蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

石牟礼道子著「春の城」を読む。

2014-02-28 23:23:05 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
2月28日(金)晴れ。春のような一日、3~18℃

「春の城」。石牟礼道子全集 不知火 第13巻所載を、県立図書館で借りてきて、541頁、3日がかりで一気に読んだ。
 寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原半島の南端、口之津を中心に島原藩・松倉勝家の暴政(過酷な貢税と暴虐なキリシタン弾圧)に抗して、同様の苛政に苦しめられていた対岸、唐津藩領の天草諸島の領民が、天草四郎時貞をを盟主に起こした島原・天草の乱の発生の要因から、翌、寛永15年2月28日(1638年4月12日)一揆勢が立て籠もっていた原城が落城するまでの悲史が丁寧に描かれている。

 最後、幕府軍の原城総攻撃。ここまで一人ひとり丁寧に描かれてきた登場人物が次々に殺されていく…。

 強大な権力への絶望的な抵抗が無残に粉砕され皆殺しにされていく…。

 そのやりきれない終局の唯一の救いは、乱後、幕府軍の鉄砲奉行を務めていた鈴木三郎九郎重成が、改易された前領主に代り天草の代官に任命され、文字通り命がけの善政をしいたことである。
 彼は、現地に入り、前領主が実高2万1千石しかない藩領を4万2千石と称し、それにあわせて年貢をかけていたことを知り、幕閣に年貢半減策を懸命に上申するが、前例がないとして聞き入れられない。思い屈した鈴木重成は切腹して憤死する。驚いた幕府はその息子に父の跡をつがせ年貢半減を認める。

 後にこの事実を知った天草の住民は、彼を神とし祭り今に至るという。

 徳川三代、家光の時代、同じ武士階級に属する為政者官僚でも、その人柄により、被支配される領民の側からすれば、天地の差となるのだ。

 このことは、今の時代も少しも変わっていないのだ。
 北朝鮮の圧政、今、現在進行形のシリアの内戦、ウクライナの政権崩壊と混乱。

 著者が、この小説の執筆を思い立ったのは、1971年12月6日、『今は亡き川本輝夫さんをはじめとする水俣病未認定患者とともに、チッソ東京本社に籠城したときである。…酷寒の夜、支援の学生たちと共に路上に寝ていると、プラタナスの枯葉が舞い落ちて頬にまつわることもあった。…その時、原城に立て籠もった名もなき人びとの身の上がしきりに心に浮かんだ。…』とあとがきにあった。

 天草で生まれたという著者にとって、約400年近く前の島原・天草の乱はその身近な風土と共に、抗いがたい強大な権力に敢えて命を賭けて抵抗した人々のことは、決して過去の人々とは思えなかったのだろう。

 その著者の思いは、飢饉のありさまを書くにも、不順な天候の雲行きから麦の穂の一粒一粒の稔りの違いまで語られていて、今、現実に自分がその畑にたたされているような現実感を受ける。
 
 これは、著者が若き日、自ら畑を耕し、種を蒔き、下肥を天秤棒で運び、作物をそだてた生活があったからこそではないだろうか…。
 そして、乱にいたるまでの平穏な日々の暮らしの中の人々の優しい心のゆきかい。これもまた、著者その人の優しさから自然に滲みでてくるのではないだろうか…。

 なにはともあれ、今までこんな現実感、日常感のある時代小説は読んだことがなかったように感じた。

 読み終えて気がつけば、今日、2月28日は、旧暦ではないが、「春の城」その原城が落城した日だった。あまりの偶然に驚いた。



素晴らしい本を読んだ!―『見残しの塔―周防国五重塔縁起』久木綾子著―

2012-02-04 16:32:03 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
 近頃になく読み応えのある一冊を読んだ。久木綾子著『見残しの塔―周防国五重塔縁起』である。この書、文春2月号を何気なく繰っていると、新刊を読むという巻末近いページに「五重塔を作った中世の人々がよみがえる、89歳衝撃デビュー作」橘由歩(ノンフィックションライター)氏による紹介記事が目に止まった。

 そこには『取材に14年、執筆に4年―、この時間の密度をどう捉えればいいのだろう。どれほどの情熱とぶれない胆力が必要とされるのか、…しかも人生70代からのスタートなのだ。70代から80代半ばという、世に老齢と括られる歳月の中で紡ぎだされた、新人女性作家の鮮烈なデビュー作が本書である。…』

 早速、行きつけの書店で求めたが、あるはずもなかった。取り寄せて手にした。一読、感嘆した。その文章の格調の高さ。自然描写の巧みさ。構成の妙。そして何より主人公をはじめ登場人物の多くがそれぞれに己の理想、あるいはこうあるべきと信じる道をひたすらに一途に生きて行く姿にうたれた。

 読み終わって、珍しく涙がでた。登場人物のその後があれこれと思われてならなかった。こんな読後感は久しく味わったことがなかった。 読んでいて、幸田露伴の「五重の塔」と何度か重なる思いがした。また、野上弥生子の「利休」がちらついた。そのいずれにも劣らない読み応えと格調の高さを感じた。

 ところで、著者、久木綾子氏は1919年生まれとあった。8年前に亡くなったわが母と同い年。そして、私自身も古希をすぎたところ。これまで、自分が本当は一体何をしたいのかがわからず、生きてきた気がしていたのが、最近ようやく、小説を書いてみたかったのではないかと気づくにいたった。

 そうして、今少しずつ、書きたいテーマのメモ作りを始めた。そうした時だからこそ、この書は私にとって一つの天啓とも感じられたのかもしれない。
 だからこそ感動も人一倍大きいのかもしれない。

 小説を書くことは、若い新鮮な感性ばかりでとらえられるものではなく、人生という一山か二山を越えたところで初めて見えてくるものもあり、それを書いて世にとうのも一つの意味あることではないかと思えてくる。
 これからの高齢化社会、このような作品が一つの大きなジャンルとなるのでは…。

秋の夜長、読書の楽しみ―水上勉著「停車場有情」―

2011-10-15 23:53:59 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
10月14日(土)曇り後小雨、降ったり止んだりの肌寒き一日。

 この頃、何故かあれほど夢中だった絵を描くことへの興味が薄らいだ。それよりはこれまで生きてきたことのあれこれを、書いてみることが面白くなってきた。
そうなってみると、文章での情景描写とか心理描写あるいは人物描写を、著名作家たちはどう書いているかが気になりだした。
  そこで本棚から昔買って一度読んでそのままになっている何冊かを取り出してみた。その中に、今から30年前にもなる昭和55年12月、角川書店から刊行された水上勉著「停車場有情」があった。
  著者が、それまでの人生で乗り降りした数々の駅にまつわる思い出を綴った一冊である。読むと、その一遍一遍が、それぞれに味わい深い短編小説のように感じられた。
   今夜はその中から、一読、改めて涙した次の一遍を、まだお読みになられていない方に、そのさわりの部分を抜書きしてご紹介させていただくこととした。

『小浜線青郷駅―孝ちゃんのこと (P101~105)
「…ここは青葉山の麓である。東のほうから見ると富士に似て見えるこの山は、麓の駅からでは、富士の形に見えず、三つ切りたった峯が南北にかさなって、北は成生岬の方へなだれいた。この中腹に、高野、今寺という、全戸かぞえて四十戸そこそこの寒村があって、ここの分教場に私は約二年間奉職していた。…

 私が赴任した日の翌日、見知らぬ農婦が分教場を訪れてきて、その娘の就学を懇願した。きけば、孝ちゃんは、智恵おくれではあるが他の生徒に危害を加えたり、勉学の邪魔になったりするわけではない。ただ、智恵がおくれているだけのことで、年齢もふつうなら三年生になっていなければならないのを、分教場へくる教師が、その就学を嫌って、通学を拒否したというのだった。母親が必死になって義務教育だけはさせてやりたいと拝むのに打たれた。それでその翌日、今寺という上のへ出かけ、谷口家を訪れた。谷口孝子というのが孝ちゃんの姓名だった。

「あしたから、学校へおいでよ。みんなといしょにならんでおいで」
 と私はいった。この今寺から五人の生徒が来ていた。私は上級の子に言い含めて、翌日から孝ちゃんをつれてくるようにと言った。五人の子らは、新任教師の命令ゆえに、素直に聞いて、登校をいやがっていた孝ちゃんを無理やりひきつれてきた。孝ちゃんは年下の子らと一しょに一年生に入学し、私の複複式授業の仲間となった。字もよめなかった。書けもしなかった。絵だけは少し描いたが、画用紙をくばると、彼女は、すぐくちゃくちゃにしてそれで鼻をかんだ。一つ教室だから、全生徒はその孝ちゃんの行動を笑った。けれども、孝ちゃんは授業になれて通学を喜ぶようになった。冬がきて、大雪が続き,荒れた日は今寺は遠かったため、私も父兄たちが子を休ませることを祈っていたが、そんな猛吹雪の日でも、五人の子らは、ひとりの智恵おくれの子をつれてやってきた。白い雪が、電柱も森も埋めて、巨大な布をかぶせたようにみえる山頂から、六人の黒い行列がやってきた。私はその数をかぞえながら涙ぐんだ。
 …
 この蕗採りのある一日、孝ちゃんの姿が夕暮れになっても見えなかった。私たちは、孝ちゃんの行きそうな谷という谷をさがして廻った。陽の落ちた山はなすび色になった。ある生徒が遠い地獄谷という、大人もゆかない恐ろしい谷の岩下から、背負籠いっぱいの蕗を背負ってくる孝ちゃんを見とめて走ってきた。
 「孝ちゃん、いたぞオ」
 ときこえた。私たちはほっとしてその声の方へ走った。鼻汁をたらした孝ちゃんが、頬を赤くして、蕗の山をいっぱい背負っていた。
 「孝ちゃん、孝ちゃん」
 二十二名の生徒らは、みな泣いた。

 八月十五日に敗戦となり、私は、九月にこの分教場を降りて、退職した。私が生家のある大飯町へ帰る日、分教場の全生徒二十二名が父兄に引率されて、青郷駅に集まった。
 その中に智恵おくれの孝ちゃんもいた。孝ちゃんの母親は、汽車の窓から首をだした私に向かって合掌していた。

 青郷駅は、孝ちゃんが鼻汁たらしながら、私を見送っていた駅である。時々、京都から、故郷へ帰る途次、急行がこの小駅を黙殺して通過する。私は窓から身をのりだして、中腹台地の畑の中の分教場を見つめるのである。
 黒い建物が一つ。その向こうで、孝ちゃんが、蕗を背負ってやってくる。

―追記―
 一読、冒頭の部分。さらには文中の『五人の子らは、ひとりの智恵おくれの子をつれてやってきた。白い雪が、電柱も森も埋めて、巨大な布をかぶせたようにみえる山頂から、六人の黒い行列がやってきた。私はその数をかぞえながら涙ぐんだ。』
 いづれも目に見えるような的確で美しい情景描写である。
 そして、今、子供たちの間でいじめが盛んに言われる中でここの子供たちの何んと優しいことか。
その一方で、教師の側には、昔もこんな小人数の生徒たちに対しても、面倒な手間のかかる子は排除して平気な者がいたと言う事である。
それにしても水上勉の優しさはどうだろうか。終生、周囲の多くの女性の心を捉えた聴くが、この本の中に出てくる他の話からも、その秘密が十分に納得できる。
私も4歳から12歳まで水上勉の故郷とは舞鶴を経てその反対側の宮津で育った者として、裏日本いな日本海側の秋から冬にかけての独特の曇天と雨や雪、時雨の多い湿っぽい地方に育った中で、水上勉の作品の底に流れる気分に身近な親しみを感じるのである。


「北朝鮮に嫁いで四十年―ある脱北日本人妻の手記―」を読む。

2011-05-23 00:22:28 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
5月22日(日)曇り時々雨

 先日、自宅近くの図書館の新刊コーナーで「北朝鮮に嫁いで四十年―ある脱北日本人妻の手記―」という本が目にとまり借りてきた。

 表紙、見返しの紹介文に『1961年、帰国事業に応じた夫の家族とともに、「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮に渡った著者を待っていたのは、あまりにも悲惨な生活だった。乏しい食糧、電気も水道も満足にこない。娯楽も無く、里帰りもできない。ときに公開処刑を見せられる。やがて配給が止まるなか、三女は栄養失調で死亡、次女はヤミ商売のかどで服役、中国国境を行き来していた長女も捕まり獄中死するー。
 誰も恨まず、すべてを運命として受け入れ、夫と6人の子供を守るために、想像を絶する日々を懸命に生きてきた日本人女性が、2001年に脱北し、帰国するまでの半生の記。北朝鮮の庶民の暮らしを詳細に描いた稀有な記録でもある』とあった。
 なお、著者は、斉藤博子さん。同じく見返しの紹介によれば、『1941年、福井県生まれ。61年(昭和36年)、夫の家族、1歳の長女とともに北朝鮮へ。94年(平成6年)に夫が病死。経済状況が最悪となり、配給制度が破錠、自給自足、ヤミ商売を余儀なくされる。2001年(平成13年)、鴨緑江を渡り脱北、中国経由で帰国。』とある。
 
 一気に読んだ。これまでTVの映像や新聞報道等を通して断片的に見聞したのとは、ひときわ違ったまるで私自身が著者の背後霊にでもなったかのごとく直ぐ脇に立って、ただ見つめているほかないような感覚を覚えた。

 配給は、成人男子が一日700g、女と子供は300g、これを月に2回に分けて受け取るのだ。だが、その70%はトウモロコシ、米は30%とのこと。おかずはキムチのほか、ほとんどなし。たまに魚売りがくるぐらい。

 家は、アパートの一戸の二部屋を二世帯で住む。流しは共同。水道は冬には凍って出なくなる。近くの川まで水汲みに行くのが日課の一つ。

 病気になっても、病院へは勤め先への病気休暇届けに必要な診断書をもらいにいくだけとか。病院には医薬品が一切無いためという。病気になったらただ家で寝ているだけとか。

 ヤミ商売では、電線等からのアカ(銅)が割合い好い金になる。だが、みつかったら刑務所行き。そのためにある母親が、死んだ赤ん坊のお腹の中に銅線を詰め込んで背中におんぶして運んでいるのを目撃したこともあるという。

 一度、つかまって刑務所に入いれば、食事はトウモロコシが15粒。塩味だけのスープ。それでいて広い畑で朝早くから一日中働かされるのだ。
 囚人の食事よりも刑務所で飼っている豚の餌の方がずっと分量が多くてまし。その豚の餌を世話係の人間が掠めて食べるのだとか。

 著者は、あるとき、仲介者の働きかけで日本の母親と連絡がとれ、その伝でようやく命がけで、胸まで急流につかりながら鴨緑江を渡り脱北できたのだ。

 著者は、日本に帰ってきてはじめて金正日一家の贅沢三昧の暮らしぶりを知り怒りに燃えたという。

 北朝鮮すなわち自称、朝鮮民主主義人民共和国。これが21世紀のいやしくも臆面も無く民主主義を名乗る国家だろうか。1945年、日本の統治下から脱した後、南北に分かれて約65年。今や、日本をもしのごうかとの勢いにのる南と、この北の惨状はどうだろうか。
 政治体制の相違により、同じ人間として何たるその暮らしのありよう、幸不幸の天と地の違いがあることだろうか…。

 ただ、読んでいて救いは、こんなにも貧しい暮らしの中で、庶民同士は優しい人々も多いということだ。お腹をすかせている同行者がいれば、自宅で乏しい食事を勧める。たまたまTVの有る家には、近所中の人々が押しかけて皆で仲良く僅かな楽しみをともにするとか。

 著者と私は同年齢。それゆえ同じ時間を生きてきて、その生活の場所が違うというだけで、著者が味わってきた人生と、戦後の高度成長期の日本の一番好い時代を生きてきたわが身と比べて、何ともいえない気持ちがしてくる。

 今朝の朝日新聞の7面で、『金総書記 窮状下の訪中 昨年5月から3度目 近づく配給途絶■ 貨幣急落■ 物々交換 …報告書によると、北朝鮮では昨年の洪水や冷害で食糧事情が悪化。北朝鮮当局は人口の約7割にあたる1600万人に対し、1人あたり1日平均で400グラム弱の食糧配給を目指しているが、5月から7月にかけて配給が途絶する見通しだと訴えているという。…』記事が出ていた。

 独裁者金正日が親とも頼む中国だって、いつまで北朝鮮の面倒を見ていられるだろうか。いよいよ金正日王朝の落日が迫ってきたのではないだろうか…。その一日も早い崩壊こそが、北朝鮮の人々の救いになるのではなかろうか…。

石 平 著、“私はなぜ「中国」を捨てたのか”を読む

2011-01-02 12:08:44 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
1月2日(日)晴れ。

  暮れに立ち寄った書店の棚でこの本が目に止まった。新書版の帯に『中国に幻滅した中国人エリートの魂の叫び! 尖閣問題だけではない、ノーベル平和賞受賞者の不当監禁―この一党独裁国家には法治も人権もない! 
この「美しい日本」に見惚れ、帰化した。評論家石平の誕生! ◎北京の殺人政府に決別を告げたあの日 ◎目に余る反日宣伝の恐ろしい実態 ◎「愛国攘夷」という集団的熱病の正体 ◎日本で再び出会った「論語の世界」 ◎日本語を覚えて礼節を知る』とある。

石平氏、少し前、尖閣諸島での中国船体当たり事件を取り上げたBSフジのプライムテンでコメンテーターとして出演した際の印象が記憶に残っていた。
買って帰って一晩で読んだ。読み終わって、あの尖閣で一中国漁船(?)が白昼堂々、何故、日本の巡視艇に体当たりする無法で挑戦的な蛮行を行ったかが、その背景が凡そわかったような気がした。

結局、今の中国は、私たちが歴史の教科書で習ったような唐、宋といった当時の日本からみれば先進文化国家のイメージからは似ても似つかない別物だということらしい。
共産党一党独裁体制が、毛沢東の文革の嵐を巻き起こし、天安門事件での殺戮を必然とした。そしてこの体制を、維持するために何にが何でも日本という仮想敵の存在が必要となり、国家挙げての反日キャンペーン(国民教育)が展開されているのだ、と著者は説く。

そんな自国に愛想をつかし機会を得て日本に留学した著者は、そこで我が日本と言う国の自然と風土、文化、人間に感嘆する。そしてその背景に江戸時代から連綿と続く儒学と論語研究の世界に孔子の描いた理想世界の実現と承継を見る。
西郷隆盛の生き方こそはその象徴だと著者は賛美する。

そして、日本でよく使われる「やさしい」と言う言葉は、他のどの国の言葉にも無い素晴らしい言葉だという。中国語で「やさしい」を説明しようとすると、「もっとも良い人間」を説明する最上級の褒め言葉を十個以上あつめなくてはならないという。
ところがこの日本では、その「やさしい人」がごく普通の平均的な日本人であることに著者は驚きとともに賞賛するのだ。

今、我が日本の国家として、また民族としての精神の劣化がしきりに言われる。しかし、祖国中国に愛想をつかした石平氏の目から見れば、こんな日本でもまだまだ素晴らしい国民性の国にみえるらしい。
真に嬉しいようなこそばゆいような感じもさせられる。
ただ、我々日本人が忘れてはならないのは、その「やさしい日本人」が、半世紀少し前には、お隣中国や朝鮮に押しかけて行って、傍若無人の振る舞いをした歴史的事実だ。
石平氏の賞賛する「やさしい日本人」が、一度、軍人となり兵士となって国家の道具となった時には、そんなやさしさは吹き飛んでしまうのだ。

隣国中国で反日に狂奔する一部の人々もまた、国家体制に呑みこまれて、個人としての良識を失ってしまっているということではないだろうか。
一人の人間としてのまっとうな理性を保つことが、国家という集団エゴを確保していくための政治体制の下では、如何に難しいかということではなかろうか。
「国家」という概念から、人間が自由にならない限り、世界中の人類が真に民主主義的な政治体制の下で人権や自由を謳歌できることはないのではないか。

石平氏の本書を一読して、こんなことを思った。

―真実はどこにある?!―宮崎学推薦 「官僚とメディア」魚住昭著を読む。

2007-04-24 01:47:46 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
4月23日(月) 曇り。暖。
  
宮崎学氏のブログで、こんな推薦記事を見た。

『2007/04/20 01:01:52 宮崎学公式ウェブサイト
宮崎学推薦 「官僚とメディア」魚住昭著
「官僚とメディア」 魚住 昭 著
角川書店 720円
メディアと官僚の癒着は、ここまで進んでいる!耐震偽装事件に見る国交省とメディアの癒着、最高裁・電通・共同通信社が仕組 』

このところ、メディアのあり方について何かと気になっていた。そこへこの本の紹介である。今日、買い物のついでに買ってきた。新書版、211ページ、一気に読み終えた。
  その感想となると、書き出せばきりがなくなりそうだ。

  先ず、感じたのは、我々が日々見聞するメディアから報じられることが、いかに盾の一面しか見せられていなかったかということであった。

  この書によれば、一大疑獄になるかと思われた耐震偽装事件も、直接の犯人は姉歯元一級建築士だけであり、あれほど悪徳商法の権化のようなヒューザーの小嶋社長も、木村建設の篠塚支店長も総研の  氏も皆被害者であったということになっている。
  諸悪の根源は、一言で言えば、アメリカの要求に従って、安易に建築確認申請業務を民間にまかせてしまった国交省の無責任さにあるという。
  国交省は、被害者からの責任追及の矛先をそらすために、メディアを巻き込んで、コスト削減で利益をあげるためにはなんでもやりかねない悪徳不動産業者、建設会社がグルという図式をつくり上げたまでのことだとのこと。
  そして、その世論操作は、結果的に見て、今、見事に成功しているのだ。

  その官僚の中でも、国民の目をひきそうなことに一番熱心なのが検察官僚だとか。村上ファンド事件,ライブドア事件はその際たるものだという。
  今までの経済事犯では、ほとんど問題にならなかったようなものが、検察官僚の思いあがりであたかも一大疑獄事件に発展するかのように、よそわれたのだという。

  何故、そんなことになったのか。

  著者は、そのきっかけは、92年の佐川急便事件で、政界のドン、金丸信・自民党副総裁に5億円ものヤミ献金が明らかになったにも係わらず、検察は事情聴取もせずに、政治資金規正法違反の略式起訴で罰金20万円で、ちょんにしたことにあるという。
  その結果、検察は国民からの猛パッシングを受けた。

  『ところが、翌年3月、特捜部が金丸氏を巨額脱税容疑で逮捕すると、状況は一変した。検察不信の声は拍手喝采に変った。事件の衝撃で38年に及ぶ自民党一党支配が終わり、ロッキード事件以来、検察に重くのしかかってきた旧田中派の重圧も消えた。やがて検察OBが政府機関のトップに次々起用されるようになった。…検察は我が世の春を迎え、国家秩序を支える司法官僚としての自負心がやがて驕りに変った。組織の安泰のためにやらなければならないことはただ一つ、時代の「象徴的な事件を作り出し、それを断罪する」作業を繰返すことである。…』

  さらに、今回この本を一読して、収穫だったのは、2009年5月までに始まる予定の裁判員制度のことである。
  私は、これまで保守的とされて一切の司法改革に積極的とは見えなかった最高裁が、何故、ここに来て国民の裁判への参加なんてことを、言い出しさっさと制度化を進めるのが、不思議でならなかった。

  これについても、この書によると、『…99年7月に司法制度改革審議会が設置された。中間報告では刑事裁判の迅速化と効率化だけが強調され、企業法務に携わる弁護士を大量に増やす意図が明確だった。早い話しが小泉政権時代に進められた規制緩和・構造改革路線の司法版である。そのためか、被告が無罪を主張すると1年でも2年でも身柄を拘束され続ける「人質司法」や、冤罪の温床とされる代用監獄をなくそうとする姿勢はまったく見られなかった。…』とあった。
 なるほど、そういうことだったのだ。

  しかも、最高裁は、この国民に戸惑いと評判の悪い制度を何とか、国民に納得させようと、なれない広報活動にやっきとなったあげく、そのノウハウに不案内なため、27億円もの巨費が電通などの広告業界に不透明に流されているともある。
  その仕切役というか、橋渡しの影には、著者の古巣、メディアニュースの卸し元である共同通信社が深くかかわっているという。

  何故、官とメディアがこのように癒着するのか。
  そこには、官からの情報に取材元の7、8割を頼らざるを得ない客観報道主義というものがあるという。官からの情報提供により、記事を書く限り誤報や名誉毀損、損害賠償なんてありえない。官から良い情報を少しでも早く得ようとするときに、官と記者との間に濃密な人間関係ができないとだめだという。そこで初めて情報の取引関係と一体感が醸成されるのだという。

  これは、戦後、今始まったことではなく、戦前の陸軍参謀部と当時の記者との間にも同様の関係があったという。軍部が弱腰になると新聞はそれを叩いたという。
 
  こうして見ると、メディアが報じるある一面だけをみて、もっともらしいコメントを書き散らしてきた我が身を省みるとき、なんともこの身が恥ずかしく、滑稽な道化に思えてくる。

  しかしそれは、この山家の隠居のみならず、一時は議事堂の英雄とさえ見えたお方さえ、その同じ道化の一人であったのかというのは、これもまたたまたま本書を読んだだけにすぎないはやとちりということであろうか。

   だがしかし、これでも長年、歳の功とかで人を眺めてきた目から見れば、耐震偽装問題で議会に証人喚問された面々、どうみてもただのお人好しの被害者とは、信じがたいのだが…。

  そしていつの世も、世の中なんてものの真実の姿が、多くの人の目に明らかにされるなんてことはありえないのではなかろうか。
  
  いつの世も、誤解と、憶測、嫉妬、やっかみの坩堝の中で物事は、うやむやに強い力の方へ方へと吹き流されていくだけでないのだろうか…。 

  しかし、そうは思いつつも、やはり事の真実を知りたいと思うのが、これまた人間の本性というものでもあろうか…。 

と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか。

“罪無くして斬らる!” ー幕臣、小栗上野介のことー

2007-03-20 00:36:40 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
3月19日(月)晴れ。終日大気乾き寒い。

  先週の木曜夜、NHK総合で木曜時代劇「またも辞めたか亭主殿~幕末の名奉行・小栗上野介」(後編)を視た。何だか前にも視たことがあるような気がして調べたら2003年正月放送の再放送だとわかった。

  現役時代、昼休みに何気に入った小さな本屋の棚で「最後の幕臣 小栗上野介」(星 亮一著中公文庫2000年8月刊)を見つけて買った。
  一読、こんな立派な人物が居たのかと驚いたことを思い出した。

  冒頭のTVドラマはそれはそれとして面白かったが、それはそれとして改めても一度この本に当たってみたくなって書棚をさがしたら、直ぐに出てきた。

  小栗は、1860年、井伊大老に抜擢されて日米和親条約批准交換遣米特使の目付けに選ばれ、米国の新聞で将来の日本のリーダーと評価された人物。
  中でも米側を驚嘆させたのは、日米為替レート交渉における小栗の手腕であったという。それまでの金銀為替レートが、日本では1:5が米国では1:15のため、アメリカ人にとっては濡れ手で粟の3倍の儲け。日本の金が湯水の如く流失したという。

  幕府はこの交換比率の是正を彼に託したのだ。交渉の席上、日本の小判とアメリカドル金貨の金の含有量を調べることになった。日本側は、小さな天秤ばかりを持ち出し見事にその差異を算出し、日本側の金属分析技術の精緻さに、米側を驚嘆させ、ここに交換比率の是正が成ったという。

 今の、種々の外交交渉の場でかかる賞賛の評価をほとんど聞くことがないのと比べて、どうだろうか。この時、小栗は33歳の若さである。

 そして何と言っても、彼の最大の功績は、アメリカの造船所や海軍力、製鉄工場を見て、日本との工業力の差に驚き、何としてもこの差を埋めなければと思い、帰国後、他の使節が攘夷の世論を恐れて、海外での見聞を何一つ主張しなかったのに対して、小栗のみは、手始めとして海軍力の充実を図るため造船所の建設を幕閣に提言するも、そんな金がどこにあるかと相手にされない。だが慶喜の認めるところとなり、ようやく許され独り金策に奔りフランスから600万ドルの借款に成功し着工する。

 同僚は、こんなものに大金を費やしても、幕府がどうなるかも分からない時、何になるんだと揶揄する。これに対して、彼は、平然として、同じ売家でも土蔵付きならいいではないか。きっと将来この国の役にたつ筈だと語ったという。

 彼はまた、幕府のほとんどの役職を目まぐるしく経歴し勘定奉行としても大いに手腕を発揮した。「金は、どうせいつでも足らないのだ。であれば一つこれはということになればいくらでも何とかなるものだ。それが反って無駄な出費を省くことになる」と言ったという。

 今の財政赤字にほとんどなす術を知らない現政府の体たらくを見たら、小栗だったらなんというだろうか。恐らく彼を冥土から引っ張り出して、財務大臣をやらせれば、たちどころに解消するのではというは、買いかぶりだろうか。
 
 そんな先見性と抜群能吏であったにも係わらず、三河以来の徳川家の立場への忠誠心が捨てきれず、討幕軍への徹底抗戦を主張して入れられず、役職を罷免されると、あっさり自分の仕事は終わったとばかりに、40歳そこそこの若さで、所領の権田村(群馬県、伊香保の傍)へ土着してしまう。以後は農事と将来有為の人材をそだてるべく子弟の教育に専心するつもりだったのだ。

 だが、そこへ官軍東山道軍がひたひたと迫る。官軍は、江戸から脱走した幕府抵抗派の一部がこの小栗と一体になることを強く恐れた。また徹底抗戦を主張したことを憎んだ。小栗野才腕を恐れた。官軍は、周囲の無頼や農民をそそのかし、一揆にしたてて彼の住む村を襲わせた。罠をしかけたのである。小栗は、自衛上村民を指揮してこれを退けた。
 
 官軍は得たりや応と無垢の庶民を殺戮し天皇に歯向かうものとして逮捕し裁判もせずに斬殺し晒首にしたのである。

 明治維新後、日露戦争。東郷元帥率いる日本海軍はロシア、バルチック艦隊を壊滅した。この時日本の主力艦船は英国製だったが敵艦に止めをさしてまわった中小艦艇は、小栗の起工した横須賀造船所で造船されたものばかりだったいう。

 東郷元帥は、このことを深く心に止め、小栗の遺族を尋ねだし「小栗さんのお陰で勝てた」とその功を讃えたという。そのとき贈られた扁額が今も小栗の眠る権田村の東善寺に掲げられている。

 だが、未だに明治政府以来の日本国家からの正式な名誉回復,どさくさに紛れての虐殺に均しい行為への謝罪はないようだ。

 小栗の処刑が、まるで何かの封印を切ったかのごとく、幕末維新の一方の表舞台で六方を踏み出すのが勝海舟であった。

 私は、この本を読んだ後、倉渕村の東善寺を訪ねたことがある。山陰の小さな寺。その境内の一室に置かれた貧しいショーケースに納められた僅かな遺品。錆古びたピストル、皮の旅行鞄…ぐらいだったか。夭折とさえいえる多彩な才能を秘めた逸材、それが無惨にも、いやしくも官軍という名の公権力によって手折られた、何ともいえない侘しく惜しい思いで,そのとき一杯になった。
 
 今年は、小栗生誕180周年。没後140回忌に当たるという。地元では今も小栗を深く敬愛する人々によって、来る5月27日、東善寺http://tozenji.cside.com/で記念行事が行われるようである。

 冒頭のドラマも、地元の方たちのNHKへの大河ドラマへと言う熱い要望もだしがたく、その代わりに製作放映されたようである。

 小栗を復権させるには、未だにどこかに薩長藩閥政治の亡霊が潜んでいるのか、何か差し障りがあるのだろうか。 

 今の政治家、官僚の有様、日日、様々に報じられるのを見るにつけ、ついつい目は伝え聞く幕末有為の人士に目がいくは何と情けなくも悲しいことではないだろうか。
 それとも、亡くなってしまったものは、なんでも美しく哀切に見えるということだろうか。

ー参考ー
 
 次回知ってるつもり小栗上野介(2000.5.7放送)

 1860年、小栗上野介は日米修好通商条約を交換するための派遣団として、アメリカへと旅立った。 ... 総大将・徳川慶喜を中心に誰もが絶望にうなだれるなか一人、陸海軍並びに勘定奉行・小栗上野介が立ち上がり主戦論を叫んだwww.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000507.html

“ひとりぼっちの私が市長になった!”―一気に読んだ。感動した!―

2007-03-13 02:44:17 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
3月12日(月) 晴れ。北の寒風、終日強し。

  10日の夜、前項のブログをアップしたら日付が変わって、11日の午前2時ぐらいだったろうか。ほっと一息、ウイスキーのお湯割を飲みながら、手元に置いておいた図書館で昼間借りてきたばかりの“ひとりぼっちの私が市長になった!”を、一寸様子を見る塩梅で開いた。

  読み始めたら、何故?、それからどうしたんだ?…止められなくなった。明け方5時、227ページを読み終えた。ジーンとした感動が胸の底におちた。
  それは、足長おじさん+レミゼレラブル(何故か)を、読んだような感じといえばいいだろうか。

  著者の草間吉夫氏ja.wikipedia.org/wiki/草間吉夫は、茨城県高萩市長だ。41歳、昨年の2月5日、5人の候補者で市長の椅子を争い、現職を大差で破っての初当選という。http://blog.hitachi-net.jp/archives/50173761.htmlblog.hitachi-net.jp/archives/50173761.html - 18k –

  表紙見返しにこうある。
『生後三日で乳児院に預けられ、高校までを児童養護施設で育った青年が、社会の偏見や無知を乗り越えて茨城県高萩市長になるまでの半生を綴った、感動の手記! こんな市長が日本の未来を変える! 講談社』と。

 この評に、偽りはなかった。
感動の要因は、著者の己の内心の求める志に向かってのひたむきな生き方そのものにあることは、勿論だが、著者がこれまで出会った周囲の人々(多くの読者にとっては、無名に均しい人々)の中に、識見のすばらしい人や真に優しい人の存在を知るしることにもあった。

著者の育った児童養護施設「臨海学園」の創立者、遠藤光浄氏(日蓮宗、願成寺住職)。著者の夏休み、新年の里親を引き受けられた元高萩市長鈴木藤太氏。著者を幼時のときから卒園までの18年間父親代わりとなって面倒を見られた指導員の大橋正男氏。同じく指導員で著者の兄貴がわりのような若くして急逝された永井定男氏等々。

こういう方が、日本には、まだまだ無数にいらっしゃるのだろう。だから、中央の舞台の上でスポットライトを浴びた、団十郎気取りのその実、三文役者がフザケタ演技でジタバタしていても、今日も大部分の庶民は安穏に暮らしていけるではないか。

今、中央で活躍され、各種メディアにご登場になる方々は、始めは人の目をはっとさせても、暫くすると、化けの皮がはがれ、お里が知れて、がっかりさせられてしまう人士の何と多いことだろうか。それは、一瞬、陽に映えてたちまち破れ散るゴム風船か紙風船をみるようである。

この書は、ある意味でのサクセスストーリーとして、また一方では、最近はとんとお目にかかることのなくなった、教養小説(ヘルマンヘッセ、ロマンロラン、芹沢光次郎、山本有三の著作等)に再会したような気がした。

その一方で、今まで知ることのなかった、児童養護施設の実態、そこでの生活がどのようなものであり、日常の感情生活のなかにあって、どのような人格形成がされていくのかということが窺い知れた。

また、真の福祉のあり方、その意味することの深さである。著者が受講した現東北福祉大学長の萩野氏は、「いいか、よく聞け。福祉とは人間をどうとらえるかだ。つきつめると、自分自身をどうとらえるかだ」」と説く。

そして、遠藤光浄師もまた、著者が迷って尋ねたとき、同様に語るのである。

『福祉とは最も人間を見つめる位置にある学問と実践の分野、突き詰めると、神に接するものです。人間をきわめ、神に接するところから出発するのが基本です。人間の醜さと欲深さと、こよなく尊い清らかさを垣間見た人々が、福祉を実践すべきだと思います。草間君もこれから人間研究をし、スランプを超え、深く深く福祉の世界を探ってください』と。

ここを読んで、もう数年前か。厚生事務次官の、ゴールデンプラン老人養護施設の汚職事件を思い出した。そして今もこの分野を巡っては、何かと魑魅魍魎の跋扈を聞くのは、どうしたことだろうか。

なお、著者が福祉について、もっと視野を広げるために挑戦し見事入塾した、松下政経塾の中の様子が興味深い。このような教育指導を受けても、卒塾すると結構なバラつきがでるのは、どうしたことだろうか。これほど厳しく鍛えられながら、先の前原前代表のおっちょこちょい振りは、何故なのかと、怪しみ惜しまずにはいられない。

とりとめのない感想文になってしまったが、著者から初めて聞く「スピークアウト(生い立ち告白)」、その勇気ある志で、これからの高萩市がどのように再生されていくのか、興味ふかくみていきたいと思う。そして、そこでどのような福祉行政が展開されていくかを。

ー追記ー
 URLがうまく入らず、リンクできず申し訳ありません。

今、懐かしき山口瞳、週刊新潮、「男性自身」

2006-09-08 01:24:18 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
9月7日(木)曇り、薄日差すも一時雨。日中蒸し暑し。

  今しがた、パソコン立ち上げたら、ヤフーのニュースで下記の記事をみた。

『妻の看病に専念、「居酒屋兆治」惜しまれ閉店

 作家、山口瞳さんの小説「居酒屋兆治」のモデルとなった東京都国立市のモツ焼き店「文蔵」がこの夏、ひっそりと店を閉じた。
 脱サラした店主が妻と2人で切り盛りし、勤め帰りのサラリーマンや地元商店主らに31年間にわたり、親しまれてきたが、妻が病に倒れ、看病のためやむなく決意したという。
 店主の八木方敏(まさとし)さん(69)がサラリーマン生活を辞め、妻のかおるさん(64)と店を開いたのは1975年。
 10人が座ればいっぱいになるカウンターがあるだけのこぢんまりとした店で、方敏さんは、1日に2万円を売り上げると、後は勘定を付けず、客と一緒に飲み始めた。客も端数の釣りは、受け取らず、方敏さんが帰った客を追いかけて返すこともあった。
(読売新聞) - 9月7日15時4分更新 』

 高倉健、主演の映画「居酒屋兆次」を観た記憶がある。こまかな話の筋は忘れたが、寡黙な男の印象だけが今も何故か焼き付いている。

 懐かしかった。「山口 瞳」、私の大好きな作家の一人というよりも、尊敬する人生の大先輩といった思いだ。私は父を戦争で失った。身近に男の生き方、出処進退、酒の呑み方を教えてくれる人がいなかった。「男性自身」はそれを示唆してくれた。毎週の男性自身が楽しみだった。木曜日の週刊新潮の発売が待ち遠しかった。
しかし、そこに書かれているものから、伺える瞳氏の人間観に、自分を照射してみると、いかに自分が卑しく物欲しげで知ったかぶりの嫌味な人間であることを思い知らされ。
 私は、それが山間(ヤマアイ)の滝で水垢離(ミズゴリ)をしているようで気持ちよかった。

 その瞳氏に、一度だけお会いしたことがある。氏が立川で水彩画の個展を開催されたときであった。
その頃、氏は月刊誌のシリーズでスケッチ紀行文を掲載されていた。毎回の標題が素晴らしかった。尾岱沼晩夏(オタイトウバンカ)、余呉残雪、…。その場所のイメージが目に浮かんだ。すぐにも行ってみたくなった。コミカルでどこか哀歓の漂う楽しい読み物であった。その時の個展は、その挿絵の原画展のようであったと記憶する。

 会場に、瞳氏が居られた。私は、おそるおそる手持ちの氏の著書にサインをお願いしてみた。
氏は快く私の持参した本を手に取ると、「ああ、これ少し汚れていますね。取り替えましょう」と言いつつ、脇から同じ著書を取り出し「ありがとう。お名前は」と静かに問いかけ、表紙の見返しにさらさらと墨筆で、肉太の字で私の名を認め、「子鰯も鯵も一塩時雨かな」と自作の句に、筆を朱筆に換えて曼珠沙華(マンジュシャゲ、ヒガンバナ)の素描まで添えて、手渡してくださった。
私は著名な作家にサインなど貰うのは始めてだった。「ありがとうございます」と返事をするのがやっとなほど感激した。

 瞳氏の文章に、しばしば出て来る日本橋三越傍の鉢巻岡田、そしてこの文蔵、一度は覗いてみたいと思った。だが、それは思い止まった。
 其処は、瞳氏だけの世界であり、瞳氏が創作した空間だからと思った。そんなところへ無名の私如きが、ふらふら迷い込んだところで、儚く惨めな現実を味わうにすぎないだろうと想像した。

 それというのも、それ以前に、偶然、職場近くの「ここのシュウマイは絶品」と瞳氏が賞賛されていた中華小料理店へ入ったことがあった。
 しかし、私のその時の印象では、店の主人は無愛想で、そのシュウマイの味も取り立ててというほどではなかった。それ以来、私は著名人の推奨する場所は避けることに決めた。私は、飲み屋でも、蕎麦屋でも、鰻やでも、天麩羅やでも、自分の身にあった店を大切にすることを覚えた。

 このこと一つにしても、瞳氏の「男性自身」から自ずと教わった私の処世の貴重な智恵かと思うのである。
 山口瞳氏が、癌だったかで急逝されたあと、「男性自身」が誌面から消えた。臍の無くなった週刊新潮を、もう買うのは止めた。それから、11年が経っていた。

―参 照―

■ 山口 瞳【著】・重松 清【編】
[文庫 判] NDC分類:914.6 Price:THB339.00
昭和38年に直木賞を受賞した著者は同年末から週刊新潮で連載を始めた。
「男性自身」という奇妙な題名のコラムは、会社員兼作家である自身の哀歓、家族・友人のエピソード、行きつけの店での出来事などが綴られた身辺雑記だった。
それは独断と偏見が醸す力強さと、淋しさ・優しさが滲み出た独特の文体で、読者の心を掴んだ。
40代に書かれた作品を中心に、大ファンの重松氏が50編を選ぶ。

■ 山口瞳(やまぐち・ひとみ、本名同じ、男性、1926年(大正15年)11月3日 - 1995年(平成7年)8月30日)は、作家、エッセイスト。東京市麻布区に生まれ育つ。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院中退、兵役の後、1946年、鎌倉アカデミアに入学。在学中から同人誌に作品を発表。正式の大学を出ていないことに対するコンプレックスを指摘されて國學院大學文学部に入り直し、1954年に卒業。河出書房勤務などを経て、1958年、壽屋(現・サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。
「婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞。受賞後、文筆業に専念するためにサントリーを退社。「週刊新潮」に33年間連載を続けた『男性自身』、自らの生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』等が主な作品。競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を巡る『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日と4月1日の恒例となっていた。
かねがね「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社後、東京郊外の国立に居を移す。この地が大変気に入り終生ここで過ごす。『男性自身』でも度々地元のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。
気さくな人柄で谷保駅前の居酒屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。『居酒屋兆治』はそんな経緯から生まれた作品。
筋金入りの反戦主義者であり、「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」など、強固な信念に基づく見解を『男性自身』等で述べている。
息子の山口正介も作家で映画評論家。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9E%B3" より作成

“塀の外の同窓会”を読む。-人生の分かれ道!-

2006-07-23 00:40:01 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
 7月22日(土)曇りのち薄日差す。21~24度。

 鬱陶しい長梅雨の毎日である。庭先のトマトの実が青いままで一向に赤く熟す気配がない。そんな徒然に、先日図書館で纏め借りしてきたうちの一冊、安倍譲二著、“塀の外の同窓会”文芸春秋(2000年)刊を読む。

 これは、昭和54年、府中刑務所からの出所を機に、いわゆるそれまでのバクチ打ち稼業から足を洗った著者が、その後、娑婆で出会った元の世界の住民たちとの邂逅記である。
 実に、小気味良くスラスラと読めて面白い。そしてどこか物悲しい気分も漂う。
東映映画かなんかで、垣間見る世界でしかない、塀の中の人間模様、そこに落ちるまでの様々な犯罪態様を知ることができる。
そして、思うのは、殺人・強盗とかの凶悪犯を除けば、その他の小悪党なんていうのは、我々と大して変わらない、ひとの好いい面を持った連中なんだ、という当たり前の納得である。

こんな話が書いてある。
「親友の晴れ舞台」との題で、
『明治年間からの永い伝統を誇る博徒の一家で、引退する総長の跡目に、一門の大勢の貸元の中から選ばれたのは、僕の友達の土井正高でした。僕とは同年輩のこの男との仲は、まだお互いにほんの駆け出しだった四十年も前に遡ります。…僕より丸二年遅れて娑婆に戻った土井正高は、電話してくると、「足を洗って堅気になったのは、中で聞いたんだが、何をしてるんだい」何でも相談に乗るし力も貸すといってくれました、慣れない世界で芽が出ずに、試行錯誤を繰り返すばかりだった僕に察しをつけて、涙のでるようなことを、本心で言ってくれたのです。…届いた跡目継承の披露パーティーの案内状にも、土井正高の筆跡で、「案内状を見てもらいたいから送るだけだ。迷惑がかかるといけないから、ナオちゃんは来るな。祝儀も花輪も何にも要らない。そんなことをすると、俺は総長になったからいいけど、ナオちゃんは直木賞が獲れなくなっちまうぞ」と書いてありました。土井正高が文学賞の名前を覚えたのがおかしいのと、いつでも心配してくれているのを知って、僕は涙ぐんでしまったのです。…しかし、このパーティーは間違いなく、土井正高の一生に一度の晴れ舞台で、顔を見せられる同年輩の友達は、生存競争の激しい世界ですから、多くはないと僕は知っていました。行ってひと言、お祝いを言ったら、どんなに喜ぶかと思ったのですが、思い悩んだ末に僕はいかなかったのです。』とある。

 著者には、あったことがないが、この本を通じて伝わってくるのは、謙虚で、優しくて、ユーモアに富んだその何ともいえない温かそうな人柄である。

 こんな人柄の著者がどうして、若き日(高校生の時らしい?)、賭博に手を染め愚連隊に入り、何度か刑務所に出入りを繰り返すようになったのか、真に不思議な感じがするのである。
 まあ、その経緯については、著者の処女出版作“塀の中の懲りない面々”があるので、後日そちらを読めばわかるのかもしれない。

  ただ、想像できるのは、若さのもつ制御しがたい男の破壊本能のなせる業ということであろうか。

  そして、著者の改心の経緯は次のようであったらしい。

「三十半ばまでに芽がでなければ」というタイトルである。
『…総長や組長になる男は、三十も半ばになれば頭角をあらわして、男を売り、他の一家の者にも知られるようになるものです。残念ですが僕も昭夫も、そんな歳は通り過ぎようとしていたのに、出世する気配はありませんでした。自分では気が付いていない欠陥や傷が、致命的だと僕には分かっていたのです。つまり博奕打ちの大物になるほどの器量が、なかったということでした。博奕打ちの若衆は、三十半ばまでに目が出なければ、もうほとんど親分よ、貸元よと呼ばれるチャンスはないのです。三歳年上で既に四十歳を過ぎていた僕は、府中の塀の中で、既にすっかり諦めていました。…「安部さん。器量のある下目のもんが、どんどん出世して自分より高目になってしまったら、これは随分、つらいことでしょうね」…「自分は根性がないから、とてもそんなことには永く我慢がきかねえよ」僕は昭夫に叫び返しました。…「自分はそれもあって、今度、出所したら、足を洗って堅気になるかもしれねえ」僕が叫ぶと…』とある。
 これが、動機となって、この出所後、足を洗って堅気、そして売れっ子、小説家になった次第のようだ。

 この感慨は、どこの世界にも共通するところがあるように思う。
 私も、若い頃、役所に入って、試験成績だけは学校時代の延長みたいなもので、そこそこ上位の方だったが、それだけでは、公務員法の上では成績主義がうたわれていながら、実際の組織の中では、そんなものが出世に繋がらない事がだんだん分かってきた。
自分より下の成績のものがどんどん良いポジションへ異動していく。こちらはどうしたわけか同じポジションに溝(ドブ)漬のままに置かれたままである。しまった。これは自分には合わない世界に入ってしまった、と臍を噛んだ覚えがある。
人には、組織向きの人を束ねていける者、上の者から可愛がられる者と、そうではない者とがあるようである。
 どうやら著者も私(同列に書くのはおこがましいが)も自我の強い、一匹狼的な“そうではない者”組のようである。こういう人間は組織の中では、ついつい浮いてしまうのである。

 人生は、短い。そして右へ行くか左へ行くかの決断は、あっという間に過ぎ去る若き日の一瞬の選択で決まってしまうのである。
 その一瞬の選択が、後の人生の大半を決定付けてしまうのである。その選択にあたって、誰も何も教えてはくれないのだ。
 こうして、我々はそれぞれの幸、不幸の人生行路に、自らを振るい分けていくのだろうか。

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?