蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「北朝鮮!」―人は、何故、独裁者に付いていくのか?―

2006-06-30 00:21:51 | 時事所感
6月29日(木)晴れ。22~30度、日中蒸し暑し。

 今日この頃のニュースは、韓国拉致被害者、金英男氏(横田めぐみさんの夫)の事で持ちきりである。
期待された記者会見では、案の定、予想された北朝鮮側の演出どおりの発言を、よどみなく演技して見せただけのようである。横田めぐみさんの自殺にいたる経過についても、聞いていて何か他人のことをしゃべっている感じであった。これではめぐみさんのご両親の横田夫妻もいたたまれない気持ちだろうと思った。

 それにしても、である。この北朝鮮という“ならず者国家”(ブッシュ氏命名、自分のことは棚に上げてよく言うよとは思うが、けだし言いえて妙である)、よくもしぶとく、いつまでこの国家体制を続けていけるのだろうか?
 北朝鮮人民は、社会主義を標榜しての世襲制封建王朝そのものの、よくこんな指導者を崇め奉っておとなしく付いていくものである。

 百年や二百年鉄壁と思われた東西ドイツの壁もあっけなく崩壊撤去され、本家本元のソ連自体が、これまたさらに、あっけなく瓦解したというのに、中国共産党のコバンザメのような北朝鮮は、何だかんだといわれても、未だ、サソリのようにテポドン振り回して、強大帝国アメリカを挑発するその無謀さには、ただただ何を考えているのかと、唖然とさせられるばかりだ。
 そこには、イラクという思わぬ泥沼に足を取られて、ニッチモサッチもいかないブッシュの足元を見尽くしてのしたたかな計算があるのだろうか?
 
 それにしてもと、また思うのは、何故、人間は、この種の独裁者に弱いのだろうか?ということである。“金正日”偉大な首領様といったところで、見た目、特別の大男でもない。ごく普通のこぶとりのおっさんにしか見えない。このちっぽけなおっさんに、何故、2千5百万だか3千万の人民が、食うものもろくにたべさせてもらえないとか言うのに、唯々諾々とついていくのか?
 
 たった一人のおっさんの片手で、1千何百万だかの男たちが、○○○○握られて、”バンセイ!!”唱えるしか能がないとは、全く情けないとは思わないのだろうか?
 それともよっぽど握り方が巧くて、身動き、身じろぎ、しわぶき一つもできぬというのだろうか?

 しかし、これって、対岸の火事とばかりに暢気に、高見の見物きめこんでいていいのだろうか?

 どうも、人間には、独裁者に付いて歩いて、思考停止状態になることにより言い知れぬ快感を覚える性向が、もともとどこかにあるのだろうか?
 それは、吸ったことがないので分からないが、麻薬のようなものではないのだろうか?
 自分の頭で、一々考えて行動するなんて、面倒くさくてやりきれないとばかりに?
 皆の行くほうに付いていけば、食いっぱぐれることは先ず無いとばかりにか?
  
 だからこそ、この日本という世界一の民主主義国家(?)においてさえ、何とかサリンをばらまくような団体に、錚々たる大学出の秀才が豚集するかと思えば、ナムナム唱えれば、世界平和が明日にでも実現し、一人残らずお金持ちになれて、幸せになれると説く、若いころは町金融の取立て屋が本業とかの噂も高いお頭を、有り難くいただき、天下国家のキャスティングボードを握って離さない団体に、国民の十人に一人(?)がニコニコホイホイ付いていく。
 
 北朝鮮で、待ったをかけて一躍男を上げたか、次期宰相の呼び声高き安倍お坊ちゃま、はてさて、やっぱり、こんなナムナム無碍にはできぬと、袖擦り寄ることこそ恐ろしき。

と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか? 


ご先祖の身分と禄高(?)、「M 藩史」を紐解く!

2006-06-29 01:01:01 | 日常雑感
6月28日(水)晴れ。20~30度,蒸し暑い一日。

 先日、幼いころ疎開した父の実家の田舎町について、調べたいことがあり、インターネントで検索したら、たまたま旧藩時代の史料が立派な市史として編纂されていることを知った。
 そこで刊行元の市史編纂室に電話したら、どうやらその中に、私の知りたいことが記載されていそうなことが確認できた。そこで直ちに購入手続きをした。その結果、今日、その史料集が届いた。

 早速、興味津々でページを繰った。

 私の曽祖父は、M藩の下級武士(おさむらいさん)と、幼い日、祖母の長火鉢談義で聞かされていたので、その実態を以前から知りたかったのだ。
 曽祖父は、廃藩置県で家禄が没収され、代わりに秩禄公債が新政府から交付され、それを元手に乳牛飼育を始めて、たちまち失敗したと聞かされていた。
 そのため、8人兄弟だったかの四男の祖父は、酷い貧乏暮らしの中で、働きながらお金をためて東京に出て、一生懸命勉強したと、祖父自身から聞かされていた。お金が無くて、靖国神社の境内で焼き芋を食べて飢えをしのいだとか。

 私の小さいころは、嵐寛十郎の鞍馬天狗映画が全盛期だった。「侍」は私の憧れだった。曽祖父が下っ端とはいえ、その侍に属していたということが、私には心密かな誇りであった。
 祖父からも、泣いたりしたり、だらしないことをすると「侍の子がそんなことでどうする!」とよく叱られたものである。
 
 「侍の子」、これは、幼くして父を戦争で亡くした私にとって、どれほど心の支えというか、バックボーンになったか計り知れない。
 恥ずかしいことをしてはいけない。人に負けてはいけない。弱いものいじめをしてはいけない。敵にうしろをみせてはいけない。卑怯なまねをしてはいけない。侍とは、そういうものであることを、嫌というほど聞かされて育った。

 そんな訳で、私は歴史好きになり、「侍」というものに限りない精神的郷愁を感じるのである。
 そして今、自分の人生の終末期を迎えるにあたり、伝説として聞いてきた、その我が郷愁の実態がいかなるものであったかを確かめたくなったのである。

 史料の中に「M藩家臣分限帳」という項があった。記述は簡明である。石高、役職、氏名だけが記載されている。
 そして、これはと思う氏名を見つけたのである。苗字は同一で名の方の一字に曽祖父の名の一字があったのである。本家でご祐筆役を務めていたというその姓名もあった。これは親戚筋にあたるかと思われる姓名もあった。

 急に幕末の時代が、現在の自分に直結しているような感じを覚えた。

 それにしても我がご先祖一族の何と微禄なことか。祖母がよく、「おばあちゃんの実家はれっきとし石取(こくとり)だけど、ここの家(祖父の家)は、お徒士(おかち)といって足軽に毛がはえたようなものだ」と、やや得意げに話していたとおりだった。

 四石三人扶持、御門番(役所の守衛?)である。本家の表御祐筆(書記役、文書係長?)でさえ、6石五斗三人扶持である。
 こんな薄給でよく体面を保ち偉そうな気構えで暮らしていけたものだと思った。まさに、武士は食はねど高楊枝そのままである。これでは町場の大工棟梁のほうがよほどいい暮らしをしていたのではなかろうかとさえ思える。

 そして、二桁以上の石取り侍は数えるほどしかいないのである。執政といわれる家老職で千石。今とは雲泥のヒエラルキーの世界である。

 何だか実態を知ってみると、鞍馬天狗の世界とはあまりにもかけ離れた世界で、やるせない気分になってしまった。

 とはいえ、今の県庁や市役所のお役人様のひ孫かなんかが、我がご先祖様はどんな仕事をしていただろうかなんて、調べる気になった時、果たしてその氏名や役職まで検索できるだろうか?
 そして何よりも貧乏暮らしとはいえ、その仕事に、その執務姿勢に子々孫々言い伝えを残し、心の指針になるような精神性を何か残せるだろうか?

 恐らくそんなものは磁気媒体の記録とともに、とっくのあさって、どっかに胡散霧消となっているのがおちではないだろうか?

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?


山家の隠居の考える「万物の創造者」=神(?)とは?

2006-06-28 00:18:58 | 日常雑感
 6月27日(火)晴れ。20~30度、蒸し暑し。

 私は、一昨日のブログ「神様(?)からの贈り物”―「人の心と身体」について思うよしなし―」で、<私たちの心と身体は、めいめい皆、神様(?)からの預かりものではないのかということである。
 私たちは自分の心を、身体を選んでは、生まれてこられないのである。全てが、神様からのお仕着せなのである。>と、記した。
 さらにその際、<ここで言う神とは、イエスキリストの意味ではありません。私が考えるこの宇宙を含めての「万物の創造者」の意味においてということです。そのため、(?)を付しておきました。 「万物の創造者」の概念については、私の考えるところを別に記してみたいと思っております。>と、書いた。

 そこで、今日は、この私の考える「万物の創造者」について、日頃、思っていることを書いてみたい。
 
 私は、何時の頃からか、この宇宙は、私たち自身を含めた万物は、いかにしてできた(創造)か、されたかについて、よく思いを巡らせることがあった。

 この宇宙は、人間を含む生命体は、何かビッグバンと呼ばれる爆発の結果としての混沌の中から偶然の重なりの結果として、生成されたものであるのか?そこには何者の意思も存在しなかったのか?(いわゆる無神論である。)
 それとも、我々のちっぽけな頭脳では、理解不能の超越的なある何者かの意思によって創られ生成されているのか?(いわゆる有神論である。)

 この二通りの考え方のうち、私には、前者のようにはとても考えられない。この宇宙が、我々を含めた生命体が、とても偶然の結果生成されたものとは信じられないのである。

 私たちの周りを見渡せば、私たち自身の身体を含め、なんと精妙に、また、ほとんどの物が何と整然として、シンメトリックにできていることか!そして、万有引力をはじめ事物の間には、何と多くの法則とか定理とかが存在しうるのか?と、いうことである。

 こうしてみると、私には、この世界の全てのものは、明確にある何者かの大いなる意思にによって、創られているのだと信じざるを得ないのである。

 そして、私たちが言う「正義」とか「悪」ということは、そこに基準が無いのではなく、この宇宙の創造者の意思に適うことが真の意味での正義であり、その意思に逆らうことが悪ということなのではなかろうかと考えるのである。
 私たちが、物事の正邪の判断に迷う時は、この原点に少しでも思いを致して、難しいことではあるが、誠実に考えるならば、そう大きな過ちをすることはないのではないかとさえ思う。

 こんなことを今更、私が、事新しく言うまでもなく、多くの場合、人は無意識の内に、その意にそって物事を考え判断しているようにも思える。

 ただ、中には、そんなことはまるで意識せず、まさに無意識に悪事を犯す者も多い現実もある。
 しかも、国家レベルで政治家、一国の指導者と呼ばれる方々までもが、いつになっても市井のならず者のように分別を無くして、事あれば武力に訴えて、己が意向を通そうとして、戦争ごっこを一向に止めようとしないのは、一体どうした訳なのか?

 都会の人の洪水の中を蠢いていた時は、あまり”大いなるものの存在”なんてことは、意識しなかったが、滅多に人と会うことの少ないこの山家に暮らすようになってからというもの、周囲の山川草木の四季の移ろいの中に身を置くとき、しきりに”そのものの存在”を意識するようになったのだ。
 
 この”大いなるなるものの存在”を恐れなくなった人間が増えるのに反比例して、この人間世界は住みづらく、争いの坩堝と化してきたのではないだろうか?

 では、どうすれば、私たちは再びその”大いなるものの存在”を実感し、意識化し畏怖する心を取り戻せるのだろうか?

 そのヒントの一つとして、昨日、26日付けの日経朝刊(地方版)文化欄で、日本を磨くー美と徳をみつめてー1 「養情」で心豊かな国へ と題して、作家の五木寛之氏が、次のように語っている。

 『…今の日本に一番欠けているのは人間らしい感情だと思う。豊かな情感・感情を取り戻すべきだ。…ある絵描きの言葉を思い出す。“絵は魂の食べもの”と彼は言った。同じように音楽も文芸も芝居も魂の食べもの。生きていく上で、私たちの心にも、栄養やエネルギーとしての食べ物が必要だと思う。そういう意味で情を養う“養情”が大切でしょう。…』と。

 私も、拙い絵描きの端くれとして、絵筆を持つが、時々どうして、自分は絵を描くことに、こんなに夢中になれ、至福の気分になれるのかと、自問してみる。

 その答えは、絵を描くことは、神様がおつくりになったものを、レコード針が盤の溝をたどって音を出すように、その形象を追うことによって、神様の造化の妙に“感嘆”させられているのだと思うのである。
 その私の“感嘆”が、私の作品を見ていただく人に、同じように伝わればいいのだが、残念ながら今のところ、私の拙い技量を以ってしては、私以外には中々伝わり難いのである。

 唯、私はその“おおいなるなにものか”を、「イエス・キリスト」とか「マホメット」とかそのような固有名詞の中に閉じ込められた概念を信仰しようという気には金輪際なれない。 
 何故か?それは、その名の下に、これまでも、今も、そして恐らくはこれからも、如何に多くの血が流され続けていることか?と思うからである。

 これは私の言う“おおいなるなにものか”を、一部の人たちが自分たちに都合よく自分たちに、似せて理解し、引き寄せ、独占しようとの魂胆によって歪められた結果だからではないのか?

 その意味で、私は遠い昔に読んだトルストイの説く、無宗教の神の概念を、懐かしく想起するのである。

と、思うこの頃、さて皆様は、いかがお思いでしょうか?
 
ー追記ー(6月28日)

 上記、「トルストイの説く、無宗教の神の概念」は、私の記憶違いでした。今日、調べましたら、トルストイ著”人生の道”下巻(岩波文庫)のー似非(えせ)信仰ーの章で、キリスト教のカトリックとか様々な教派に分かれてお互いに他を批判、排除する現状を批判して、真のキリストの教えに返れと説いているのでした。
即ち、『至高の善及び真理として神を愛せよ、なんじ自身を愛するがごとく隣人を愛せよ、そしてなんじの隣人たちに対して、なんじが他人よりふるまわれたく思うがごとくにふるまえ。-これが真の教えなのである。』と。そしてさらに『…われわれが自分の生涯において行うすべての行いの中で、人々の幸福となり光明となるものはただ一つ、すなわち、われわれ相互愛のみだという事を、キリストは教えといた。われわれが自分自身に奉仕せずして、世の人々に奉仕する時、その時初めて真の幸福が得られる事を教え説いた。』と記している。
 これを読んだ当時、それまで見聞きしてきたキリスト教というものに対して、非常に新鮮な見方を知り、鮮明に私の頭の片隅に、キリスト教を超えたものとして印象付けられたようである。
 このトルストイの考え方は、別の何かで読んだ記憶では”原始キリスト教”というらしい。そこでは、教会も不要と主張していたように記憶する。
 しかし、このトルストイの考え方は、いかな彼の文豪を以ってしても、キリスト教の現状を大きく変えるには到ってないようである。
 私も、キリスト教が奇跡だの何だのとまやかしに近いことを言わずに、単純に人間相互の愛の大切さを説きそれが神の真の教えだと説くのであれば、これを信じるのをためらうものではない。
 そして、さらにトルストイは、この書で、カントの『真の唯一の宗教は、至高の法則、すなわち、われわれがそれを研究し、それが無条件に必要欠くべからざる事を自ら認識することの出来る、そうした道徳的基本以外、何物をもうちに抱有しない。』との言葉を引用している。


木下あいりちゃん殺害事件弁護人、「高々一人殺したぐらいで…」とは何事だ!

2006-06-26 23:01:19 | 時事所感
6月26日(月)雨のち曇り。20~23度。
 
先ほど、夜9時のNHKニュースを聞いていたら、広島の木下あいりちゃん殺害犯の最終弁論が行われたととの報道の中で、弁護側の弁護士は、検察が死刑を求刑したことに対して、「加害者は最初から殺すつもりはなかった。しかも高々一人を殺しただけで死刑とは、聞いたことがない」と語ったと報じていた。

 私は、これを聞いて耳を疑った。念のためこの発言どおりだったか心配になり、このニュースについて検索してみたが何も出てこないので、こう聞いたものとしてコメントする。

 もし、このとおり語ったとすれば、その弁護士の頭の中はどうなっているのかということだ。
 一体何人殺したら「死刑でもしょうがない」と、言うのだと。
 NHKのアナウンサーもこの発言の当否について、何のコメントも発しなかった。ということは、法曹界やメディアの人間にとっては、今やこの発言が、何の違和感も無い常識となっているということか? 

 即ち、殺害された被害者の数が、一人なら無期懲役、二人なら殺害の仕方、遺体の扱いによって、無期か死刑に別れ、三人以上殺して初めて死刑となると、いう裁判相場である。
 
 何時から、被害者の人命の重さはこんなに、軽くなったんだ? 
 国民の何人が、こんな出鱈目な相場を認めたのか?
全く、冗談じゃないよである。
 
 木下あいりちゃんのお父さんは、事件の報道にあたって匿名はやめてくれ、犯人が7歳の少女にどんなことをして、あいりちゃんを二度死なせるようなことをしたかの事実を克明に報じて、少しでも同様の犯罪の抑止に繋がるよう願いたいと、悲痛な思いを語っている。

 この、被害者の父親の思いを、加害者の弁護人は何と聞くのか?
と思うこの頃。さて皆様はいかがお思いでしょうか?

“神様(?)からの贈り物”―「人の心と身体」について思うよしなし―

2006-06-26 02:55:33 | 時事所感
6月25日(日)曇り。20~24度。

 この頃、身内殺人、幼児殺人が続いて起きる。一昔前は、殺人事件といえば単純な強盗殺人か、暴力団の抗争とか、いかにも、ああなるほど殺人事件かと誰もが、深くはあれこれ詮索する気にもならず、また詮索してみたところであまり特別な意味も無かったものばかりだったような気がする。
 ところが、このごろの殺人事件となると、「なんでそんなことを?」とか「どうしてそんなことを?」と思わず思案投げ首せずにはいられない事件ばかりが続いて起きている。

 何故なんだろうか?

 そこで、私は最近こんなことを考え始めた。

 即ち、私たちの心と身体は、めいめい皆、神様(?)からの預かりものではないのかということである。
 私たちは自分の心を、身体を選んでは、生まれてこられないのである。全てが、神様からのお仕着せなのだ。それは、決して気に入らないからと、後から取り替えてはいただけないのだ。
 
 そして、私たちの心と身体の関係は、自動車とその所有者としての運転手との関係に似ていると思う。即ち運転者が心であり、車が身体である。
 運転者としての「心」は、皆どれも同じようなものであっても、車としての「身体」の方は千差万別なのである。

 ある人の「車」は、フェラリーのような高級車にして、猛スピードが出る高性能車であり、別のある人の「車」は、がたがたのポンコツ車といったわけだ。
 そして、私たちは生まれてきた瞬間には、自分が神様からどんな車をあてがわれているかを知る由もないが、しばらくして、所謂、物心が付いてくると嫌でも、彼我の乗っている、即ち神様から宛がわれている「車」の余りの相違に愕然とさせられるのだ。

 その感じ方は、程度の悪い「車」を宛がわれている者ほど敏感なのである。反対に、フェラリーのような高級車に乗っている輩は、そんなことは夢にも思ってみない。
 それが当然のことであり、ごく当たり前のことと信じ込んでいる。彼らから見て、程度の悪いポンコツ車に乗っている奴は、あいつは運が悪かったんだ、と軽く一瞥くれるだけだ。

 さてしかし、全能の神様(?)は、何故こんな誰の目にも不公平な、端から文句が出てきそうなことをおやりなったのか?それは、私がごとき山家の隠居の貧しい思索の範疇を遥かに超えるところではあるが、一つだけ思い当たる節がある。

 それは、神様とて同じものばかり作っていたのでは退屈であり、飽き飽きしてしまい創造の意欲を著しく殺がれることになるからではないだろうか?

 しかし、これでは被創造物たる我々の憤懣は癒しがたいものがあり、神様もそれへの配慮が必要なことは十分お感じになったのではなかろうか。

 その結果、私たちに家族を持たせ、社会を形成させ、学校をつくらされたのでは、ないだろうか?
 そこで、神様が、願われたことは、人がお互いの車の性能や見た目の違いに気づき、それをお互いに排除し、嫌悪し、貶すのではなく、それなりにその車の性能に応じた運転方法をアドバイスし合い、共に穏やかに人生の終着地点に、無事達せるようにすることではなかったか?

 家庭での躾、家族の思いやり、学校での教育、そこで共通でなくてはならないことは、お互いの銘々の神様から宛がわれている車の性能を直視し、尊重したうえでその車で、他の様々な車と同調して仲良く皆が幸せなドライブ気分で、たった一度しかない人生を楽しく走りきれるようにするには、どうしたらいいかということではなかろうか?

 ところが現実には、一番高性能なかっこよさそうな車だけをモデルとして、何が何でもそのペースで走らせようと、「頑張れ!頑張れ!やればできる!」と馬鹿な、思い上がった、正に神おも恐れないことを口走り、叱咤激励ならぬ叱咤督促するところに、諸悪の根源が生じるところとなるのではなかろうか?

 私は、このことを大阪で起こった池田小での宅間死刑囚による小学生8人殺害事件を見て強く思った。

 宅間死刑囚の犯行は、私の言うこの神(?)の不公平に対する絶対的抗議の犯行だと感じたのである。謂わば神様への精一杯の嫌がらせだったのではないか?彼が心底憎んだ相手は自らにこんなポンコツを呉れやがってという憤懣の爆発ではなかったのか?
 しかも、そのポンコツ車の運転に四苦八苦している自分を、家庭も学校も社会も冷たい目で、その無様振りを見て通り過ぎるだけで、温かい声のひとつもかけようとしてくれない、そのことに一層の憤懣をつのらせたのではなかったか?

 だからこそ、彼は誰にも謝ろうとはしなかったのではないか?
 彼にしてみれば、「俺のやったことに文句があんなら、俺にこんなポンコツをよこしやっがって、くそ面白くもない人生を味合わせやがった、俺って奴を、この世に送り出した神様とやらにもってってくれ!」ということではなかったのか?

 そこで、神様が、「なるほど私が悪かった」と、まさに遠藤周作の『沈黙』に出てくる「あの方が」その「沈黙」やぶるまでは…。彼の憤怒は永久に消滅しないのではないか?

 そして、また、今回の奈良での高1生徒による放火殺害事件にしてもで、ある。
 加害者の少年が、神から宛がわれている、彼には、動かしがたい自身の車の特性を無視した、父親の思いやりなき一種の暴力の行使である。それは、一種の神への冒涜とさえ言っても過言ではないのではないのか?
 こちらはまた、洋の東西、時代を超えて共通する無いものねだりの思いが湧く、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」のネガフィルムを見るようでもある。

 人間は、何時になったら神の御業の前に謙虚に頭をたれるようになるのだろうか?
と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

ー追記ー

 ここで言う神は、イエスキリストの意味ではありません。私が考えるこの宇宙を含めての「万物の創造者」の意味においてということです。そのため、(?)を付しておきました。
 「万物の創造者」の概念については、私の考えるところを別に記してみたいと思っております。

また、また奈良市、高1生徒、自宅放火・家族三人殺害事件は、何故起きた?

2006-06-23 01:15:53 | 時事所感
6月22日(木)曇りのち雨。 21~24度。

 また、また、高1生徒(16)による、20日午前5時過ぎ、自宅を放火したうえ家族3人(義母、弟(7歳)妹(5歳))を焼死させた事件発生である。放火後、姿をくらましていた少年は、自宅から50キロ離れた京都市内の民家へ侵入し、眠り込んでいたところを家人に見つかり、逃げたところを通報で巡回中の警察官に見つかり保護され、事情を聞く中で、殺害を認め放火・殺人罪容疑で逮捕されたという。
 
このニュースの第一報(20日の夜だったか)を聞いたときから、母親はともかく弟妹との年齢差が大きいので、不明の少年と母親との関係は実際のところどうなんだろうと疑問に思っていたところ、今日の夜の9時のNHKニュースでは、母親は再婚、少年は前妻の子とコメントしていたのでこの点の疑念は晴れた。

 それにしても、である。この少年、父親は医師で、進学校の中高一貫校へ通学している傍目には何不自由ない家庭環境のようである。
 また、本人は小さいときから賢く、成績もよく剣道二段の腕前、友達も多くいじめに合っていた様子もない。言わば母親が再婚であることを除けば何の問題点も見当たらない普通の家庭であり子供である。

 ただ一点、問題ありとすれば、父親が学業成績に厳しかったという。この厳しさの程度が問題といえば唯一の問題に思える。しかし、本人が小学校卒業時の文集に将来の夢としてお父さんのような立派な医師になりたいと書いているのであれば、父親としてそれを知っていれば、確り勉強しなさいと、ある程度厳しいのも分からなくはない。

 しかし、このような状況下で何故、少年は、放火家族殺人なんて大罪を犯すにいたったのだろうか?
 まして、少年は、義母の産んだ二人の弟妹の面倒もよく見ていたという。それが、何故、父親の医師が夜勤で不在の日を狙ったかのように、三人諸共焼殺するとはどういうことだろうか?

 現在、事情聴取が始まったばかりの段階で、具体的な資料がない中で、このような事件発生の報に接して、毎度のことながら軽々しい憶測はつつしむべきではあるが、やはり、何かを言ってみないではいられない。わが脳中は勝手にあれこれ想像しだすのである。

 私が直ぐに思ったのは、おそらくは、家族の中で、他の四人は正真正銘の血族家族であるのに、自分ひとりは、血のうえで父親としか繋がっていない無意識の疎外感、そしてその唯一の頼みの綱である父親から、成績できつく言われたとき、繊細な神経の子供であればあるほど、余計に突き放されたような、疎外感を覚えたのではないだろうか?

 それが、無意識のうちに、父親との再婚により家族に参加してきた形になる義母弟妹への嫉妬と変じての自分を疎外するする者を排除したい、父親との唯一の邪魔者のいない場にしたいとの意識下の熱望が高まり、実行した場合の結果の重大性を認識しえないほどの衝動に駆られての犯行ではなかったのだろうか?

 そして、ここにも、やはり、日ごろからの少年法の甘さを知らず知らずに、少年の頭に刷り込まれてしまっていての現在の社会環境、教育環境への甘えがあったのではないだろうか?
 罪への意識、罪の重みが弱い分だけ、16歳にもなっていれば、まともに冷静に考えれば、当然やってはいけないと知りつつも、罪の軽さがその欲望衝動を抑制するものとはなっていなかったからではないのだろうか?

 もし、この少年が、人を殺したら、年齢のいかん理由の如何を問わず、死刑に処せられるのだということを、物心ついたときから周囲から折に触れて教えさとされていれば、また現実に事件がおきて、そのような厳しい法律で裁かれ、たとえ子供であろうと処刑される現実を見聞きしておれば、果たして、このような事件を起こしたであろうかと、私は考えるのである。

 この意味で、一見すると、更生を重視する少年法の精神は、狙いは高邁ではあるが、その実、現実には、犯罪を犯すことへの恐怖心や抑止力を弱め、犯さなくてもよい罪を却って安易に犯させ、殺されなくてもいい被害者を次から次へと生じさせ続けているのではないかということである。

 人を殺したら、死刑を原則とし、一旦は須らく死刑を宣告しておき、執行の段階で、それぞれの犯行の状況や犯行の事情、犯人の悔悟の状況、被害者感情等を斟酌して、いかようにも、実質的には終身刑にしたり、再審の方便で罪一等を減じるなどいかようにも、智恵を働かせて工夫すればいいのではないか?

 要は、万人に人の命を奪ったら、自分もまた法により我が命を奪われるのだということを、骨の髄まで沁みこませることが不可欠だと言いたいのである。

 何回でも言うが、殺人は、子供だろうが大人だろうが、泥棒や強盗とは次元の違う同類に考えるべきではない異次元の原状回復不可能な神(この宇宙全てを創造したもの、あるとすれば)への反逆行為なのである。
 殺人罪だけは“犯罪”とよぶべきではないそれ以上の人間としては絶対にやってはいけない行為なのではないのか?

 とにかく、このことを、しっかり教えてこなかった戦後の家庭教育、学校教育、社会教育にこそ、その最大の要因と病根があるのではないだろうか?
 この事実を深く反省し早急な刑法改正を行わない限り、いつになっても尽きない浜の真砂の嘆きではないのだろうか?

と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?



「国家の罠」著者:佐藤優氏控訴審、東郷元局長が証人出廷!―無罪なるか?―

2006-06-22 17:51:21 | 時事所感
6月22日(木)雨のち曇り。21~23度。

 今朝、日経を開いたら、社会面の片隅に、昨年、9月29日付けでアップした「佐藤優著「国家の罠」を読むーこんな事があっていいのか?」に関連して関心を持っていた、事件について、関係者のキーマンともいうべき、外務省の『東郷元局長が証人出廷―外務省背任控訴審公判「違法ありえない」』の見出しの下、以下のような記事が出ていた。
 
 『イスラエルでの国際会議参加費など国際機関「支援委員会」から不正支出させたとして、背任などの罪に問われた外務省元主任分析官、佐藤優被告(46)の控訴審公判が21日、東京高裁(高橋省吾裁判長)であった。支出を決済した東郷和彦元欧亜局長(61)が弁護側証人として出廷し、「外務省が組織として支出した。違法になることはあり得ない。」と述べた。…問題とされた支援委の支出は「自分が責任者として欧亜局が取りまとめ、条約局が通常の手続きにのっとって合法的支出と判断した」と強調。佐藤被告からの働きかけも「全くない」と述べた。』と。

 この証言が、一審で、されていれば、佐藤被告は有罪判決を受けることなくすんだと云われていた。
 ところが、一審で佐藤被告の弁護団が東郷元局長の証人出廷を要請した際、同氏は、一旦は出廷を了承したが、同氏の代理人が、東郷氏が、後帰国して出廷した場合、同氏の立場が背任事件との関連で被疑者なのか参考人かを質したのに対して、検察側は「東郷については、共犯者の位置付けであり、東郷が帰国して証言した場合の検察官の姿勢については文字通り何も言えない」と発言し、その結果東郷氏は身の危険を感じ出廷しないとの決断をした。という経緯があったのである。(国家の罠、P382参照)

 その、「身の危険を感じ出廷しない」との決断をしたと言われる東郷氏が、事件後、縄目の恥辱を潔しとせず逸早く国外逃亡(?)していたオランダから、今回帰国し出廷し証言する気になったのは何だろうか?
 この記事を、読んだ瞬間に私の頭に浮かんだのは、このことであった。

 その変心の一つは、事件そのものの風化である。本件事件は小泉政権になって、同政権が自己の方針の下、外交政策を推進するにあたり、外務省に癌のように蔓延していた鈴木宗男議員の影響力をを排除摘出するために仕組まれた国策捜査と言われる。その捜査の過程で震源が森元総理大臣に手が伸びざるを得なくなった段階で突如打ち切られることになったという。(国家の罠、P344参照)
 このため、今の検察にとって、もはや東郷元局長になど小指一本食指が動かなくなったということである。

 二つ目は、東郷氏の人間としての良心というか、腹心の部下を見捨てたと言う悔悟からではないか。

 三つ目は、三代ににわたり奉職してきた外務省に対する怨念の情もだしがたくということではないか?

 この点について、上記記事の中で、東郷氏の発言として、「(事件当時出国したのは)疲労困憊。日本にいることが耐えられなかった。」と述懐。退官前に省内の調査で辞任を迫られ拒否した際、「切腹ではなく、打ち首を望んでいるのか」と言われたといい、「その時から私の中で何かが壊れ始めた」と振り返った、と書かれている。

 いずれにしても、今回の東郷元局長の証言は、佐藤氏にとっては極めて有力な新証言の登場であり、無罪確定が決定的となるのではないだろうか?
 もし、これでも有罪とするのであれば、論理的に「責任者は私だ」という、東郷氏を起訴し有罪としなければならなく成る筈だからである。

 事案決定権者の印鑑・サインのある起案文書で仕事を進めている官公署において、それでもなお起案者の違法性が問われ処罰されるなんてことになったら、安心して仕事なんかできなくなるではないか?
 反対に、官憲の不作為での薬害エイズ事件を始め、栃木のリンチ殺害事件等様々な不祥事が起きているにも係わらず、こちらはその当事者が滅多にその罪と責任を問われることもない。
 この矛盾を、私たちは誰に訴えれば好いというのだろうか?

 そして思うのは、この記事を書くにあたり書架から改めて、「国家の罠」を取り出し、関係箇所を拾い読みして、この書が、実に今の政治状況、官僚、マスコミのあり方を知り、誠実な人間の生き方とはいかなるものかを知るうえで、得がたい貴重なドキュメントであると感じた。

 その象徴は、国策捜査という至上命令の中で真実は何かを誠実に追求しようとした検察官西村尚芳氏は、事件捜査の終末近く本件担当を外され、水戸地方検察庁に左遷される一方、西村氏に替わり検察の筋書き通りに事務的に事件をでっちあげようと画策した吉田正喜検事は、一審公判後、最高検に栄転したということである。(国家の罠、P353参照)

 しかし、さて、素人の山家の隠居には、決定的とも見える東郷元局長の新証言を前に、果たして高裁はいかなる判決をくだすであろうか、その判決を見守りたい。
 といったところで、国家は見事に所期の目的を果たしたのである。国家にとっては、今やいくら再選されようが、控訴中の被告人でしかない鈴木宗男議員が、どんなに議会で委員会で爆弾質問しようがしまいが痛くも痒くもないのである。
 その時が過ぎ、一時は岩盤のような政治的影響力が風化してしまえば、十分なのである。国家にとって、鈴木氏や佐藤氏の無罪が確定し名誉が回復したところで「ああそれはおめでとうさん、お疲れ様でした」というのがせいぜいだろう。
 
 ブッシュ夜郎自大・世界一強大帝国大統領に、目隠しされて地獄の果てまで我が国民を連れて行く気の小泉大宰相閣下には、日本国家利益のために昼夜を擱かず、わが身を省みない捨て身の優秀な情報分析官など、居眠りのじゃまにはなっても何の益もないからである。
 成程、国策捜査とはこんなに便利な権力維持のお道具だったのだ。
 
と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

―追記―
書名、「国家の罠」の由来から、(国家の罠、P395参照)
旧約聖書「コレヘトへの言葉(伝道の書)」第九章十一―十二節、

  太陽の下、再び私は見た。
  足の速い者が競争に、強い者が戦いに
  必ずしも勝つとはいえない。
  知恵があるといってパンにありつくのでも
  聡明だからといって富を得るのでも
  知識があるといって好意をもたれるのでもない。
  時と機会はだれにでも臨むが
  人間がその時を知らないだけだ。
  魚が運悪く網にかかったり
  鳥が罠にかかったりするように
  人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。

 まさに、「人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」その時、私たちはどう振舞うべきなのだろうか?その時、その人自身の日ごろの人生への向かい方が問われるのではないだろうか?
 佐藤優氏のその時への向かい方は、まさに英雄的であり見事である。国家と四つに組んで一歩も引かないのである。

 省みて、未だそのような目に遭遇していないわが身を幸せ者と呼ぶべきか、それとも…。しかし、それは棺桶に入るその瞬間まで分らないのだ。

福井欲呆け(?)日銀大総裁のポケットマネーに思う、真夜中の冗談!

2006-06-22 17:50:43 | 時事所感
6月21日(水)曇り、時々薄日差す。今日、夏至。20~27度。

 福井欲呆け(?)大総裁、村上ファンドに、ポケットマネー1000万円を出資して、6年間で1600万円高のリターンとか。庶民が銀行に1000万円預金しても、年に100円玉が一つ、6年間預けてもたったの6個。
そして、福井欲呆け大総裁のおっしゃるには、「計算したこともないので、全く知らなかった」と。
全くもって結構毛だらけ猫灰だらけ。どれだけ庶民を甘くみて、コケにすればすむんだと、言ってみたとて負け犬の遠吠えだ。

 言わずと知れたバブル期、銀行という銀行は、それ行けドンドン猫にも杓子にも、勝手に先の見境も無くジャブジャブ貸し付けて、挙句の果てが富士より高い不良債権の山。そんな阿呆銀行を救わんがための公的資金注入と0金利政策の荒療治。
 これが、利いたかどうか、直近の主要銀行の今期利益は、開いた目ん玉あんぐりあだ。その額何と33兆円とか。その陰で空に消えたは、預金者・庶民に渡る筈の利息330兆円だとか?
と、今朝の「スパモニ」が教えてくれた。
 
 とは言え、1億三千万の我が同胞は、陰でボソボソぼやくだけ。日銀の前にも、議事堂の前にも赤旗一枚、幟一筋はためかない。四海音も無く波静かなものである。
 方や政府は、あんなこんなの約束手形の大判振る舞い。できた借金、国と地方合わせて、1000兆円。
 だが、小泉大宰相閣下以下、国家の金庫番、福井金満日銀大総裁に至るまでどこ吹く風の他所事らしい。
 
 「なあーにいざとなりゃあー、構う事はないやね。庶民の懐にゃあ1500兆円も行き場の無い金融資産が居眠りしてんだー。鉛筆舐め舐め、消費税率、所得税率ちょいとあげて、こいつを巻き上げれば、手も無くご破算で願いましてはってことだー。どうせ意気地無のお人よしの連中だ。礫の一つも投げまいて。」というのが、その真っ黒な腹の中ではないだろか。
 
 しかし、もっと手っ取り早いのは、村上ファンドを刑務所なんかにぶち込まずに、財務大臣かなんかになってもらったらどうだろう?

と、思うこの頃さて皆様は、いかがおおもいでしょうか?

―追記―

 ここで駄句少々。

  「知らぬ間に ポケット破けて 泡銭(あぶくぜに)」

  「ばつ悪し バレテ泣く泣く 慈善寄付」

  「慈善寄付 ばれた後では 偽善寄付」
                       ―蛾遊庵山人―

―追記その2―  6月22日(木)

 昨日、上記記事の見出しを付けるあたって、「欲呆け」と形容することについていささかドギツイのではないかと気になった。人目引きたさの大げさな、汚い言葉を投げかけるのは、何かこちらの品位を疑われるような気がしたからである。
 しかし、日銀総裁という極めて厳正な中立的モラルを求められる立場にある方が、相当前から何かと評価の分かれる問題的人物であった村上氏に係わる投資資金を、直前(今年2月)まで清算しなかったところを、客観的にみれば、余りの高リターンで惜しくて切れなったと見られても何も言えないのではないか。かかる倫理観のお持ちの方であれば、これを少々「欲呆け」と言っても言い過ぎではないなと思ったのである。しかし、断定するのも少し酷な気がして(?)をオマケしておいたのである。
 ところが、今朝の週刊新潮と週間文春の広告を見ると、これは杞憂のようであった。特に週刊新潮については、「村上ファンドで大儲けしたー日銀総裁の品格ーの大見出しの下、▼疑惑の2月解約をアドバイスした政府機関… ▼村上との縁に繋がったノーパンしゃぶしゃぶ ▼「退職金1億円」をもらって「初亥会」でせっせと蓄財とある。
 そして、文春の方はと見れば、『国民には「0金利」福井総裁年利30%丸儲けー金儲けのうまい「通貨の番人」への辞職勧告、とあった。
 これでは、「欲呆け」など少しも遠慮する必要はなかったのである。

 この福井総裁、社会保険庁長官の村瀬氏、日本郵政株式会社社長の元三井住友銀行特別顧問(前頭取)西川氏、皆さん小泉大宰相閣下の御眼鏡に適い選ばれたお歴々ばかりである。
 そのお方が、次から次へと問題起こしての体たらく。
 
 さてと、今や直ぐにもその座を譲りたいと、お手手とらんばかりの安部お坊ちゃま次期総理大臣閣下(?)は、念願どおり、その座にお座りになったとたん、どんな見事な狐か狸の大尻尾を、ご開陳なさることやら、今から開幕のベルが鳴るのが待ち遠しいものではある。

山口県光市母子殺害事件ー犯人には鬼畜だ、ためらいなく死刑を!(そん2)

2006-06-21 02:11:59 | 時事所感
6月20日(火)晴れ後曇り。むし暑し。

今日、本件、上告に対して、最高裁は、破棄差し戻しとした。

この結果、被告は、
『判決は「無期懲役の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」と述べた。最高裁が無期懲役判決を破棄・差し戻したのは99年以来、3例目。差し戻し後に死刑が言い渡される公算が大きくなった。…(毎日新聞) - 6月20日22時53分更新』と、いう事である。
 
この判決に対して、被害者の夫、本村洋さん(30)は、
『「上告が棄却されなかったのはうれしかった」と語る一方、「最高裁自ら死刑という判断を出してほしかった」と、今後も裁判が続くことにやり切れなさものぞかせた。
 「残念だというのが正直な気持ちです」…(読売新聞) - 6月20日23時20分更新』と、述べている。

 私も、やはり、今回の破棄差し戻しという判決で先ずは良かったと思う。確かに木村氏の残念な気持ちも理解できるが、事実審理が出来ない、最高裁としては、これが一つの限界なのではなかろうか? 
理由はともあれ、無期懲役を破棄して死刑とするには、少々時間がかかるとはいえ再度審理を尽くす過程は必要だと思うからだ。

 そして今日、私の前回の記事に対して、ボン様から
『…「悪人のままで終わりたくない。」「生きて償いたい。」というのが犯人の言い分だそうですが私はさっき言ったように犯人が反省しているとは思えないし、たとえしていたとしても私はこの鬼畜を許すことはできません。ご遺族の方にとっても反省したかどうかは問題ではありません。何を言おうと犯罪行為によって欲望のために人間性を自ら捨てた「人間」に人権は存在しないと思うのは私だけでしょうか。とにかく私は死刑を望むのみです。…』というコメントをいただいたが、この思いに私も全く同感である。

特に、私が何度も言いたいのは、犯罪といわれる行為に中でも、殺人罪は、次元を別にして論議する問題だと思うからである。

 多くの犯罪類型の内、殺人を除く他は、同一延長上の犯罪として、その罰の軽重を決めることは可能であり、実際上も適切だ思う。

 しかし、殺人罪だけは、全くそれ以外の犯罪類型と著しく次元を異にするものである。 それは、他者の存在を認めないのである。他人を抹殺するのである。
 一方、理不尽にも抹殺された人格は何をもって対抗できるかということである。
 先日、ブログ「直言」で宮崎氏の司会の下、本件加害犯人を弁護して、世の顰蹙を買っている安田弁護士の言い分を目にした。

 安田氏は言う。「…私は、悪人の弁護をしようとは思わない。弁護士の仕事は、被告が気づかないこと、言えないことを探し出して、被告に替わって、言ってあげることだ。…」と。

 ならば伺いたい。殺された被害者が、殺されるその瞬間に、感じたであろう無念さ、理不尽な暴力に対する不可抗力的な絶望感を一体誰が代弁してくれるというのだろうか?
こんな片手落ちのことがあるだろうか?

 故にこそ、殺人に対しては、その命をもって償わせるほか、閻魔様の天秤秤は均衡が取れないのではないか?
 そこに量刑なんて、シャイロックの肉秤がしゃしゃり出てくる余地なんか毛頭ないのである。

 私は、何度でも主張したい。「殺意を以って、人を死に至らしめたものは、すべからく自らの命をもって償うべし」と。この大原則があってこそ、全ては始まるのではないだろうか?

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?
 

お元気溌剌中高年、何しているのか姿見えない若い人!

2006-06-20 01:32:39 | 日常雑感
6月19日(月)晴れ。21~30度、暑し(甲府33.4度とか)

 昨日、久しぶりに東京へ日帰りで行ってきた。上野の都美術館での絵画仲間の公募展二つと、小学生時代の友達の写真展を見るためである。
 こうゆう案内状でもいただかないと、態々東京まで特急に乗れば2時間足らずというのに行くのが億劫になってしまった。
 
どうやらこのままでは、私は早晩、家の周りの諸々の樹々同様に足の指先から木根が生えだし、指の先からは樹枝が伸びそうな予感を覚える。それほど、樹木の陰の無いところへ出て歩くのはまるで丸裸になったような皮膚感覚を覚えるようになったのである。
 そんなわけで、正午近く着いた日曜日の上野駅公園口は、小雨がぱらついているというのに、人、人、人の人の群れであった。全く、ふだんは一日中、朝晩束の間、連れ合いと顔を合わす以外、人気なき山家の隠居にとっては、人当たりしそうな感じがした。
 
 いざ美術館についてみれば、これまた入り口から溢れんばかりの人、人、人である。仲間の公募展への入場ではない。同時開催のプラド美術館展を見ようという人の波である。 この方々にとって、無名作家の絵なんて眼中にはないのであろう。超有名にならないと、そんなものは絵でも美術作品でもなく、足を運んでまで見る気にはなれないらしい。
 
 そして、東京都美術館に限らず、西洋美術館でも、国立美術館でも企画展があると、お目当ての企画展は見ても、その足でフロア続きの常設展を見ていく人は極めて稀のように思える。もっとも、企画展だけでくたくたという気持ちも分からなくはないが…。
 
 これは、絵が見たいというよりも、滅多に見られない西洋からの到来物で珍品だからということではないだろうか? これをもって、文明開化から百何十年も経というのに、未だに西洋のものを何でもかんでも有難がる後進性(?)は、癒やし難い病気では、と思うのは、山家の隠居の眇めだろうか?
 
 そしてさらに特筆すべきは、この有象無象の群れの大半が、私同様の中高年齢者が大半であるということである。
 ピチピチの若いカップルなんかは、少し大げさに言えば、浜の真砂をさがすようなものである。
 仲間の公募展の会場に入っても同様である。大きな絵の前で、いかにも銀髪後ろに靡かせて芸樹家でございます顔の胸になにやらリボンつきの名札をつけた審査員様か何かから、熱心に神妙に有難いご託宣を、これまた畏まって一々頷きご拝聴に及んでいるのも、中高年のおばさま、おじさまである。
 
 そこには、私なんかが若い頃、アバンギャルドとマフィアかギャングの親戚かと間違われそうに呼ばれた元気な若者の影も形もないのである。
 秋の二科展ともなれば、開催祝う裸踊りの馬鹿騒ぎも夢幻の御伽噺か伝説か?である。

 ことは芸術に限らず、登山、スキーも同じである。中央沿線登山のメッカといわれた韮崎駅だって、今じゃぞろぞろ立派な装備で降りてくるのは、中高年ご一行様ばかりである。その挙句が、中高年齢者の遭難事故である。
 
 登山に限らず、写真ブームも中高年である。こちらも、どこへ行っても、若い写真家と遭遇することは、稀有のようである。
 
 そして、帰りの電車で驚いた。空いた電車でワンボクッスに一人づつの、若者の三人が三人とも携帯覗いて耳っぴきである。本を読むわけでもない。一体いつになったら止めるのかと山家の隠居は、その料金を思っては、余計な心配、気を揉むばかりである。

 中高年が、元気が好すぎて悪いのではない。結構なことである。日本文化のさらなる興隆発展の肥やしにはなるであろう。
 残念なのは、若い人が芸術に登山に、読書にと、本来若いときこそ人一倍やっておいたほうが良いのではと、山家の隠居の余計なお節介にと、思うことを、何故かやろうとしない人が多すぎるのではということである。
 
 携帯の料金払うためにアルバイトが忙しくて、そんな暇がないのか?
 残業、仕事のノルマがきつくって、休みの日なんかにそんな余計なことをするゆとりがないというのだろうか?
 それとも、インスタント食品のおかげで体力・気力不足となっているのだろうか?

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?