剣であったがその他の議員は、メモをとるでもなく漫然とただ聞いているだけといった感じに見えたのは私だけだろうか。

 所管の国土交通省の責任も大きいと感じた。イー社から国土交通省の関係課に第一報があった際の対応をみてもまるで他人事の扱いであったようである。

 これでは国民はたまったものではない。何のための所管省なのだ。