蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

秋田県藤里町の連続児童殺害事件、畠山鈴香被告に無期懲役判決に思う。

2009-03-29 01:22:49 | 時事所感

3月28日(土)晴れなれど寒し。
 
  この2、3日、私のブログのアクセス件数がばかに増えている。珍しく何千番かにランクインしている。それはそれでやはり嬉しいものだ。だが、何故なんだろう。何が読まれているのだろうと、たどってみたら、約3年近くも前にアップした『秋田、小一男児殺害事件・畠山鈴香容疑者の生い立ちに思う。(2006.6.17)』という記事であった。
  今頃になってと考えてみたら、この事件について下記のような高裁判決がでたからなのだろう。

『畠山鈴香被告に無期懲役、検察・弁護側双方の控訴棄却
 秋田県藤里町の連続児童殺害事件で、殺人と死体遺棄の罪に問われた同町、無職畠山鈴香被告(36)の控訴審判決公判が25日、仙台高裁秋田支部で始まった。竹花俊徳裁判長は、無期懲役とした1審・秋田地裁判決を支持し、検察、弁護側双方の控訴を棄却した。控訴審では検察側が死刑を、弁護側が有期の懲役刑を求めていた。
 長女の小学4年彩香さん(当時9歳)の殺害について、竹花裁判長は「畠山被告が強い口調で、彩香さんを極めて危険な欄干に上らせ、腰を支えるのを手伝った。さらに、振り返って畠山被告に抱きつこうとした彩香さんを押し返すには相当な力が必要だった」と述べ、1審通りに殺意があったことを認定。「抱きつこうとした彩香さんを反射的に振り払った」として、過失致死罪の適用を求めた弁護側の主張を退けた。
 検察側は、殺意が生じた時点の認定を巡り、「1審判決に事実誤認がある」と主張したが、竹花裁判長は「犯罪事実自体の認定に誤りはない」として退けた。
 また、畠山被告と彩香さんの親子関係について控訴審判決は、「(畠山被告の)母親に世話を任せきりで、彩香さんとの接触に嫌悪感を抱き、彩香さんが足かせとなり、就職できないと感じていた」と述べた。
 「彩香さんが川に転落した後に畠山被告が健忘になった」とする弁護側の主張について、竹花裁判長は「捜査段階で畠山被告は彩香さんを転落させた状況を詳細に供述している。橋にいた事実を忘れようと思い込んだが、その記憶は完全に失われておらず、思い出すことができた。記憶を失ったとは到底認められない」と認定した。
 1審判決では、彩香さんを殺害した事実から目をそらそうと畠山被告が記憶を抑圧させ、2日後には「その記憶がすぐには想起されない状態だった」としていた。
 さらに、捜査段階での自白の任意性と信用性については、いずれも認めた。弁護側は「手続きに違法性があり、証拠能力がない」と主張していた。
 畠山被告は1審で、米山豪憲君の殺害については「(彩香さんの)喪失感から突発的に犯行に及んだ」などと話していた。
 ◆秋田連続児童殺害事件=判決によると、畠山鈴香被告は2006年4月9日夕、秋田県藤里町の藤琴川に架かる大沢橋で、小学4年の長女彩香さん(当時9歳)を欄干に乗せ、抱きつこうとしたところを左手で払うように体を押して落下させ、水死させた。同年5月17日午後、帰宅途中だった近所の小学1年米山豪憲君(同7歳)を自宅玄関に呼び入れ、腰ひもで絞殺、遺体を車で同県能代市の米代川岸に運び、遺棄した。(2009年3月25日11時18分 読売新聞)』

  この判決の可否について、その後、様々な評価も目にした。近く裁判員制度が始まれば、このような判断の難しい事件についても裁判員に選ばれた人は、何らかの判断をしなければならない。それは極めて困難なことだと言う意見も見た。
 
  そこで私もこの判決について、改めて考えてみた。私は、以前から、山口県光市主婦殺害事件について、このブログに記したように、故意又は殺意を以って人を一人殺したら原則死刑に処すべきと主張してきた。
  しかし、この事件のようなケースについては、豪憲君のご両親の無念を考慮してみても、死刑に処することについては、ためらわざるを得ないように思えてしまう。

  その主な理由は、前回のブログにも記したように、やはり被告の余りにも幼少時から親はもとより、成長していく過程で、周囲からの愛情のない環境に育ったことを無視できないからである。
  そのような環境の中で人間としてゆがんだ性情に育ってしまったことの全てを被告一人に背負わせる事はあまりにも救いが無く思えるからである。

  むしろこのような被告こそ、無期懲役という環境の中で社会的に教育しなおしてみて、どう変化、成長していくかを見るべきではなかろうか。
  そのことを通じて、人間にとって人間らしくあるためには、環境と教育と人の愛とがいかに必須であるかということが真に証明されることとなるのではなかろうか。

  そのような中で、いつか被告自身が自らの犯した罪の深さに目覚め、悔い、加害者に許しを乞う気持ちになったときこそ、この事件の全ての関係者にもいくばくかの救いをもたらすことになるのではなかろうか。

  こう考えて見ると、このような被告を幼いとはいえ人間二人を殺したからといって、直ちに死刑にしてみたところで、誰にとっても何の意味もないのではないか…。
  それはただ臭い物に蓋をし、捨て去ってしまうことにしかならないのではないか。これでは、無惨にも殺された幼い命達は、全くの無駄死になってしまうのではなかろうか…、と思えるのだが。
 

ジャガイモ植えに思うこと

2009-03-17 23:23:36 | 田舎暮らし賛歌
3月17日(火)曇りのち晴れ、暖。

 二月半ばの暖かい日に手押しの耕耘機でたがやしておいたままにしておいた庭先の畑が気になっていた。
 春の彼岸に向けて日一日と日差しが強まっていくなかで、褐色の畑土を見るたびに、まだなにもしないのかと、どこからか催促されている気分がしてしかたなかった。

  実は、畑を耕すにあたって、その二三日まえに肥料と一緒にジャガイモの種芋も買ってきてあったのを、いつ植えようかと天候を気にしている間に、家人がそれとは知らず料理にほとんど使ってしまった。もちろんそれは、カレーライスとなり、コロッケとなり、肉じゃがに変じて、畑を経由することなく我が腹中にも納まったわけである。
それと知った家人は、慌ててJAの販売所に行き、その事実を告げ体への影響を質したが、別に問題はないとのことで、改めて種芋を買ってきた。

 そこで今度こそ、間違えて食べないうちに植えることとした。幸い昨日は暖かな上天気。
昼過ぎから作業にかかった。先ずは畝づくり。耕耘機をかけてから1ヶ月近くたった畑土は結構硬くなってしまっている。再度、耕耘機をひっぱりだす。その後を、鍬とレーキでならす。5m×6mほどの小さな畑だが結構手間がかかる。畝ができたところで、40センチ間隔で植え付けの穴を掘る。今度はスコップを使って一つ一つ掘る。一畝14ケほど掘れたところで、今度はその穴に堆肥を一掴みと油粕を一掴みづつ入れていく。そのうえに5センチほど土を戻し、種芋を置き、さらに5センチほどの土をかけて、一丁あがりである。二畝仕上がったところで日が暮れた。
 そして、今日、幸い天気も良いので、残り全部を植えつけた。全部で、約、70株ほど。どんな収穫が得られるか。楽しみである。
終わって、南アルプスに落ちる夕日の射し込む浴室でシャワーを浴び、ビールで大相撲観戦。把瑠都が豪栄道に土俵際でおしいところでうっちゃりを食らう。198センチ、179キロの巨漢がひっくり返った。それでもニコッとしたような把瑠都の表情が可愛い。疲労感と満足感が程よく交じり合って酔眼朦朧。
 
  それにしても、今、農業への回帰がさかんに言われるが、(私もその主張者の一人のつもり…)いざやってみれば、なかなか大変なものである。こんなちっぽけな家庭菜園でもそうであれば、それを生活の基盤としていくことには、よほどの覚悟が要ることを改めて思う。
 畑も体も間を空けてしまっては駄目なようだ。我が畑もほんの少しの間、手を入れなかったら、土の中は草の根が縦横無尽に網をはっていた。この草の根を断ち切って耕すにはちょっとした開墾のようなものである。
 今、高齢化で過疎化する山村部で一度放置された田や畑を元に戻すのは、たいへんな労力を要することだろうかと思わずにはいられない。まことに勿体無いことではある。


“国策捜査”はあったのだ!?-漆間副官房長官発言に思う-

2009-03-12 15:23:38 | 時事所感
 3月10日(火)晴れ、暖。

  西松建設巨額献金、民主党小沢代表秘書逮捕、ここ連日の民主党への雨霰と思いきや。こはいかに!一天にわかにかき曇り、とんだ政府高官発言で、隣の火事と高みの見物きめこんでいたのが、たちまち風向き変わって降りかかる火の粉に大慌ての崖っぷちの麻生迷言閣下の与党政権。

  私は、小沢氏の秘書が逮捕された際の弁明記者会見以来、民主党側から盛んに流れてくる「国策捜査」なんて負け犬の遠吠えと思っていた。
  が、この「漆間発言」問題が生じるに至って、おや、これはやっぱりそういうことか思わざる得なくなった。
  もともと警察庁長官にあった方が、内閣の副官房長官に任命されることが異例の人事だとか…。この人事は、麻生迷言総理大臣閣下のたってのご指名人事だとか…。
 だとすれば、漆間氏はまさに総理の暗黙の期待に見事応えて思わず手柄顔に本音がでてしまったのではと勘ぐってみたくもなるではないか。
  検察官僚は、国家を思う気持ちが人一倍お強い方々の集まりとか。この点で、いよいよ世の中の風向きが大きく変わって、戦後半世紀も続いてきた、自民党与党政権から、得たいの知れない烏合の衆ともみなされる何をしでかすかわからない民主党なんぞに天下を渡してたまるかと、愚昧な日本国民衆に成り代わり、その目をさまさんと狙い定めて、その検察権力を大いに奮って、大親分田中太閤閣下以来不倶戴天の敵と嘯く民主党、小沢代表の腐った膝と見做したのを、一刀のもとになぎ倒さんとしたのではないか。
  
  検察官僚には、民主党は許容できても小沢だけは絶対に許せないとする強い思いがあるのではないか。
  土建国家大親分太閤閣下、金丸、金の延べ棒ドン閣下と続いた利権政権を漸く退治したと思ったら、またもその愛弟子が政権をとったのでは、せっかくの苦心が水泡に帰すと危惧するのは当然ではなかろうか。

  そんな思いの後輩たちにとって、内閣の事務方の要中の要といわれる、内閣副官房長官が前検察庁長官の漆間氏とあっては、まさにこれぞ天佑と思わずして何と思うべきか。
  ここに着眼して予め人事配置した麻生閣下は、その迷言迷走はともかくとしてなかなかの策士ではないか…、とさえ思える。

  ところで”国策捜査“こんなことが、世界に誇るべき三権分立民主憲法の日本国にあるのかと思っていたら、鈴木宗雄議員と外務省の争いで一躍名を馳せた外務省のラスプーチンこと佐藤優氏がその著書「国家の罠」の中で、担当検事の言葉として明確に指摘記載されている。
  そして、国家権力がこれは「国策捜査」として一度、立件したら、必ず有罪にしてしまうと…。

  今、この国策捜査の露骨さを端無くも漆間長官のお馬鹿な発言からバレバレになるのを糊塗せんがため、あわてて二階大臣のところへも、ほんのちょっとご挨拶程度に捜査の手を差し伸べた振りをみせたまでということではないか。
  
   とにかく、検察が勝手に信じる国家意思として民主党、小沢氏に限っては絶対総理大臣になんかするものかという強いメッセージを国民に発しているのではないか。

   ともあれ、民主党はこれを奇貨として、党内から小沢色を一掃して、速やかに岡田克也副代表を代表に選出して、現下の退勢を一気に挽回すべきではないか。

 ―参 照―

国策捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国策捜査(こくさくそうさ)とは、政治的意図や世論の動向に沿って、検察が「まず訴追ありき」で捜査を進めることをいう[1]。あたかもそれが国策であるかのように捜査が進められることから、このように呼ばれる。
概要 [編集]
この用語は、検察自身が使用していたものが、逆に検察を批判する文脈で一般に使用されるようになったものである。もともとは、1996年のいわゆる住専事件において、公的資金投入に対する世論の反発を緩和するために政府主導でおこなわれた一連の捜査を指して使用されはじめた[2]。2005年には、鈴木宗男事件で逮捕・起訴された外交官の佐藤優 による手記『国家の罠』がベストセラーとなったことで一般に広く知られるようになる[3]。
検察による国策捜査をいち早く批判しはじめた魚住昭は、近年の検察、なかでも主に特捜検察が、マスメディアによる一方的な情報を背景にして、政府・検察に敵対したり世論の反発を受けたりしている特定の集団・個人を、恣意的に犯罪者にしたてあげている、とする。その目的は、事案の原因と責任の所在を明らかにすることではなく、国民の前に「生け贄のヒツジ(スケープゴート)」を差し出して、失政に対する怒りや不満をそらすことである。[4]
この用語に類似する表現としては、他に「検察ファッショ(検察ファシズム)」がある。こちらは、戦前の帝人事件における検察の強権的捜査を指して用いられたものであり、通常、国策捜査よりは広い意味で使用されている。もっとも、この帝人事件の捜査は、まさに今で言う国策捜査であった。このため、いくつかの国策捜査は「平成版の帝人事件」[5]「第二の帝人事件」[6]などと呼ばれることがある。
なお、国策捜査は、政府の具体的な指示・命令に基づく捜査(いわゆる指揮権発動ないし逆指揮権発動)をも含むが、そのような捜査だけを指すものではないので注意が必要である。
批判の内容 [編集]
本来、検察の役割は、事案の真相を究明し、それに基づいて適正かつ迅速に刑罰法令を適用することである[7]。にもかかわらず、そもそも民主的基盤を欠く検察が、何らかの政治的意図や世論の風向きによって捜査を行うとすれば、それは権力の濫用ないしポピュリズムである[8][9]。また、はじめから「訴追ありき」で、それに基づいて事案を創作(いわゆる「でっちあげ」)するとすれば、それは不当な処罰を招く恐れが強いばかりか検察の捜査能力を低下させることにもなる[9]。
もっとも、政治的意図に基づく捜査は、検察が行政機関である以上、避けがたいものともいえる。事実、戦後すぐから冷戦終結までの間、検察は自由主義体制を護持する役割を自任していた面すらある[10]。東京・大阪の両特捜部を経験した田中森一に至っては、「すべての捜査は国策捜査」であって「捜査の結果、自民党政権から共産党政権になっては困るのである」とまで述べている[11]。近年でも、住専事件においては、先に述べたように検察自らが政治的意図に基づく国策捜査を認めていた。西松建設違法献金事件における小沢一郎周辺への強制捜査についても、同様の政治的意図を疑う声がある[12][13]。
このような政治的意図は、冷戦終結以降は相対的に重要性が低下し、近年では、むしろ捜査の劇場化傾向がより顕著になったと言われる[14]。そして、世論の動向に従って「悪者」を狙い定めて摘発しようとする傾向が強まった結果、それまでは合法とされていた行為を検察が無理矢理に捜査・立件する事例が近年相次いでいる、との指摘もある[9][15]。ライブドア事件の堀江貴文については、「万引きに死刑宣告」をするに等しいという批判があったほか[16][17]、鈴木宗男事件の佐藤優についても「こんな形式犯で逮捕されるのなら公務員はみな逮捕」という驚きの声があがった[9]。
日歯連闇献金事件では、第一審判決で特捜検察による「訴追ありき」の捜査姿勢が痛烈に批判されるという異例の事態も起こっている。経済学者の池田信夫は、同事件を例にして、捜査当局側が政権与党に配慮して捜査・立件を手控える「逆国策捜査」の存在を指摘している[18][19]。
主な反論 [編集]
元東京地検特捜部副部長の堀田力は、国策捜査批判の多くは誤解に基づくものだとする。まず堀田は、社会的地位の高い人物の摘発は、その人物と利益が相反する立場にある人物を結果的に利することがほとんどだとして、検察に特段の意図はないと主張する。また、捜査に無理があるとの批判についても、行政犯については取り締まりの必要性が時代の進展とともに変化するので、それに応じて検察が積極的に取り締まりを行うようになるのは当然だという。[20]もっとも、時代に応じた取り締まりの必要性についての判断は、本来は検察の役割でなく立法機関たる国会の役割である。佐藤優は、政治家という「フォワード」がだらしないので、検察官という「ゴールキーパー」がどこででも手を使おうとする状況があるとして、罪刑法定主義や三権分立への違背を指摘している。[21]
また、国策捜査といえども、最終的には裁判所で公正な裁判が行われる建前なのだから、そのような批判はむしろ裁判所ないし裁判の現状全体に向けられるべきものであるとの指摘もある。つまり、本来は一方当事者に過ぎない検察官が、99.9%という極めて高い有罪率の下で事実上の裁判官となっている現状にこそ問題がある、というのである。[22]加えて、最大の情報源である検察を批判できないマスメディアが、被告の有罪を前提にして、一方的・情緒的な一極集中報道で世論をミスリードすることの責任を指摘する声も大きい[23]。もっとも、そのような裁判をめぐる諸々の現状すら、検察が自ら招いた側面がある、という主張も一部にみられるところである[24][25]。
関係当事者などにより国策捜査だと主張された例 [編集]
• 造船疑獄事件
• 外務省機密漏洩事件
• ロッキード事件
• リクルート事件
• 住専事件
• 三井環事件
• ライブドア事件における堀江貴文
• 日歯連闇献金事件における村岡兼造
• 構造計算書偽造事件
• 鈴木宗男事件における鈴木宗男および佐藤優
• 石橋産業手形詐欺事件における田中森一
• 植草一秀痴漢事件
• 西松建設違法献金事件における小沢一郎公設第一秘書


民主党、小沢代表は即辞任し、岡田代表に代わるべし!

2009-03-08 23:42:43 | 時事所感
3月8日(日)曇り一時薄日射す。

 ここのところ連日報じられる西松建設からの民主党小沢代表への巨額献金疑惑。十数年間で毎年2500万円、総額3億円とか。この疑惑に対して、小沢代表は、政治資金報告書に1円単位で漏れなく報告している。この献金によって便宜をはかったなんてことは毛頭ないとまさに百万言を費やすかのありさま。

 だが、誰がこんな弁明を「はいそうですか」と納得するだろうか。
なるほど、ご本人は大師匠の故田中角栄太閤殿下や故金丸大親分の轍を踏まぬよう、秘書の手元の献金帳など見たくても見ぬ振り知らないことに決めてあるのだろう。それを好いことに腹心の秘書氏は、親分の虎の尾をひらひらさせて金をせびり、関係官庁に恫喝(?)の根回しを日常の第一の仕事としていたのではないか?

その結果、それまで受注実績のなかった西松がその後は、総額、1千億とかの工事を受注しているとか。この一連の流れを見せられて、それでもまだ、はいそうでしたかと誰がおめでたくも納得するだろうか。こんな庶民感情も分からなくて何が政治家だ。

大体が、小沢氏がジリ貧の自由党を解党し民主党に合体したときから、ある種の胡散臭さが漂って何か座りの悪さを感じていたのは私だけだろうか。
それが、せっかくこれでこそ民主党の若き党首選らばれると、期待した前原元代表が、偽メール事件でのとんだおっちょこちょいのだいちょんぼ。
  それを契機に棚から牡丹餅で躍り出たのが小沢氏だ。これはなんだったのか。民主党は立党の魂を政権欲しさに単なる選挙屋に売り渡したということではなかったか。

  もっとも民主党の立党の魂なんてものがどだいあってなきがごときものなのかもしれない。だが、昨年末だったか文芸春秋で読んだ岡田元代表の見解には大いに期待できるものがあった。
  ここは一つ、岡田氏が速やかに再登場して、民主党への信頼を一刻も早く奪還すべきときではなかろうか。
  この頃、時々見る岡田代表の表情は、元代表時代の硬いだけの表情から随分と柔らかな信頼できる風貌がかんじられるようになった。
  政治は、ショーではないはずだ。この辺で、日本は、アメリカのオバマ氏とは違った意味でじっくりと誠実に現下の政治課題に全力を挙げて取りくんでくれそうな人物を首相に戴きたいもである。

孤軍奮闘か、阿久根市、竹原信一市長頑張れ!

2009-03-02 10:48:01 | 時事所感
 3月2日(月)晴れ。

 先日、面白い記事を見た。市長が自分のブログのホームページで全職員の給与明細を公表した。人口2万5千人ぐらいの市で、市民の平均年収が2百万そこそこというのに職員の大半が7百万円とはどういうことだろうか。それに見合う働きをしているだろうか?と問題提起している。

 さらにその矛先は、市政を監視し市民福祉向上のために政策提言すべき役割を担っている市議にも及び年間たった30日足らずの議会日程にも拘わらず、年間4百万もの歳費が妥当だろうかと問題提起し、市議の報酬を日当制ににすることを提案した。

 当然の結果として、職員はもとより市議からも猛反発を食らう結果となった。市議会は市長不信任決議を可決し、市長はこれを受けて待ってましたとばかり市議会を解散した。市長は、こんな議員でいいのかと市民に問いかけた。

 何ともいまどき勇ましく元気の良い市長さんである。
 私は、これを読んで、私自身、過去にさる大規模自治体の職員であった職場を振りかっえってみて、ほぼそのとおりだと思った。
 その思いの一端を過去の拙ブログでも書いてきた。

 要は、公務員は、国、地方を問わず全体の奉仕者として、その本分を尽くすことを前提として、その身分を保証され適切な待遇が法律で厚く保障されているのである。
 ところが、公務員の身分に一度身を置くや、その大半の者が、その本分をたちまちどこかに置き忘れ、どっぷりと身分保障の温みに漬かって恥じなくなるのだ。
 その結果の最悪の体たらくが、現下の社会保険庁の年金記録紛失問題である。何かかにかにかこつけて毒キノコのように繁殖させた関連団体という隠れ蓑の元に退職後も高級を食んでやまない公務員の天下りも同じである。

 だが、この問題に対して、どういうものか世論は、そのとき一時は騒いでも、長続きはしない。そこで彼ら公務員という身分にあるものはニンマリするのである。
 この風潮はなぜなんだろうか?大体、今、官公庁の職員、自衛隊、公立学校の教職員、さらには各種議員を含めれば、国民の10人に一人は該当するのではないだろうか。
 そしてその家族、兄弟親類縁者を含めれば、ほぼ全国民が何らかの関係者ということになるからではなかろうか。

 先日もどこかの自治体で採用試験を行なったら5百倍以上の競争率になったとか?。
 親が、子供就職先に望むのも先ずは安定したところということで、公務員をということではなかろうか。
 こうしてみると、国民はどこまで真剣に公務員の待遇とそれに見合う職責を果たすことを真剣に求めているのだろうか。

 今回の阿久根市の場合でも、果たしてどこまで竹下市長の公憤に市民は共鳴し、市長が期待する結果をしめすだろうか?
 ソ連邦も清朝も公務員、官僚の特権に胡坐をかいた腐敗堕落の結果、解体崩壊した。今中国共産党も盛んにその腐敗堕落振りが聞こえてくる。
 否、中国共産党は対岸の火ならずして、現下のわが国もどれだけの違いがあるだろうか。

 先日も、確定申告のため合併前は村役場だった市の支所へ出かけた。支所へ着いて見渡せばガランとなった豪華な庁舎内に机の並ぶ島のあちこちにポツンポツンと案山子しのような年配の係長か課長と思われる人影が所在なげに、闖入者でも見つけたかのように私に視線を向ける。
 私は、瞬間計算して思った。「ああ、ここにもろくな仕事もない7百万円さんがたくさんいらしゃるわい」と。
 これで、財政赤字が何兆円なんていわれたところで、「それは主さん。あんまりじゃわいなー」と一言つぶやいてみたくなった。

 私は、いたづらに公務員の待遇を下げよというわけではない。先ず、今時の厳しい世間様の中にあって公務員自身が、自分の受けている高待遇に見合う仕事をしようという意欲と責任を果たそうという誠意を示していくことではないか…。

 何はともあれ、阿久根市、竹原市長さん頑張って!と言いたい。そして、本来政治家、とはこのような問題意識を持ってしかるべきであり、それがおおきな職責ではないか。このような市長さんが我が市にも出現して欲しいものである。そして全国で竹原市長さんに続く方々が続々出られれば、この国の財政赤字なんてたちどころに雲散霧消となるのではなかろうか…。

 と、思うこの頃、さて皆様はいかが大思いでしょうか?

参照:「阿久根市職員268人分の給与、市長がHPに公開」 阿久根対立
 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(49)が、市のホームページ(HP)に2007年度当時の市長、教育長ら幹部を含む職員計268人の年収、給料、14項目の手当の明細を1円単位で公開していることが23日、わかった。
 多くの自治体が職員給与の水準をHPで公表しているが、平均額などの公表が一般的だ。名前などは伏せられているが、懐具合を公表された職員からは「そこまでやるか」との声も出ている。
 市HPの市政情報の欄に消防を除く全職員の給与を表組みで掲載。年間の給料に加え、扶養、地域、住居、児童、期末、勤勉など14項目の手当が記載され、正確な年収が明らかになっている。いずれも1円単位で給与総額が多い順に番号を振って公開。名前はないが、医師、市長、副市長、教育長は役職を記載している。
 このうち職員で最も高いのは医師、市長に次いで3番目で、給料543万8400円、扶養手当37万2000円、住居手当32万4000円、時間外手当55万6284円などとなっており、年収は総額909万1695円。
 公開について、竹原市長は自身のブログ(日記形式のHP)で「19年度職員給与、手当明細も公開しました」と紹介し、市HPの該当サイトにつながるようリンクを張っている。そのうえで、「年収700万円以上の職員が54パーセント、大企業の部長以上の給料を受け取る人間が過半数にもなる組織が阿久根市民の上に君臨している」「職責や能力と給料の関係もデタラメとしか言いようがない」などと職員批判を展開している。
 竹原市長は読売新聞の取材に「市民から職員給与や退職金のことを知りたいと要望があったため掲載した。税金の使い道の話だから公開して当然。市は年間20億円の税収しかないのに多額の人件費を使っていることに市民がどう感じるかということだ」と話した。
 これに対し、ある職員は「自分の年収も載せられている。正直気分が悪い。出直し市議選に向けた選挙戦略としか思えず、『そこまでやるか』と開いた口がふさがらない」と憤りをあらわにした。別の職員は「阿久根市が他の自治体に比べて高いわけではないのに……」と話していた。
(2009年2月24日 読売新聞)