蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

ライブドア事件「野口英昭氏怪死(?)」に思う!

2006-02-27 09:53:36 | 時事所感
2月27日(月)晴れ。朝4度。
 
 昨日は、朝からびしょびしょと冷たい雨降りの一日だった。こんな日は気が滅入ってしょうがない。
 「鬱」の気分になる。何もする気がしなくなる。何をやっても全てが意味の無いことに思えてくる。もういつ死んでもいいような気分になる。二人の子どもは今や30台後半になっている。孫までいる。私の生物学的な生存理由はもはやないのである。

 「鬱」が重症になると自殺したくなるらしい。今、秋田県での自殺者の多さが特異の状況を示しているという。別に生活が苦しいといって自殺するのではないという。米どころ秋田は農薬散布量が他県に比べて極めて多量とのこと。農薬の成分である有機燐酸が体内に入ると脳の前頭前野を萎縮させ鬱病になりやすくなるとか、アエラか何かの週刊誌のリポートで拾い読みした。

 私の「鬱」はそれとは関係なさそうだ。ただ、小春日和のヴェランダでコーヒー茶碗片手にうつらうつらと眼前の雑木林に立つ爽やかに伸びた赤松の梢を見ていると、「ああ、このまま眠るがごとく死ねたらどんなにいいだろう」と神様に聞かれたらバチが当たりそうなことを思ってしまうのである。

 そこで頭を掠めるのが「最近話題のライブドアにからむ野口英昭氏怪死(?)事件」だ。事件は、既に国会でも法務大臣に「自殺」と断定されてしまっている。

 しかしである。私のような用無しの山家の隠居が欲呆けでライブドア・ショックでやられて、自分の愚かさ加減を悲観して、この先前途に夢失って、死にたくなるのは誰でもわかる。
 ところがどっこい、これから可愛い大きな育ち盛りの子供二人、奥さん、老いた両親もいらっしゃるという身でそんなに簡単に死ねるものだろうか。

 そして、家族のことあれこれ考えたら、書置きの一つも残さずにはいられないだろうに、それもないとは?。いかに突然の死ということであったのでは?。

 ホリエモンを庇う為大きな闇を背負って死を選んだのか?、などと実しやかには伝えられるが、ホリエモンとは気が合わず、一時離反した関係とも聞く。死んでも友を守るほどの刎頚の友といった関係ではなさそうだ。
 それに、人が自殺を考えて死を選ぶとしたところで、何でわざわざ朝一番に早起きして飛行機に乗り沖縄までも行かなきゃあならないだろうか?。それもお父さんの借金までも清算してあげたというほどのお金持ちが、今、親分、ホリエモンご滞在中の東京拘置所の三畳一間よりも窮屈そうなカプセルホテルなんかに何故泊ったのだろうか?。

 せっかく選んだ沖縄ならもっと景色の良いリゾートホテルがいっぱいあるだろうに。
また、自殺するのに真昼間を選ぶだろうか。やはりかわたれ時、夕暮れ時、そこはかとなく寂しい時間か、越し方しみじみ振り返られる夜中、まず今生の盃に美酒満たし一口二口飲み干しての勢いかりてというところではないか?。

 さらにはなんと言ってもその死に方である。誰が自殺するに当たって一番苦しそうな死に方を選ぶだろうか?。切腹と簡単には言うけれど言うほど簡単ではないと聞く。忠臣蔵の47士の切腹も、今日、何かで目にした記事では、腹には木刀あてただけで介錯人が首切り落としたのが実際とか。
 
 それをサムライでも料理人でもなさそうな今時の若者(と言っては失礼だろうか)が腹かき切って、内蔵飛び出し、それでも足りなくて両首掻っ切るなぞそんなすさまじい死に方を誰が自ら志願するだろうか?。

 そんな死に方しなくてもレンタカーでも借りて景色よさそうな崖っぷちから車ごとダイビングした方がよっぽど楽に死ねるのではと思うがいかが?。

素人が考えたってこれだけの疑問ワクワクなのに、何故かさっさかほいさと「自殺でした。」と片付けるのだろうか?。

 こんな事あれこれ考えていたら。不謹慎ながら、自分の自殺などどうでもよくなってきた。まあ、じたばたしなくても、他の多くの方々同様ある朝、目が覚めなかったのにきがつかなかっただけということか?。

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?。

ー追記ー
 この記事、昨夜書いて今晩あたりゆっくりアップしようと考えていた。
 しかし、今朝、日経の朝刊といってもここ山梨版は東京よりも遅れての紙面のかんじであるが、週刊ポスト、3・10の広告が出ていた。
 この中に、ライブドア事件徹底追求第6弾「あの日、6人の男が野口を襲った!」、空港の4人の男、実行犯、ピッキング侵入、そして石垣から来た2人組、清掃員に変装した男が野口さんを見張った、犯行直後、外に居たサッカーシャツの男が部屋の中に呼ばれ…、沖縄県警は「自殺」というが生々しい証言は続いた、とある。

 果たして、どうなのか。物事誰でもが不自然に感じることの真相は意外に常識的に照らしてそう外れたことはめったに起こるものではないのではないか。

 私の常識に照らして、真相はどうなんだろう?。記事の中身を知る前に急いでアップして、皆様のご意見を聞きいてみたくなった。あまりのタイミングの偶然に少し驚いた。

「国会議員閻魔帳(データーベース)」を立ち上げよう!(その2)

2006-02-26 22:55:20 | 時事所感
 2月26日(日)終日雨、寒し。

 そこで、「国会議員閻魔帳(データーベース)」のモデルになるようなものはないかと、物は試し私の「顧問(?):グーグル」先生に当たってみた。
 
 たちまち出てきたお答えは、「国会議員の名鑑ぶぶりすてら」であった。

 早速クリックしてみると、なかなかよくできている。最低限の基本情報は得られる。URLにもリンクしている。だがそこまでだった。

 次に、「YAHOO!みんなの政治」に出会った。今頃こんなものに気付くなんてお笑いになる方もいらっしゃるかもと思った。
 早速クリックしてみた。これはよくできている。私が漠然と考えていたものにほぼ近い。

 基本情報、活動記録、議案コメント,政党活動、その他の政治とタグが用意されている。

 しかし、活動記録、議案コメントをクリックしてみても記載のあるものは少ないようだ。
 
 ちなみに目下雲隠れ、お騒がせ中の永田寿康ビックル坊や先生のところをクリックしてみたが、あれだけのご活躍ぶりにも係わらずノーコメントであった。がっかりだ。もっともホームページに飛んでみると、フロント画面を何故か右手から鞄ふりふりおもむろに登場なさると何故か画面中央に達するや否やダッシュで左手へ駆け抜けられた。
 そこには、ゴチャゴチャと小さな字でいろいろ書いてあった。ブログは2月12日付けまでとなっていた。それから今日までの苦難の日々が察せられた。というようなわけでせっかくYAHOOさんで舞台は用意してくれているにも係わらずあまり活用されていないようである。まことにもったいないことである。

 結局、このようなもの(「国会議員閻魔帳(データーベース)」)は、自己申告にまかせていてはダメで、NPO等の活動によるほか無いのではないかと思う。
 
 もしそれが組織されたら、上記、YAHOOの項目に、本会議、委員会出欠状況、議案への質疑、賛否、議員立法の有無。国民年金等公租公課の納入状況、資産、公設・私設秘書、支援団体、政治資金の収支等を把握できるようにすれば、ほぼ満足できるのではないかと思う。

 これが、公表されることとなれば、選挙の時だけかっこいいこと言っといて、当選して一度国会に入ったら、後は野となれブラックボックス知らん顔はできなくなるはず。
 
 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?


「国会議員閻魔帳(データーベース)」を立ち上げよう!(その1)

2006-02-25 00:37:16 | 時事所感
 2月24日(金)曇り、一時小雨あり。暖。

 ただ今、TV画面の四角い囲いの中で連日跳ね回っている永田議員のお粗末ぶりは何だろう。あれで慶応志木高校から東大工学部、大蔵省入省、アメリカ国費留学という赫々たる経歴の主と同一人物とは信じ難いと皆さん見ていて思いませんか。

 今を盛りの六本木ヒルズあたりで、怪しき御仁に連れられて、ご機嫌ホロホロ飲み歩いているところを、どこかの諜報機関か何かに拉致されて、前頭葉を開削され、ロボトミー手術でも受けた後遺症かとでもSF想像逞しくしない限り、我等凡人にはとても理解の埒の外である。

 過日の耐震偽造、国民の生命がかかる委員会では、同僚議員がキリキリ真剣な質疑中に幼稚園児還りしてかの、折り紙遊びに夢中とか。聞いてびっくりあんぐりあだ。

 こんな議員をお祭りしているだけで、我等国民の血税たらたらウン億円がパッキン切れた蛇口からザーザー流れて水の泡だ。

 そこで小生隠居の身、暇に任せて国会のホームページにアクセスし、国会議員の仕事振り、何か手がかりないものかと、クリックしたが何もない。空手で引き下がるのも悔しくて衆院事務局に電話した。

Q:「一寸お尋ねしたいのですが、国会議員の方々の基本的な責務である本会議や委員会へ  の出欠データの公表はないのですか?」
  これに対して、広報担当の優しく美しい女性の声は、
A:「現在のところ、そのようなものはございません。議員が会議を欠席されるときは、議  長に対して請暇願いを提出することになっております。」とのこと。

 高い歳費を頂いた上、出欠も満足に問われないとは何と優雅なご身分高き雲の上である。
 学校だって、会社だって出欠記録がなけりゃ、卒業もできなきゃ給料ももらえないのが朝飯前。国会議員の先生は、殿様ほどもお偉くて、それはお前ら庶民のこととでも嘯かれたいのか知らん顔。
 お偉い先生方の日頃のお仕事ぶりを垣間見るには、他には、本会議、委員会の議事録を根気に任せてコツコツ検索するより手がないらしい。

 そこで思った。情報公開、IT全盛の今、国家の根幹をなす国会議員の活動振りが、国民の前にガラス張りとなる仕組み造りをである。

 さて皆様は、いかがお思いでしょうか?
                              (※ この項続く。)

「佐藤立志のマスコミ日記」ー買婚と幼児殺害事件について思う。

2006-02-23 23:48:15 | 時事所感
 2月23日(木)晴れ暖。

 一昨夜、「はてなアンテナー…」ブログ散歩をしていたら、「佐藤立志のマスコミ日記」(2月21日付け)が目に止まった。

 滋賀県長浜市での中国人妻による武友若奈ちゃん、佐野迅ちゃん(5歳)殺害事件について、「中国人妻だけの責任か」と、事件の背景を問う記事である。

 佐藤氏の主張は、「国際結婚紹介所の仲介によって、日本女性から相手にされない中年男が、異文化の国からまるで猫の仔でも買ってくるような感覚で、所得格差にものをいわせて中国人妻を連れてくる。そこには恋愛感情もあったとは思えない。これこそ「買婚」であると。そして、夫は異文化の中で暮らす妻のストレスに配慮しない。むしろ真の加害者は夫だと」いう意に私は受け止めた。

 「買婚」。衝撃的な言葉である。「国際結婚」なんて言いつくろうのは体のいいまやかしである。実態はその通りだと思う。最近は、私の身近でも同様の事例を多く目にする。私もそのような安易な風潮に違和感を覚える。

 しかし、一面、やむをえないことだとも思う。

 私の弟夫婦も、結婚して30年余りも共に暮らし、成人した二人の子がいるというのにある日帰宅したら、彼の妻は二人の子とともにいなくなっており離婚届が置いてあるという状況に遭った。何度か話し合ったが復縁は叶わなかった。所謂熟年離婚というわけである。弟にしてみれば何が理由なのか全く心当たりがないという。妻側にしてみれば共働きのため経済的には別れても支障ないからである。

 残された彼は、暫くして、これから先の人生を考えると独りでは寂しくて精神的にとても耐えられないと考えた。そこで再婚相手を探した。しかし、結婚相談所等で紹介される日本女性の中には気だてのよさそうな女性(ひと)はみつからなかったという。

 弟は若いときから少し中国語に関心を持ち学習して来た縁で、中国人女性の結婚相手を紹介する所を知った。そこで紹介された一人が気に入り、中国へも何度か行き、家族にも会って今の相手の人と正式に結婚(再婚)した。

 我が家にも二人で遊びに来た。悪い感じはしなかった。若くて笑顔を絶やさず気だても良さそうであった。ただ日本語がほとんどできづ、漢字での筆談だった。来日したら日本語をもっと勉強する約束が、なまじ夫の方が中国語が少々できるため、二人だけの生活では余り不自由を感じることがないためか、なかなか勉強しようとしないという。

 私は、今回の事件を知り、早速、弟に電話した。彼女のストレス対応をどうしているかと。今、中国へ帰国しているところだという。毎年、中国の正月、春節の期間、中国の実家へ帰国させているのだとのこと。それを聞いて少し安心した。

 私が現役のころの職場でも、婚期を逃した職員が「彼、今度嫁さんもらったよ」と聞く相手は中国人というケースが、地位の上下を問わず多くなった。しかし、皆さん急に元気になり外見上は以前にもまして幸せそうに見えた。やはり、弟のように年に1度は一人で、あるいは二人で中国へ里帰りしているように聞いた。外国の人と結婚すると里帰り費用が大変だなとケチな私はすぐに懐勘定した。

 現在(いま)、私の息子ももう30台半ばというのに一向に結婚する気配がない。親としてはたまらなく心配である。今はいい。しかし、亡くなった母をホームに見舞いに行くつどに身寄りの無い人の何と寂しげに見えたことか。行く末そんな境遇に可愛い我が子が落ち入るかと想像するとやるせなくなるのである。

 先日、漸く説得して、私の友人の仲立ちでお見合いらしきものをしたが、2度会っただけで破談となった。お互いにそれぞれれっきとした会社の正社員であるにもかかわらず、猛烈に仕事が忙しいのである。連日の残業で疲労した心身では、なかなかゆったりと将来を語り合う糸口を見つけられなかったかに見受けられた。

 こうしてみると、わが息子もゆくゆくは中国人妻を迎えることとなるかもしれない。
決して他人事ではないのである。

 これからの日本は、異文化の外国人と否応なく共生していかなければならなくなる。
 だとすれば、長年島国の中で純粋培養されてきた感のある私たちは、進んで何らかの工夫をしてお互いが理解しあえる環境づくりに心していくほかないのではないか。

 弟はたまに中国に行き、暫くして帰国し成田に降り立つと耳も聞こえずといった一種のパニックに陥るという。それほど異文化の中で暮らすことのストレスは個人差もあるだろうが凄いものがあるらしい。

 幼い二人の不幸は真に悲惨で救いの無い事件である。しかし、同種の事件は数年前、東京の文京区でも起こった。犯人は日本人妻であった。この種の事件に人種は関係ないのだ。
 要は、本人の先天的な特異な資質と、周囲の人間関係の関数のいかんで何百万分の1かの確立で発生する不幸な事件であったということではないか。

 このことと「買婚」や人種の如何は全く関係ないことであると思う。

 文化人類学的なんていうと大げさだが、所詮、結婚の本質は人間が生きていくために必然の仕組みであり、打算であり、売買婚ではないのか。だからこそ、十把一絡げにはしたくは無いが、今の日本の女性は自分の気持ちを人一倍大事にし、結婚生活条件への期待感も異常に高いようにみえる。そのためか未婚の男女が増え、やむなく日本の男子は外国人妻を迎えなければならない状況に追い込まれているのではないだろうか?。
 
 と悲嘆、慨嘆してみる山家の隠居ですが、さて皆さんはいかがお思いでしょうか?

カネボウ株式会社株式の公開買付け価格の欺瞞性!

2006-02-23 01:37:43 | 時事所感
 2月22日(水)晴れ、暖。春のような一日。
 
 本日、カネボウ株式会社株式の公開買付けが発表された。

 カネボウの株式は、昨年6月17日付けで上場廃止されており、再上場の予定もないためその流動性は極めて限定されており、本公開買付の結果に係わらず、これを将来売却することは非常に困難であることが予想される。よって、カネボウの新スポンサー決定の過程で、これら株主を救済するために、産業再生機構から本公開買付を要請されたので、実施するものだという。

 公開買付価格は1株あたり、162円とのこと。

 この価格の妥当性について、カネボウ株主の皆様へとの文書のなかで、「上場廃止後のカネボウ株式の流動性が乏しい事実を考慮に入れ、事業ポートフォリオの再編に伴うカネボウの事業・資産内容の変化、財務状況及び営業状況、DCF法や市場株価基準法を用いたカネボウの株式価値評価等の諸要素を総合的に勘案して決定した価格としました。本公開買付は、カネボウの全ての株主の皆様に対して、カネボウの株式を売却する機会を提供するものです。また、カネボウの取締役会は、第三者機関によって作成されたカネボウ株式価値に関する算定報告書を参考に、本買付けの買付価格は妥当であると判断しています。」と言う。

 そしてさらに、「株主の一部が今回の買付に応じない場合には、100%子会社化を図る計画であり、その場合には既存の株主はカネボウに対して株式の買取請求をすることができるが、その場合には本公開買付価格と同額になる保証はありません。
 また、カネボウ解散の可能性についても検討する予定であり、その場合にはカネボウ株主が保有する株式が金銭の交付により消滅することもありえます。」と告げている。

 要するに、「お前らカネボウなんて屋台骨の腐った会社の株に手を出して、上場廃止の瀬戸際でもまだ欲かいて捨てきれず、ヘマこいたドジな株主のために、再生機構から言われたので仕方なく、買い取ってやるよ。ただしこちらの言い値で我慢するんだな。この最後の機会を逃したら今度こそ捨て値か紙切れ覚悟しな。」と言った按配ではないか。

 カネボウの株価は、昨年、6月13日の終値は、1株あたり354円だったのである。今回の新スポンサーのTICは機構から4400億円で買い取り、機構はこれにより200億円前後の利益を得ることになると報じられている(12月17日付日経)。
 しかも、この間、カネボウの再建計画は計画を上回りきわめて順調と報じられてきた。さすれば、354円以上を期待してもおかしくはないのではないだろうか。
 それが162円ぽっちとはまさに、人の足元を見て踏んでのやらずぶっらくりではないか?
 
 結局、再生機構からはお上の顔たて高く買った分の付けを、お上の後ろだても何にも無い徒手空拳のドジな一般株主に回そうという魂胆が見え見えではないのか。
 これはこそは、再生機構というお上と禿げたかファンドの共謀による弱いものいじめ以外のなにものでもないのではないか?。

 と頭に湯気立て怒る今日この頃、さて皆様どう思われますか。

「春一番、欲ぼけ爺さん、泣きっ面!」(字余り)といったところでしょうか。

 ー追記ー
 また、株の話。こんな恥は書きたくないが、ヤッパリ一言、書かずに居られずかいてしまった。

人生の貸借対照表と小泉大宰相(?)

2006-02-20 00:33:41 | 時事所感
 2月19日(日)晴れ。暖。

 企業は、その社会的貢献度は別として、企業自体としての存在価値は、貸借対照表、損益計算書が全てである。翻って一人一人の人生についての幸福度の貸借対照表、損益計算書とはどんなものだろうか。

 企業は、1会計期間でそれを算定するが、個人の場合はどうすべきか。お正月がくるたびとするか。それとも棺を覆って定まるというがごとく一生とするか。しかしこれだと死んでしまった本人には何の意味もなくなるきらいがある。もっとも息を引き取る瞬間まで意識がしっかりしていれば自分で計算を済ませて納得することはできるだろう。

 私自身は、その日、その日の時点で計算してみる。おかげさまで今のところ左右バランスが取れているように思える。生まれてこの方、五体満足で死線を彷徨するような大病も患うことなく、マンション詐欺にも強盗に遭う事も、火事、地震、台風の被害に遭う事も無く済んで来た。
 唯一大きな不幸と言えば、幼くして父を戦争で無くし、母の手一つで兄弟二人が育てられたという貧乏暮らしだろうか。それとて、両親、親族失って戦争孤児や中国残留孤児となった方々に比べれば何ほどのものでもない。
 
 このささやかな私の実感損益計算書に比べて、毎日の新聞・TVの報道を見ていると、不遜な言い方をお許し願うとして、世の中には何と不運な方、不幸なが居られることかと思う。不幸や、不運は少々の個人の努力、工夫、日頃の心がけで避けられるものではない。まさに意地悪神様からの落し物である。

 反対にまた、何とお幸せな方と羨ましく思える方々も星の数ほどいらっしゃる。才能に恵まれ、強運に恵まれてと。才能、強運はこれも個人の少々の努力なんかはへのかっぱである。凡人が、いくら歯を食いしばって昼夜兼行、寝る間惜しんでスリコギ振ったところでイチロー、ゴジラにはなれっこないのは月や星である。

 真の政治とは、このような個々の人間の力ではどうすることもできないものを、少しでも公平にというか、不運、不幸な方をできるだけ世間一般の納得できる水平の位置に戻れるよう手助けすることではないか。それが人間の霊長類と自負できるゆえんではなか。

 それがどうだ。小泉大宰相(?)ときたら「人間社会、努力した者が報われるのが当たり前。格差があってあたりまえ」と国民注視の国会議場で堂々とおっしゃる。

 私のような山家の隠居は、単純素朴に一国の総理大臣様とは、「ありがたい親のようなもので自分の食い扶持さいても、子には一口でもと、出来の良い子も悪い子も暖かく包み育んでくださるお方」と堅く信じているもの(※古代中国の伝説の聖王、曉、舜の時代ならともかく、美味しいものは我勝ちの、お余りお情け下関の今の時代においてはアホでしょうか?)にとっては、「主さまそれはあんまりな」と歯抜けの大口あんぐりらだ。
 渥美寅さんの言い方借りれば、まさに「それをいっちゃあおしめいよ」だ。

 今を流行(はやり)と聞く、ハイエクだかハイエナだか知らないが新自由主義経済とかに被れて、米帝(※この言葉、少し前までそれはちょっとオーバーと思っていたが、今はまさにそのとおりと拍手喝采だ)ブッシュの言うがままとは情けない。

 いつまで続く猿芝居?。9月10日の菊が咲くまでもつかいな?

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?



「センチメンタル・ウォーキング」(感傷散歩)―その2―

2006-02-18 23:25:56 | 日常雑感
2月18日(土) 晴れ。朝ー5度、日中は風無く暖。

ー(感傷散歩)-その1-続き

 暖かい午後である。そこから、三年足らず共に学んだ中学校の方へと向う。高台の若松町から喜久井町の方へとだらだら下り坂が続く。その両側の家並みにも皆同級生の誰かの消息があるはずだ。

 坂の途中、ここらあたりと見当を付け、建てこんだ家並みの中へ入る。ぽっかりと空いた空間に学校らしき建物があった。平日の午後というのに校庭には人影もなく、森閑としている。小道を挟んで建つ堂々とした戦前焼け残りの小学校の方からは賑やかで可愛い子供の喚声が漏れてくるのと対照的だ。中学校の方は廃校にでもなったかと思いつつ、校門の方に近づくと守衛室があり人の姿が垣間見えた。何故かほっとする。

 この中学を卒業して、50年、人生一巡りした今、鮭が大海を回遊し故郷の川に遡行するように偶然舞い戻ってきた私。「身を立て、名を挙げ、やよ励めよ」と送り出されて一体なにをしてきたのかとの思いが湧く。
 
 そして、今、この塀の中で無邪気に喚声をあげている子供たち、君らはこれからどんな一巡りを味わうのだろうとせんないことを思ってみた。


 そんな人通りのない学校の周りに腕章をつけた、先生か、近所のボランティアの老人かが立っているのが目につく。とんでもない時代になったものだ。

 学校の前を右に折れて少し行くと漱石の旧居跡に出た。ここも昔はただの草茫々で木の立て札か何かで軽く表示されていたのが、4、50坪ほどの小公園として整備されている。真ん中には漱石の胸像が置かれ、脇には「則天去私」と彫られた碑がある。猫の墓も復元されていた。気持ちの良い陽だまりの一隅である。
 漱石に影響されて(?)受験勉強をバカにしたのは、単なる逃避であったと今にして思う。

 そこからまたぶらぶらと早大通の方へ下る。早大通は、当時には珍しく、道路の中央に八重桜の植え込みが長く続いていた。春になるとぼってりとした花々で遠くが見通せないほどとなり、街に色彩の少ない当時、良い潤いであった。通りの北側は一列に二階長屋が立ち並んでいた。
 母の小店がつぶれて、母子三人住むところにも事欠き、その長屋の裏二階の陽も射さない一部屋を間借りして、2、3年を過ごした。階下の上がり口にある小さな台所、共用の一穴便所。それまで経験したことのない惨めな貧乏暮らし。そこから一時も早く這い出したい思いが私を突き動かした。

 大学進学よりも就職を選んだ。同級生で就職する者は、1割に満たなかった。早くも人生の挫折を覚えた。恥ずかしかった。暫く働いて学費を溜めたら再度大学受験するつもりだったが、就職して給料をもらってみると、金をつかうことが面白く学費などたまるはずもなく、進学熱も胡散霧消の有様で今日まで来てしまった。
 天下の早大の玄関口で暮らしながらなんとも不甲斐ないことであった。

 そんなことをあれこれと思い出しつつ、あの部屋のあったあたりはと捜してみたが、もう陰も形も掻き消えていた。兵舎のように長く並んでいたモルタルの長屋は、くしの歯のように林立するてんでんばらばらの小ビルやマンションに建て変わっている。
 しかし、私にはありありと見える。夕餉の僅かなおかずを買いに行った揚げ物屋。路地裏の路傍の貧乏草。どこか湿った黴臭さまでもが。

 早大通を西に突き当たると、そこが早稲田大学の正門前広場である。大熊講堂が昔に変わらず聳えている。ここでみた自由劇場も懐かしい思い出だ。「風浪」「アンネの日記」「セールスマンの死」もここで見たのではなかったか。
 夏の夜、構内を散歩していると、夜学の授業が聞こえてきた。
当時は門もなく自由に往来できた構内も今は要所要所すべて頑丈な門扉が設置され、警備員まで配置されている始末だ。

 早大正門脇からグランド坂への路地を抜け戸塚の街に出た。昔懐かしい古本屋を覗き込みながら、歩いていくといつの間にか高田馬場駅に着いていた。高架上の駅のうえの空が茜色に染まっていた。

 ―ふるさとへ廻る六部(ろくぶ:山伏のこと)は気の弱りー藤沢周平の短編だったかエッセイの中のそんな一句が頭に浮かんだ。


「センチメンタル・ウォーキング」(感傷散歩)―補遺―
 
 家について、落ち着くと改めてT君の消息が気になった。何か手がかりがないものかと考えた。一番手っ取り早いのは今日見てきた表札の氏名宛てに、事情を述べて照会の手紙を出してはとも思ったが、相手から交際を絶ったことを思うと、その気にはなれない。

 そこでふとパソコンで検索してみることにした。早速、グーグルでT君の氏名を検索してみた。

 驚いた。ちゃんと出てきたのである。彼は、一部上場大企業の№3の地位に着いていた。何かの会合での挨拶をしている写真も掲出されていた。紛れも無い懐かしい顔であった。昔の坊主頭に鬘でも載せたようで、年齢ににしては豊かな頭髪だけに少し違和感がある。
 しかし、その表情には昔のエスプリを感じさせるものは何もなかった。サルトルやドストフェスキーについて一家言あるかにはうかがえなかった。
 真面目そうで謹直な、大企業の幹部にしては少し線の細さを感じさせ、同時にどこかやれやれといった疲れさえも漂わせているように見えた。それは、ありきたりの会合という表面的で無機質な状況のせいでもあるのかもしれない。

 翻ってわが身は、いつも興の向くまま気の向くままに脇道ばかりをほっつき歩いてきた。未だに何一つとしてこれというまとまった仕事の成果も無い身である。ただ、ものに感じる心だけは、半世紀の昔に変わらずである。お陰で、今しみじみと人生や自然風景の色合いを楽しめている。

 半世紀近い時間の流れの中で、お互いの距離が遥かに遠く離れてしまっていることを静かに思ってみた。
 長く気がかりだったT君の消息を知ったことは、「センチメンタル・ウォーキング」(感傷散歩)の思わざる収穫であった。


センチメンタル・ウォーキング(感傷散歩)―その1―

2006-02-17 21:21:48 | 日常雑感
2月17日(木) 晴れ。 暖。

 先日、久しぶりに上京しての一日、冬には珍しい暖かな小春日和。じっとしていては何だか勿体無い気分になり、かねてゆっくり歩いてみたいと思っていた早稲田界隈のウォーキングにでかけた。
 そこは、もう半世紀近くも昔、田舎から出てきて、中学、高校と我が人生で一番貧しく惨めで多感な時代を過ごした場所である。

 東西線早稲田の駅を出て、先ず、直ぐ傍の穴八幡神社に向かった。昔に変わらない石段を登ると、真新しい朱塗りの山門が迎えた。門を潜ると左右に彩色鮮やかな隋人が弓を持って控えている。少し進んでこれも立派に立て替えられた正面の拝殿に入る。目前の賽銭箱に、この間の我が人生の無事であったことに、ささやか感謝を込めて100円硬貨を一つ投げ入れ二拍した。

 私が中学生の頃、この本殿の後ろはちょっとした木立になっていた。夜な夜な、遮那王と呼ばれた義経が鞍馬の山での剣術修行のひそみにならい、その中の椎の大木を相手に竹刀を振るい鬱屈をはらした。が、今、それらは伐採され、その跡地にこの大きな社殿が建てられたらしい。

 社殿を出て改めて境内の端に立つ。昔は、その高みから東京都心一円が見晴るかせた。その広やかな空に向かい、いつの日か、何事かを為さんものと夢見た。
今、その夢が儚なかったように、眼前の視界もまた、ビルが立ち並び狭められた。

 そこはまた、下校の途中、親友のT君とよく立ち寄り、談笑した場でもある。モーツアルトの楽曲のあれこれ。小林秀雄の評論、アンドレー・ジイドのこと。チボーケの人々。サルトルの実存主義、カミュの不条理について教えてくれたのも彼であった。そして、彼の担任のJ先生への仄かな想いを聞いたのも。何と早熟な中学生であったことか。

 彼は今どうしているのだろうか。進学した高校が別になり、就職へ、大学へと別れてから、いついしか年賀状のやり取りも彼の方からぷっつりと絶えた。
 何か新たな一歩を踏み出そうとして、自分の鬱陶しい過去を振り捨て、封印してしまいたくなったんだなと、私は少々寂しい気持ちで受け止めた。

 足は、自ずと何度か遊びに寄った彼の家の方へと向いた。大まかな道筋はそのままではあるが、周辺の景観は一変していた。穴八幡の西側を戸山が原へと通じる途中、春には眼にも爽やかな新緑で、秋には味わい深い紅葉で楽しませてもくれ、まるで武蔵野台地の番人として周囲を睥睨するかのような欅の巨樹が消えうせていた。そこにはあの欅よりも高いマンションが聳えている。
 反対に、貧相な丸裸の単なる瓦礫の山のような箱根山が、都立戸山が原公園の立派なシンボルとして豊かな緑に囲まれて整備されていた。

 T君の家はそこから5分ほどの大久保通りから少し入ったところにあったはずだ。
大久保通りに出て、このあたりだったかと見当をつけた路地を入る。だが、そこには目指す門構えは見当たらない。あれから50年近くも経ったのだ。壊されてマンションかなんかに変わっても不思議は無い。いつの間にかその路地を突っ切り、向こう側の大通りへ出ていた。諦め切れずまた次の路地へ入り、元の大久保通りへと戻る。
 その路地の出口近く、見覚えのあるT君の家がそのまま現出した。

 「あった。昔のままだ!」と心の中で叫んだ。表札を見ると姓は同じだが名前は代わっている。塀越しに見える以前通された応接間と思しき部屋の窓は雨戸が閉じられている。全体に荒れてはいないが住む人の気配が感じられない。
 T君の母上の優しいもてなしを懐かしく思い出す。おそらくはもう故人になられたのだろうか。それにしてもT君は、今、どこにと思いつつ、その前をゆっくりと過ぎ、もとの大久保通りに出た。
                                (※この項続く)

「垂涎?談合、天下り哀歌(エレジー)」(その2)

2006-02-15 00:27:39 | 時事所感
 2月14日(火)晴れ暖4月中旬の気温とか。

 天下り。これほど、当の公務員としての誇りを奪い、何よりも結果として国民にとって高くつくものはないのではないか。

 公務員は公務員としての人生をまっとうできるようにすべきではないか。自身の行く末を計算していてはろくな仕事ができるわけはない。

 何故こんな悪しき慣習が生じたのか。公務員は、公務員法(国家、地方を問わず)で60歳定年が規定されているのである。
 
 それが、地方公務員の場合58、9歳で肩敲きされるのは一つには、年功序列で高くなった役職者を早めに辞めさせることによる人件費の節減、他の一つはポストを少しでも早く空けることにによる士気のの高揚に有るとされる。

 しかし、給与の方は最後の方になれば高いといっても幾ばくの金額ではない。また、士気の高揚といっても1、2年の差はどうということもない。

 では、どこに実質的利益があるのか?。それは、1、2年早く辞めることを口実に民間に天下ることにより、65~70歳までを民間企業や特殊法人、三セクで面倒見てもらえることにあるからではないか。

 これは、少し前までは60歳定年と同時に年金を満額受給できたが、それでも現役の時に比べて5分の1~4分の1程度の額である。これでは結婚が遅く子供が大学生の場合とてもやっていけない。さすれば、60歳定年以降も働ける場所を見つけたくなるわけである。

 しかし、受け入れ側の企業では、一人受ければ、年間何だかんだで1000万円、大物となればもっとだろう。それを65歳から70歳まで引き受けるとしたら軽くて1億円はくだらない。その経費をペイするためには、それ以上の見返りが無くて、何で大枚はたけるものかとなる。

 そしてたいていのゼネコン、大手の会社には、一つの官庁からばかりではない。国から、地方から、あの局、この局、複合乗り入れ大部屋にひしめき合うを誰が知るである。
 そこで、企業としてみれば、謂わば捨扶持に支払う費用は、全てこれ、受注額に上乗せし、ニンマリ元取ることとなるのは火を見るよりも明らかな計算である。

 結局、バカを見るのはその高い買い物を平気でする政府や地方自治体に税金納めるお人よし、我等国民ということである。

 所管の業界関係会社への天下りがだめならと悪智恵絞って何かかんかの名目こしらえて作られるのが公社公団、社団法人、出資会社に三セクというおばけであ。
 お手盛り高級もらい放題。公益なんぞはなんのその、血税しゃぶりつくして知らん顔。

 しかし、公務員だって若き日には、一私企業の利益追求、わが身の出世を図るより、多くの国民の公益増進に寄与したいと志したのである。
 それがいつしか、なまじ役職ついたばかりに、はいそれまでよと終着駅に着く前にホッポリだされてはたまらない。

 こんな仕組みを直すには、当面、多少人事が停滞しようとも、年金支給と連動させた、法律どおりの定年制を徹底いするしかないのでは。
 その代わり、定年以後の天下りの世話をきっぱりやめることである。反面、公務員の側ではそれがわかっていれば、定年以降も働きたいと思うならば、何か資格を取るなり、百姓仕事をするなり自分なりの人生設計を早めにたてることである。天下りの道が塞がれることにより却って、誰に対しても甘えのない人生設計が可能となるのではないっだろうか?。
 
 そのことにより、定年までは腰の定まった仕事ができるようになり、真の公益を考えて民の福祉の増進に尽くすこととなり、そしてそれが結局は、税金の有効活用に繋がると思ってみるのは甘いでしょうか?

 と、考えてみる今日この頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?




「垂涎?談合、天下り哀歌(エレジー)」

2006-02-11 00:08:13 | 時事所感
2月10日(金)晴れ。朝、気温-6度。日中は暖。

ここのとこ、毎日のように報じられている防衛施設庁がらみの官製談合天下り。このリストラばやりの世の中に何と優雅な再就職システムかと指を銜えて口はあんぐりだ。

 ところがどっこい、「天下りにもピンキリ」で、キリともなれば、誰が行きたい天下りである。

 これは私の知人から聞いた話である。彼は、さる大都市地方自治体の管理職といっても最下級の課長職で天下りを辞退して、定年退職のみちを選んだ。それは異例で、周囲の仲間を少なからず驚かせたという。
 
 彼の所属した自治体では、ひらならともかく、管理職と名がつけば、「後進に道を譲れ」の名分のもと、大方は58、9歳で肩たたき。
 ある日突然、人事部長に呼び込まれ「こういうところで来て欲しいという話があるんだがどうだろう?」と告げられる。
 いやもおうもない。「はい、わかりました。ありがとうございます。」で一件落着。
 行き先はいわずとしれた大手ゼネコンや大銀行に生保会社。
 給料は、現役時代の6、7割とか。行った先での仕事とは、いわゆる「名刺配り」というやつで、盆暮れ、正月時候の挨拶名目に、元居た職場の後輩にお忘れなくと、ニコニコ笑顔で営業名刺を置き歩く。
 そして時には、会社から「これちょっと聞いてきてくれませんか」と情報とり。
 美味く取れれば宵の口。取れなきゃ陰で「何のための無駄飯か」いやみの礫が背中打つ。
 やっといただきやれうれしやなの受注工事では、万に一つも、事故や不都合生じれば、会社幹部の先にたち、関係部署への謝罪取次ぎ、何とか穏便よろしくと下げる頭は星の数。
 こんな仕事を誰がしたくてするもか。年金もらうにゃや間があって、何かやらなきゃ座して飢え死に待つばかり。みんな世過ぎ身過ぎの飯の種。
 それでも昔は、一ネギ背負って行けたとか。そろばん片手の企業では、持参金つきなら恵比寿顔。そんなお話、夢のまた夢。
 今日(きょうび)は談合監視が十重二十重、空身一つの痩せガラス。身の置きどこに四苦八苦。
 これが、大銀行や生保なら、後輩目当ての退職金、「うちに一口いかがです?」振込み口座の勧誘か、生保レディのご案内。昔の好(よしみ)を杖たより。「昔、威張って今何さ」煙たがれるがせきのやま。

 今じゃ臍かみ、何でなったか管理職。上昇志向に煽られてひらひら舞ったが運の尽き。

 三日やったら辞められない、お役人とはよく言った。それはぺいぺいひらのこと。
職組にがっちり守られて一度銜えた既得権、何が何でも放すかと、世間の北風知らん顔。
 それに比べて、管理職。部下がへますりゃ直ぐに責任とらされて、脚を切られた奴凧。くるくる変わる風のまにまに舞うばかり。

 知人は、そんなOB哀歌を聴くにつれ、退職年齢(慣行の肩たたき時期)迫るを前に、「私、真にかってながら役所を辞めた後はどこへも行きたくありませんので、どうか年金のいただける定年まで勤めさせていただけないでしょうか?」と先手を打って願い出た。
 願い叶って60歳まで、仲間の醒めた目背に受けて、無事勤め上げ、今じゃ静かに釣り三昧、畑耕す山暮らし、とか。

 それにしても、その名もあまねく、「天下り」。いつからこんなことになったのか?。
 
 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?    (※この項続く)