蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「小泉政権5年の功罪とは」―それは私たち自身を問うことでは?―

2006-05-07 00:57:51 | 時事所感
5月6日 (土)晴れ、午後は高曇り。暖、朝16度、日中24度。

 今週、月~金曜まで、山梨放送TVの「スーパーモーニング」では小泉政権の5年間の功罪を特集していた。
最終日の5日には、「国家の品格」の著者藤原正彦氏が、米国追従の姿勢を酷評していた。
この五年間で日本の良いものを、全てぶち壊したと。そしていまこそ武士道精神に立ち返り、われわれ日本人がいいと思う価値観を逆に世界に訴えていくべきだと。

 このご意見に私(山家の隠居)も全く同感である。

しかし、ことは簡単ではないと思う。
 というのは、私は歴史というか時代の流れとというものは、個人の力を超越した、とうとうと流れる大河だと思うからである。

 小泉氏は単なる一つの波頭でしかないのではないか?。彼は、時代の流れ、今、国民大衆が何を求めているかを本能的に読み取る術に長けていただけというところではないか?。
 いわば国民皆が漠然と求める旗印は「これだ!」と打ち立ててみせただけの存在ではないのか?。小泉氏は叫ぶ。「改革!」、「そうだ、いまこそ改革だ!」国民大衆が答える。

 しかし、お互いに「何をどう改革するべきか」は、分かっちゃいないのだ。ただ、これまでどおりではじっとしていられないのだ。何者かに突き動かされて。

 だからこそ、識者や評論家といわれる“馬鹿なお前ら大衆は、俺様のいうことを黙って聞け先生方?”が、改革改革といったところで中身は何も変わっちゃいない、看板が変わっただけだとのたまう。そのとおりだろう。

 それでも、国民の半数は拍手喝さいするのである。

 いつの時代の英雄と呼ばれる人々も、煎じ詰めれば皆同じ虚像でしかないのではないか?
 彼らは、その時代の波頭でしかないのではなかったか?。ただ彼の立てた旗が、たまたまその時代の空気、多くの大衆が漠然と求めているものを、「おまえらが、今、欲しがっているものはこれだろう!」と提示して、「そうだ、それだ」合致しただけではないか?。

 小泉氏の崇拝やまない織田信長しかりではないか?。因習姑息な家柄主義の既存守護大名の人事や戦略、領国経営に不満をもった人々が増え、そのことを察知した、信長が、従来とは違った能力主義にいち早く目をつけ、その旗幟のもとに時代を変えたいという優秀な人材が続々と集まったというこではないか?。

 しかし、その彼も、連戦連勝の己の勝ちに酔ううち、いつしか時代の空気を読みとる能力を失い、当時の誰も望みもしない独裁帝国主義国家の樹立へ向かおうと方向転換したまさにその時、その大衆の見えない空気を察知した明智光秀という新たな大衆の波頭によって、この地上から掻き消されてしまったのではなかったか?

 もし、歴史を動かすのが個人の衆に卓越した能力の如何によるのであれば、何故、信長は桶狭間では勝てて、本能寺では無残に殺されたのか?。一歩譲って、越前朝倉攻めで浅井氏の思わぬ謀反にあって命からがら逃げ帰れたものが、何故、本能寺の危機からは脱出できなかったのか?所詮彼とて時代の子、一つの波頭でしかなかったのでは?

 さらに言えば史上名高い義経の事跡である。奥州の地から突如現れ疾風怒濤の勢いで平家を討滅しておきながら、時代の旧体制の象徴、後白河法皇に懐柔されるやいなや、それまでの神通力は嘘のように欠け落ちて、無残にも衣川の露と消えたのは何ゆえか?。
 それは、彼が台頭する武士(開拓農民)の期待を裏切る方向に組したからではなかったか?すなわち義経は時代の空気を読みそこね、時代に見捨てられただけなのではないか?
 検証すれば事例はいくらでもある。

 こんな事例をひいてグタグタと私が言いたいのは、所詮、小泉氏の5年間の事跡は、すべて私たちの最大公約数が望んでいることをやってみたにすぎないないということである。

 冗談言わないでくれよという方もあるだろう。おれは自民党なんかに一度だって入れたことはないよと。
 それは、その方個人にとってはまちがいない事実だろう。

 しかし、結果として、合法的に多数の支持を集めて、彼の政権は厳然として今日も機能しているのである。それは、国民多数の合意がそこにあるからである。
 それに、反対の国民は、いやだったら日本国籍を離脱するしかないのである。それができなければ、所詮、少数者は多数者に飲み込まれて生きていくしかないのである。
 こんなものか、嫌だ嫌だとぼやきながら付いていくしかないのである。
 これがとうとうたる時代のながれの重みというものではないか?

 しかし、だからといって敗北主義に落ち込むことはない。
 いつか、自分がこうだと思う方向に、そう思う人々が蟷螂の斧と承知の上で、ひたすら自らの周囲の人々に語りかけていくことではないか?。

 このように見れば、偉人・英雄・リーダーの力もそれほど盲信し、全を預けるものでもなく、反対に真に時代の空気を形成していくものは自分たち自身だと自覚すべきではないのか?。私たち一人一人は大河の一滴に過ぎない。しかし、その一滴、一滴が自覚し、無自覚な多数者に押し流されることなく、発言し、多数者を自覚あるものに変えていくことではないか?。

 故に小泉氏のこの五年の事跡は、我々自身の鏡でしかないということではないか?
 それをどうこうあげつらったところでそれは、己に唾する虚しい行為ではないだろうか?

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?