蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

この頃出るは、ため息ばかりなり!

2008-10-26 01:29:44 | 日常雑感
  10月25日(土)曇り。

  このところの世の中の動きみていると、何とも言えない暗い気持ちになる。
  1929年の世界大恐慌の時にはこの世に生まれていなかったので、世界恐慌というものがどういうものかは知る由も無い。
  ただ中学校だったかの社会科の教科書の写真で、アメリカのどこかの市街でたむろしている失業者の死んだ魚の目を見たような記憶が重く沈んでいる。
   そして今、まぎれもなく今日この頃の世の中の有様は、暗雲垂れ込める恐慌社会そのものではないだろうか。

  人類が農業や牧畜を生活の糧としていた時代には、旱魃や何やかやの天災による飢饉はあっても、それが何年も続く事はなかっただろう。そして、それは自然界の摂理の一環としてもたらされるものであり、誰を恨む術も無く、人間はただただ天を仰いで祈るしかなかっただろう。
  だが、現代の経済恐慌は一度生じれば、その回復のためには数年乃至10数年を要することとなるだろう。
  しかもその原因は、天災ではなく我々人間社会の一部の強欲張りの欲望の極大化に起因するのがほとんどではないか。まったくもってこれ以上の傍迷惑なことはない。

  そして今次の恐慌の震源は、アメリカは夜老自大ブッシュ政権の仕業ではないか。
  その諸悪の根源、ブッシュ政権もあと100日足らずの余命…。
  これに替わって、今や当選確実といわれるオバマ新大統領が、はたしてどんな新風を巻き起こし、この暗雲を吹き払ってくれるだろうか…。

  それもまたアメリカ頼みとしなければならない我が日本国民は、これまたなんと情けない事ではないだろうか…。
  我がため息はますます深くなるばかりである。

似顔絵師の秋日和

2008-10-14 01:48:19 | 美術エッセイ
10月13日(月)晴れ。暖。

11、12、13の今日までの秋の三連休。似顔絵師にはまさにかき入れ時である。しかし、初日の11日(土)は朝のうち空には厚い雲がたれこめていた。これでは駄目だと思っていると、昼近く俄かにその雲がきれ青空なんかがのぞいてくるしまつ。これではでかけてみなくてはならない。なかば、なんとも中途半端な気持ちでいつものテーマパークにかけつけた。

 テーブル、椅子、ビーチパラソル、見本写真のパネル板をセッティングして、さあこれからと思っているところへ、急に強風が吹きつけてきた。
 見本を掲示してあるパネル板があっという間に倒れた。ガシャッという鈍い音。急いで起こして見ると一枚の額縁のガラスが無惨に割れていた。忽ち戦意喪失して手ぶらでひきあげてきた。
 
12日(日)朝からの好天。張り切って出かけた。今日は、気温が低目と聞いていたので、日当たりの良い場所を選んで店をひろげた。
 セティングが終わるかおわらないうちに「描いてもらえますか」と声がかかった。5歳の可愛い男の子とそのお父さんである。

 次は、上品な老婦人である。描き終わると、「貴方もどう?」とニコニコして見守っていた傍らのご主人を促した。TVでおなじみの塩川清十郎にどこか似た風貌である。お年は82歳とのこと。若い時は某大新聞の記者だったとのこと。忽ち話がはずんだ。
 最近のジャーナリズムのひ弱な事…。小泉政権の功罪…。語って楽しかった。そして、お二人も絵の出来栄えに満足して帰っていかれた。

  そのあとには乳母車に乗った6ヶ月の赤ちゃんと、その若いお母さんである。こちらも1枚に二人を納めてほしいとのこと。
 席につきながら若いお母さんは「でもこの子だいじょうぶかしら?」との呟き。
 お名前を教えてください。と私。
 直ぐにその名前で呼びかけると、赤ちゃんはちゃんとこちらに正対してくれた。お母さんよりしっかりした顔立ちであった。
 私は1年近くの経験で、子どもはどんなに幼くても、こちらが正面から対等の気持ちでその名前で呼びかけ話しかけると、こちらの気持ちにたいていはちゃんとこたえてくれることを学んだ。
 その若いお母さんは看護士とのこと。黒いウールのしゃれた帽子を被っていられる。モネの絵ベルト・モリゾだったかで見たことのあるような帽子である。
 それを褒めると、帽子が大好きで50個も持っている。これは世界で唯一つの手作り。2万円とか…。なるほどと感心した。私もハンチングが大好きで幾つか買ったがまだこんな値段の帽子は買ったことが無い。
 縦長の画面に母子を描き上げて写真を撮らしてもらった。こちらも満足してもらえた。傍で見守っていた優しい祖父母と4人見送ると斜陽の広場の客足もまばらになっていた。

  そして今日の13日(月)。昨日に続く好天である。今朝も昼前に会場に着き、店を広げた。園内の客足も多い。だがどうしたわけか私の前には座ってくれない。1時間が経ち2時間が経つ。見本のパネルには皆さん見入ってくれ、「よくにているねー。うまいねー」などと漏れ聞こえてくるのにである。
  
  こういうときは、なんともいえないやるせないような、いたたまれないような気持ちになるのである。店晒しになっているような…。直ぐに店をたたんですっ飛んで帰って、こんな良い天気、スケッチにでもでかけたくなるのである。
 しかし、30分もかかって一旦広げた店をたたむのはこれまた億劫なものであり、いまいましい気分にもなる。そこで「まあー、こういうときもあるさ、これも辛抱、修行のうち」と心で呟きつつ、ひたすら耐えるのである。

  とそこえ、天の恵みか「お願いできますか?」優しい声が降ってきた。
  見れば、きりっと切れ長な目に、長いお下げ髪の女の子が若いお祖母ちゃんと立ってくれていた。8歳3年生。剣道6級。ピアノも習っているとか。
 こうして一人客足が付き始めると不思議に後が続くのである。

  次は若いカップルであった。またもや二人を1枚の画面に納めてくれとのご注文。女性は誰かに面影が似ている。そうだ、モジリアニの若妻、ジャンヌ・エピエンヌにそっくりなのだ。忽ち我がエモーションが高まった。そのことを私が口走ると、待ってましたとばかりに男性の方が答えた。
 「そうなんですよ。私も実は絵を描いているんです。彼女をモチーフに今描いているんです。でも私のは抽象ですけどね。印象で描くんです。」とのこと。
 「なーんだ、絵を描かれるんですか。それでは私はまるで試験を受けているみたいですね(笑)」と私。男性は今描いている50号の絵を県立美術館のコンクールに出品するとのこと。見せてもらいに行く事を約束した。

  二人を描き終えると、やすむ間もなく、また帽子の老婦人が座ってくれた。
  そしてその様子を見守っていた老夫婦が続いて座ってくれた。
  聞けば、名古屋からとのこと。元気なうちに二人旅を楽しんでいること。羨ましい限りである。ご夫婦ともに丸顔の円満そのものである。今年は結婚して30年目とか。画賛に御結婚30周年を記念してと、入れた。お二人は私から受け取った絵を大事そうに持って帰っていかれた。
 
  こうして私の似顔絵師秋日和の三日間は終わった。都合12人描いた。12人との一期一会であった。
  私が偶然にも似顔絵師にならなかったら、老妻と二人きりの誰もめったには訪れてくれることのない寂漠たる日々であったに違いない。
  だが、偶然の僥倖から俄か似顔絵師になれたお陰で、今は望むべくもない様々な階層、年齢の方々と巡りあい、つかの間の出会いと会話をたのしめるのである。
  誠にありがたいことである。つくづく人生の喜びは、いやもおうも無く人と人との出会いの中にこそあるのだと思うのである。

  私は、これまで主として風景しか描いてこなかった。だが、今は、人の顔に限りない愛着と興趣を覚えている。これからは人の顔、人の暮らしている様を描いてみたくなった。
  私の画境は、今後一段と深化するに違いない。これをして自画自賛というべきか。

そして密かに思うのである。この似顔絵をもって、日本全国漂泊の旅に出られないものかと…。
  今、この日本という国のあちこちに住む限りなき無数の人々を描き、語らいあえたらなと…。

漂泊への憧れー山頭火と山崎方代についてー(その1)

2008-10-12 00:42:59 | 田舎暮らし賛歌
10月11日(土)曇りのち晴れ。暖。

 “漂泊”。その文字を、声を出して読んだときの何と言うその響きのよさ。その文字をじっとみつめれば、その背景に浮かぶイメージ。自由気まま。行雲流水。清貧。孤影。…そして木枯紋次郎のテーマソングではないが、「だーれかが、きっと待っていてくれる…」かも知れないかすかな永遠の恋人への邂逅の可能性にかけて…。

  私も、若いときからそんな漂泊者に篤い憧れを持ち続けてきた。いつか、仕事をやめたらキャンピングカーを買って、日本国中、いや世界中を巡って絵を描いてみたいと思ってきた。
  だが、現実には、この山家に定住することを選んでしまった。
  漂泊への思いは、単なる憧れのまま終わった。いや、まだ、今のところ一応おちついているだけかもしれない。まだまだその思いはいつ爆発するかも知れない予感が私の心のどこかにひそんでいるような気がする。

  こんな漂泊への憧れは、私ひとりのものではなく、男なら誰でも多少はそんな思いに共鳴するものがすくなくないのでなかろうか。
  その象徴が「葛飾柴又のふーてんの“寅”さん」ではないのか。
  寅さんは、日頃私たちが心の中で願っていても浮世のしがらみでそうはできないこちとらの身に替わって旅にでてくれているのではないだろうか。それだからこそ私たちは拍手喝さいするのではないだろうか。

  しかし、寅さんはあくまで鬼才山田洋二監督のつくり上げた虚構の人物でしかない。

  ところが、自由律俳句の第一人者、「後姿の時雨れていくか」で有名な山頭火は正真正銘の漂泊者だ。
  それに比べて、「ふるさとの右左郷(うばぐちむら)は骨壷の底にゆられて吾が帰る村」と歌った口語短歌の今や大家たる山崎方代は、半漂泊者ともいうべきか。
 
  こんなことを記してみたくなったのは、今、世界中がアメリカ発の大恐慌の再来かと右往左往するのをみるにつけ、その対極で同じ人生を送った極めて少数の人たちの生き方に心惹かれたからである。


アメリカ発世界恐慌―ガリバーに綱をかけよう!―

2008-10-11 00:00:16 | 時事所感
10月10日(金)晴れ。日中暖。

アメリカ、リーマンブラザーズの破錠を引金に、止まるところをしらないかの連日の株価暴落。今日は、日本の大和生命まで会社更正法の適用申請とか。

天災は忘れた頃にやってくる。経済恐慌もまたしかりか?1929年から約80年。またしてもその震源地はアメリカだ。
先の大戦での日本への原爆投下。朝鮮戦争への介入。ヴェトナム戦争。そして性懲りもないイラク戦争。
世界平和を叫びながらその実、やっていることは、世界平和の蹂躙でしかない。有り余る富を持ちながら自国民の貧しい底辺層への施策は何もしないでほったらかし。それは戦争遂行に必要な道具としての兵士調達のために意図的にとさえ思えてくる。

今回の発端とされるサブプライムローンの問題にしたって、無学非才の山家の半隠居には好くは分からないが、どうも聞いていると、地獄へも天国へも持っていけないほどの金ほしさの欲呆け連中が、世界中の金をかっさらおうと、本来なら、どんなローンも組めないような不安定な底辺層までを、目先の低金利で詐欺まがいに釣り込み、そのリスクを世界中にばらまいたということのようである。

   この悪巧みを束になって考えた連中がノーベル賞クラスの経済学者、金融工学とかの超エリート達とか。
   そのインチキや危なさを、世界中の多くの経済学者を始め誰も見抜けなかったということだろうか。
   こうしてみると、学問なんてたいしたことないなと思えて気はしないだろうか。

  この世の中を穏やかに運んでいくためには、また生き抜いていくためには、万人に共通の智恵としての常識に勝るものはないのではないだろうか。
 上手い話なんてものはどこにも無いいうこと。借金はせずコツコツ溜めてから使うこと。人間の暮らしの基本は農業にあることをおもいなおすべきではないか。

  とは言え、私自身このことに気がついたのは、ほんのここにきてである。もう我が人生の黄昏にきてしまっては、いかんともしがたと思うばかりである。

  とにかくいつの世の中でも、他人、国家、社会的仕組みなんてものはあてにしてはいけない、あてにならないものなんだ、ということを、腹に沁みこませて生きていくしかないのではないのだろうか。
  そう思い定めておけば、明日地震が起ころうが、戦争が怒ろうが、世界恐慌が起ころうが、年金が支払停止になろうが、嗚呼そういうことかと思うまでではないだろうか。

  このようにいつも平然たる気持ちで暮らして生きていくためには、1~2反の田んぼと季節季節の野菜が取れる畑が少々あればなーと思うのだが。

  それにしても、このアメリカと言う国。強大国家、怪物。何とかならないのだろうか。こんな国の尻馬にいつまでもついていかなければならない日本とは、何となさけないことではないだろうか。
  力自慢の乱暴者を押さえ込むには、弱いもの同士が力を合わせて智恵を絞ってその頸に縄をかけ、「もうごめんなさい。皆に迷惑かける勝手なことは金輪際いたしません」と音をあげるまで足かせ手かせかけることしかないのではあるまいか。
ちょうどガリバーをがんじがらめにした小人の国の小人たちのように…。

組のお葬式

2008-10-07 00:59:45 | 田舎暮らし賛歌
10月6日(月)雨のち曇り、肌寒き日。

  今日、組内のT家に不幸があり、近くの斎場で昨夜の通夜に続く告別式があった。私たち11軒の組の者は、お手伝いということで、手分けして受付を担当した。
  葬儀の儀式が滞りなく終わり、2時過ぎから直会(ナオライ)となった。
 
 直会は葬儀委員長の挨拶で始まった。葬儀委員長は我が組長さんである。組長は1年毎の回り持ちで担当するのである。この地に3年まえ越してきたばかりで組長に当たった私の息子ほどの年若い組長さんは、思わぬ大役に一昨日の葬儀の段取りの打ち合わせ以来、いささか緊張ぎみであった。
  だが、挨拶が始まってみれば簡潔にして要を得た立派なものだった。挨拶を終えて顔を紅潮させて我々の席に戻ってきた組長さんを、皆で頷いて労い迎えた。

  続いて、故人の娘婿の方が故人を偲んでの挨拶に立たれた。
  故人の92歳の生涯、経歴、人柄を、真情を込めて話された。
  伺えば、この地に大正初期に生まれ、高等小学校を卒業して、満州に渡り、満鉄に入り,そこで結婚し長男が生まれたところで、終戦を知り、親子三人命からがら半年かけて、故郷のこの地に帰り着いたとのこと。
  それから、一筋に実家の農業を継いで、養蚕、米麦、果実栽培と農事に励まれ、4人の子どもたちには、他人に迷惑をかけるな、欲をかくな、世の中のためになるような人間になれをモットーに立派に成長させた。
  故人は地域の問題にも関心を持ち、旧慣陋習を改める事に努力し信望を集めて村議やその他の公職を勤められた。
  ところが、晩年、奥さんが難病に伏されることとなるも、子どもたちが独立して二人だけの暮らしの中で、誰の手も借りず86歳で、妻に先立たれるまで、多年優しく看護をつくしたとのこと。
  そんな中でも子や孫が遊びにいけば、何かと手作りの料理でもてなし、孫からはお祖父ちゃんお祖父ちゃんと慕われたとのこと。

  拝聴していて、目頭があつくなった。最早還暦を過ぎたと思われる娘婿に、こんな心のこもった弔辞を捧げられる、今まで一面識も無かった遺影の故人が、俄かに親しくその生前の肉声を聞いてみたかったような気持ちになった。

  次に献杯の音頭に指名されたこちらもはや還暦を迎えた臨席のYさんは、献杯を前に“おじちゃんが自分たちが子どもの時、卓球台を手作りしてくれたこと、何でもよく話をきいてくれたことなど”の思い出を語った。

  静かな献杯の発声が終わると、大の大人たちが何々ちゃんと呼び合う楽しく賑やかな宴会がはじまった。

  これまでお葬式には何回も出たことがあるが、こんなに何か暖かい心の通い合うお葬式に出た事は無かった。
  そして、このような心温かい人たちの傍に住める、この地に移り住んで本当によかったと思った。
  今、個人主義というよりも孤立主義が蔓延するなかで、ほどほどの地域共同体のなかで暮らせることは、幸せな暮らし方ではないだろうか。
  帰り道、我が10軒でもっとも若いこちらも新住民のお父さんに、「私の時もひとつよろしくお願いします」と言ってみた。若いお父さんはニッコリ笑ってくれた。

  そして、改めて故人を思った。
  今、日本の政治、社会はいろんな面でがたがたしている。世のエリートと言う人々の無責任ぶりや強欲ぶりが毎日の紙面に溢れている。
  しかし、日本は滅びない。それは、この国の根っこともいうべき田舎では、まだ、こういう篤実な人々が地域共同体を大切にしながら、黙々と暮らしている限りは…、と。