蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

アメリカのダイナミズム、―オバマ氏を大統領候補に指名―

2008-08-28 12:51:58 | 時事所感
8月28日(木)雨

『米民主党、オバマ氏を大統領候補に正式指名

2008年8月28日(木)8時41分配信 ロイター

 8月27日、米民主党、オバマ上院議員をを大統領候補に正式指名。26日撮影(2008年 ロイター/Jim Young)
 [デンバー 27日 ロイター] デンバーで開かれている米民主党の全国大会は27日、オバマ上院議員を同党の大統領候補に正式に指名した。
 オバマ氏は主要政党の指名を受けた初の黒人大統領候補として、11月4日の本選で共和党候補に内定しているマケイン上院議員と対決する。』 

 新自由主義による世界経済のグローバル化、犯罪的なイラク戦争の仕掛け人、サブプライム禁輸恐慌(?)の震源等々、主として近年のアメリカ共和党政権により、引き起こされた独善的、世界規模的な政治経済社会的混乱は、目に余るものがある。
 その横暴さに対して、世界各国はほとんどなすすべを知らないようにさえ見える。まして我が日本国政府は、その尻馬に乗ってのちょうちん持ちさながら、周辺国はもとより心ある国々から顰蹙をかっているありさま。

 そんな現代世界のモンスター、アメリカだが、何かおかしいと多くの国民が感じ始めると、軌道修正への動きもダイナミックで早いようだ。

 僅か、150年前、黒人奴隷の解放を巡って南北戦争を起こしたアメリカ。その後も、人種差別は根強くはびこっていて、いまだに様々なトラブルが起きているように聞く。
 差別意識は、理屈ではなく感情の問題の面が大きい。それゆえに一朝一夕、法律の条文で片付く問題ではないところに厄介さがある。
 そのようなアメリカで、自らの大統領に黒人系の人物を選出しようということはまさに晴天の霹靂といった事件ではないのだろうか。
 
それに比べ、どんなに国民を舐めきった政治をだらだらと続け、国民の膏血たる税金の少なからずのものをドブに捨てているのに等しい施政をされても、唯々諾々と物も言わず、自民党政権を半世紀近く選び戴き続けている我が同胞とは大きな違いに見える。

  ともかく、後は、今回の大統領選挙、どんな結果になるのだろうか。
 早くも、アメリカでの直近の世論調査では、対立候補の共和党マケイン氏が、オバマ候補を4%ほどリードして巻き返したと報じている。
その一方で、オバマ氏の暗殺を企てた3人組みが逮捕されたとか…。

 もし、マケイン氏が当選すれば、モンスターアメリカの行動は、ほんの少し軌道修正されるにすぎないだろう。
それに反して、もしオバマ氏が当選すれば、モンスターアメリカが少しは良識的な、少なくともサミット加盟諸国の言うことにも、いま少しは耳を傾けるように思うのは、山家の半隠居の寝ぼけ夢だろうか…。

  私は、部外者ながらアメリカのため、世界のためにはオバマ氏に当選してもらいたいと願う。が、たぶんこの願いは叶わないのでは…。アメリカは、僅差で無難なマケイン氏を選ぶのではないだろうか…。

 ただ、もし、オバマ氏が落選したとしても、アメリカ国民、そして世界各国の人々の意識が徐々にではあるが、人種や肌の色だけで端から共存できない存在で、排除すべきものとの考え方は薄まりつつあるのではないだろうか…。

  むしろ今や、世界中の人々にとって関心のポイントないし政治的ターゲットとするところは、自分たちへの餌(生活物資)の配分いかん、そのシステムを誰が、どんな政治的党派・勢力が支配しているかという醒めた目を持ち始めてきたということではないだろうか…。
 自分たちへの餌さえ、できる限り平等に配布してくれるならば、その人物の肌の色や出自などに関係ないということではないだろうか…。

 私は、こうした意識の変化への兆候に、各民族文化や宗教、伝統の保持とは別の次元での、限りなくイデオロギーを排除した生活物資の平等配分と暴力・紛争を制御するだけの純粋実務的な世界行政システム構築への胎動が萌芽しつつあるように思うのだが…。

晩夏、血に彩られた北京オリンピック終幕の寂寥!

2008-08-25 00:33:33 | 日常雑感
 8月24日(日)雨のち曇り、やや肌寒い一日。

  約、2週間余のオリンピックお祭り騒ぎが終焉した。新聞、TVは連日オリンピック関連ニュースでてんこもりだった。
  お陰で甲子園での高校野球もいつ始まって、いつ終わったのやら影が薄かったように感じた。原油高、不況対策で無策の政府への怨嗟の声も掻き消えたかのようだった。
  
  天邪鬼の私にとって、国威発揚競争の感むんむんのオリンピックへの関心は、シラーっとしたものの筈であった。
  だが、いざ始まってみれば、女子柔道、レスリング、バレー、サッカー、ソフトボールとめぼしい所はほとんど見落とさなかった。大和ナデシコ、日本女性の素晴らしさに改めて感じ入った。
  特に最後のソフトボールの優勝が決まった瞬間には、思わずしらず目頭があつくなった。感動した。
  それに比べ、金メタル鳴り物入りの男子野球の結果には、不甲斐なくて腹が立った。先発投手が1インニングはともかく、2回目からは素人目にも危なく見えたというのに、星野監督は微動だにしなかった。投手は総力戦と聞いていたにも拘らずである。結果は、案の定だ。
 
 今回のオリンピックを見ていた、つくづく感じたのは、日本男子の線の細さ、ねばりのなさだ。もっとも、フェッシングの大田、水泳の北島、男子400Mリレー、柔道男子の2人は別として…。
  そして、良い結果を出した選手の周りには、家族やチームメイト、コーチや指導者との人間関係が濃密で良好なことである。特に浜口選手などその最たるものに感じた。
  男子野球など、プロチームから幾らめぼしい選手をひっぱてきても、10日やそこらの合宿で一体感を持てと言うほうが、きっと無理なのだろう。

  ところで競技とは別に残念なのは、大会初日、グルジアとロシアの武力衝突だ。これこそ水を差す、水をぶっかける以外のなにものでもなかった。
しかし、その翌日だったかの女子射撃でロシアとグルジアの選手が二人ともメタルに輝きながら肩を組んで、「私たちは前からの友人同士、戦争なんか関係ない。あれは政治家同士が自分たちの利害だけで勝手にやっていること」と突き放したコメントをした。
  とてもよかった。せめてもの救いであった。

  今回の北京オリンピック、端からチベット問題が暗雲を呼んでの大会だった。中国国内では四川省での数万人の死者をともなった大震災被害。オリンピック施設建設のために巨大国家権力のブルトーザーで引きしゃがれた多数の中国国民大衆。

  所詮、オリンピックなどというものは、その掲げる崇高な理想・理念とは程遠く、国家の威信を内外に示し、世界各地で民衆の政治的、社会的不満を一時的にガス抜きしたり、目をそらしたりさせる道具にされてしまっているのではないだろうか。

  今、石原都知事大閣下は、胡散臭い新東京銀行の震源から、都民の目をそらすため、恐らくはご自分の座る席があるかないかも覚束ない2016年東京オリンピック開催に向けて、恐れ多くも皇太子殿下まで、己が宣伝活動の一端をお担い戴こうと躍起のありさま。
  果たしてその成果や如何?

  この地球から、国家が無くなり、国境線が消滅して、世界中の人々が、同じ立場で,自らの鍛錬努力だけで各種種目の月桂冠を競い会い、表彰式には人類讃歌・地球讃歌の流れる日は、いつになったらくるのだろうか。
  その日は、ただ待つだけでなく、日本国憲法第9条の墨守を金科玉条に叫ぶだけでなく、新たな世界政府統治機構の構築に向けて、皆で声を挙げ智恵を絞り一歩を踏み出すときではないのだろうか。
 DNAをひもとけば、現在の地球上の人類は、約15万年前とかに一人のイヴを母として、アフリカのサバンナから歩み出た500人足らずの末裔とか…。


雷雨・停電と原油高

2008-08-05 01:49:49 | 日常雑感
8月4日(月)晴れ蒸し暑く、夕方雷雨過ぎし後は涼、蘇生の感あり。

  夕方、小雨が過ぎた。止んだところで飼い犬が頻りに鳴く。散歩に連れていけとの督促である。裏の林の小徑へ連れて行きそこで引き綱から離してやった。忽ち小藪の中に走りこんで姿を消した。構わず林の奥へ歩いていくと、左のふくらはぎに軽い衝撃があった。次の瞬間、愛犬が白い棒になって前方の草薮に突っ込んでいった。
  いつもは、それを序の口に小一時間、赤松の疎林の中を走り回らせるのだが、今日は、空模様がまたおかしい。
  犬の名を呼んで、騙されて戻ってきた所を、首根っこを押さえつけて、引き綱のフックをひっかけた。騙されたと知った相手は、我が手にしている棒っきれの杖に噛み付いて今来た道に引き戻そうと虚しい抵抗を果敢に試みる。
  家に戻って、犬を檻に入れるや否や待ってましたとばかりに猛烈な雷雨となった。夕闇を引き裂き稲妻が走る。雷鳴が頭上で炸裂する。部屋の電気が消えた。
  それっきりいつまでたっても明かりがつかない。停電だ。様子を知りたい。家人が東電に電話をかけようとした。つながらない。
  携帯ならどうか。やはり駄目だ。携帯といえども電波を中継するアンテナの電源が止まっては同じ事なのかと納得する。
  困った。我が家はオール電化。電気が無くては何もできない。水道も給水管の口径が細いためポンプアップ。停電即断水の憂き目に遭う。困った。TVもラジオも駄目だ。いつになったら元に戻るのだろう。若しかしてこのままズーっとのような思いがした。
  そして、今この瞬間、この停電の元にいる人々が、皆、誰とも、自分で車にでも乗って出かけていかない限り、コンタクトのとれない沈黙の中にあるのかと思うと、何とも言えない非日常の世界を感じた。
  そんな中で、幼い日の田舎での暮らしを思い出した。三日に一度は停電があったような記憶がある。蒲鉾板に釘を打ちぬいたロウソク立がいつも身近にあった。
  一度それを踏み抜いてえらい目にあったことは今も忘れない。 
  
  電気。何と、今の私たちの生活に欠かせないものになってしまっている事を今更の如く思う。

  小一時間ほどして、パッと明るい日常が戻った。TVが映った。山梨県下56万世帯の停電だったとのこと。

  今、原油高が諸悪の根源のように言われる。田舎暮らしの車が無くては身動きのとれない我が身には骨身に沁みる痛手である。
  だが、インターネットの記事を読んでいたら、全てがわるいことばかりではないとのことだ。車に頼らないで歩いて用の足せるコンパクトシティへの見直し。様々な代替燃料開発に伴う投資や新規産業活動の活発化。原油を買わないことによる、産油国へのドル流出の防止。国内でのお金の回転のたかまり等々。

 当たり前と思っていることを、考え直して見るには、やはり何かきっかけとなるショックが必要ということであろうか。
 思わぬ停電で、我が頭の中も少し攪拌されたような気がした。