蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

東日本大震災に思う(その5)―震災復興について―

2011-03-31 17:52:25 | 時事所感
3月30日(水)晴れ、暖たたかい一日。

 夜、8時。この頃ほとんど欠かさずBSフジの「プライムニュース」を視る。コマーシャルは頻繁に入るものの、毎晩、一つの問題をテーマに、コンビ二のお手軽惣菜のようなお気楽な何事も訳知り顔のまいどおなじみコメンテーターではなく、そのテーマに関係した与野党の議員、識者や専門家3~4人集めての中身のある議論は、実に見ごたえ聴き応えがある。

 むしろ、こうゆう番組こそNHKの出番だとおもうのだが、屁にもならないような公平中立を建前とする国営放送では無理なのだろうか。
 毎週、日曜日の朝9時から、NHKの国会討論なんていつ聞いても毒にも薬にもならない各政党の八百代言を聞かされている感じとは大きな違いだ。
 
 話は戻して、今夜のプライムニュースのテーマは「復興への国会の役割は、与野党震災担当に問う」ということだった。
 時機にかなったよい中身だった。きいていると、今回ばかりは皆さん仲良く一生懸命取り組んでいられるようである。
こうゆうことであったのなら、先の拙ブログで、国家議員の先生方は7百人余りも居られて何をやっていられるのだろうかという言葉を取り消さなくてはならないようだ。

ところで今夜の出席者、与党民主党からは、山口壮議員、自民党からは西村康稔議員が出席していた。日頃の議会の揚げ足取りとは違ってお互いに謙虚に、できることは何でも智恵を出し合ってやっていこうという気持ちが伝わってきた。

 これは、両議員の個人的な人柄にもよるのかもしれない。お二方ともとても誠実にまた熱意があるように感じた。
まあ、しかし、こうは言ったものの、この頃、私の政治家を見る目には自信がない。このブログでも前原頑張れと応援してみたら、とんでもないおっちょこちょいだったり、とか。
岡田幹事長にしてもそうだ。前には総理大臣にと思ったが、今の様子をみていると、あの四角四面の石油缶に入ったような人格では、変転極まりない内外の問題に柔軟かつ的確に対応していける器とはとても思えなくなった。

まあ、これは新聞TVぐらいしか情報源を持たない山家の隠居としてはやむを得ない仕儀と思うほか無い。そんなあやふやなもので得た聞きっかじりでよくもまあ、あれこれとあげつらえるものだと、言われてみれば二言もない次第。
されど、やはりどんな形にしろ目に付いたものは、一言言ってみたいのも、生きている人間としては許されてしかるべきではなかろうか。

どうせ、物事の真実なんて一体どこまでがそうであるかは誰にもわかりはしないのではないか。
されば、我が目の第六感を信じるほかないのだ。
その目で見て、今夜のお二人のような政治家が、もっともっと活躍される立場に立たれ、このような考え方の議員が一人でも多くなれば、今後の日本の政治に希望が持てるような気がしてきたのだが…。
とにかく、今日の話を聞いた限りでは、与野党あげて被災された方々はもとより多くの国民が納得できるような復興が期待できそうな気がしたのだが…。

山家の隠居にできることは、どうか裏切られないように祈るのみ。
物事は、神ならぬ身の我々にとって、全て、悲しいかな結果をみてみないと分らないのだ。


東日本大震災に思うこと(その4)-震災復興について-

2011-03-28 20:00:42 | 時事所感
 3月28日(月)昨夜来の淡雪微かに積もれど、春陽にたちまち消えて暖い一日。


 未曾有の大震災、大津波それに加えての半ば人災ともいうべき原発原子炉事故災害。まさに自然エネルギーの猛威と、人間の科学信仰の驕りが混合した災害史上かってなかった事件ではないか。

 その津波災害から二週間余り、今、被災地はもとより国・地方自治体等において早くも復興への動きが伝えられてくる。
 それを聞いていると、どうも現在の被災地の瓦礫を片付けて、そのあとそのまま道路、上下水道、電気ガス等のインフラを整備して、各個人等が家を再建する方向で進められようとしているようだ。
 だが、それは一番手っ取り早いのかもしれないが、最も採るべき方策ではないのではないか。

 むしろ、海水に一面嘗め尽くされたような廃墟ともいうべき被災地は、当面そのままにして、周囲の小山や丘を削りとり、標高30~50mの高台の造成地をつくりそこに新しい市街を建設すべきではないか。
 そして、国や自治体の事業主体者は、新しい造成地を被災者が所有していた土地と等価交換等の手法で、被災者に分譲してはどうだろうか。また、仕事を替わった等で新しい造成地へ移転できない被災者からは、その所有地を買い上げてはどうだろうか。

 こうすれば、被災地の大方は公有地となり、住宅以外の海浜公園や漁港・市場として活用すればいいのではなかろうか。
 今回の地震と津波被害の烈しかったところでも、チリ津波の際に高台に移転した家屋は無傷で家族も全員無事だったと報じられている。
 ところが、その際、強大な堤防を信じてそれでも僅かに海岸から1キロ程離れた場所に新築した人は、今回また家を失い家族を失ったと報じられている。

 人は、喉もと過ぎれば直ぐに熱さを忘れる。今回の津波でどんなに悲惨なめにあっても幸いに生き残った人には、死んでしまった人のようには、津波の真の怖さが身に沁みにくいのではなかろうか。
 それは戦争の惨禍も同じである。戦争で死んだ人にしか、その死の瞬間にしか、戦争の真の恐ろしさと虚しさはわからないようにである。
 だからこそ、戦争はしょうこりもなくくりかえされるのではなかろうか。 

 人は、自分が生まれ育った、その場でまた元のように生活したいのはやまやまかもしれない。
しかし、震災復興は個人力だけではできるものではない。多くの国民の税金からの公費が投じられるのである。
 それならば、それを一円も無駄にすることのないように最大限に活かすべきではないか。
 震災は、津波は、同じ土地に、何時来るかもしれないのである。それは、こうしている時かも、明日かもしれないのである。まして、三陸沿岸は昔から津波が怖いところだとは、遠く離れているものでも、よく知るところである。
 どうか、災いを転じて福と為すような震災復興事業を願いたいものである。そしてこの事業推進に今回の震災で家や職を失った人々を最優先に雇用して進められればと思う。
 
 だが、不幸な事に今の菅民主党政権の下においては、どれだけダイナミックな震災復旧事業が行われるか、どこまで期待できるだろうか。

 今、福島原発の復旧現場では日々に放射線の濃度が高まる中で、懸命に文字通り命がけで作業にあたっていられるのは、放射線に被爆しない限り氏名も役職も報じられない無名の人達である。放水作業に当った消防関係者、自衛隊の人達。その懸命な働きぶりをTVで視ていても胸が熱くなり、涙が止まらない。

 それに反して、東京かどこか東電の幹部の記者会見で二転三転する報告の杜撰さ、無責任さはどうだろうか。この方々の表情には、現場を知らない自信のなさがみえみえではないか。この方々は、真に僭越ながら、わがひがみ目か、恐らくは平和な日常の中でぬくぬくと出世してきた方々ばかりではないかと見えてくる。そして、こんな事態に遭遇するなんて夢にも思ったこともない人々なのではないかと。

 この国の組織は、企業も国家も大きくなればなるほど、昔も今も、上へいけばいくほど、現場知らずの無能集団が跳梁跋扈し、企業を、国家を滅ぼす仕組みになっているようではないか。
 今の日本も昔の日本も、底辺がしっかりしているからもっているのだ。しかも、今、その人達の大部分は、派遣や契約雇用の身に落とされているのだ。
 この国を、より豊かにしっかりした安心して住める国にしていくためには、底辺に、どんな職場でも最前線で一生懸命働く人々が安心して、仕事をし、生活していくことができるようにしていかなければならないのではないだろうか。

 政治とは、そのためのものではないのか。政治家とはそのために全力をつくすべきではないか。
 ところが今、衆参合わせて722人かの国会議員の先生方は、この国難の時に各自何をなさっているのであろうか。
 さっぱり見えてこないのは、この国のメディアの行李の中のいり豆のせいだろうか?
 

東日本大震災に思うこと(その3)ー戦災と自然災害ー

2011-03-20 17:21:21 | 時事所感
3月19日(土)晴れ、暖。

 先ほど、福島原発3号機へ放水を行った東京消防庁の総隊長さんの記者会見を視た。冒頭、一瞬うっと詰まって下をうつむき涙を懸命に堪えて、作業に当った隊員の危険を犯しての高い使命感をたたえ感謝すると語った。
 震災のあった11日(金)当日は、都内でも11件もの火災がありその消火活動に傾注したとのこと。そして翌12日には、今回の原発事故への対応を早くも検討し戦略を練ったという。
 東京消防庁の放水により、当該原子炉からの放射線は0になったとのこと。実に効果的だったのだ。さすが大東京都だ。
 これで石原慎太郎閣下の鼻息はますます荒いこととなるのだろうか。

 それにしても、今回の自衛隊の皆さんの活躍はどうだろうか。黙々と懸命に物凄い現場の中で様々な作業に従事されている。膝まで水の浸かりながらお婆さんを背中に背負って救護所へ運ぶ姿。朝早くから戦闘服で野戦用の用具で大量のご飯をたき、ボランティアの人達がまつお握り作りの場に運ぶ姿。実に感動的だ。
 幸いに戦争のない日本で自衛隊の活躍する姿をみるのはほとんどがこうした災害救援活動の場でだ。
 このような自衛隊を指して、内閣の要ともいうべき先の仙石官房長官は、「自衛隊は暴力装置」と国会の場で発言し更迭されることとなった。
 どのような神経でそういう言葉が出てくるのか信じられないようなことだ。

 一方、この震災被害を契機に中国やロシアまで、その真意はおくとして、エールを送ってくる。
 平常時には外交戦術としてか自国の国益至上主義で威嚇恫喝を当然とけしかけてくる国々が、一度大規模な自然災害を前にすると、当たり前の人間同士としての連帯の情を示してくる。

 そして外交戦術が一度行き詰まれば、砲火を交え殺し合いの戦争となる。それがエスカレートすれば、その戦災は自然災害どころのさわぎではなくなるだ。
 今回の原子炉事故にしても、アメリカは日本政府が情報を隠していると苛立ち、おおげさに80キロ圏内の自国民に避難勧告をだした。

 そのアメリカは、何をしたか。先の太平洋戦争において、気息奄々の日本に止めをさすかのように、人類初めての核爆弾の実験材料として、広島、長崎にそれぞれ種類の違う原子爆弾を二つも落として、一般市民を何十万と殺戮しておいて、未だに一言の謝罪も無いではないか。
 何と身勝手な偽善国家であることか。
 こんなアメリカに日本はいつまでへいこらその尻にはいつくばってくっついて歩いて、恥じないのか。
 思えば腹のそこから湧いてくる怒りに論理が乱れてしまう。

 要は何故人間は自然災害には、お互いに素直になれるものが、どうしてわざわざ正気の頭で自然災害以上の災難をお互いにかぶせあうような事をやるのだろうか。

 冒頭の東京消防庁の指揮官にかえれば、放射線の放出されている危険区域に部下の突入を命じるのにあれほど涙するのだ。それは平時だからか。
 ところが、先の大戦では、みすみす無駄死にとなることが分かっていながら、特攻を最たるものとして、むざむざと「お前らは1銭五厘の命だ」と何十万の兵士を、死地に赴かせた無数の指揮官達はどうだろうか。
 
 自然災害に対してはこれほどお互いに優しくなれる人間。その同じ人間が一度お互いの集団的利害の対立となると、そんな平常時の優しさをかなぐり捨てて、神も顔をそむけるような残虐な戦争を正気で始める。
 この人類の続く限り永遠かと思われる矛盾を、私たちはどう考えればいいのだろうか。

東日本大震災に思うこと(その2)―日本人の姿―

2011-03-19 12:20:14 | 時事所感
3月18日(金)晴れ、寒気強き一日。

 今回の地震災害について、海外の報道では、日本人のあり方を賞賛する報道が際だつと聞く。

 例えば、3月16日付けの時事通信の記事では、【ワシントン時事】として、
『「なぜ日本では略奪が起きないのか」―。米メディアは相次いで、議論のテーマに取り上げている。
 CNNテレビは、2005年に米国で起きたハリケーン・カトリーナ災害や10年のハイチ大地震を例に「災害に付き物の略奪と無法状態が日本で見られないのはなぜか」として意見を募集。視聴者からは「敬意と品格に基づく文化だから」「愛国的な誇り」との分析や、「自立のチャンスを最大限に活用する人々で、進んで助けたくなる」とのエールも寄せられた。』
とある。

 また、尖閣問題を巡っては、「日本人を殲滅しろ」とさえ、ネットで吹き荒れた中国では、今やその83%が「日本人を助けろ」という声があるとか。
 そして、フジサンケイ ビジネスアイの同日の記事によれば、東日本大震災に、同じく地震に苦しむ中国が高い関心を寄せているとして、
 『被災状況の報道の一方で、未曾有の震災に直面した日本人の秩序の良さや、防災対策を評価する声が目立っているとして、新京報(電子版)は「日本大地震はわれわれに何を告げたか」と題する記事を掲載。「教師は最後に電気を消してから教室を離れ、避難民は暗闇の中で秩序正しく並び救済物資を受け取る」と日本人が見せる秩序と冷静さを高く評価している。』という。

 さらに、14日付の韓国紙、中央日報は、『東日本大震災で被災地の住民たちが譲り合いの精神を忘れずに対応し、怒号が飛び交うこともなかったと称賛する現地ルポを伝えた。
 地震で停電した秋田市内のホテルでは非常食としてうどん10杯が用意されたが、
約50人の宿泊客らは先を争うことなく、互いを気遣ったと紹介した。
 こうした冷静な行動は、他人への「迷惑」を避けようとする独自の文化によるものだと分析。被災地での略奪は一件も伝えられていないことに加え、津波に人が巻き込まれる場面を放映しないなど、報道機関も被災者に配慮していると指摘した。』と報じている。
 
 これに対して、国内の報道では、被災者への献血で若い人々が多数応募し長い行列ができるほどだということで、若者を見直す記事もあった。
その一方で、『東京都大田区の大手スーパーでは15日、開店直後から店員の連呼する声が響いた。店員が商品棚にティッシュペーパーを置いたそばから買い物客がひったくるようにかかえていく。店内のカップめんや、缶詰コーナーの棚はすべてカラ。レジには、こぼれ落ちそうなほどに商品を詰め込んだかごを手にした買い物客の列が続いた。』ともある。

 一体どちらの姿が今の我々なのだろうか。
 思うにどちらもが我々の日常の姿の一面なのではなかろうか。
 震災被害者として、行列に並び、避難所に集められた同じ状況の下で他人の目のある場所では、お互いの目を気にして冷静につつましくふるまうのではないか。少しでもお互いに近くに住んでいて知った者同士の隣人の目のある場所では、みっともないことはしたくないという先祖伝来の「恥の文化」が強く抑制として働くのではないか。

 ところが都会というお互いの繋がりが無く、不特定多数の他人の目が気にならない場所では、生存本能が剥き出しとなってあらわれるのではなかろうか。
しかしそれはそれで、大都会というコンクリートジャングルの中で、バラバラの個として生きていくうえで、責めることのできない仕方のないことなのでは…。

 前者の外国のメディアの目に映った日本人の姿は、渡辺京二著の「逝きし日の面影」で記しされている来日した外国人が見た明治維新前後の古き日本人の良さそのものである。
 こうしてみると、まだまだいざとなれば古き良き日本人のDNAが、我々の内にしっかりと残っているということではなかろうか。真に誇らしいことではないか。
 そして特に、今や地方で暮らしている日本人の大多数が、そのような良き日本人なのではなかろうか。
 その反面で、最近のメディアで報じられる石原夜郎自大閣下がのたまった物欲我欲の天罰を受けるべき日本人とは、我々の上澄みに浮遊するゴミのような僅かな存在を、売らんがために面白おかしく針小棒大にさしてのことではなかろうか。

 今回の大震災は、我々が忘れていた本来の自分たちの良さを再認識させ、新たな国づくりに自信を取り戻す契機となりうるのではなかろうか。
 それはGDPで何番目というような安易な数字では計られないものとしてである。


東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に思うこと

2011-03-15 15:20:57 | 時事所感
3月15日(火)晴れ後曇り、暖。
 先週、11日(金)、犬の散歩から帰ってきて、家の敷地に入ろうとしたら体がゆすらゆすらして立っているのが危うくなる感じ。これは何だ!前方の我が家が、家全体でカタカタと鳴子板のように細かく鳴りざわめいている。地震だ!それも大きい。今まで感じたことの無い大きな揺れだ。こりゃー家倒れてしまうのだろうか。

 だが、横揺れだ。直下型ではない。なら倒壊はするまい。どこか遠くで大きな地震がおきたのだ、と思った。腕時計をみたら2時46分だった。
 揺れが収まったところで家に入り、TVをつけた。画面は大船渡の街を映していた。宮城県沖を震源とする巨大地震が発生。まもなく津波が押し寄せるとのこと。しばらくして凄まじい映像が目に飛び込んできた。船がおもちゃのように軽々と横向きに流されてきたと思うまもなく横倒しにになって橋げたの下に巻き込まれマストがひしゃげて姿をけしていく。自動車がくるくると木の葉のようにまってながされていく。今まで目の前に見えていた家があっというまに濁流に飲まれて跡形も無く流れさる。

 次々にテロップで報じられる各地の死者、行方不明者数。凄まじい地震と津波被害。
 ただ呆然とTVを見入るばかりだった。
 見ながら、これは民主党管内閣への止めの一発になるのかとの思いが掠めた。尖閣といい北方領土への傘にかかったような大国ロシアのデモンストレーションといい、次から次へと難題を引き寄せる内閣である。
 ついに天からも見放されたのであろうか…。

 石原都知事は、「我欲に目のくらんだ日本人への天罰だ」と言ったとか。しかし、これは暴言というべきではないか。それではこの大震災で生命をはじめ家屋敷を、かけがえのない家族を失ったか方々を冒涜するものではないか。

 だが、わが身を振り省みれば、哀しいかな、どんな天変地異や災害もわが身に降りかかってこない限り何一つ実感は湧かないのだ。

 翌日、用があって東京へ行き一泊し、帰りに平塚を廻り帰ってくる途中、ガソリンが切れかかった。入れようと思ってガソリンスタンド探すと沿道のどのスタンドも軒並みの大行列。ようやくやや少ない行列に並び30分近く待ったすえに、たった2千円分、13ℓしか入れてもらえなかった。ここで初めて地震の影響を実感した。

 そして昨日からの計画停電とか。我が家はいつからなんだ?。断水に備えての水の汲み置き。中央線甲府小淵沢間の電車の不通。いつまでつづくのか。
 ここにきてようやく震災被害者の方々の苦しみの何万分の一かの思いを共有できるかに感じた。

 しかし、今日までは幾分春めいた暖かさが、一変、天は酷薄にも、明日、東北地方は雪も降るとかの寒さに覆われるとのこと。
 その上、原発の放射能汚染の問題。真に言葉もない有様である。

ー追記ー
 末筆ながら、このたびの大地震災害に逢われた方々に衷心より、お悔やみとお見舞いを申し上げます。