6月24日(日)曇り後雨。梅雨冷の一日。
昨日の土曜。朝、目覚めたら真夏のような晴天だった。そうだ、今日は、青鬼(アオニ)に行ってみようと思った。
ここのところ、7月9日からの東京でのグループ展に向けての100号の私にしては大作の製作で、毎日、同じ絵に向かっていて、少々鬱々としていた。
青鬼は、白馬の傍の山村で日本棚田百選に選ばれた場所なのである。去年も、行ったのだが、集落への入り口が分かりずらく、行過ぎて日本海にでてしまったのだ。
今回は、地図でよく確認してから出かけた。
白馬の先の信濃森上駅への道を間違いなく右折した。それでもその先、何の標識も出てこない。不安になり、途中、路傍の畑で作業しているご老人(私同様?)に道を尋ねた。
親切に教えていただいた。お陰で、こんな狭く急坂の先に人の住む集落があるのかとの不安に打ち勝ち、無事青鬼の集落に着けた。
■ 青鬼集落への途中から
前方の山は、左から、鹿島槍、五龍岳、唐松岳とのこと。こんなによく見える日は、この時期には珍しいとのことだった。(写真になると、遠景が小さくなり、山の特徴が捉えられず残念)
山麓に点在する街路は白馬村。早速、路傍に座って、ラフスケッチをした。
■ 青鬼の棚田と集落
この景色を見て、久しぶりに好い景色に出会った興奮を覚えた。この写真でも、遠景の鹿島槍、五龍、唐松岳が小さくなってしまって、その良さが十分に伝えられないのが残念。やや、逆光気味の中、ところどころに屹立する杉木立が気持ちよいアクセントなって風景を引き締めている。茅ぶきの屋根を包んだトタンの錆色も、周囲の緑に映えて、絵描きにはありがたい。
■ 田の神様
棚田の中を絵にする構図を求めて歩き回るなか、ふと路肩を見上げたら、この石仏が目に止まった。明治15年と刻まれていた。恐らくは、この石垣を組直した時に、石垣がいつまでも崩れないように、そしてできた田んぼでの豊作への願いを込めてのものではないだろうか。
■ 青鬼の民家
この集落に今、残っている民家は、14、5軒とか。見て驚くのは、家の形がどの家もほとんど同じで、規模も同様なことだ。
ここには、大きな貧富の差がないということではないだろうか。これまで多くの山村を見てきた中で珍しく感じた。まるで昔の団地かと思うぐらい、整然と仲良く、隣とくっつくように並んで建っていた。
格差社会論議がやかましい今、何かほのぼのとした気持ちにさせらる。
だが、現実は厳しい。玄関先の流しに「ご自由にお飲み下さい。ただし、水は止めないで流しっぱなしにしてください。」と札が下げてある家の主は、今年、81歳とか。
ほとんどの若い人は皆、下へ降りて、ここに残っているのは、自分のような年寄りばかりとか。
「あの家のは、婆さん亡くして、自分も倒れて今は娘さんのとこで世話になっていて空き家だ。」「あの家は、親が亡くなって、子どもたちは東京へでてしまい、夏だけ、墓参りに帰ってくるだけだ。」と、諦め顔で説明してくれた。
■ 民家の内部
そんな空き家の一つが、昔のままに復元されて公開されていた。誰も番する人も居ない。「開けた後は、戸を閉めてください」とのみ小さな、張り紙がしてあった。馬も土間の片隅に居場所がある、おおらかな間取りである。
この集落、今、貴重な山村集落として、文化庁の指定を受けて、昔風への復元事業がゆっくりと進められているそうだ。トタンを剥がし、元の茅葺屋根にし、壁もしたみ板張りにしていくとか。ところが、1年に1軒づつのため、昔の景観に戻るには、これから十数年はかかりそうである。
その頃には、田の作り手がいるだろうかと心配になる。
昔の人は、どうしてこのような狭隘な山の谷間に集落をつくったのだろうか。先ほどの主殿(アルジドノ)の答えはこうだった。
昔は、白馬の村があるあたりは、春の雪解けには、姫川が氾濫して、一面水浸しになったという。そのため、こうした水はけのよい高いところに住み始めたのではないかと。毎年繰返される、洪水から暮らしを守る知恵なのだ。
それにしても、日々、西に立派な山なみを眺めて、清清しい気分で暮らせる場所を、片っ端から捨てつつある、今の私たちの暮らしのあり方とは、一体何なんだろうかと考えさせられる。
まことに勿体無いことではないだろうか。
都会の小学生の4、5年生を連れてきて、2年間ほどこのような集落の空き家に合宿させるような山村留学制度を推進できないものだろうか。
そうして、この山村に、また元気な子どもたちの喚声が木霊するならば、あの田の神様も、どんなに喜ぶことだろうかと…。
そんなことを頭に浮かべつつ、久しぶりにスケッチに集中した。
昨日の土曜。朝、目覚めたら真夏のような晴天だった。そうだ、今日は、青鬼(アオニ)に行ってみようと思った。
ここのところ、7月9日からの東京でのグループ展に向けての100号の私にしては大作の製作で、毎日、同じ絵に向かっていて、少々鬱々としていた。
青鬼は、白馬の傍の山村で日本棚田百選に選ばれた場所なのである。去年も、行ったのだが、集落への入り口が分かりずらく、行過ぎて日本海にでてしまったのだ。
今回は、地図でよく確認してから出かけた。
白馬の先の信濃森上駅への道を間違いなく右折した。それでもその先、何の標識も出てこない。不安になり、途中、路傍の畑で作業しているご老人(私同様?)に道を尋ねた。
親切に教えていただいた。お陰で、こんな狭く急坂の先に人の住む集落があるのかとの不安に打ち勝ち、無事青鬼の集落に着けた。
■ 青鬼集落への途中から
前方の山は、左から、鹿島槍、五龍岳、唐松岳とのこと。こんなによく見える日は、この時期には珍しいとのことだった。(写真になると、遠景が小さくなり、山の特徴が捉えられず残念)
山麓に点在する街路は白馬村。早速、路傍に座って、ラフスケッチをした。
■ 青鬼の棚田と集落
この景色を見て、久しぶりに好い景色に出会った興奮を覚えた。この写真でも、遠景の鹿島槍、五龍、唐松岳が小さくなってしまって、その良さが十分に伝えられないのが残念。やや、逆光気味の中、ところどころに屹立する杉木立が気持ちよいアクセントなって風景を引き締めている。茅ぶきの屋根を包んだトタンの錆色も、周囲の緑に映えて、絵描きにはありがたい。
■ 田の神様
棚田の中を絵にする構図を求めて歩き回るなか、ふと路肩を見上げたら、この石仏が目に止まった。明治15年と刻まれていた。恐らくは、この石垣を組直した時に、石垣がいつまでも崩れないように、そしてできた田んぼでの豊作への願いを込めてのものではないだろうか。
■ 青鬼の民家
この集落に今、残っている民家は、14、5軒とか。見て驚くのは、家の形がどの家もほとんど同じで、規模も同様なことだ。
ここには、大きな貧富の差がないということではないだろうか。これまで多くの山村を見てきた中で珍しく感じた。まるで昔の団地かと思うぐらい、整然と仲良く、隣とくっつくように並んで建っていた。
格差社会論議がやかましい今、何かほのぼのとした気持ちにさせらる。
だが、現実は厳しい。玄関先の流しに「ご自由にお飲み下さい。ただし、水は止めないで流しっぱなしにしてください。」と札が下げてある家の主は、今年、81歳とか。
ほとんどの若い人は皆、下へ降りて、ここに残っているのは、自分のような年寄りばかりとか。
「あの家のは、婆さん亡くして、自分も倒れて今は娘さんのとこで世話になっていて空き家だ。」「あの家は、親が亡くなって、子どもたちは東京へでてしまい、夏だけ、墓参りに帰ってくるだけだ。」と、諦め顔で説明してくれた。
■ 民家の内部
そんな空き家の一つが、昔のままに復元されて公開されていた。誰も番する人も居ない。「開けた後は、戸を閉めてください」とのみ小さな、張り紙がしてあった。馬も土間の片隅に居場所がある、おおらかな間取りである。
この集落、今、貴重な山村集落として、文化庁の指定を受けて、昔風への復元事業がゆっくりと進められているそうだ。トタンを剥がし、元の茅葺屋根にし、壁もしたみ板張りにしていくとか。ところが、1年に1軒づつのため、昔の景観に戻るには、これから十数年はかかりそうである。
その頃には、田の作り手がいるだろうかと心配になる。
昔の人は、どうしてこのような狭隘な山の谷間に集落をつくったのだろうか。先ほどの主殿(アルジドノ)の答えはこうだった。
昔は、白馬の村があるあたりは、春の雪解けには、姫川が氾濫して、一面水浸しになったという。そのため、こうした水はけのよい高いところに住み始めたのではないかと。毎年繰返される、洪水から暮らしを守る知恵なのだ。
それにしても、日々、西に立派な山なみを眺めて、清清しい気分で暮らせる場所を、片っ端から捨てつつある、今の私たちの暮らしのあり方とは、一体何なんだろうかと考えさせられる。
まことに勿体無いことではないだろうか。
都会の小学生の4、5年生を連れてきて、2年間ほどこのような集落の空き家に合宿させるような山村留学制度を推進できないものだろうか。
そうして、この山村に、また元気な子どもたちの喚声が木霊するならば、あの田の神様も、どんなに喜ぶことだろうかと…。
そんなことを頭に浮かべつつ、久しぶりにスケッチに集中した。