4月16日(土)晴れ、日中22度。
昨日のニュースで今回の大震災に伴う大津波で九死に一生を得た南三陸町の佐藤町長が、知事に対して、「住民は漁業で生活している。海から遠く離れた場所には住めない。仮設住宅を元の場所に一日も早く建てて欲しい」と言う趣旨の要請をしているのを視た。
これに対して、知事は「また波が来るような場所に建てるわけにはいかない。山を削って復興団地を造るからら待ってほしい」と答えていた。
知事の回答が今の急場には間に合わないかもしれないが、これから子々孫々長い将来を見通せば至極当然な答えだと思った。
そして今更のように思ったのは、人間はどんな物事でも、それが自らの生命財産にかかわることであっても、“リスク”ということを頭に置きたがらない性向が極めて強いということだ。
目下、いつなったら一応の収束をみるかわからない福島原発にしてもそうだ。原発のリスクについては、従来からその道の専門家が口を酸っぱくして様々に主張されてきたようだ。
今回の事故を契機に岩波書店が雑誌「世界」等で掲載してきた原発の危険性を指摘した記事をインターネットで公開している特集を読んだ。
読んで驚いた。今回の原発事故の経過がそっくりそのまま予見されていたのだ。東電の関係者はこの記事を読まなかったのだろうか。
まさかそんなことはあるまい。
読んだけれども、「何言ってんだい。部外者が。そんなこと起きるわけないじゃーないか。私たちは万全の体制でのぞんでいるんだ。」と、いうことではなかったか。
私も、記事を読み終わった瞬間ははらがたった。だが、今少し時間がたってみたら、これが非凡ではない普通の人間の当たり前の態度ではないかとおもいはじめた。
人間は、何かをするとき、その物事が上手くいったときのことは最大にイメージし、できるのだ。だが、万一それが上手くいかなかったときのことは、極力そんな悪いイメージは自らの頭の中から無理にでも消し去ろうとするのではないか。
我が身で言えばなけなしの僅かな元手で株に手を出した時もそうだ。株で損した話し、身上棒に振った話は山ほど聞いてはいたが、自分に限ってはそんな失敗はするわけがないと、愚かにも思い込んでいた。
その挙句はご多分に漏れずだった。
だが、人間の文明が良くも悪くも現在あるのは、このリスクを過小評価する所以にこそあったのではないか。
コロンブスの新大陸発見にしても、リスクを考えたらどうだろうか。未知の大洋に船出できるわけがなかったろう。
戦争だってそうだ。相対する国家同士が、お互いにリスクを正当に評価したら、そもそも戦争なんておきるだろうか。
もっとも先の大東亜戦争では、リスクを承知の大博打を覚悟のうえでもあったようだが…。
そんな大きなことでなくても、もっと身近で小さなことでいえば、結婚し子どもを産むことだって、あれこれのリスクを考えていたらはたしてどうだろうか。
こうみてくると、この度の原発事故にしても、考えうるリスクに十分な対応を欠いたからだとばかり、関係者を言わば、一種の後智恵で非難する気にはとてもなれなくなった。
人間が前に進むためにはリスクは避け得ないのだ。
要は、そのリスクが現実のものとなったときに、如何に果敢に、機敏に、誠実に全力を尽くして立ち向かうかということでしかないのではなかろうか。