蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

アルツハイマーに朗報!―アルツハイマー原因物質除去ワクチン開発成功―

2007-03-31 00:58:05 | 日常雑感
3月30日(金)晴れ。暖。
 
  昨日(29日付け)の朝日朝刊1面で、『アルツハイマー原因物質除去ワクチン開発成功 マウスで名大など』の見出しが目に飛び込んだ。

  記事には、こうあった。
  『アルツハイマー病の原因物質アミロイドを脳から取り除くワクチンの開発に、名古屋大と国立長寿医療センター研究所などのチームが成功した。
  マウスを使った実験では、発症後に飲むと認知能力が戻り、脳炎や出血などの危険な副作用もなかった。
  …「アミロイドはたまり始めているが症状はまだ出ていない、という段階で使えば予防効果も期待できる」という。
  …アミロイドのたまり具合を画像で見る診断技術も開発されつつあるので、ワクチンと組み合わせれば、発症を防げるようになるだろう。
  ただ、マウスと人は薬の効き方が違うので、患者対象の臨床試験でどのような結果が出るのかが決め手だ。』

  嬉しいニュースである。このような記事が1面に載るということは、いかにアルツハイマー、即ち”呆け"に対して恐怖を持っている人が多いかということではないか。

  まさに私もその一人である。わが家系は、曽祖父も祖父も80過ぎまでの長命ではあったが、皆、80歳に近くなった頃から呆け始め、その様子をいろいろに幼い頃から祖母に聞かされて育った。
  今、アルツハイマーには、遺伝的なものと、脳血管疾患によるものとがあると言われている。
  私の場合は、確実に遺伝的なものであり、現状のままではいつの日か確実にそうなることを覚悟しているのである。

  呆けていくという感覚は、本人にとっていかなるものなのであろうか。

  人は、よく呆けてしまえば、案外何も考えなくてすんで楽だろうなんて無責任なことをいう。
  だが、私は、母が80歳で、胃癌の手術をして、その半年とたたないうちに、それまでは一見何でもなかったものが、ある日突然、弟のことが識別できなくなり、その後は譫妄(センモウ、一種の幻覚症状)が頻繁に現れ、傍にいる私に何とかしてくれと苦しむのを見た。

  母は、当時一人暮らしだったが、近所の子供が部屋に入って来て何時までも帰らない。「お家の人が心配しているでしょう。早く帰りなさい。」とまるで目の前に子供がいるがごとく訴えるのである。しかし私にはどうしようもなかった。

  母にすれば、どうして自分がこんなに心配しているのに、傍の者が何も手をかしてくれないのかともどかしく、つれなく感じたことだろうか。
  自分の親しい肉親が居る筈なのに、いくら呼んでも誰も来てくれない。その孤独感はどんなだろうか。

  惚けとは、まるでいくら出口を探そうとしてもその出口が見つからない迷路にたった一人きりで封じ込められた感覚を味わうことではないのだろうか。

  母のだんだんに認知力が衰えるのを見続けていて、私はやがて自分も陥るであろうそんな奈落地獄を想像して暗澹とした気持ちになる。

  だが、反面で、最後の方では、何も話すこともなく、ただただいつもうつらうつらしているらしい様子を見るにつけて、一時のその混濁の時期を過ぎれば、何の苦痛も死の恐怖も感じない至福の恍惚郷に至るのかとも思えた。

  そのような死にいたる様子を思うとき、できることなら、死のぎりぎり直前まで意識明晰なまま、どんなに苦しい思いをしても、心臓発作か何かで突然死したいものと願うのである。

  昔、名僧と言われた人たちは、自分の死期を自覚すると、徐々に絶食して、最後は眠るが如く穏やかに枯れ木が朽ちるように死んでいったという。
  平家物語に出てくる平家の公達、横笛の名手若き敦盛を殺して、無常を感じ法然の弟子となり仏門に入った熊谷次郎直実もそんな見事な最後を迎えた一人だという。
  そんな死に方ができれば、どんなにいいことだろうかと思ってみる。

  とは言え、私とて四六時中こんなことばかり考えているわけではない。何かの拍子にふと思うだけである。

  そんな今日この頃、このアルツハイマー予防ワクチンの話は、私を奈落地獄から救ってくれるかもしれないかすかな朗報として、その一日も早い完成を願うや切なのである。

"小泉という政治家?”―「立花隆著、ぼくの血となり肉となった500冊…」を読む。―

2007-03-30 02:19:47 | 時事所感
 3月29日(木) 晴れ。暖。

  先日、図書館の新刊コーナーから、早速、借りてきた立花隆著「ぼくの血となり肉となった500冊 そして 血にも肉にもならなかった100冊」(文芸春秋 刊)を、拾い読みした。

  この中で面白い一項に出会った。加藤の乱のお粗末で自民党総裁候補から急降下墜落、超低空飛行中の加藤紘一先生の近著、『新しき日本のかたち』(ダイヤモンド社刊、)を取り上げての記事である。
 
  立花氏は、『YKKの内側を語る章を読むと、小泉という政治家が、およそ政策を論ずるなどということとは無縁の政治家だということがよくわかる。「あまり政治家は勉強や、議論をしてはいけない」が口癖で、「人の話を一生懸命聞いたりすると、結論を迷う。そうするとメッセイージが非常に曖昧いになる。それよりも自分が一番初めに感じた直感で行動を進めていくのが正しいんだ」が、小泉のモットーだった。YKKが会っても、むずかしい政策的な議論はほとんど加藤・山崎のYK間で行われ、小泉はコップ酒を飲みながら、「時たまワンフレーズ的にズバッと意見を言う」だけだったという。…』と、紹介している。

  加藤氏の語る小泉像がどれほど、その実像を伝えているのかは、山家の隠居の知りうべきもない。
  ただ、ここに描かれた姿が、その実像にほぼ近似しているのであれば、なるほど、小泉政治の真価というか意義がどのへんにあったかがある程度納得がいくではないか。
 
  今、世評、小泉政権の実績を評価するものは極めて少数でしかないようだ。
  しかし、私は、その成功、不成功はともかく5年間も私を含めて、国民の多数が、その痛みを危惧しつつも支持しつづけた理由は、それなりのものがあったからだと思う。

  それは、何と言っても戦後55体制とかの自民党ばらまき政策の累積の結果、国、地方合わせて1000兆円を越えようかいう世界各国にも類をみない驚異的な赤字財政国家の現状を前にして、これではいかにも何とかしなくては、との危機感を持つのは当然ではないだろうか。
  
  小泉氏は、その生得的かつ天才的ともいうべき、政治的感性でこの国民多数の危機感を鋭敏にキャッチし、自己の政治スローガンにしたということではないのか。
  それが、誰の耳にも入りやすい“自民党をぶっ壊す”であり“郵政民営化”であったというわけだ。
  彼には、その中身なんかどうでもいいのだ。一応包みの中がそれらしく外から見えさえすればいいのだ。日日の暮らしの一円二円の出費の高下にしか目のない国民多数が、いちいち法案の中身まであれこれ吟味するなんてありないのだから…、である。

  彼の目指したのは、ただ、大きくこの日本丸という舟の梶を、面舵いっぱいに切ることが全てだったのだ。それさえ済ませれば、オペラを楽しもうが、プレスリーの真似をしようが他人さまにとやかくいわれることなんてしっちゃーいないってわけだったのでないだろうか。

  だから道路公団の改革が丸投げだろうが、郵政改革が実際のところはどうなろうが、その中身をどう腐されようが馬耳東風ってわけではなかったのか。
  
  結局、小泉政権の真価とは、日本のこれまでの無責任なばら撒き政治のあり方にブレーキをかけ、とにもかくにも方向転換させたことは、間違いないのではないだろうか。
  ようは、それだけのものでしかなく、中身はもぬけの殻のアカパッパーというわけだったのだ。
  
  そして、今、その舵取りをまかされた安倍お坊ちゃま閣下が、その舳先(ヘサキ)をどっちに向かわせようとしているかである。往こか、戻ろか、霞ヶ関か…、てなところだろうか。
  どうも、見ていると、後見人を自認する消え残りの足の生えた昔のお化けがうようよ、こっちの袖をあっちの袖を引っ張り引っ張られ、それで右に左に、行方定まらぬ波路はるかに…、というわけで、乗せられている国民としては、船端(フナバタ)覗いてあれよあれよというところではないだろうか。

  と、思うこの頃さて皆様は、いかがお思いでしょうか。

ー追記ー

 わが市の図書館は実に素晴らしい。新しくて天井の高い広々とした室内。テラス側の一面のガラス張りの向こうには、南アルプスが一望できる。そこに日向ぼっこしながらゆっくり本や雑誌が心行くまで読める。閲覧者は、土日を除けばチラホラである。新刊書は書評とともに行くたびに何冊か棚に並んでいる。だが、ここらあたりでは、あまり借り出す人が居ないらしい。東京に居た時とは大違いである。東京では新刊書コーナーなどいつもも抜けの殻であった。
 この、図書館も以前は隣町の図書館であったのが、大合併のお陰で利用できるようになったのだ。
 もう、雑誌や何やかや本を買う必要から半分は解放された感がある。これも田舎暮らしの功徳というべきか。

どこまで本気?“弱者救済 国の関与強化”―安倍政権―

2007-03-26 23:28:13 | 時事所感
3月26日(日) 晴れ。暖。

 24日の朝日朝刊、4面に『半年の軌跡 安倍政権研究』なる記事が出ていた。
  この記事によれば、
『今、安倍首相は、支持率が低迷する中で、自らの原点に返ろうとしている。それは、若い頃、安全保障と社会保障を「ふたつの保障」として自らの政治課題に見定めた原点だという。
官邸内の今の雰囲気を、政府関係者は、「最低賃金をどう引き上げるか本気で議論している。まるで社会主義政権みたいだ」と語った。
  安倍首相が、その影を追い求めているかのような祖父の岸元首相はかってこう語ったと言う。
「放漫なる自由主義経済はね、弱肉強食、つまり勝手にやれというシステムですからね。だからそういうものではなしに、経済に一種の計画性とか、自ら越えてはならない制約というものを設けるという考えなんです」』と。

そしてこの記事は、
 『安倍首相は、「勝ち組重視」「格差拡大」との批判を浴びた小泉路線から距離を置き、経済分野でも国家の関与強める国家主義的な色彩の「岸の世界」に近づこうとしている』と記す。
 
このような思いに基づいてか、
 『首相は3月1日の国会でも、「最賃法については生活保護との整合性をまず念頭に、できれば高くなった方がいいと思う」と踏み込んだ。社会的弱者をどう支えていくのかー。残業代割増賃金の引き上げ、パート労働者の待遇差別の禁止…。今国会に提出された労働関係6法案には、こんな思想が貫かれている。』と、記事は続いている。

  日頃、安倍政権に点の辛いと言うか、もっぱら足の引っ張り役かの感を受ける、朝日の記事としては、どうした風の吹き回しと、こちとらとしては面食らう。

  とはいえ、云われてみれば、同紙の同日付け11面では、
 『下請けいじめ対策本腰 経産省 東芝子会社名を公表』
との見出しが目に止まった。

  この記事によれば、
 『経済産業省は23日、東芝子会社の照明器具メーカー東芝ライテックが、下請け13業者に計約3500万円の値引きを強要していたとして、下請け代金支払い遅延等防止法に基づき、公正取引委員会に措置を請求した。
  公取委は事実関係を調べ、値引き分の返済や再発防止策の策定を同社に勧告する。  「成長力底上げ」を掲げる政府として、下請けいじめの取締り強化をアピールする狙いがあり、大企業は取引の見直しを迫られそうだ。
  …甘利経産相は今月、日本経団連や日本商工会議所にも下請け取引適正化を求めている』とある。

  こうして見ると、安倍政権の格差解消策への取り組みは、少しは本気なのだろうか。
  本気だとすれば、近頃これほど結構な話はないではないか。

  だがしかし、美味い話には裏が有るとも言う。

  だとすれば、それは、念願の憲法改正への反対の声を上げる左巻きとかの度し難い輩を、分断するための飴ということだろうか。

  いずれにしても、物事の全ては結果のいかんだ。

  ならば、度し難い左巻きの一人としては、今しばらくは、高みの見物を決め込むしかないということだろうか。

  そして、今頃、同胞の日本人なんか、ネジの一つかとお思いの、御手洗経団連会長閣下は、自分らが綱を曳いてる積りの血統書付きのビーグルポチが、話が違う方向に行きそうなのを見て、おっとどっこいこりゃどうしたと、びっくり眼(マナコ)のホーホケキョだろうか。

と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか。



東京都政は石原都知事のおもちゃ?―“新銀行東京”の巨大赤字!―

2007-03-25 12:17:12 | 時事所感
3月24日(土)曇り。夕方より小雨、暖。

 朝、郵便受けを覗く。新聞でいっぱいである。土曜日の朝日は、折込のあんこで、はちきれんばかりだ。なるほど少しは景気が上向いているということか。そして、もう一紙、赤旗日曜版が入っている。日曜版だというのに土曜に配達されるのはどういうわけだろうといつも一瞬頭をよぎる。

 この日曜版、義理で取らされ始めて2年近くなるが、最初の頃は、どうせ大企業からもっと税金取れ、それを福祉にもっと回せの決まり文句の羅列だろうと半ば馬鹿にしていた。

 しかし、最近、石原都知事の税金豪遊問題とか、偽装請負の実態等、他の大新聞では見られない丹念な追跡調査記事を散見するようになり、一目置く感じで、今日は何やらんとページを開くようになった。

 今朝もこんな大見出しが目に飛び込んできた。『あ~もったいない1000億円 石原知事 新銀行 破たん寸前 自民・公明 民主が礼賛』とあった。

 そしてリード記事には、『東京都民の税金1千億円が出資された「新銀行東京」が、事実上の経営破たんにおちいっています。開業からわずか1年半で累積赤字は何と456億円。このままでは2、3年で資本金を食いつぶしかねない重大事態です。東京都の元幹部さえ「誰もが失敗すると思っていた」という新銀行がなぜ、設立されるようになったのか…。』とある。

 さらに記事を読むと、『新銀行の開業は2005年4月。石原知事は記者会見で「ほかの銀行では逆立ちしてもできないことをやろうと思っています」と胸をはりました。…
ところが、昨年9月の中間決算で、回収不能損失額は想定の3倍の58億円。しかも預金5436億円に対して貸し出し残高は2349億円。預金に対して融資が大きく伸び悩み、融資先がなく、今や当初新銀行に創設に関与した副知事が、大手企業にグループ企業で融資を受けてくれと勧誘して歩いているという。
 「これでは経営が苦しくなって当然」と大手銀行幹部は語る。
  …都庁内でも「知事と知事側近以外はみんな反対だった。しかし、オール与党が賛成で、知事のおもちゃと考えれば1千億円は安いもんだという雰囲気でがっかりした」と都元幹部職員は振り返ります。…』とあった。

 日本一の金満東京都は、何と鷹揚なことだろうか。“知事のおもちゃと考えれば1千億円は安いもんだ”とはどういうことだろうか。

  これでは、今、財政破たんで財政再建団体として今後20年近くも借金返済で苦しまなくてはならない夕張市の借金は、高々600億円にしか過ぎないということになるではないか。
  同じ日本国内でありながら、じっとしていても景気が上向けば自然増収が6000億円とかの東京都。だからと言ってこんな天に唾するような、言辞が許されていいものだろうか。
  東京都民は、ここまで愚弄されても、石原都知事と、その側近並びに石原知事の得体の知れないオーラーに、何とかしがみついていたい都議会与党のぶら下がり議員を選びつづけるのだろうか。

  そして、この“新銀行東京”の創設秘話と巨大赤字の顛末について、そのアイディアの提示者であった大前研一氏は、3月8日の『企業リスク対策(第68回)”東京都の銀行“、巨大赤字の真相SAFTY JAPAN「コラム」日経BP』で次のように書いている。

  これによれば、石原氏は大前氏のアイディアをたちまち換骨奪胎、似ても似つかないものにしてしまい、大火傷をしたことが、よく分かる。

 ■ 東京都銀行の巨大赤字 大前研一

http://jp.f108.mail.yahoo.co.jp/ym/ShowLetter?MsgId=2121_8786647_2438_1598_5671_0_14941_13607_3696536227&Idx=4&YY=39340&inc=25&order=down&sort=date&pos=0&view=a&head=b&box=%c6%fc%b7%d0%a5%d3%a5%b8%a5%cd%a5%b9%b4%d8%b7%b8


ー追記ー
 上記、58億円の貸倒金の中には、都内や近県で詐欺を繰り返していたリフォーム会社に融資したものもあるという。いかに杜撰な貸し出しをしていたかということである。
 しかも、その85%は創業時の2005年4月から12月に集中しているという。
 
そして、今一つ興味を誘われるのは、新銀行東京のホームページで公表されている同銀行の株主構成である。
 筆頭の東京都が84.22%を持つのは当然として、日立製作所、NTTコミュニケーションズが各2.11%、あいおい損害保険が、1.69%、信金中央金庫0.97%、についでオリックス、鹿島、大成、三井住友海上火災、日興コーディアルグループが各50000株の0.84%となっていることである。

 これを一覧すると、これらの企業がいかに東京都日頃の付き合いが深いことを物語るものではないだろうか。

 でなければ、中には金融業とは一見関係のない、営利に聡いこれら企業が、大手銀行がその先行きを危惧したような、殿様銀行に誰が大枚出資するだろうかということだ。
 特に、鹿島は、都が進める秋葉原の再開発に深いかかわりがあるとの噂を聞いた覚えがある。

 さらに言えば、これらの出資に対して、しかるべき配当がなされるのであればいいだろうが、もし赤字が今のまま累積して、倒産整理となった場合、都は、これら出資者に対して、その損失の見返りをどうつけるのだろうか。
 まさか、「ごめんなさい、見込み違いでした」、だけで済むものだろうか。

 大体、民間企業との関係については、何事にも公正中立を求められる地方自治体が、出資の形とはいえ、特定民間企業と組んで何か事業を行うこと事態、地方自治法の建前から、また行政の姿勢ととして、いびつな本来あってはならないことではないのだろうか。
 このことを、問題にしない識者とは何なんだろうか。

 哀しいかな、山家の隠居は、禿頭をただ振ってみるしかないのである。

都知事選の幕上がるー見渡せば枯れ木の山の賑わいか!ー

2007-03-24 01:24:20 | 時事所感
3月23日(金)晴れ。朝から8度、日中は20度近くなる。暖。

  今朝のアサスパ。待ってました。都知事選の幕上げだ。蓋を開ければ候補者は、最多の14人とか。

 その内、朝日新聞で主な候補者とされた方々をと見れば、最長老は78歳、ドクター・中松氏。次が74歳の石原現職閣下。その次が閣下のご親友と自称なさる73歳の黒川一級建築士。そして一寸下ったところで、ぎりぎり50台の浅野前宮城県知事と吉田元足立区長さんということになった。

 何だか拍子抜けする、炭酸の抜けたサイダーかラムネみたいな顔ぶれではないか。首都東京の顔を争われるには、これまでに比べて、余りにも華がないとは言えまいか。
 
 アサスパのカメラが、先ず石原閣下を追った。最愛の息子か、伸晃議員から選挙カーの上で紹介を受ける。
 これまでのような石原軍団の大げさな襟巻きトカゲに包まれたような派手さはない。
 そして第一声を上げに向かった立川駅前。首都循環道路の整備をお訴えになる。結構な数の聴衆だ。次々に握手を求める御婦人達。まだまだ人気は衰えない。少々の税金での豪遊つまみ食いなど、さらさらお気になさらない鷹揚な方々ばかりなのだろうか。
 次に、現れたのが新橋駅前。そこから何故か?車を捨てたご一行は、改札くぐって山の手線の電車の中へ。閣下は憮然としてつり革におつかまりになって窓外を見やる。74歳のご老体に席を譲る乗客は居ないのだ。
 そこには、かっての倣岸不遜の面影はどこにもなかった。何だか気弱な、お人違いのような、ひたすらお詫び行脚の趣を見るは、山家の隠居の僻目だろうか…。

 これでは、「ご老体、週に3っ日といわず、知事なんかお辞めになって、毎日が日曜日と、晩節をまっとうされては」と、思わず諫言申し上げたくもなるではないか。

 ところで、ここでちょいと思い出すのは、同じご老体でも、当時の自民党は若造実力小沢幹事長に、こけにされてたまるかと、真っ向法体操で、日頃、鍛えしご老体をUの字に曲げて見せて、大向こうを唖然とさせた鈴木元知事の気迫振りとは、何と見劣りすることか。

 次に画面に飛び出されたは、浅野先生。こちらは、何が何でもあの都庁タワーによじ登らんとキッと見据えての選挙事務所前からの第一声だ。どうしたわけか聞いてる筈の聴衆が一人も映らない不思議さ。
 そして次は、築地市場を、握手してまくりの駆け足姿。せめてお爺いちゃま閣下とは、ここが違うかとの見せどころだろうか…。
 だが、どうだろうか。レッサーパンダが、眼鏡をかけて無理に笑顔をつくったような、あのお顔では、首都東京の看板になるだろうか…。

 三番手に映ったは、真っ白い箱のボディーにまん丸お窓を開けた選挙カーに、すこぶるご満悦顔の黒川一級建築士。銀座では、偶然出会った振りしての、若尾文子大女優奥様との仲良しツーショット。
 そして、お次は、隅田川か中川かを、ご自慢のクルーザーを自ら梶を握っての川浪蹴立ててのクルーズ姿。橋の上では道行く人がアングリアである。それをめがけて老青年は片手を上げて打ち振られる。
 何だか楽しくてたまらないお爺ちゃん坊ちゃまのはしゃぎようだ。

 さても、つくづく山家の隠居の遠目には、見渡せば枯れ木の山の賑わいに、花芽いずこぞ。

 これで4月の8日には、どんな姥桜が咲くのやら…。

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。
 
ー追記ー

 忘れていました。今、読み返していましたら、吉田先生の丸い笑顔も見たような気もいたしました。
 こちらは、「反応いいです」とにっこり、いつもの一言だったようでした。

NHKスペシャル「“学校”って何ですか?」を視る。今の教育の欠落を思う!ーその2ー

2007-03-23 01:27:52 | 時事所感
 3月22日(木)晴れ。

 前回の続き、NHKスペシャル「“学校”って何ですか?」第2部では、
『番組内容:▽政府が“教育再生”を掲げ様々な改革を進めようとしている今、学校現場を見つめ直し、学校が果たすべき役割、真に必要な改革とは何かを問う。テーマは公立の小・中学校。
 詳細: ▽徹底生討論・公立学校 ▽いま何を改革すべきか 学校評価・ゆとり教育・教師の質 ▽現場の声を中継で』とあった。

 すなわち、前記現場リポートを踏まえての、文部科学大臣…伊吹文明,経済同友会代表・日本IBM会長…北城恪太郎,国際基督教大学教授…藤田英典,児童文学作家…あさのあつこ,杉並区立和田中学校校長…藤原和博等による討論であった。

 こちらで一番印象に残った発言は、杉並区立和田中学校校長…藤原和博氏のものであった。
 氏は確か、リクルートの部長職から杉並区長から乞われて民間人から始めて公立中学校の校長になって話題を呼んだ方だった。

 氏が校長を勤める和田中では、学校支援者として、地域ボランティア制を採用しているという。地域の大学生や小父さん小母さん、お爺さんお婆さんに学校での授業以外の諸々に協力してもらえる人に登録してもらい、大学生には部活を、その他一般の方々には図書館で司書のような役割をしてもらっているという。これにかかる人件費が年間約6百万円とか。先生一人増やすのに懸かる年間人件費12百万円の半分で済んでいるという。
 反対に学校に常時先生と同数の18人の支援者いることになり、イジメやなにかがあっても発見が早いという。また、生徒たちにとっても先生以外の地域の人たちとの触れ合いが良い刺激になるという。
 
 これなど、その気になれば、早速どこの地域でも可能な対応策になるのではなかろうか。

 また、氏によれば、学校長の権限で現行の枠組みの中でもいくらでも創意工夫でできることがいっぱいあるという。 

 ところが、和田中へは、全国から視察に来る校長や教育関係者は、たくさんいるが、ついぞこれといった改革が行われたと聞くことは無いとか。
 それは校長先生になる方が、あと数年で定年という方が多く、今更何かをやろうなんて気は無く、とにかく在任中は無事すぎることを願っているひとばかりだとのこと。
 今、民間から3千人の校長を採用すればたちどころに学校は変わると説く。

 そしてさらにネックは、地域の教育行政の要ともいうべき教育長が、たいていは役人の上がりポストとなっており、次はじっとして市長の座なんかを狙うばかりで、教育行政なんかには全く関心の無い人が多すぎるとか。
 なるほど、聞いていてよく想像でき納得できる話ではないか。

 思えば、大阪学芸大付属校での乱入生徒惨殺事件以来、各学校の警備は厳重になり、部外者が容易に学校に近づけない雰囲気に極端になり過ぎてはいないだろうか。
 今や学校は、地域の中でのブラックボックスとさえなっていないだろうか。そこで教師は、生徒の親や地域の人々から疑心暗鬼の目にささらされて一層孤立し、苦しんでいるのではないだろうか。

 それにしても、今、先生が一生懸命やろうとすればするほど、その仕事が多岐に渡り何と煩雑で多忙なことだろうか。
 
 福島県郡山市の中学校の先生をカメラは追っていたが、受け持ちの教科担任は勿論、授業の合間の縫っての校舎内の見回り、放課後や休日の部活指導、不登校生徒宅への夜間の訪問指導、きめ細かく求められる学習成績評価、その上、今話題の給食費未納の親への納金のお願い電話だ。
 さらには、相次ぐ政府の猫の目のように変わる教育行政にから各種報告文書の作成もある。
 ところで、何故、給食費の未納催促まで学校の先生の仕事なのだろうか。こんな雑務を処理する学校事務員が配置されていないのだろうか。
 このことについては、以前何かで聞いた話だが、学校事務職員と教師の間には微妙な関係があると聞いた。そのようなことが、ネックになって本来は教師がしなくても済む業務をしていることはないのだろうか。
 とにかく、先生には長期の夏休みがあるとはいえ、これでは、全くたまらないだろうと深く同情した。

 このような実情に対して、伊吹文科大臣は、何とか先生の給与を引き上げ、周辺の事務を支援できる措置が講じられるよう予算要求をしていくと語っていた。

 結局、この番組での結論は、できることからやっていこう。そのためには、地域の力と自主性が大切であり、教育行政に関心をもつ地方自治体の首長を選んでいかなければ、ということに落着したようだった。

 しかし、この番組を視た限りでは、今、巷間云われている駄目教師問題の実態はほとんど報じられないままだった。そのためか、今一つ問題の切実さ、多面性、緊急性がピンと来なかったのは残念だった。

 むしろ、「マスコミはいたづらに何か問題を起こした教師のことばかりを、異常に報道しすぎる、実際には一生懸命やっている先生がいっぱいいるのに」と、伊吹文科相は、マスメディアのあり方に強い語調で抗議していた。

 私が、今、傍から垣間見て思うのは、今の初等中等教育が、余りにも多くのことを求められすぎて、何か根本のものを置き去りにしているのではないかということである。

 古い言葉ではあるが、初等教育に必要なのは、読み書き算数。体操、図画・工作に音楽。それにきちんとした服装、礼儀作法、諸々のものへの慈しみの心を育てることではないだろうか。

 今、遥か昔、自分の子育ての頃、買い求めてそのまま積読にしてあった「子育ての記1-東洋文庫285平凡社」を、取り出してパラパラとめくった。

 その中に、養生訓で著名な貝原益軒の言葉として、
『幼き時の教えは、事繁(シゲ)くすべからず。事繁くして煩労なれば、学問を疎んずるものなり。むずかしくしてその気を屈すべからず。年数と性質と応ぜざる事を、強いて責むべからず。年頃に従い応じて教ゆべし。また生まれ付きを見て、その過ぎたるを抑え、足らざるを補いて、中(チュウ)に叶わしむべし。性質の悪しき所を、常に誡め匡すべし。およそ小児を育つるに、義方の訓をなすべし、姑息の愛をなすべからず。怠るを許す事なかれ。気随をゆるし、私欲を長ずべからず。』と説いている。

 そして何より今の教育に欠けていると痛切に思うのは、“倫理(人間としてのあり方、やっていいことと悪い事のけじめ”)である。

 幕末から明治にかけて、活躍し歴史に名を刻んだ偉人はもとより、共に偉大な時代と明治文化を創った多くの人々。その人たちの大部分は、今のような長期間の教育を受けてはいない。寺子屋で或いは藩校や私塾でせいぜいが17、8歳までに一通りの学問を修めて、各自、若くして立派な業績を上げている。彼等は果たしてどんな学問をおさめたのだろうか。

 幕末ともなれば洋学と言われる今の西欧人文科学に通じるものもあったであろうが、その根底は、四書五経と呼ばれた孔子の論語を中心とした、儒学、倫理学が徹底的に叩き込まれたからではなかったか。

 今の教育には、枝葉末節とは言い過ぎかもしれないが所謂個々の術学ばかりがあって、実践的な倫理学が大きく欠落しているために、大らかで暖かい人間味に富んだ人材が育たないのではないだろうか。

 論語なんて何を今更、カビの生えたよなものを持ち出してといわれるかもしれない。
 だが、そのカビやチリを払って、二千年の風雪に磨きぬかれた人間としての知恵に学び直すべきときではなかろうか。
 私の頃でさえ、論語は、高校の漢文の時間にほんの一節を読み齧っただけだった。少なくとも中学生のころから、じっくり時間を割いて専任の先生を配置した授業ができないものだろうか。

 参考までに、孔子自身が、四書五経の教育効果について次のように語っている。 

 以下、引用は、「四書五経―中国思想の形成と展開―竹内照夫著ー東洋文庫44平凡社」による。

孔子の教育意見 『礼記』の経解偏に孔子の言葉として、

温柔敦厚は詩の教えなり。疎通知遠は書の教えなり。潔静精緻は易の教えなり。恭倹荘敬は礼の教えなり、属辞比事は春秋の教えなり。
とある。五経の教育上の効果を述べたもので、
"詩経"の学習は、人心をやわらげ、情愛を深めさせる効果がある。
“書経”は、歴史に通じさせ、知識を豊にさせる。
"易経"は、精神を鎮め、思考を精緻にさせる。
礼の教育は、身を引き締め、態度を慎重にさせる。
“春秋”は、事件と事件との関係を正確に記述する能力を会得させる。

(そしてさらに、それぞれについて、誤った勉強の仕方をするとどのような弊害が出るかまで忠告している。)

 要するに、五経の類の教育は、情操を豊かにし、知識を増大し、思索や表現の力を強め、礼儀を習得させ、学生を全人格的に教育してその完成を期するものだというのである。

 何と、すばらしい内容ではないだろうか。こんな宝物をどうして、本棚の奥深く塵を被ったままにしておくのだろうか。

NHKスペシャル「“学校”って何ですか?」を視る。学校は地域の鏡か!。ーその1ー

2007-03-22 18:26:07 | 時事所感
 3月22日(木)晴れ。昨日、甲府にも開花宣言あり。

 昨夜、NHK総合で、7時半から、9時からのニュースの1時間を挟んで11時半まで、NHKスペシャル「“学校”って何ですか?」1部、2部を視た。

 前半の1部では、
『番組内容:▽政府が“教育再生”を掲げ様々な改革を進めようとしている今、学校現場を見つめ直し、学校が果たすべき役割、真に必要な改革とは何かを問う。テーマは公立の小・中学校。のもと、▽私立に対抗・公立改革 ▽中学選びに悩む親子 ▽伸ばす学校 支える学校 あなたならどちら? ▽公立は学力を守る最後の防波堤か』を追ってのカメラリポートであった。

 冒頭、紹介されたのは東京江戸川区での4年前に始まった学校選択制により、新興団地内での明暗を分けた隣接する中学校の事例であった。
 公団・公社の分譲・賃貸マンション群の中に立地する清新第一中学校と都営団地に立地する第二中学校。
 前者は、大手企業や公務員の子供が多く、教育熱心な親に育てられ帰国子女も多く学力が高い。
 こちらへは入学希望者が殺到し学区外からの場合は4倍の競争率とか。方や後者では、一時校風が荒れた時期の評判が未だに尾を引いて、希望者が集まらず本来の定員が埋まらず、空いた教室を閉鎖する有様である。

 一中の校長は、生徒のレベルが高いので指導が楽だと語る。一方の二中の先生は大変である。同じ地域に住んでいる生徒が、始めから希望のところに行けなかったという屈折した気持ちを持って入ってくる。その心のケアから始めなければならないのだ。
 二中の教師達は、何とか名誉回復(?)のため、少数授業とか、きめの細かい工夫をし、入学した生徒たちも今では満足しているのだが、なかなか一旦下された地域の風評はくつがえせない。

 この学校選択制、東京で一番最初に採用したのは品川区の小学校ではなかったか。この事例を紹介したTV番組を視た記憶では、その結果、区内の小学校間で凄まじい競争といっても校長や教師の必死の様が映されていた。

 確かに子供がいじめにあったりした場合に、当該の学校に善処を申し入れても真剣に取り組んでくれないような場合、決められた学区内の一校にしか行けないのでは、救いがない。
 学校側としては、黙っていても学区内の生徒は自分の所に来るしかないと思えば、胡坐をかくことにもなろう。

 だが、それだからといって、このような無制限の自由選択制に公立学校をまかせておいていいのだろうか。税金の効率的、公平な使い方という面からも問題があるのではないだろうか。

 上記の事例の江戸川区清新町団地。かって私もそこの公団の分譲に5年余り住んでいたことがある。直ぐ傍には公営住宅団地があった。両団地とも新設の頃は大差なく整然としていた。だが数年もしないうちに、公営団地の方はみるみる荒廃が目立っていった(注:現在の状況は見ていない。)。
 何故か?。建てっぱなしで大団地にも関わらず管理が住民の自治会にまかされていて、専任の管理人がいないからだ。周辺の植え込みの草は伸び放題。ガラスは割られたまま、切れた廊下の蛍光灯もそのまま、共用通路やエレベーターの落書きはそのまま。
 これでは、そこに暮らす青少年の心が荒んでいくのも自明ではなかろうか。

 方や、公団側では、常駐の管理人がいて、敷地内の清掃にも人を雇い、季節季節の植え込みの剪定、計画的な外装の点検等で、新設当時の整然とした中に経年による植え込みの成長が落ちついた佇まいを加えていく。

 住環境の住民の心へもたらす影響はきわめて大きいものがあるのではなかろうか。
 役人の発想には、入れ物は作っても、それをメンテナンスしていく発想がないのだ。一度、造ったら造りっぱなしというわけである。美術館や博物館を造っても、中に展示するものは、開館時のものだけ。後は微々たる予算しか付けず、目新しいものがないため、リピターなど望むべくもなくたちまち人の足は遠さかり、赤字となって閉鎖が話題となることの何と多いことだろうか。

 話がとんでもない方に脱線してしまった。

 だが、物事はそれ自体、単独で起きるものではない。周囲の諸々の複合した結果の、のっぴきならなくなった現象として、誰の目にも明らか問題となるのではなかろうか。
 
 こうして見ると、公立学校問題は、結局地域問題、地域コミュニティーのあり方如何にかっかってくるのではなかろうか。

 次に紹介された事例は、兵庫県尼崎市の事例だった。
 こちらでは近年の経済不況、地域経済の地盤沈下が、子供の学力にも、如実にその影響が現れているというものであった。
 子供たちは以前に比べて、家庭学習をしてこなくなったという。その背景には、生活にゆとりが無くなった親が、子供に学校でのことを聞いてやったり、宿題の相談にのってやることがなくなったためだという。
 今やここの学校では、義務教育での最低限のことを学ばせることを目標に、根気よく取り組んでいるという。

 これらの事例を概観すると結局のところ、教育問題は住環境や親の経済格差問題に帰着するということ、いわば自明の結論に達するということのようだ。
                              (この項続く)

今、この世で一番恐いのは、地震、雷、火事、親父が無くて刑事警察か!

2007-03-21 16:04:11 | 時事所感
 3月21日(水)晴れ。

  過日、大きく報じられた『平成15年の鹿児島県議選に絡む公選法違反(買収)事件で、12人の被告全員が無罪』となった事件捜査。
  今、その捜査の実態が明らかにされるのを聞いて、改めて今時、こんな噂に聞く戦前の悪名高き特高警察もどきの人権無視の取調べが行われていたのかと思うと、背筋の寒くなる思いがした。

  さらに、そこへ持ってきて今度は、富山県警が強姦(ごうかん)、同未遂容疑で02年に逮捕した男性(39)が2年9ヶ月服役仮出所後に、真犯人が名乗り出て、無実と分かった冤罪(えんざい)事件である。

 どうしてこうも杜撰な捜査の結果が、次々と明らかになっていくのだろうか。

 両事件のそれぞれについて、アサスパに出演の元検事経験者で弁護士のコメンテーター氏が、次のようにコメントしていたのが耳に残った。

 『…選挙違反を挙げるというのは難しいんですよ。警察には上の方からノルマみたいなものがおろされてくる。そこで捕まえようとなると、なかなか金の受け渡しなど証拠が掴みにくい。するとどうしても見込み捜査で見当つけて被疑者の自白を得るしかない。そこで無理をしてしまう…』

 また、後者のようなケースについては、
『起訴しようという場合に、検察側は集めた証拠の内から、捜査側の見立てた筋に沿った起訴事実を証明するに足る証拠のみを裁判所に提出すればいいんです。集めた証拠を何が何でも一切合切揃えて出す必要は無い。またその開示義務も無い。
 この場合も、被疑者の足の寸法と現場に残された犯人と思われる足跡の寸法が違っていることが分かっていても、それを証拠として示す必要はないのです。
 だいたいにおいて被疑者に有利になるような証拠は、出さないんですよ。だから弁護士さんは大変ななんですよ。…』と。

 これは驚き桃の木山椒の木である。

 過日、アップした(07'、1.28付け)『「ロシア 新“罪と罰”~追跡 警察と司法の腐敗~」を視る。何と恐ろしい国だ!』、現ロシア、プーチン政権下の暗黒警察行政ではあるまいに、この公明正大な国民が主権者とされているはずの民主主義国家日本で、選挙違反についても、交通警察のネズミ捕り違反切符切り競争(?)なみののノルマが課せられるなんてどういうことだろうか。

 このコメンテータ氏の発言がどこまで、真実であるかは、私がごとき山家の隠居に詮索すべき術もないが、少なくとも公共の電波を使ってお話されていることを、頭におけば全くの虚言であるはずはないだろう。

 とすれば、事は、現行、日本の刑事行政の進め方に構造的な問題点が深く内在していると見るべきではないだろうか。

 また、具体的な問題としては、刑事訴訟手続き、警察官職務執行法等にも多くの問題が潜んでいるのではないだろうか。

 さらに、これ等事件の取り調べに当たった関係者の処分の軽さである。元の県警本部長が口頭での厳重注意処分だと聞く。現場の直接の担当者には何のお咎めなしとか。多くの人の自由と名誉と二度と還ってこない貴重な人生の時間を奪い、運命を狂わせておいて…である。

 これではどんな取調べをしようが手柄たて得ではないか。お手柄たてるためには、人権なんてかまっちゃいられないではないか。

 もっとも、反対に人権侵害したときの罰を、いたづらに重くすれば、誰が無理して真剣な取調べをするものかという風潮も考えられる。
 被疑者の中には、真犯人であっても、通常の取調べでは、梃子でも事実をしゃべらない者も実際は多いことだろう。
 
 結局は、自白にたよるのでは無く、丹念な事実証拠を集め有無を言わせないほかないのではないか。

 要するにどのような取調べが行われているのか、この点が、明らかにされ人権を阻害し、冤罪を生じがちな問題点が改善されない限り、今後も同様の事件は、十分繰り返し起こり得るのではないか。

 少なくとも、さし当たっては、捜査機関が収集した証拠は、裁判官へはもとより、当該被告の弁護士には全面的に開示すべきではないか。それらの捜査資料は、税金を使って集めたものであり、国民共有のものであるばずではないか。

 取調べの状況はすべてビデオ録画して、これも同様に関係者には、開示すべきではないか。

 何故、こんな自明のことがすぐにでも実行に移せないのだろうか。

 また、個々の捜査関係者の資質の面について言うならば、真に民主警察を目指すなら、警察官や司法に携わる人たちへの研修で、過去の冤罪事件について、謙虚に学習させているのだろうか。

 そして、これも高額な歳費や政務調査費、高級宿舎等至れり尽くせりの特権を享受されていて、日頃、人権問題を声高く叫ばれる国民の選良たる野党の先生方は、市民の誰でもが、いつ同様の災難に遭わないとも限らない日常的な足元の人権侵害の陥穽をどうして、もっと問題視し、果敢に取り組もうとなさらないのだろうか。

 さらに、ここでも思うのは、警察行政のお目付け役であるはずの公安委員会の無能無力ぶりである。こんな西部劇に出てくる保安官の胸に輝くスターバッジほどにも役立たずの金食い虫は、トットと一掃すべきではないか。

 それとも真に建前どおりの役割を期待するのであれば、公選制にして、警察官に対して強い監督権を有する専属職員を配し、実効力を持たせるようにすべきではないか。

 戦前、庶民と呼ばれた国民にとって、一番恐い存在は、徴兵制の下で、帝国軍隊ではなかっただろうか。それと治安維持法の下、人権・思想弾圧の権化たる特高警察ではなかったか。警察はそれらの強圧絶対的な存在の陰で、やや市民よりの穏やかな存在であったのではないか。

 それが、現憲法のもと、天皇陛下の赤子、臣民の立場から一躍大出世した主権者になったはずの国民様が、その僕である筈の警察司法官僚の一部の専横に怯えなくてはならないとは、一体、どういうことだろうか。

 国民の多くがこの国家権力の欺瞞性に対して、何故、声を大にして、その下克上ぶりを糾弾しようとしないのだろうか。

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか。
 
<参照>

■ 鹿児島県議選 元本部長を厳重注意 警察庁長官、ずさん捜査に異例の“処分”3月9日8時0分配信 産経新聞

 あ警察庁の漆間巌長官は8日、当時の同県警本部長、稲葉一次・関東管区警察局総務部長を本庁に呼び、「事件の捜査全般の指揮監督に十分でなかった点がある」などと文書で厳重注意した。鹿児島地検が同日、控訴の断念を正式に発表。警察庁の処分はこれを受けたもの。控訴期限が過ぎた10日午前0時に全員の無罪が確定する。

 文書による長官名の厳重注意は、国家公務員法上の懲戒処分とは異なる業務指導だが、個別の事件の捜査指揮について本部長が受けるのは極めて異例。

 また警察庁は8日、「強圧的な取り調べに迎合し、苦し紛れに虚偽の供述をした可能性がある」と自白の信用性を全面否定した鹿児島地裁判決を踏まえ、緻密(ちみつ)で適正な捜査の徹底を求める緊急通達を全国の警察本部に出した。

 通達では、取り調べ時に(1)容疑者の年齢、性別や境遇、性格に応じて心情を理解しつつ真相を解明する基本姿勢を堅持する(2)供述内容が客観的事実と矛盾しないか、供述の変遷が合理的に説明できるか、慎重に吟味する(3)容疑者の供述のみに頼ることなく、アリバイ捜査などの裏付け捜査を十分に尽くす-などを指示した。

 事件を受け漆間長官は同日の会見で、県警本部長の役割について「全体を見渡し、本当に事件として成り立つかを判断する。早く引くか、進めるか言える資質がなければ本部長としては失格」と述べた。

 注意を受けた稲葉総務部長は「今回の無罪判決を重く受け止めている。」話しているという。

 控訴断念の理由について鹿児島地検の水沼祐治次席は「(認定された)アリバイを覆すのは困難。証拠全体の吟味が不十分だった」とし、「被告や関係者に申し訳なく思っている」と謝罪した。

                  ◇

【用語解説】鹿児島の公選法違反事件

 平成15年4月の鹿児島県議選に立候補して初当選した元県議らが、選挙前の同年2月から3月にかけて支援者宅で会合を開き、11人に現金計191万円を渡して投票を依頼したとして、買収と被買収双方の計13人(公判中に1人死亡)が公選法違反の罪で起訴された事件。元県議ら7人は捜査段階から一貫して否認。自白調書に署名した6人も「無理やり押し付けられた」と公判で否認に転じた。鹿児島地裁は2月23日、被告全員に無罪を言い渡した。

■ 刑期終えた男性の無実判明! 富山県警が大失態 01/19 20:58

 富山県警は19日、同県内で平成14年に発生した強姦(ごうかん)と強姦未遂の2事件の容疑者として逮捕し、懲役3年の実刑判決が確定した男性が無実だったことが分かったと発表した。男性は2年9カ月間服役し、17年1月に仮出所した。
 県警は現場に残っていた足跡が男性のものと一致しないことを認識しながら逮捕していた。
 両事件について県警は19日、新たに強姦と強姦未遂の疑いで、松江市西川津町、無職、大津英一容疑者(51)を逮捕した。
 県警などによると、男性は逮捕前、いったん容疑を否認したが、その後は認めたため逮捕、送検された。公判では起訴事実を一貫して認めていた。富山地検は「県警が作った似顔絵が男性と酷似しており、担当検事が客観的証拠と思ったのだろう」などと説明した。
 大津容疑者は昨年10月、別の強姦未遂事件で富山県警に逮捕され、11月中旬、同署の取り調べ中に平成14年の両事件の犯行を自供した。足跡が一致したことから真犯人と断定された。
 会見した県警の小林勉刑事部長は「裏付け捜査が不十分だった。男性には謝罪が必要だが、所在がつかめない。親族には17日に謝罪した」と話した。男性を担当した山口敏彦弁護士は「(男性は)私にも『自分がやった』と言っていた」などと釈明した。

“罪無くして斬らる!” ー幕臣、小栗上野介のことー

2007-03-20 00:36:40 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
3月19日(月)晴れ。終日大気乾き寒い。

  先週の木曜夜、NHK総合で木曜時代劇「またも辞めたか亭主殿~幕末の名奉行・小栗上野介」(後編)を視た。何だか前にも視たことがあるような気がして調べたら2003年正月放送の再放送だとわかった。

  現役時代、昼休みに何気に入った小さな本屋の棚で「最後の幕臣 小栗上野介」(星 亮一著中公文庫2000年8月刊)を見つけて買った。
  一読、こんな立派な人物が居たのかと驚いたことを思い出した。

  冒頭のTVドラマはそれはそれとして面白かったが、それはそれとして改めても一度この本に当たってみたくなって書棚をさがしたら、直ぐに出てきた。

  小栗は、1860年、井伊大老に抜擢されて日米和親条約批准交換遣米特使の目付けに選ばれ、米国の新聞で将来の日本のリーダーと評価された人物。
  中でも米側を驚嘆させたのは、日米為替レート交渉における小栗の手腕であったという。それまでの金銀為替レートが、日本では1:5が米国では1:15のため、アメリカ人にとっては濡れ手で粟の3倍の儲け。日本の金が湯水の如く流失したという。

  幕府はこの交換比率の是正を彼に託したのだ。交渉の席上、日本の小判とアメリカドル金貨の金の含有量を調べることになった。日本側は、小さな天秤ばかりを持ち出し見事にその差異を算出し、日本側の金属分析技術の精緻さに、米側を驚嘆させ、ここに交換比率の是正が成ったという。

 今の、種々の外交交渉の場でかかる賞賛の評価をほとんど聞くことがないのと比べて、どうだろうか。この時、小栗は33歳の若さである。

 そして何と言っても、彼の最大の功績は、アメリカの造船所や海軍力、製鉄工場を見て、日本との工業力の差に驚き、何としてもこの差を埋めなければと思い、帰国後、他の使節が攘夷の世論を恐れて、海外での見聞を何一つ主張しなかったのに対して、小栗のみは、手始めとして海軍力の充実を図るため造船所の建設を幕閣に提言するも、そんな金がどこにあるかと相手にされない。だが慶喜の認めるところとなり、ようやく許され独り金策に奔りフランスから600万ドルの借款に成功し着工する。

 同僚は、こんなものに大金を費やしても、幕府がどうなるかも分からない時、何になるんだと揶揄する。これに対して、彼は、平然として、同じ売家でも土蔵付きならいいではないか。きっと将来この国の役にたつ筈だと語ったという。

 彼はまた、幕府のほとんどの役職を目まぐるしく経歴し勘定奉行としても大いに手腕を発揮した。「金は、どうせいつでも足らないのだ。であれば一つこれはということになればいくらでも何とかなるものだ。それが反って無駄な出費を省くことになる」と言ったという。

 今の財政赤字にほとんどなす術を知らない現政府の体たらくを見たら、小栗だったらなんというだろうか。恐らく彼を冥土から引っ張り出して、財務大臣をやらせれば、たちどころに解消するのではというは、買いかぶりだろうか。
 
 そんな先見性と抜群能吏であったにも係わらず、三河以来の徳川家の立場への忠誠心が捨てきれず、討幕軍への徹底抗戦を主張して入れられず、役職を罷免されると、あっさり自分の仕事は終わったとばかりに、40歳そこそこの若さで、所領の権田村(群馬県、伊香保の傍)へ土着してしまう。以後は農事と将来有為の人材をそだてるべく子弟の教育に専心するつもりだったのだ。

 だが、そこへ官軍東山道軍がひたひたと迫る。官軍は、江戸から脱走した幕府抵抗派の一部がこの小栗と一体になることを強く恐れた。また徹底抗戦を主張したことを憎んだ。小栗野才腕を恐れた。官軍は、周囲の無頼や農民をそそのかし、一揆にしたてて彼の住む村を襲わせた。罠をしかけたのである。小栗は、自衛上村民を指揮してこれを退けた。
 
 官軍は得たりや応と無垢の庶民を殺戮し天皇に歯向かうものとして逮捕し裁判もせずに斬殺し晒首にしたのである。

 明治維新後、日露戦争。東郷元帥率いる日本海軍はロシア、バルチック艦隊を壊滅した。この時日本の主力艦船は英国製だったが敵艦に止めをさしてまわった中小艦艇は、小栗の起工した横須賀造船所で造船されたものばかりだったいう。

 東郷元帥は、このことを深く心に止め、小栗の遺族を尋ねだし「小栗さんのお陰で勝てた」とその功を讃えたという。そのとき贈られた扁額が今も小栗の眠る権田村の東善寺に掲げられている。

 だが、未だに明治政府以来の日本国家からの正式な名誉回復,どさくさに紛れての虐殺に均しい行為への謝罪はないようだ。

 小栗の処刑が、まるで何かの封印を切ったかのごとく、幕末維新の一方の表舞台で六方を踏み出すのが勝海舟であった。

 私は、この本を読んだ後、倉渕村の東善寺を訪ねたことがある。山陰の小さな寺。その境内の一室に置かれた貧しいショーケースに納められた僅かな遺品。錆古びたピストル、皮の旅行鞄…ぐらいだったか。夭折とさえいえる多彩な才能を秘めた逸材、それが無惨にも、いやしくも官軍という名の公権力によって手折られた、何ともいえない侘しく惜しい思いで,そのとき一杯になった。
 
 今年は、小栗生誕180周年。没後140回忌に当たるという。地元では今も小栗を深く敬愛する人々によって、来る5月27日、東善寺http://tozenji.cside.com/で記念行事が行われるようである。

 冒頭のドラマも、地元の方たちのNHKへの大河ドラマへと言う熱い要望もだしがたく、その代わりに製作放映されたようである。

 小栗を復権させるには、未だにどこかに薩長藩閥政治の亡霊が潜んでいるのか、何か差し障りがあるのだろうか。 

 今の政治家、官僚の有様、日日、様々に報じられるのを見るにつけ、ついつい目は伝え聞く幕末有為の人士に目がいくは何と情けなくも悲しいことではないだろうか。
 それとも、亡くなってしまったものは、なんでも美しく哀切に見えるということだろうか。

ー参考ー
 
 次回知ってるつもり小栗上野介(2000.5.7放送)

 1860年、小栗上野介は日米修好通商条約を交換するための派遣団として、アメリカへと旅立った。 ... 総大将・徳川慶喜を中心に誰もが絶望にうなだれるなか一人、陸海軍並びに勘定奉行・小栗上野介が立ち上がり主戦論を叫んだwww.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000507.html

思い複雑ライブドアとホリエモン!ー一審実刑判決の怪ー

2007-03-16 23:53:15 | 時事所感
3月16日(金)晴れ。寒の戻りか終日寒し。

  朝、10時。この日特別に30分延長された、スパモニは法廷から走り出てきた男女三人のリポーターが、堀江ライブドア元社長、有罪です。実刑です。懲役2年6月です、と息せき切って告げてくれた。

 その詳報は下記のとおりである。
【視点】ライブドア事件 堀江被告に実刑 投資家“踏み台”に厳罰(産経新聞) - goo ニュース

 この判決を聞いて先ず感じたのは、随分、重いなということである。厳密な司法判断というよりは、一種の社会的リンチのように感じた。

 その背景にまざまざと浮かんだのは、フジTV会長だかの自社株を買い占められて、泣く泣く手を握らされてイヤイヤのしかめっ面である。
 彼は、今日の判決をどんな気持ちでお聞きになったのだろうか。
 「こんちくしょう奴、いい歳をしたこの俺様が、こんな兄ちゃん風情に手玉にとられて…悔しい!」というところだろうか。
 
 私は、半信半疑でライブドア株をなけなしのへそくりで弄び、大やけどした愚者の一人である。
 だが、それは自業自得と諦めている。

 がしかし、私にはどうしても納得できないことがある。
 昨年1月いきなり逮捕された男が、僅かその半年前には、大与党自民党の大幹事長閣下に「わが息子」と呼んで肩をだきすくめていたのである。
 小泉内閣の大参謀、竹中前大臣までが、若きチャレンジャーと誉めそやしたのである。
 与党自民党は、ホリエモン・ライブドア株を国民にご推奨になったのである。

 しかし、今日の判決では、詳しく読んだわけではないが、このことに一言もふれていないのではないか。

 今、問題になっている日興コーディアルのやったことも、ライブドア同様以上に悪質だと言われる一方で、早々とお咎めなしの方向へいこうとしている。
 その陰には同社の幹部が、今をときめく自ら最高権力者と自認されている方と極めて緊密な間柄にあると噂されている。

 こういうのを、世の中の常識では片手落ちというのではないだろうか。

 ところで、こうしてみると、ホリエモン氏は知らず知らずの内に、誰か、権力内の反対勢力の大物の虎の尾を踏んでしまったことが、運のつきということになったのだろうか。

 昨年の新興市場株の暴落は、ライブドア一社の粉飾云々ではなく、いきなり水をぶっかけた誰が仕組んだのかしるよしもない国策捜査のショックの方がはるかに大きかったのではないだろうか。

 現に捜査の中心にあった特捜検事(副部長)が、突如、職を辞してしまったのは何を物語っているのだろうか。

 彼は、朝日の記事の中で、「捜査情報が、事前に漏れたことにより手順が狂ってしまった。株式市場への影響を十分に配慮してやるつもりだった」と語っている。
 いつか、守秘義務の時効が成って、真実をお話いただくのを待つほかはないのだ。

 そして今、私に聞こえてくるのは、「目障りで生意気な小僧をたたきのめしてやった」という、どこかの、この国の権力者の一角にどっかと腰を据えた強欲爺さんの高笑いのような気がするのだが…。