9月17日(月)晴れ。気温~26度、秋らしき一日。
連日、報じられる中国各地での日系企業店舗や工場のデモ隊襲撃事件報道。それらの都市では日本語を話すこともはばかられるとか。
日中国交40周年を前にしての真に不幸な出来事だ。その遠因は、これまで両国間で先人が、様々な苦心を重ね、智恵を尽くして結んできた、1972年の田中角栄総理の電撃的訪中による日中国交正常化(日中共同声明)、1978年の福田政権下での「日中友好条約」の調印、さらに近くは1998年、江沢民主席の訪日に伴う小渕首相との間での「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言に込められた心や願を、お互いに絶えず確認し大切にしてこなかったことにあるのではないか。
中国側では、国力・経済の強大化とともに次第に周辺国に対して覇権主義的な行動がフィリピンをはじめ東南アジア諸国からも指弾されるようになった。
一方、我国でも日中共同宣言の中で、「日中両国は2千年余にわたる友好交流の歴史と共通の文化的背景を有している…とし、双方は過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。」と約束した。
にも関わらず、我国の側では、首相自らが中国側の嫌がる靖国参拝を続けるとともに、民間の一部では南京虐殺問題はなかったとか、中国を刺激する言動が続いている。
この間、我国では、教科書等で、過去、日本が明治維新以来中国や韓国に対してどのようなことを行ってきたかをどれだけ詳しく教えてきただろうか…。
私自身でいえば、学校で習った歴史は明治維新前後で終わっており、その後のことは自分の興味にまかせての読書で知り驚くばかりであった。
それによれば、1876年(M8)、日朝修好条規締結を機に日本の朝鮮への一方的な進出、それを巡っての当時、朝鮮王朝の宗主国を任じていた清国との軋轢から1894~5年の日清戦争、これが元となっての1904~5年の日露戦争をへて、終には1910年の韓国併合。そして1932年の満州国建国から日中戦争を経て1945年の大日本帝国の瓦解にいたるまで、いかに日本が朝鮮、中国を蹂躙してきたかを知った。
今、問題の尖閣問題についても、岩波新書「日清戦争」-東アジア近代史の転換点- 藤村道生著(1973年刊)によれば、日本が日清戦争に勝利した結果、琉球の帰属に最終的結論を出し、さらに「固有領土の領域を確定し、…」したとある。
すなわち、日本政府は、尖閣諸島がいずれの国にも属していないことを1885年以来調査し確認したうえで日清戦争中の1895年1月、沖縄県に編入したとされている。
この経過等をさして中国側では、日本が日清戦争のどさくさにまぎれて中国から日本が奪ったと主張するのだ。
そして現在、この決着が今後、日中間で如何なる結果になるかわからない危険な状況を惹き起こした直近の原因は、石原天上天下唯我独尊都知事閣下の「都が尖閣を地権者から買うことにした。その上で、漁港をつくり灯台を建てて、我国の領土であることを明確にさせる…」との爆弾発言にあったのではないか。
その後、お金に困っていられるらしい地権者が、国と都を天秤にかけた結果、評価額の2倍以上ともいう、結構な云い値で買ってくれるという国に売り渡したということらしい。
国にしてみれば、独尊閣下の手に渡ってしまっては、覇権国家をめざしはじめたかの中国という寝た子を起こすような、何をしでかすかわからないからの心配一途の配慮の結果だったのだろう。
だが、その政府方針が明確に中国政府に伝わらなかったことから、今回の暴動デモの暴発により、日系企業の工場や大規模商店が焼き討ちにあうような大事にいたったのではないか。
ところが、この事態を前にして、事の張本人の石原独尊閣下は、14日(金)の定例記者会見で
『「気が狂ってんじゃないかと思う。俺のものは俺のもの、おまえの物のも俺の物という形でやられたらたまったもんじゃない」と中国を批判。「追っ払えばいいんだよ。体当たりしたらいいんだ」とも述べた。自らの言動が日中関係を悪化させているとの指摘には「経済利益を失ったっていい。あの国の属国になることの方が、私はよっぽど嫌だね。」』(15日付け、朝日記事から)とのたまわったとのことだ。
一千万都民の生命と生活を預かる都知事。何んと無責任極まる発言ではないか。簡単に面白おかしく勇ましく「追っ払えばいいんだよ。体当たりしたらいいんだ」とおっしゃいますが、では一体誰が、個々の日本国民にとっては、そんな一文にもならないような島のために体を命を張るというのだろうか…。
先ずは筋金入りのヨットマンと伝え聞く石原独尊閣下御自ら昔平家の誉れも高き老武者斉藤別当実盛にならって白髪を黒髪に染めて、憂国の志士・有志・同士あい引き具しておでましになってはいかがか。
そんな気概は毛頭無くて、それぞれ愛するまだ育てなければならない子供をたくさんいるだろう、海上保安庁の係官や、さらに事態が悪化して、いざとなれば、出動せざるをえなくなるであろう自衛隊員のひとたちのことを、簡単な楯や鉄砲玉ぐらいぐらいにしか思っていないとしたら、何んと云う思い上がりだろうか。
具体的な場面で個々の人間がどのような思いをし、どのような危険な場に遭遇するかもしれないことに、自称大文学者を気取る独尊閣下に想像はつかないのだろうか。
このお方、若き日に、当時の少数特権階級ともいうべき湘南お金持ちお坊ちゃま、お嬢ちゃまがたの恋愛ごっごをテーマに、○○○○の先で障子に穴開ける小説が、新し物がり屋の文芸評者の目に止まって、たまたまとった芥川賞を梃子に、運に恵まれてか、するする位人身を極めての思い上がりもいいかげんにしてくれといいたいところだ。
一千万東京都民はいつまでこんな思い上がりの大法螺吹きのはた迷惑な大天狗をのさばらせておくのだろうか。
それにしても、一連の報道を見ていての救いは、
『北京市の音楽家の男性(32)は無関心だった。「そこだけが盛り上がっているけど、一歩出たら北京は静かなもんだ。国家間の政治矛盾と僕ら庶民は関係がない」。家の家電はすべて日本製だ。
国有企業に勤める北京市の女性(30)も「デモに参加するのは、暇人か学生。まともに仕事がある私たち社会人は興味ないわ」。一流大学を出て、北京市内のマンションで夫と1歳の長男と3人暮らし。何の不自由もない。ただ「物価は上がるばかりで、庶民の不満は高まっている。それが反日デモに表れたのでは」。 』(17日付け、朝日)とあったことだ。
連日、報じられる中国各地での日系企業店舗や工場のデモ隊襲撃事件報道。それらの都市では日本語を話すこともはばかられるとか。
日中国交40周年を前にしての真に不幸な出来事だ。その遠因は、これまで両国間で先人が、様々な苦心を重ね、智恵を尽くして結んできた、1972年の田中角栄総理の電撃的訪中による日中国交正常化(日中共同声明)、1978年の福田政権下での「日中友好条約」の調印、さらに近くは1998年、江沢民主席の訪日に伴う小渕首相との間での「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言に込められた心や願を、お互いに絶えず確認し大切にしてこなかったことにあるのではないか。
中国側では、国力・経済の強大化とともに次第に周辺国に対して覇権主義的な行動がフィリピンをはじめ東南アジア諸国からも指弾されるようになった。
一方、我国でも日中共同宣言の中で、「日中両国は2千年余にわたる友好交流の歴史と共通の文化的背景を有している…とし、双方は過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。」と約束した。
にも関わらず、我国の側では、首相自らが中国側の嫌がる靖国参拝を続けるとともに、民間の一部では南京虐殺問題はなかったとか、中国を刺激する言動が続いている。
この間、我国では、教科書等で、過去、日本が明治維新以来中国や韓国に対してどのようなことを行ってきたかをどれだけ詳しく教えてきただろうか…。
私自身でいえば、学校で習った歴史は明治維新前後で終わっており、その後のことは自分の興味にまかせての読書で知り驚くばかりであった。
それによれば、1876年(M8)、日朝修好条規締結を機に日本の朝鮮への一方的な進出、それを巡っての当時、朝鮮王朝の宗主国を任じていた清国との軋轢から1894~5年の日清戦争、これが元となっての1904~5年の日露戦争をへて、終には1910年の韓国併合。そして1932年の満州国建国から日中戦争を経て1945年の大日本帝国の瓦解にいたるまで、いかに日本が朝鮮、中国を蹂躙してきたかを知った。
今、問題の尖閣問題についても、岩波新書「日清戦争」-東アジア近代史の転換点- 藤村道生著(1973年刊)によれば、日本が日清戦争に勝利した結果、琉球の帰属に最終的結論を出し、さらに「固有領土の領域を確定し、…」したとある。
すなわち、日本政府は、尖閣諸島がいずれの国にも属していないことを1885年以来調査し確認したうえで日清戦争中の1895年1月、沖縄県に編入したとされている。
この経過等をさして中国側では、日本が日清戦争のどさくさにまぎれて中国から日本が奪ったと主張するのだ。
そして現在、この決着が今後、日中間で如何なる結果になるかわからない危険な状況を惹き起こした直近の原因は、石原天上天下唯我独尊都知事閣下の「都が尖閣を地権者から買うことにした。その上で、漁港をつくり灯台を建てて、我国の領土であることを明確にさせる…」との爆弾発言にあったのではないか。
その後、お金に困っていられるらしい地権者が、国と都を天秤にかけた結果、評価額の2倍以上ともいう、結構な云い値で買ってくれるという国に売り渡したということらしい。
国にしてみれば、独尊閣下の手に渡ってしまっては、覇権国家をめざしはじめたかの中国という寝た子を起こすような、何をしでかすかわからないからの心配一途の配慮の結果だったのだろう。
だが、その政府方針が明確に中国政府に伝わらなかったことから、今回の暴動デモの暴発により、日系企業の工場や大規模商店が焼き討ちにあうような大事にいたったのではないか。
ところが、この事態を前にして、事の張本人の石原独尊閣下は、14日(金)の定例記者会見で
『「気が狂ってんじゃないかと思う。俺のものは俺のもの、おまえの物のも俺の物という形でやられたらたまったもんじゃない」と中国を批判。「追っ払えばいいんだよ。体当たりしたらいいんだ」とも述べた。自らの言動が日中関係を悪化させているとの指摘には「経済利益を失ったっていい。あの国の属国になることの方が、私はよっぽど嫌だね。」』(15日付け、朝日記事から)とのたまわったとのことだ。
一千万都民の生命と生活を預かる都知事。何んと無責任極まる発言ではないか。簡単に面白おかしく勇ましく「追っ払えばいいんだよ。体当たりしたらいいんだ」とおっしゃいますが、では一体誰が、個々の日本国民にとっては、そんな一文にもならないような島のために体を命を張るというのだろうか…。
先ずは筋金入りのヨットマンと伝え聞く石原独尊閣下御自ら昔平家の誉れも高き老武者斉藤別当実盛にならって白髪を黒髪に染めて、憂国の志士・有志・同士あい引き具しておでましになってはいかがか。
そんな気概は毛頭無くて、それぞれ愛するまだ育てなければならない子供をたくさんいるだろう、海上保安庁の係官や、さらに事態が悪化して、いざとなれば、出動せざるをえなくなるであろう自衛隊員のひとたちのことを、簡単な楯や鉄砲玉ぐらいぐらいにしか思っていないとしたら、何んと云う思い上がりだろうか。
具体的な場面で個々の人間がどのような思いをし、どのような危険な場に遭遇するかもしれないことに、自称大文学者を気取る独尊閣下に想像はつかないのだろうか。
このお方、若き日に、当時の少数特権階級ともいうべき湘南お金持ちお坊ちゃま、お嬢ちゃまがたの恋愛ごっごをテーマに、○○○○の先で障子に穴開ける小説が、新し物がり屋の文芸評者の目に止まって、たまたまとった芥川賞を梃子に、運に恵まれてか、するする位人身を極めての思い上がりもいいかげんにしてくれといいたいところだ。
一千万東京都民はいつまでこんな思い上がりの大法螺吹きのはた迷惑な大天狗をのさばらせておくのだろうか。
それにしても、一連の報道を見ていての救いは、
『北京市の音楽家の男性(32)は無関心だった。「そこだけが盛り上がっているけど、一歩出たら北京は静かなもんだ。国家間の政治矛盾と僕ら庶民は関係がない」。家の家電はすべて日本製だ。
国有企業に勤める北京市の女性(30)も「デモに参加するのは、暇人か学生。まともに仕事がある私たち社会人は興味ないわ」。一流大学を出て、北京市内のマンションで夫と1歳の長男と3人暮らし。何の不自由もない。ただ「物価は上がるばかりで、庶民の不満は高まっている。それが反日デモに表れたのでは」。 』(17日付け、朝日)とあったことだ。