蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

首相期待度ナンバー1男 「舛添要一氏」 の正体!?

2010-04-30 23:41:03 | 時事所感
4月30日(金)晴れ、暖。

 昨日発売の週刊新潮 2010年5月6・13日号ゴールデンウィーク特大号で、
『「片山さつき」インタビュー 総理期待度No.1「」という男の本性との見出しで、――弱きに強く、利用できるものは何でも利用する人でした。彼は「約束」を守らない。党首となった今、彼の真の姿がいずれ明らかになるはずです。』
なる記事を読んだ。
 
 このお方の好い加減さ、以前にも何かの記事で垣間見た事がある。だが、他人の憶測や伝聞記事では、そんなことか、でも本当はどうなのうだろうか…ぐらいに受けとめ半信半疑でもあった。
 だが、とにもかくにも2年半も正真正銘のご夫婦であった方の、奥様の方から、こうも赤裸々にお話になっているのでは、ほぼ間違いないことなのだろう。

 新しい愛人ができて結婚した相手が鼻についてきたら、大声を上げて威嚇しサバイバルナイフの刃先まで向ける男。
 しかも愛人に子どもができれば、その認知を巡ってのトラブルとか…。

 一方、この方もう10年ほど前になるだろうか。ご自分の認知症になった母親を身近にいた姉が面倒をよく見ないので、自分が東京と九州を往復して看護したことを、「母にムツキをあてるまで」とかの題名でご本まで出版なされていた。
 私もそれを読んで、偉いものだと大いに感服した覚えがある。だが、それも今、片山さつき氏の話を聴くと何処まで本当だったのだろうか思わざるをえなくなる。

 それにしても、世間の方々はこうした記事は眼にされることが殆どないのだろうか。週刊新潮にしたって発行部数はいまや数十万部もあるのだろうか。その程度では、このご本尊にとっては蚊が刺したほどにも応えないということだろうか。
 中吊り広告に大きく踊る見出しぐらいでは、人は、ああ、週刊誌が売らんがために、またあることないことセンセーショナルに書いているワイぐらいにしか受け止めないのだろうか。
 
 この世の中、何と多くの有名人が、その正体とはかけ離れた虚像で闊歩し、世の中を歪めているのだろうか…。
  
 もう少し、世間の多くの方々は眉につばをつけて、虚名虚像に踊らされないようにされたいものである。
 大手メディアもその実像を我々よりもよく承知しているのであれば、それを少しは臭わすように書けないものだろうか。
 少なくとも、その正体のいい加減さを知りながら、格好よく持ち上げて書き立てるのだけは少しは自粛してもらいたいものである。
 でないと、詐欺師の片棒担ぎをやっているようなことになりかねないのではなかろうか。

宰相の器とは?ーお粗末総理大臣閣下のお行列に思う!ー

2010-04-29 01:27:53 | 時事所感
4月28日(水)晴れ、暖。

 先週、15日(木)夜、8時から9時半、NHKハイヴィジョンでプレミアム8<人物> 100年インタビュー「元総理大臣 中曽根康弘」を視た。
 現役の時は、塀の上を向こう側に落っこちないようお上手にお歩きになっているとか、風見鶏とか、余り好い印象を持たなかった。

 しかし、今回、三宅民夫アナウンサーの物柔らかな口調での、よく整理された質問に答えるインタヴューを通して聴いてみると、久々に政治家らしい政治家に逢った気がした。

 何より思ったのは国鉄の改革だ。雪達磨式に膨張し続ける大赤字に相次ぐスト。汚なかった便所。それがどうだろうか。車両はスマートになり、駅舎は見違えるようになった。何よりも便所がトイレとしゃれて呼ぶのに恥ずかしくなくなった。あの遠くからでも臭かった嫌な臭いは吹っ飛んだ。
 その反面で、JR西日本での不幸な過密ダイヤ安全軽視といわれる大事故も起こったことも確かだ。
 日本電信電話公社の解体の結果、今の携帯電話社会が実現したのではないだろうか。もし、電電公社の民営化がこの時期を逃していたら、日本は携帯電話の面で大きく立ち遅れていたに違いない。
 そして、このお方が、日本列島を米国の「浮沈空母」と云った発言も耳に残っている。

 だが、サミットで、世界のお歴々が並んだ写真の中で、レーガンアメリカ大統領の横にちゃっかり並び立って写させて見せたのも、日本の首相としては初めてだった。
 このエピソードについての裏話が面白かった。
 その直前の会議席上で、レーガンがフランスのミッテランに押され気味のところを、割って入って議論を引き取り、助け舟を出したかっこうとなり、レーガンと打ち解けた関係がつくれたからとのこと。
 首脳会議の場は、お互いが人間として政治家としての重みの量りあいの場とのこと。

 首相に就任して初めての訪問先を韓国に選らん時には、誠心誠意で臨み、韓国の事を徹底的に勉強したとのこと。演説は韓国語で、流行歌まで暗誦して披瀝したとのこと。
 その結果、空港からソウル市内まで誰一人見向きもしてくれなかったのが、帰りには大勢の人々が手を振ってくれたとのこと。

 とにかく、若いときから、自分が大臣なら、自分が総理大臣ならどうするかを絶えず考え、その考えた事を大学ノートに書き溜めてきたとのこと。そのノートが何十冊にもなるとか。
 だから、いざ首班指名を受けた時ににも施政方針演説を直ぐに起草することができたとのこと。

 現在、91歳。凄いものである。その凄みの根っこに、フイリッピンでの戦友との生死の境を分けた戦争体験があるのだ。

 それに比べて、初の政権交代。自民党の代々続くお粗末総理の後、今度こそはと期待させてくれた筈の現鳩ポッポ宰相閣下の、これまた何と今日この頃のお粗末な体たらくはどうだろうか。

 そして、その後釜を狙って、性懲りもなく、これまた蜃気楼のような世論調査のグラフ線にのっかってのフラフラ、シャシャリ飛び出すオッチョコチョイのお出ましである。

 嗚呼、亡国の鐘が鳴るというところだろうか…。
 
 その亡国を見ないためには、中曽根大勲位閣下が最後に一言おっしゃった、「結縁、尊縁、随縁」即ち社会の基本は人間関係であり、その為には人と縁を結び、その縁を大切にし、縁に従って生きていくべきとの言葉を噛みしめてみるべきではなかろうか…。


60年目の同窓会―他所様の宴席に紛れ込む?―

2010-04-27 00:32:27 | 日常雑感
4月26日(月)晴れ、暖。

 先週の日月、熱海のホテルでの同窓会に行ってきた。4歳の時、父が戦争で亡くなり父方の祖父母の元に引き取られ、中学1年の夏までを過ごした山陰の田舎の高校の50周年記念同窓会に誘われたのである。

 だが、私はその高校の卒業生ではない。
 案内状を送ってくれたKさんの添え書きには、小学校時代のお友達も沢山いるので是非出席してください、皆さん懐かしがっていますから、とあった。
 出席者予定者の名簿が同封されていた。

 なるほど懐かしい名前がいくつかあった。
 斜め前の“きよっちゃん”の名前もあった。朝から晩まで遊んだ仲。ターザンごっこにちゃんばらごっこ。二人ともその隣の5歳年上のいじめっ子によく泣かされた。
 学校から帰ってくると、一緒に宿題をしたお転婆のマーちゃんの名もあった。
 逢って見たいな。どんな大人になっているんだろうか…。
 迷っている間に、その後もづーっと年賀状の遣り取りや、お互いの絵や写真のグループ展で行き来のある東京在住のY君からも誘いの電話をもらった。
 
 熱海。伊豆半島の根っこ。ここ暫く海も見ていない。帰りに近くをスケッチしてみるのもいいな。思い切って行く事にした。

 山梨から熱海まで、千円の高速で大月を回り御殿場に出る。富士吉田付近からの桜と富士山がきれいだった。
 
 箱根の山を越え、塔ノ沢の温泉街を抜け、小田原・真鶴から熱海へ着いた。
 ホテルの玄関に○○高校同窓会ご一行様の看板が出ていた。ホールに入る。受付があった。見覚えのない見知らぬ顔ばかりである。後悔の念が湧く。
 
 それでも、KさんやY君が直ぐにこちらを見つけてくれて救命ブイに出会った気持ちになり、ほっとする。
 5時。大宴会場に集合。百人近くが集まった。記念撮影で一騒ぎ。幹事さんの挨拶で、始めに亡くなった同窓生を偲んでの黙祷。約1割の方々が鬼籍。厳粛な気分。
 そして宴会が始まった。

 あらかじめ電話をしておいた“きよっちゃん”が向こうから、こちらを探し出して傍に来てくれた。こちらより背の低かった“きよっちゃん”の方が高いのに先ずは驚く。だが、幼い面影は無くなっていなかった。
 忽ちあの日に還って話しが弾んだ。やっぱり来て好かった。
 だが、いつまでも“きよっちゃん”を独占しているわけにはいかない。マーちゃんは直前に腰痛でこられなくなったとのこと。

 こちらから、二三名前を覚えている友を探す。声をかける。しばし見詰め合いお互いにうろ覚えの面影を探す。
 話しの接ぎ穂にこちらが覚えていることを話して見る。だが先方には覚えが無い様子。
 反対に先方から話しかけられても、こちらには全く覚えが無い。
 何しろ50年余りが経過しているのだ。お互いに風雪に晒され変貌を遂げているのだ。それが当たり前である。
 なんだか他人様の宴会場に紛れ込んだ気分になる。

 それでも酒が入ればどうってことはない。二次会、三次会と深夜まで話し込んだ挙句、酒に弱いらしく早々と寝てしまった同室のY君を尻目に、今日始めての方々と明け方まで飲み明かしてしまった。

 あくる日は快晴。真鶴半島を独り廻り、春の海景色を楽しみスケッチした。
 もう再びは逢う事も無いであろう幼友達を想いつつ…。
そして、朝の慌ただしさの中で“きよっちゃん”と別れの挨拶をしわすれたことを心残りにしつつ…。



地域興し?―私のこの一年―(その4)肩の荷を降ろす

2010-04-05 23:20:34 | 田舎暮らし賛歌
4月5日(月)雨のち曇り、花冷えの一日。






 繭玉のように白く点々と咲いていた辛夷の花が、たちまち薄茶色に萎んで散っていく。代わりに隣の山桜の梢に小豆色の小さな花が咲き始めた。この1年の何と早かったことか。

 退職して10年弱、再びは人前に立つ事も無いと半隠居を気取ってきた所へ、順番で15軒ほどのお隣さんの組長となったら、今度は十人集まった組長の中から区長、区長代理、会計の三役を互選することとなり、まだ組に入って4年足らずの新参者にも係わらず年嵩とあってか区長に選ばれてしまった。

それが去年の3月。それからの1年の大よそは(その1)~(その3)に記した。
そして、先日の3月31日、一年間のお勤めご苦労様でしたということで、新区長に引継ぎを終え、お役御免となった。

ダンボール箱2個分の帳票、文書類を引き渡したら、吾が作業場に散らかっていた文書が一掃されるとともに、文字どおり肩の荷を降ろした実感を味わった。
何と大げさなと、云われるかもしれない。

しかし、現職のころ、平均3年ぐらいで異動をしていた時の後任者との引継ぎ時には、今回のような直に身体に感じるようなことはなかった。

この1年間は、何処へ行くにも自分の組のと、組長の名簿を持ち歩いた。組の何方かの家で不幸があれば、直ちに葬儀委員長として駆けつけなければならない。

現職の時の会議では、役職や立場で物事がそれなりに決まっていく。ところが、自治会となると、メンバーは全て対等である。
特に、農業専業の方々は、皆、一国一城の主。簡単に執行部の言いなりになるものではない。拙速を好まない。昔からのしきたりが巌と鎮座する。行きつ戻りつである。

それでも、10人の組長さん仲間とは、最初は誰が誰だか気心も分からなかったのが、月に2回も3回も顔を合わせ、共同作業をしてい行く内に今ではすっかり仲良しグループになってしまった。
これからこの地で暮らしていく中でなんと心強い仲間を得られたことだろうか。
早速、少し落ち着いたら、皆で改めて近くの温泉につかり一杯やろうということになった。

もう朝早く人が訪ねてくることもなくなった。それも少し寂しくはあるが、朝寝坊の私には、ありがたいことである。
それにしても、これまであまり意識してこなかった自治会活動。これから長寿者がますます増えていく中にあって、いよいよ大切なものであることを、そしてその運営のあり方について、様々な工夫が必要なことを実感した。