蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

今こそ採るべき石橋湛山・国際協調路線!-理想主義が、何故書生論か?-

2006-09-30 01:50:36 | 時事所感
 9月29日(金) 曇り、一時薄日射す。暑からず寒からず。

 先日、行きつけの市の図書館の新刊コーナーで、“判断力と決断力―リーダーの資質を問う―”田中秀征著を見つけた。この方の書かれたものを、時折新聞のコラムで見ていた。小泉政治に批判的な物言いが多い中で、いつも一貫して、好意的なのが気になっていた。

 表紙見返しの経歴を一見すると、1940年長野県生まれ。83年衆議院議員に初当選。93年6月に自民党を離党して新党さきがけを結成、代表代行。細川政権の発足に伴い、首相特別補佐、第一次橋本内閣で経済企画庁長官。現在、福山大学教授とある。

 この書を開く。前書きにこうあった。

 『…政治指導者といっても、首相となると並の判断力や決断力では合格点をもらえない。それこそ第一級の判断力や決断力をもとめられるからである。
 私が身近に接した首相では、細川護熙、小泉純一郎両首相の決断力は群を抜いている。 判断力では宮沢喜一首相の右に出る人はほとんどいない。…小泉首相は、戦後の首相の中では際立って異質な首相である。其の覚悟、決断力において並ぶ人はいない。
 さらに、状況判断力においても他の追随を許さない資質を有している。おそらく後継首相が誰になっても見劣りするだろう。
 ただ、政策判断力(特に外交政策)については、きわめて危ういものであった。政策判断が確かでなければ、決断力があればあるほど逆に有害にもなりかねない。
 …わが国が今世紀において、いかなる方向を目指して進むのか。…われわれに指導者を観察する厳しい眼が必要になる。
 その点で、判断力と決断力の双方から指導者の資質を鑑定することは、指導者に対する最良の識別法かもしれない。
 …高杉晋作にしても石橋湛山にしても、不幸にしてその両方の資質を全面開花させる機会を持ち得なかった、双方を備えた数少ない指導者であったといえるだろう。…』
 
 この書、読み進むうちにびっくりしたのは、上掲前書きの末尾に出てくる石橋湛山の理想主義的言動についてである。

 私の石橋湛山の印象は、高校生の頃か、総裁選で一度は岸信介に一位を奪われながらも、二、三位連合を組んで僅かの票差で岸を逆転し、せっかく総裁に選ばれ、首相に就任しながら、僅か二ヶ月とかで病気を理由にあっさりと辞職した潔さであった。

 それが、この書の第7章、石橋湛山はなぜ時代を洞察できたかーを読むと、著者の石橋に対する愛惜の念が痛切にこちらに伝わってきた。
 
 そして、理想主義、書生論と揶揄される、世界連邦を遠い視野においた、その国際協調主義路線こそが、今こそ、今後わが国の進むべき道ではないかということである。
 
 おこがましくも私は、これまで、このブログを通して、護憲派の主張に対して、ただ9条墨守では、今のきなくさい世界の風潮の中で、多数国民を納得させえないのではないか、何故それを担保するために、日米安保に寄りかかって、いつまでも米国の属国の地位に甘んじるのではなく、国連の改革、国連警察軍の設置を提言しないのかと疑問を呈してきた。

 ところが、今私が述べたような考えを、石橋湛山は、以前から抱き、自身が追放中の昭和25年、鳩山一郎とともにダレス国務長官に招かれて会談した際、堂々と、その考えを進言していたのである。

 そして奇しくも、自身が首相に就任した1956年(S31)12月、日本は念願の国連加盟を果たした。そのとき、記者団からその感想を求められた石橋は、「国連に加盟したということは、その保護に浴するだけでなく、他の加盟国と同様に義務も果たさなければならい。そのためには武力も必要になる。その際、現在の憲法との関係をどうするかを考えなければならない」と答えたという。

 このことである。護憲派の方々は、それをもならぬというのであろうか。だからこそ、国連改革、国連警察軍については知らぬ顔の半兵衛をきめこみたいのだろう。国連に協力する方法は武力行使だけではない。わが国にはわが国のやり方があると。

 だが、そんな、自分だけは、日本国憲法を盾にとって、良心的兵役不服従的なことを言ってみても、国際社会が納得してくれるだろうか。
 これでは、自分だけ火の粉を被らなければ良いという、一国平和主義の身勝手さということではないか。
 それは、日米安保の核の傘の中で、自分のところだけ強い鎧の陰で身が守られれば良いと言う日米同盟至上主義の裏返しでしかないのではないか?

 石橋湛山はそのような一国平和主義を断固排するのである。世界平和を破る無法者は、国連常設軍事力、警察力によって早期に押さえ込むべしとするのである。それによって、各国の軍縮も進み、真の世界平和が実現すると構想するのである。日本は、その運動の先頭にたつべきだと。

 まさに、石橋は首相に就任して、年来の構想を実現化しようとしたときに惜しくも病に倒れた。
 そして、石橋が後事を託した岸信介は、石橋の期待とは裏腹に、極めて現実的な日米安保強化の道へ突き進んだ。

 今、その孫の安倍お坊ちゃま宰相は、爺様もできなかった、集団的自衛権行使の方途について、自らもアメリカに助太刀ができる道を切り開かんと、画策しょうとしているのではなかろうか?
 恐らく、それは、石橋の構想したアメリカも全世界、国連警察軍の一兵卒の立場での集団的自衛権とは似て非なるものではなかろうか。

 石橋は説いている。貿易についても、ブロック制はダメだと。世界中が自由に貿易できるのでなければ世界人民の幸福は実現できないと。世界は連邦制の共和国となり、国家主権の相当部分を国際的機関に委譲すべしと。

 戦後日本の復興を傾斜生産方式により、世界中が眼を見張る経済成長を実現させた現実家でもあった石橋湛山。その石橋が説く国際協調による世界平和への主張が理想主義、書生論と揶揄されるのは何故か。それは、多くの人々が目先の手近な利益にばかりにしか、眼を向けず、遠大な理想実現のための労を厭うからではないのか。

 今、開催中の国連での論議を聞くにつけ、環境問題、食料問題、エナルギー問題を考えるに付け、最早、一国がいかに強大な軍事力を振り回したところで何が解決できるというのだろうか?

 今こそ、日本は世界の先頭に立って、石橋の目指した国際協調主義路線への方向転換をはかるべきではないのだろうか。
 
 この本、思いもかけず時期に適った、わが意を得た一書であった。そして、今回、日本が安保理常任理事国入りを目指して世界中を跳ね回ってみても、アメリカにべったりくっ付いていて、世界中のどこの国が、そんなお目出度い、鳶に油揚げのような話にのるもんかということが、その愚かしさに気がつかない外務省の無能さ加減もよく理解できた。

と思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?

ー参考ー
 同書からの、上記記事該当箇所について、より正確に石橋湛山の思想をお伝えしたく、本文から、抜粋引用させていただきます。

■ 第四の柱ー”国際協調主義”

「人類社会から戦争を絶滅し、世界に恒久平和を実現させるには、ナショナリズムを絶滅する以外に方法はない」「人類は世界国家を造るべき段階にたっしている」
 「世界各国は連邦共和国の形を取り、今日の諸国家はその下に主権の大部分を移譲して、一種の地方自治体として存立することになろう」湛山は骨の髄まで連邦主義者であった.。彼の発言や行動は、この究極の理想主義から発していると考えればよく理解できる。…湛山は第一次世界大戦後の国際連盟はじめ”国際機関”の創設やその機能に重大な関心を示している。国際連盟にせよ国際連合にせよ、彼が特に関心を示したのは、国際機関による無法国に対する制裁措置の有効性であった。彼は、第一次世界大戦の終結する直前、ウイルソン米大統領が”国際連盟の創設”を提唱すると「国際連盟の中心事業」と題する論文でそれに全面的な賛意を表明し、その事業に強い期待を抱いた。そしてそれが失敗に終わったのは、当のアメリカが参加しなかったことと共に、無法国に対する制裁措置が機能しなかったためと受け止めた。だから、第二次世界大戦が終わる前年末、米ソ英中の四カ国によって採択された国際機構案にあらためて期待を抱いた。「…旧国際連盟にも世界平和の維持のため必要な際は、連盟が武力の発動を求めえる規定はあったが、もとより連盟自身に軍隊の備えがあったわけではない。従って、其の規定は有名無実の空文に過ぎなかった。ところが今度の『国家連合』(国際連合)に於いては、実はまだ私は其の点の詳細な規定を見ていないが、武力行使に就いて、相当有効の手段を講ずる取り決めをしているらしい。『国家連合』自身が軍隊をもつことは、勿論やはり不可能だが、併し必要の際には、何時でも即刻之を用い得る準備を行って置くと云うのである」                                                 われわれの地域社会でも、犯罪に対して警察が迅速に効果的に対応できれば、各家庭が無法者を撃退する武器を持つ必要がない。国際社会でも国際機関の制裁が有効に機能すれば、各主権国家は必要最小限の軍事力を保有すればよい。国連の集団安全保障、すなわち国連常設軍、国際警察軍のような機能が信頼を得れば、世界は全面軍縮の方向に向かうのだ。                                       湛山は追放が解除される前年の昭和25年、鳩山一郎と共に、訪日したダレス米国務長官に招かれて会談した。何とこの席でも彼はダレスに軍備全廃論を説き、アメリカが世界政府の創立に向けて動き出すよう進言した。このとき現実主義者のダレスはどんな顔をしただろうか。全く予期せぬ進言に目を白黒させただろう。湛山はいつ、いかなるときも臆面も無く理想主義の旗を振り続けた。

■「日本の平和」か「世界の平和」か

 日本が国連に加盟したのは、石橋湛山が自民党総裁になり首班指名を受けるほんの10日ばかりの間のことであった。当然のことながらはじめての記者会見で国連加盟に関する質問があった。その際、湛山はこう発言している。「国連に加盟して国際的に口を利くためには、義務を負わなければならない。国連の保護だけ要求して、協力はイヤだというのでは、日本は国際間に一人前に立ってゆくことはできません。国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられるし、また先ほどいった海外投資も一つの型だろう。とにかく国連に入った以上、その責任を果たすことは考えておかなければいけないと思います。」このように湛山は、国連の安全保障には、日本も加盟国の一員として実力部隊を送ることを考えていた。要するに国連によりかかるより、国連をささえることの重要性を指摘したのである。国連常設軍とはいかないまでも、1990年湾岸戦争のときの多国籍軍のようなものに、わが国が実力部隊をさんかさせることができるか。今もって憲法論争がある。湛山は首相就任直後、外国人記者向けにこう発言している。「日本は国連に加盟したが、どうすれば国連の一員としての責任を充分果たしえるかについて目下研究中である。国連の警察行動に協力するかどうかは、日本の憲法や国内事情を考慮しなければならず、今後よく検討したい」しかし、「研究」や「検討」の結果が出る前に石橋内閣は幕を閉じた。湛山のなすべき最重要の”決断”が不発に終わったのである。もしこのとき、石橋内閣が「日本は、現行の日本国憲法のもとで、国連が主導する軍事行動に参加することができるか」という難問に明確な結論を下していれば、その後の安全保障論議はかなり違った方向に進んでいただろう。名うてのハト派、アジア重視、国際協調派、そして野党や国民からの絶大な信頼。湛山の”決断”は、冷戦のさ中であっても国論の分裂を最小限にとどめたに違いない。しかし、思いがけない石橋湛山の退陣で、日本は湛山の目指す方向と大きく違う方向に踏み出した。総裁公選で湛山に敗れた岸信介は、石橋内閣に外相として入閣、湛山が倒れてからは臨時首相代理を務めた。岸は三月末に首相に就任すると、”日米新時代”を旗印に、日米安全保障条約の改定に乗り出したのである。それは岸が鳩山内閣以来抱き続けてきた宿志であった。しかし、岸は本能的に湛山の賛成を得られないと感じていたのか、外相当時もその宿志を湛山に打ち明けなかった。この時点で、日本は「国際協調」か「日米同盟」かの岐路に立ち、岸によって「日米同盟」が選ばれたのである。その後、湛山は猛然と岸外交に反抗するが、時既に遅かった。結局、岸と石橋の違いは、「日本の平和と安全」と「世界の平和と安全」のどちらを重視するかの違いだろう。岸は、国際社会がどうあろうと「日本の平和と安全」を確保するためには、防衛力の増強と日米同盟の強化が必要と考えた。しかし湛山は、「世界の平和と安全」を確保しなければ、戦争は決して終わらない。日本は先頭に立って、そのための外交努力をするべきだと考えたのだ。当時の厳しい冷戦環境を考えれば、岸路線の方が説得力があったのは当然であった。岸が「戦争に負けない体制」をつくろうとしたのに対し、湛山は「戦争が起きない体制」をつくることに心を砕いたのだ。「石橋さんに従う者は少ないのだから、安保を通す上において石橋さんの力をきにする必要はなかったんですよ」岸は後にそう語っている。岸には、湛山の考えは子供っぽい書生論にしか見えなかったのであろう。』

 注:「…」内は、著者引用による石橋湛山、岸信介の発言内容。

荒れすさびゆく「美しい国」―過疎化する山村!―

2006-09-28 23:45:05 | 田舎暮らし賛歌
9月28日(木)晴れ。日中暑し、朝夕は肌寒し。

 昨日の氷雨模様に変って今日は、一転の秋晴れ。出かけたくなった。スケッチの支度をして我が名馬、軽トラ、ロシナンテに飛び乗った。

 どこへ、行こうかな?このところ、山ばかり描いているので、そうだ渓流でも描いてみようかと思った。
 信州峠へ続く道の途中で、深い谷あいにひっそりと何軒か寄り添うが如き谷川沿いの集落がある。今日は、いつも気にはなっていても降りたことのない其処へ行ってみることにした。

 そして、其処へ降りてみると、道はまだまだ続いていた。その先どんな景色が展開するのだろうか?さらにそっちへ進んでみることとした。
 すると、まだ知らなかった小さな集落に出た。人気があまりない。ゴースト・ヴィレッジの観である。

■ 眼下に広がる山村集落

                   

                    

■  サルビアの花の向こうに、温かい風合いの土壁の土蔵があった。

                 

■ 廃屋が目立つ。途中で出会った、私よりも10年は先輩かと思われる畑帰りかのご老兄が教えてくれた。昔は、5、60戸あったのが、今は半数近くしか、居ないという。谷向こうには立派な神社があるそうだが、その秋祭りも絶えて久しいとか。

                    

■ 道の傍らの至るところに野仏が祀ってある。この地に住む人々のなべての命を愛惜しむ心の標(シルベ)であろうか。

                     

 先ほどであった方の話だと、この集落は天保年間に開かれたとのこと。自分で5代目だと語った。昔は、ちょっとした平場と水があれば、そこを開墾して暮らしていけたと。
 そうして、僅かな平場を見つけると、河原から石を拾ってきてそれを一つ一つ積み上げて耕地としたのだ。云わば、ここの田畑は、全てご先祖様の血と汗の賜物なのだ。それが、今、次々に見捨てられて、蔦が這い、雑草が茂って荒れ果てていく。
 何と勿体無いことではないだろうか?

 「美しい国」は、今、音も無くひっそりと荒れすさんでいこうとしている…。

 それは、そこに住む人々の心のあり方の象徴でもあるかのように。

 ところで、安倍お坊ちゃま宰相閣下は、この荒廃に楔をうち、どうやって山里の祭囃子を再びは、谷風にのせられることだろうか?

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

「介護保険被保険者証」をいただく!ー嗚呼、何と有難きかな、この国ー

2006-09-27 01:14:41 | 時事所感
 9月26日(火)雨。終日、肌寒し、暖房入れる。
 
 昨日、出先から戻ってきて、ポストを覗いたら、市役所からの小ぶりな封書が届いていた。一瞬ドキリとする。また、税金の倍増通知?先日の国民健康保険税の寝耳に水の急騰通知を貰って以来、すっかり行政不信アレルギーが身についた。

 恐る恐る開封してみると、あにはからんや、「介護保険被保険者証」なるものが出てきた。
添付の「介護保険被保険者証の交付について」、長寿福祉課長様差出の文書には、…の規定により、65歳になった方等に対し、-を交付します、とある。

 嗚呼、とうとうこの身も、正真正、掛け値なしの天下公認の隠居になった感慨ひとしおである。

 これには、どんなご利益があるのかと思いつつ、同封の手帳大のパンフレットを開くと、老後の安心をみんなで支えますー40歳以上の全員が加入しますー介護保険は、40歳以上の方全員が保険料を納めて、高齢者の暮らしをみんなで支えるという社会保険制度です、とある。

 そして、65歳以上の方は、「第1号被保険者」とのこと。
介護や支援が必要であると「認定」を受けた方は、サービスを利用できます。
40~64歳の方は「第2号被保険者」
介護保険で対象になる病気(特定疾病)が原因で介護が必要であると「認定」を受けた方は、サービスを利用できますと、あった。
  
 同じ被保険者に、1号、2号の区別があるなんて初めて知った。何でも細かく区分したがるお役人のお仕事である。結局、私のような正真正銘の隠居は、ガタがきたら即、何らかのサービスが受けられるが、まだ隠居に至らない方は、万一、運悪く何かの拍子で早めにガタがきても、それがお上の定める特定疾病とかに該当しないと、お世話できませんよ、ということらしい。

 それにしても、この制度、まことに有難いことである。私事で恐縮ながら今から6、7年前ご多分に漏れず、高齢で一人暮らしの母が認知症になり、その介護に男兄弟二人、共働きの上嫁姑の関係悪く、如何にしたものかと途方に暮れた。
丁度その頃、運良くこの介護保険が始まり、なんとかいろいろのサービスを利用させていただいて、早期退職もせずに、安らかな顔の母をみ送ることができた。
da
 日頃は、お上のなさることを、これまでならば赤提灯か床屋談義でバカだ、何だと、憂さ晴らししていたものを、このブログなるもののお陰で、いっぱしの政治評論家気分で、何だかんだとあげつらいはするものの、たまには感謝の一言も言わずばなるまいというものだ。

 世界人口60億とか。その中でこのような手厚い国家の施策の恩恵に浴せる国民がどれだけいることだろうか?

 後進国ということで、ODAだの何だの援助を受けながら、それが肝心要の必要な人々の手に渡らず、支配層の懐に吸い込まれていくような国。

 或いは、今や世界一のマンモス軍事帝国家の観ある、アメリカにおいてさえ、健康保険ですらも民間まかせで、おまけに世界一の高医療費国家とか。貧しい庶民は禄に医者になど滅多のことでかかれないという。世界一豊かであるべきはずの国家財政は、軍産複合体企業と石油利権確保の思惑で、白昼堂々、主権国家に押し付け民主主義の大ダンビラをかざしての殴りこみに、湯水のごとく垂れ流し、世界恐慌の悪夢すら予感させるような火の車。

 お隣、経済成長著しい、中国だって、健康保険はないらしい。この前、帰国残留孤児の方が、自身も生活保護で暮らす身の遣り繰り算段の結果、やっとの想いで病気の義母を見舞っても、腎臓透析一回一万円だかが払えなくて、どうしようもない辛さを涙ながらに訴えていた。地方の農民は、お上が何かで必要があって、土地を収用するにも1円の補償もないとか。その一方で、役人は、利権、汚職三昧とか。犯罪おこせば、何でも銃殺。世界に冠たる共産主義国家というに、この頃、何かと揶揄される人権派弁護士さんなんて、草の根分けて探してもいないのだ。

 そんなお国と比べたら、なんとこの国、よい国と、思えてくるとはこれいかにである。

 とは、言うものの、何だかこの頃、風向き怪しくて、昨日までは無料だった、介護器具が、今日からは有料になってどうしようと、言う嘆きの声も漏れ聞こえてくる。
我ら民草、庶民といえども高崎山のお猿さんではないのだ。朝三暮四は願い下げたいもの。

 さても、今日始まった安倍お坊ちゃま政権、お坊ちゃまなるが故の心もとなさか、要所要所にコケの生えた(?)「介護保険1号被保険者」閣下を、綺羅星のごとく鎮座おさせになって、「この美しい国」の手弱女(タオヤメ)のごとき物言わぬ民草を、一体どこへ連れいこうとなさるのか?

 それにしても「介護保険被保険者証」いただいてみると、この身はお蔭様で、山の熊とだって、足柄山の坂田の金時に負けず劣らず、組討する気概でいるほど元気であれば、何だかこそばゆいようで、「お前はもう、用なしだから、いつ横になってもいんだよ」と囁かれているような気もするというのは、山家の隠居の僻みだろうか?いや、そんなことを言っては、撥があたるといものか?

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

「政(マツリゴト)の若返り」に思う!

2006-09-24 02:15:39 | 時事所感
9月23日(日) 晴れなれども雲多し。涼、暑さ寒さも彼岸まで…。

 世はまさに、小泉政権から安倍政権へ看板換えの真っ最中。一体何が始まるのか。

 そんな中、私事で恐縮ながら、自身も本日、節目の歳を迎えた。これで晴れて高齢者のお仲間入りとなった。これで掛け値なしの隠居となった。
 節目には、山家の隠居は隠居なりに、やはりある感慨を覚える。
 それは、人の年齢と業績、とくに我ら庶民の生殺与奪の権を、お握りになり、政(マツリゴト)に携われる偉い方々についてだ。

 先ず思うのは、安倍政権になって、この国の政(マツリゴト)も随分と若返ったものだ。今後、何があってもこの流れだけは、確かなものとなるのでは…。

 これからは、総理大臣が60歳以上なんて聞くと、もうそれだけで、カビの生えた正月の鏡餅に見えてしまうのではなかろうか。

 しかし、若返ったと言われる、安部お坊ちゃま閣下にしても、もう50の大台をお超えになっている。この歳、安倍お坊ちゃま宰相生みの親とも言うべき、小泉閣下がお慕いになる、織田信長は、天下布武を目前に、惜しくも油断が災いして、本能寺の火炎の中に焼亡したのだ。

 そして今、ちょいと遡って、明治維新の元勲の生没年をあたってみると、伊藤博文は、1885年44歳の若さで、初代内閣総理大臣に就任するも、68歳(1909年)で安重根の凶弾に倒れている。
 次に維新の三傑の一人、大久保利通は39歳で参議、1873年43歳で初代内務卿(実質的には首相)になり、有司独裁とまで称され、1878年48歳の若さで、暗殺された。
 さらに維新最大の人気を博す、西郷隆盛は、奇しくも1877年の明日、9月24日に、西南戦争に敗れ、城山の露と消えている。時に50歳。
 ついでに三傑の一人、木戸孝允は、西郷と同じ1877年、5月、43歳の若さで病死している。

 こう見てみると、いかに時代相が違うとはいえ、僅かに100年余り前の人々が、若くして大業を為し、確固たる存在感を歴史に留めていることか、改めて驚く。
 そして、何をバカなを、承知で言わせていただけば、彼らの誰一人、東京帝国大学卒の秀才では無いのだ。全て自分の頭で考え、決断した方々ばかりだ。

 それに比べて、今の政治家の何と軽やかで、坂田三吉の名セリフ「吹けば飛ぶよな将棋の駒よー」だ。

 維新の英傑が、今のわが国の体たらくを見たら、何と慨嘆するだろうか?
欧米列強からいかに国家・民草を守り、対等の国家たらしめんことを願い、粉骨砕身、文字通り身命を賭して、官民ともに努力して、独立自存・世界の1等国にまでしたというのに。

 その子や孫どもは、帝大、陸大出の秀才揃いにも拘らず、父祖の大業過信して、先の計算も立たない大戦争をぼっぱじめた。
 国家・国民を奈落の底に突き落とし、塗炭の辛酸を舐めさせ、幾百万の大御宝(オオミタカラ、天皇の臣民)を異国の果てに投げ捨てた。
 挙句の果てが新爆弾の人体実験に、世界で初めて、二十万余の同胞が供された。
 ところが、その恨みも忘れ、敵(カタキ・米国)の袖に縋り寄り、暴虎(米帝国主義)の威を笠に着て、わが身の愚行を省みもせず、世界中に恥をさらし、軽蔑されることにも気づかない、愚かしさ、意気地なさの情けなさ。

 総理の年齢だけは、幾分、若くはなったものの、果たして中身はいかに。ますますおやりになることも、先の、前原前代表のごとく、おっちょこちょいの徳利がえりとならなきゃいいがと、転ばぬ先の、心配が先にたってはしまうというものだ。

と、思うこの頃さて皆様はいかがお思いでしょうか?

―追記―
 この記事を書くにあたり、我が杖とも頼む“ウィキペディア”で「西郷隆盛」調べたら、その事跡、人柄を知れば知るほど、懐かしく偲ばれた。
 明日、129年目の命日にあたり、西郷「南州翁遺訓」を引用しておく。
「敬天愛人―道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以って人を愛するなり。」

 上野の銅像、製作するにあたり写真等の生前の肖像が、一枚も無く、関係者は随分苦心したそうだ。一番困ったのは、その「唇」とのこと。西郷の唇は、何とも言えない魅力と、情愛に弱いところが同居していたという。

 ついでに、蛇足ながら、西郷の政敵、大久保利通の玄孫(クロマゴ、5代目)が、今回の対抗馬、麻生氏だとか。少しはご先祖にあやかってもらいたいものである。
 

「国家と国民」―その擬制の欺瞞性(?)について考える!―

2006-09-22 04:30:18 | 時事所感
9月21日(晴)日中、暑し。

  政権党、自民党新総裁にして今や次期内閣総理大臣閣下にご就任遊ばされた、安倍晋三氏の著書「美しい国へ」を、手にして、今、私は「国家」というものと、「国民」との関係について、思わず改めて、頬杖ついて考え込んでいる。

 そして思わずふと無関係に浮かんだイメージは、「黄の蝶の 尊(タット)かりけり 唯一頭」―蛾遊庵山人、駄句―ということである。

 つまり、私たち地上を這いずり回る一生物体としての人間を、神様の視点か何かに立って、天空から眺めた見た場合、一々にこれは、日本人、これは中国人、これはアメリカ人なんて区別がつくだろうかということである。
 
 私たちは、気が付いてみたら、勝手に戸籍登録されて、日本人という両親の慣れ親しんできたカテゴリーの中に本人の知らぬ間に組み込まれてきたにすぎないではないかということである。その結果として、本人の意思とは無関係に、「日本人」に色分けされてしまったのである。

 勿論、結果的には、私自身は、日本人とされたことに格別の異議を唱えるものでなんかは毛頭ない。否、今世界中の多くの国々の有様を見るにつけ、この日本人であることの有難さを色々の面で日々実感ささせられていることがどれだけ多いことだろうか。

 その意味で私は、十分に自分がどこの何方様か、赤の他人様に言われるまでもなく「愛国者」の一人だと確信するのである。

 だが、しかし、国家と国民の関係に立ち返って考えてみた場合、私は国家の一員として、何をしなければなならないのだろうか?国家は私に対して、一国民としてどのような程度の犠牲・義務を求めうる権限を有するのかということである。反対に国家は私に何をしてくれ、それはどこまで確かなものとして、私は期待し得るのか、このことである。

 先日の、NHKで放送のあった、満州開拓団の国家による棄民に均しい行為について、日本国家を相手にして訴訟を起こした、満州移民開拓残留孤児の内海氏たちの訴えに対して、司法は、国家の責任を認めなかった。
 さらにあの戦争で国家が国民に血の犠牲を求めてまで、約束した戦争の結果は何だったのか?

 そして、今、問題の国民年金保険制度への国民の素朴な不信感、これは同時に日本国家への不信感そのもではないだろうか?

 国家が国民に対して一種の不渡り手形を渡しておいて、いけしゃあしゃあとして、次なる犠牲を求める国家権力とは一体なにものなんだろうか?

 閑話休題、ここでふと思い出すのは家内の母の言葉である。「お上なんてあてにならない。」このことである。義母は「おしん」同様、禄な教育も受けることもなく人生の辛酸を舐めた。しかし、10人近い子を設けて育て上げ、夫の定年後は、ほそぼそ始めた布団打ち直しの内職仕事を発展させ、布団店を開き繁盛させた。そして老後は子供たちの世話になるどころか、いくばくかの遺産まで残して無くなった。国民年金保険の恩恵なんてほとんど蒙ることはなかった。文字通り、日本国家が無謀にも始めた戦争の結果、東京大空襲で最愛の長男を行方不明で失いこそすれ、何一つお上の世話になることなくその生涯を終えた。そして、その長男の死に対して、日本国家からは、悔や状の一つも、一円のお悔やみ料も支給されることは未だにない。

 現在の、国民年金保険の不安定さ、さらには先の大戦で貧しい国民の無知蒙昧(?)につけこんだかの満蒙開拓の夢売り詐欺に均しい国家施策(?)の犠牲者。彼らは、何故、泣き寝入りしなければならないのだろうか?

 国家と国民、そこに何の明示の契約書は存在しようもない。だが、だからといって、国家は国民に、何時も空手形でその場を誤魔化すことが許されるのだろうか?

 国家はしばしば、国民に対して、血の犠牲を求めるが、そんなことを何故当然のこととして国民に要求できるのだろうか?そして、国民は国家のそのような無体な要求をどこまで拒否できるのだろうか?
 さらには、国家の見込み違いに対して、どこまでその責任を追及しうるのか?
国家と国民、その間については、考えさせられることが真に、余りにも多すぎるのではなかろうか。

 そして、今こそ、この「国家と国民」という擬制のもつ欺瞞性について、一人の地球上に生を受けた人間として、生物として、改めて考えなおしてみる事は、決して無駄な暇つぶしにはならないのではないだろうか?

 私は、今、「美しい国へ」なんて乙女チックな甘ったるい語り口を耳にすると、あの破滅への小道へ誘い込むハメールーンの笛吹き男の笛の音に聞こえくるような気がするのだが、それは私の空耳だろうか?

「国家と国民」とが、真に心からなる信頼関係で結ばれる。そしてそれが世界中の国家で普遍的なものとなる、そんなことは果たして実現しうるのだろうか?
 若し、そのような関係を作り上げるには、私たちは何をすればいいのだろうか?

 と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

耐震強度偽装、姉歯裁判、「全部、私がやりました。」―その欺瞞(?)を問う!―

2006-09-20 00:01:54 | 時事所感
 9月19日(火) 晴れのち曇り。やや蒸し暑し。

 「耐震強度偽装」。昨年末から今年春にかけて、連日のようにメディアを賑わせ、一時は政界・官界をも巻き込み、どんな一大疑獄になるかと思いきや、年明け早々のライブドアショックで、あっという間に、引き幕の陰にかくれてしまった。

 そして、先日(9月6日)初公判が開かれてみれば、何のことはない、「全ては、私が金欲しさに、注文とりのためにやったことです。」と、姉歯被告の一人芝居に矮小化されていた。

 そこには、一時は議員辞職かとまでも報じられていた、大先生の影も形も掻き消えていた。今じゃ、あのお邪魔虫とか、何とか散々揶揄されたフェーザーだかカイザーだかの悪徳(?)大社長閣下も、被害者席(損害賠償請求、原告?)に席変えか、というどんでん返しだ。

 この頃、どなたのお尻も、猿芝居のお猿さんより、ぽんぽんこ、ひょいひょい、あっちの杭からこっちの杭へ、いくら軽くはなったとはいえ、こんな茶番が、俄かに信じられるだろうか?

 どうせ、姉歯被告が、いっそこの際全部の罪を被ったところで、たかだか罰金50万円だか、何だか、たとえ懲役くらったところで、執行猶予か実刑だとて何年か?

 「全ては、私が…」何て、いまさら言った所で、国民注視の万天下の国会でも、平気で偽証する人間が、まして、大地震で他人様のマンションが、何軒ぶっつぶれようが、知ったこっちゃないとの、手前勝手なニヒルな人間の言葉なんかが、本音だなんて、誰が信じられるだろうか?

 それよりも、関係者ご一同様からの監獄へ入る前か後かは、分からねど、大枚カンパのお約束あったとしても不思議じゃなかろか?下司の勘ぐりアングレラ!だ。

 安く作って高く売る!。安く作るにゃ、材料ケチって、下請け叩いて、言うこと聞かなきゃ契約切るぞと、脅かせば、それで十分。「法律違反をしろ」なんて、言わなくたって、阿吽の呼吸でいかようにも、なろうというもの。

 それを、後から、乾いた畳みを、いくら叩いてみたところで、「はいそうでございます」と、尻尾を出すようなお人よしのお仲間同士ではあるまいものよ、というものだ。

 それにしても、こんな手合いの罠にはまった方々は、一体、誰を訴えればいいのだろうか?

 人が、人生の大半をかける住まい作り、それを商売とするものに瑕疵担保責任も満足に果たせない輩に許すなんてことが、先ず間違いではなかろうか。
 さらに、建築確認が下りなければ建物が建てられないというのであれば、その審査の権限をもち、そうした仕組みを作っている特別行政庁とか言う国なり自治体が、第一義的に責任を負うべきではなかろうか?

 後は、そんな「お上」の目を誤魔化すような、狡(コス)い輩は、それこそ国家権力でも国策捜査でも存分に咬まして、きついお灸を据えるが筋ではなかろうか?
でなければ、一体我々は誰を頼りに、何を信じて暮らしていけばいいのだろうか?
これではまるで、ギャング横行、西部の荒野を、丸腰でいくようなものではなかろうか?

 そして、正義の味方、あの颯爽として、音吐朗々、○研、○村大狐(?)代表を、震えあがらせた平成の鞍馬天狗かと見た「馬渕議員」は、この頃この問題について、とんとご発言を耳にしないが、どうされているのだろうか?

と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

 <参 照>
 一建築士の犯行で終わるのか、姉歯被告の初公判 [週刊nikkeibp.jp 09/19]
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ブログ「蛾遊庵徒然草」、おかげさまで1年がたちました。

2006-09-18 00:48:40 | フォート・エッセイ
9月17日(日)晴れのち曇り。

 久しぶりに、その辺を一走りしてみたくなった。朝のうちはいい天気だったので、これは予報が外れたかなと思っていたら、午後になったら西の空からどんどん雲がひろがってきた。やはり、予報どおり台風が接近してくる気配だ。

■ そして、季節は、コスモス、薄と、確実に秋そのものである。
 
             

■ 台風を前に、田んぼでは稲刈りが始まっていた。たわわに稔った稲穂。私たちの命の糧だ。お百姓さんのご苦労を思う。そこには、若い人の姿は、見当たらない。この先、どうなっていくのだろうか?豊かな稲穂の間に休耕田が、荒れた顔を覗かせる。

 

 ◆◆◆◆

 そして、今日、気がついてみたら、このブログをアップして、丁度1年が経っていた。気が変わり易い私としては、よく続いた。
 独りで居るのが好きで、移り住んだ山里だが、さすがに知人とも久しくあうことも無い生活が続くと、人恋しくなった。
 日々の生活で、主としてはTV、新聞、雑誌で世の動きを知れば、やはり、脳細胞が刺激されて、思わず「何だ!これは?」と漏らしたくなる。
 そして、その思いに誰かの相槌なり、「そうじゃあないよ」との木霊(コダマ)が欲しくなった。
 最初は、まったくいただけなかった、コメントがこの頃はボチボチといただけるようになった。コメントをクリックするときは、胸がドキドキする。
 賛意、共感の内容だと正直嬉しくなる。反対に、思いもよらないあさっての方からの冷や水だったりすると、シュンとなって落ち込んだ気分になる。
 朝一番、PCを立ち上げて、最初に見るのは、アクセス解析である。昨日は、何件ぐらいアクセスがあったか、どの記事がよく読んでいただけたか、ドキドキである。
 こんなことが励みになって、あっという間に1年が過ぎた。

 お目に止めていただいて、アクセスしてくださる方々に、改めて心からお礼申します。

 それにしても、この1年の、何と早く慌ただしく、変化に満ちたことだったか。
 私の、去年の今日の記事は、民主党、前原新代表が、たった2票差で菅候補を破ったことに、感動して大いなるエールを送った。
 
 その、前原前代表が半年たつか経たないかであっというまに若き偶像の座から、転がり落ちた。同時に、時代の寵児ともてはやされた、ホリエモン氏は、ヒルズの豪邸から引きづり降ろされて、小菅行き。

 その手をとって、高々と、「我が同士よ、兄弟よ」と聴衆の面前で上げて見せた、竹中、小泉大参謀大臣閣下も、殿に殉じて辞職、政界引退とか。

 源平の昔、平家と源氏の交代、今見る心地するのは私だけだろうか?
 はてさて、次期宰相の名も高い、安倍お坊ちゃまは、さて来年の今頃は、どこでどうしていられるか?

 と思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

―オウム・松本被告、死刑が確定―に思う。

2006-09-15 22:54:57 | 時事所感
9月15日(金) 曇り、一時薄日射す。

 夕方、ヤフーのニュースで、下記の記事を見た。

『オウム・松本被告、死刑が確定

 地下鉄・松本両サリン事件や坂本堤弁護士一家殺害など13事件で殺人罪などに問われ、1審で死刑判決を受けたオウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫被告(51)について、最高裁第3小法廷(堀籠幸男裁判長)は15日、控訴趣意書の未提出を理由に控訴を棄却した東京高裁決定を支持、弁護側の特別抗告を棄却する決定をした。
 これにより、初公判から10年5か月に及んだ松本裁判は、控訴審で一度も公判が開かれないまま終結し、松本被告の死刑が確定した。
 松本被告の裁判は、1996年4月に東京地裁で初公判が開かれ、2004年2月、死刑判決が言い渡された。控訴審では、弁護人が「被告に訴訟能力はない」と主張して控訴趣意書を提出期限(昨年8月末)までに提出しなかったため、東京高裁は訴訟能力を判断するための精神鑑定を行った上で、今年3月、控訴棄却を決定。弁護側の異議申し立ても同高裁が退けたため、弁護側が最高裁に特別抗告していた。(読売新聞) - 9月15日16時10分更新』

 ◆◆◆◆

 松本サリン事件、ようやく首魁が断罪された!10年余の歳月が流れたのだ。無数の状況証拠、証言がありながら、最終的な断罪にいたるまでに、かくも丁寧な裁判がなされる、世界一の人権尊重法治国家ではないか。

 しかし、これでもまだ目が覚めないマインドコントロールにかかったままの信者が多数居るのだ。一人の男の呪縛にがんじがらめになってしまう、人間の心の不条理。そして、人間ロボットの如く何の躊躇いもなく平気で殺人を犯してしまう。否、彼らにはそもそも犯すなんて意識すらなかったのだろう。

 だが、これは、平成の一見平和な、日常社会の中で起こったから、その異常さが際立って、我々の眼にはっきりと見えただけなのではなかったか。
 その、僅か40年余り前には、世界各地で、はるかに大規模に様々の異形の首魁たちによって、ホロコーストを始めとする戦争という名の虐殺がくりひろげられたではないか。そして今もなお、聖戦、対テロの名の下に。 

 先日のNHKのクローズアップ現代だかで、未だに1000人以上の信者が、首魁の事件への無関与を信じて、日夜修行に励んでいると報じていた。
 その際の女性信者へのインタビューが耳に残っている。信者になる前は、大きな会社のOLとして経済的には恵まれていた。今はその時に比べればはるかに収入は少ないが、今の生活の方が遥かに幸せだと語っていた。

 私の知人の弟さんは、たまたま、あの地下鉄に乗り合わせて現場にいてガスを僅かに吸ったと言う。しかし、その時は何でも無かったのが、その後、徐々に体調の異常を訴えるようになり、数年前、肺がんかなにかで亡くなったという。彼は、地下鉄サリン事件に遭うまでは、極めて元気な働き者だったそうだ。

 私は、その話を聴いた瞬間、俄かには信じがたい気がした。「それで、警察とかには、届けなかったのですか?」と訊いた。
 だが、自身が高齢の彼女は淡々と「時間もたっていたし、そうだと証明するのも難しいし、しょうがなかったのよ」と答えた。私は、唯、唖然とするほかなかった。
 無力な者は、被害の声も上げ得ないのだ。

 そして思ったのは、あの場に居合わせた人々は、多かったに違いない。その中には、このようなケースもまだまだあるのではないだろうか、と。

 首魁の指示で、大量殺人を実行してしまった、かっての部下たちの、ほとんどは、自分たちが、何故あんなことをしてしまったかと、今、悔やみきれない気持ちでいるという。

 事件は、一応落着したかに見えるが、何ともやりきれない思いがする。そして未だに後遺症で苦しんで居られる方も多いのだ。

 あらためて、この事件で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申します。

NHK・HV特集「満蒙開拓団はこうして送られた~“開拓の父”東宮大佐の満州日記」を視る。

2006-09-14 18:11:41 | 時事所感
9月13日(水) 終日、秋雨。日中16度、肌寒し。

 夜、9時から10時50分、番組を視終わって、何とも言えないやりきれない思いに沈んだ。国家による、棄民。国策の大義名分の下での、大ペテン、無責任さである。

 NHKの番組紹介記事には、
『これまで全体像が描かれたことのなかった満蒙開拓団を、新資料によって行政側そして開拓民の側から立体的に描き、日中の間に横たわる重い年月の意味を問い直す。』とあった。

 ここで、新資料とあるのは、NHK総合8月11日(金)に放送された、
『満蒙開拓団はこうして送られた~眠っていた関東軍将校の資料~
今から75年前の1931年、満州事変勃発。その翌年から第一次満蒙開拓団の移住が始まる。それは、構成員が銃砲を装備した武装開拓団だった。ソ連との国境付近に配置された防衛軍の役割も担っていたのである。
 この派遣計画は、「満蒙開拓の父」といわれた関東軍将校東宮鉄男らを中心に練られた。その東宮の移民計画書や直筆の日記など、貴重な資料の公開が遺族から許可された。王道楽土や五族協和、夢の別天地の名のもと、満州に27万人が渡り、中国残留孤児など多くの悲劇を生んだ開拓団の移住は、日本の国策としてどのように計画され、どのように実行に移されたのだろうか。
 当時の政府と軍の計画決定の過程を新資料と証言で検証していく。(※同番組紹介文)』のことらしい。

 なお、この番組は、8月10日(木)放送された、『NHK、HV特集「取り残された民衆」―元関東軍兵士と開拓団家族の証言―』に関連した内容であった。私は、その感想を8月11日付けでアップした。それで、今回も目が離せないと思って視た。

■ 画面は、ソ満国境近くの最前線のハタホ開拓団で唯一人生き残り、残留孤児となって帰国した内海忠志氏(68歳)の当時の回想で始まった。

 氏は、その開拓団で生まれ育ち、昭和20年8月9日、ソ連軍の急襲に遭い、急遽逃げる途上、ソ連軍の猛攻の前、脱出を諦め集団自決することとなったという。数人の日本兵に母は胸を打ちぬかれ、兄弟は銃剣で刺されその場で死んだ。氏も同様に頭を銃剣で刺されたが、ショックで気を失った。気がついたら、母の胸の下で、姉と二人だけ生きていた。他の460人以上のほとんどの人々は、皆、その場で死んだという。(痲山事件)

 残された、姉、弟は近くの畑からトウモロコシを盗んで食べ、夜は、母の死体の傍で眠って数日を過ごした。そこへ、日本人の遺留品を探しに来た、貧しい中国人に夫婦に保護された。その際、姉とは生き別れになったまま、今もその消息は不明という。
 養父母は、実の娘がありながら、中学にまで進学させてくれた。しかし実子の義姉がいかないのに養子の自分だけが中学で勉強するのが済まなくて、たった3ヶ月で退学した。その後は電気工の資格をとって生活っしてきた。

 自分が、日本人の子であることは知ってはいた。何とか自分のルーツをさがしたかった。しかし、養父母を憚ってできなかった。45歳の時漸く自分たち家族のことを知っていた人に巡り合い、父が日本に帰国して生きていることを知った。

 日本政府に帰国できるよう申し出たが、当時、残留孤児といえども外国人同様難民扱いで、日本での身元保証人がいなくては駄目だという。実の父は、既に別の家庭をもっていた。その平安を乱したくなかった。

 1984年漸く父と再会し、1987年(S62)永住帰国が適った。48歳、それから就職し60歳で定年。現在厚生年金が月5万5千円とか。僅かの退職金は、養父母への最後の見舞いで使い果たした。この先どうやって暮らしていけというのか。
 今、同様の境遇の仲間と、日本国政府の謝罪と、生活保障を求めて裁判を起こしている。

 昨年、大阪地裁でその判決が出た。判決は、日本政府の非は認めた。しかし、保障については、あの戦争の被害者は、満州開拓移民ばかりではない。皆がそれぞれに被害を受けたのだ。国にその被害を補償する義務はないとのことだった。

 だが、内海さんたちは納得できない。日本にいた人たちは、戦後お互いにいろいろな形で助け合い、慰めあって暮らすことができた。自分たちは、20年8月31日付け、政府声明で、中国在留日本人は、現地に留まり忍苦の耐えてくれと告げられ、故意に敵国内に置き去りにされてきたのであると。
 
 この裁判の原告支援者に、菅原幸助という元関東軍憲兵だった方が居る。氏は、ソ連軍侵攻を聞いた関東軍が、高級将校の家族のみを乗せた列車の護衛を命ぜられ、その一行とともにいち早く日本に帰還してきた。だが、その際、奉天(瀋陽)駅には、避難民が群れていた。皆、列車に乗せてくれと叫ぶ。だが、窓を遮蔽した列車は、そんな多くの一般人を置きざりにして東へ走った。氏は、その置いてきぼりにした人々のことを思うと耐えられず、せめてもの罪滅ぼしの気持ちで今、裁判を支援しているという。

 では、いったい誰がこの棄民、満州移民開拓を考えたのか?

 画面は、群馬県前橋市の旧家の土蔵に転じた。そこから取り出された数冊の日誌にその全貌の端緒が、長く秘められきたのだ。

 その日記の著者、東宮(トウミヤ)鉄男、「満蒙開拓の父」といわれた関東軍将校がその人である。
 
 彼は、1920年代末、ソ満国境の守備隊勤務を命じられるや、どうしたら、対峙して南進を目論むソ連軍と、中国東北部に跋扈する軍閥や匪賊から、恒久的に国境を守れるかを必死に考えた。そこで、ヒントを得たのが、知り合ったソ連兵から聞かされたコサック屯田兵のことだった。

 武装した、農民を国境に配置し、開拓と同時に国境の守りの一端を担わせる、このことだ。
 当時、日本は不況のさなか、東北では娘が売られ、農家の次、三男は耕す田畑も無く行き場に困っていた。東大の農学者、加藤教授もこの問題の対策に苦慮していた。彼は、寒冷地の耕作の権威だった。東宮大尉と加藤教授とが意気投合した。二人が喧々諤々して満州移民計画を立案し、紆余曲折を経て関東軍、政府の承認のもと、昭和7年8月30日、賛成多数で国策と決定した。

 計画の概要とは、500人の青年を一団とし、農作業と軍事教練を施し、ソ満国境地域に入植させることだった。それは、無限の希望に満ちた新天地のはずだった。
 だが、現地に連れていかれた彼らは、それが甘い諫言の誘い言葉だったことに直ぐに気づかされた。そこは、農業のできる限界に近い極寒の地だった。10月直ぐに冬がきた。粗衣粗食。重労働。しかも与えられた土地は、中国人の僅かな耕地を二束三文(一戸当たり現在価格で2万円とか)で強制的に買い叩き、収奪した土地だった。
 しかも、彼らを周囲の匪賊から連絡を絶つように囲い込むように日本人入植者を配置した。行き場を失った、彼らを小作人にとした。

 入植後。3ヶ月で500人のうち、300人が病気やストレスになり、強姦、強奪事件が頻発し終に幹部追放の決議文が関東軍に送られた。
 事態の深刻さに驚いた、関東軍では、当時、世界各地の移民問題に精通していた、永田氏を招聘して現地を視察、提言させた。

 彼は、18項目80頁に及ぶ報告書で、満州移民計画の杜撰さを指摘した。彼が、強調したのは中国人との融和策であった。病院や耕作機器、肥料工場の設置の必要性も訴えた。
 だが、それは、東宮等関東軍幹部の聞き入れるところではなかった。永田氏は匙を投げて去った。
 そうした中で、昭和11年、計画は拡大され、満州国の人口の1割を日本人とすることを目指して、100万戸、今後20年間で500万人を移住させる計画が策定された。日本内地の1.7倍の耕地面積の確保をめざした。

 昭和11年2月26日、所謂2.26事件の反乱決起は、軍部支配を決定的なものとした。その後の広田弘毅内閣は、国防内閣となった。

 昭和12年7月日中戦争勃発。満州への移住規模拡大が図られた。同年、青少年義勇隊が全国規模で徴募された。これは、14歳から19歳の青少年を満州に銃と鍬を持たせて、入植させようとするものであった。
 農村部の学校に文部省から通達が出され、校長には各校当り何名とノルマが課せられた。
 だが、海も見たことも無い、長野などの山間の農村の親にとって、見当もつかない僻遠の地に可愛いわが子を、はいどうぞ差し出すものはいなかった。
すると、勉強のできない、次三男で健康だけが取り柄という子に目がつけられ、うんというまで毎日、登校すると校長室に立たされたという。
 教師も各家庭を回ってきてどうして行かないのか責める始末。
 これは、誇張では無く、そうして行かされて、からくも命からがら帰ってきた老人二人が、両角(モロヅク)中隊の碑(同村から徴募されて亡くなった仲間の名を刻んだ慰霊碑)を擦りながら、訥々と語った。

 こうして、終戦までに8万人の青少年が送りこまれたのである。そして三人に一人が亡くなったという。
 大陸花嫁として、写真だけの見合いで満州の地に送り込まれた若い女性たち。
合計約27万人が送り込まれ、そして置き去り同様に関東軍、ひいては日本国家から捨てられたのである。その内の約8万人が亡くなった。帰国できた残留孤児2500人。今、なお不明者いくたりか?

 私たちは、この愚挙、国家の暴挙を決して忘れるべきではないだろう。国家とは、「五族共和・王道楽土の別天地建設」をスローガンとした、このような無責任な施策、行為を、合法な国家政策の名の下に、本来は国民の平和と福祉に資すべきシステムであるにも拘らず、平然と行って、その結果には我関せずの知らぬ顔の半兵衛を決め込むこともあるのだということをである。

 最後に、「満蒙開拓の父、東宮鉄男」は、昭和13年8月、転属を命ぜられたに中国戦線で戦死した。彼は、200年も続く旧家の出として、農村の疲弊を目にし、彼なりに一生懸命その救済策を研究したのだろう。そのために、中国語を学び、匪賊の横行する危険地域に単身潜入し、現地状況の詳細な把握に努めている。しかし、惜しむらくは、その努力が身内、同胞の利益にしか眼中になく、現地の中国人が同じ人間であることを忘れた、視野狭窄の陥穽に陥っていることを自覚できなかったところに、自他ともに悲劇の淵に落とし込んだ要因があったかに思える。

 東宮鉄男大佐、彼の葬儀は盛大を極めた。その記帳者の中には、東条英機の名とともに、満州国建国こそわが生涯の傑作と回顧、豪語したと言う後のA級戦犯にして、内閣総理大臣、岸信介の署名もあった。
 その孫君が、今、まさに次期宰相の座を前にして、「私は祖父を尊敬します。美しい日本を作ります。そのためには命も惜しみません。皆さん私たちの国、この日本を愛しましょう」と、の給う。
この言葉を、私たちは、どのような思いで受け止めるべきだろうか。

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

― 参 考 ―
● 満蒙開拓団:ja.wikipedia.org/wiki/満蒙開拓団
ja.wikipedia.org/wiki/満蒙開拓団
● 内海忠志氏の裁判での意見陳述書:www.jicl.jp/now/saiban/pdf/chinjutu2.pdf
www.jicl.jp/now/saiban/pdf/chinjutu2.pdf

NHK「世界の母さんニッポンに生きる(2)を視る」ーおんなとおとこに国境なし!ー

2006-09-12 03:47:04 | 日常雑感
9月11日(月)曇り後雨。 涼。

  夜、何気なく番組予告をみて、面白そうだなと思って、視た。 良い番組だった。

 先ずは、以下、NHK総合、番組紹介から…。

『プレミアム10 「世界の母さんニッポンに生きる!」(2)

午後10・00~11・30
 ここ数年結婚する夫婦の20組に1組は国際結婚。実に15分に1組のペースで国際結婚カップルが誕生している。その中でも特に、家事や子育て、仕事やグループ活動と、日々精力的に暮らす外国人妻たちのバイタリティーは目を見張るものがある。
 「世界の母さんニッポンに生きる」は、日本で暮らす外国人妻たちの明るく前向きな生き方を紹介する番組である。前回は、30代から40代の主婦層から大きな反響をもらった。2回目の今回も、日本全国から探した4人のたくましい“肝っ玉母さん”が登場する。
 フィリピン人母さん二瓶マリーさんは、東京の江戸前寿司店のおかみさんとして人気者、タンザニア人母さん小林フィディアさんは、アフリカから雪国・長野のりんご農家に嫁いできた。ブラジル人母さん奥山ルジミラマリさんは、滋賀県の和太鼓グループに、親子で参加、ロシア人母さん久郷アンナさんは、国境と20歳の年齢差を乗り越えて結ばれ、しゅうとめと新しい料理の研究に励んでいる。
 いずれも日本人の夫や家族と固い絆で結ばれて、地域の人々と触れ合う、元気な外国人女性である。
 彼女たちをリポートするのは、パックンマックン、河島あみると芳本美代子の4人。ゲストには、西川ヘレンを迎え、イギリス人母さん吉村ビクトリアさん自慢のイギリス家庭料理も紹介する。
 言葉や文化の違いを乗り越え、家庭や地域の大黒柱となった母さんたちの姿を通して、元気と勇気と生きるためのヒントを伝える。』

■ 視終わっての山家の隠居の感想。

 この番組を視て、改めて腹の底から実感したのは、世界中、女(おんな)と男(おとこ)の間には、国境なんて無いんだな、このことであった。

 愛国心だ、国境だ、戦争だ、なんて何千回、死に直しても、バカの一つ覚えを金科玉条に大口開けて頭に血を上らせて、聖戦だ、ジハードだなどと、叫んでいるのは、男ばかりだということである。
 思えば、この国でも、「久米の子らはハジカミ噛みて撃(ウ)ちてしやまん」は、万葉の昔からだ。
 もっとも、女でもライスとか鉄の女と呼ばれたサッチャーなんて例外も偶には出てくるが。

 一般論として、女性は物の見方が狭く、男性は広いと云われているが、どうもそうとばかりとはいえないようだ。
 むしろ、反対に、女は、優しく心が広いが、男は、喧嘩好きで心が狭いという方が、妥当ではなかろうか。

 遠くアフリカはタンザニアから来た小林フィディアさん。夫が青年海外協力隊の一員としてタンザニアで活動中、現地で伝染病に罹り生死の境にあるとき、献身的に看護してくれたのが縁で、結ばれた。アフリカと日本、その日本の中でも雪深い長野県は飯綱、まさに肌の色から、言葉は勿論、生活風習まで天と地ほども傍目には違って見えるが、二人の愛はそれを乗り越えて、しっかりと根付いているのだ。

 その間、つらいことは一杯あった。あるお店では、入ることさえ拒まれる。入れてはくれても、品物に触らないでくれといわれる。いちいち店に入る前に「入ってもいいでしょうか?」と断らねばならない。アフリカへ何度も帰ろうかと思った。

 今では、そんな地域社会に自分の方からどんどん飛び込んでいった結果、地元のレストランで人気者のウエイトレスとして、彼女の担当するテーブルには、笑いがたえない。彼女目当てのお客も多い。そんなお客は、彼女の、笑顔の陰の涙は知らない。渥美清の至芸の陰の命を削った涙のように。
 隣近所の、お爺ちゃんお婆ちゃんからも、頼りにされ、可愛がられている。
その彼女が心を痛めるのは、故国タンザニアでのエイズの蔓延で苦しむ子供たちのことだ。
 彼女の母も故国の自宅を解放して、親を失った子供たちを何人も引き取って面倒をみている。彼女は故国で、高校卒業後に、養護施設で働いていた。子供、身体の不自由な人、老人、みんな同じに大切だという。

 そのために、日本にいる自分も何かしたいと、夫の協力を得て、アフリカのエイズを支援する日本長野支部を立ち上げた。
 彼女は、目に涙をためて心からかたった。「この日本からの贈り物として、アフリカへ届けたい。そして日本とアフリカとの理解を深めあいたい」と。
「人間、みんな同じ、心は一つ」とタンザニア語で語った言葉が、こちらの胸深くおちた。

 冒頭に紹介された、フィリッピンからのすし店のおかみさんこと、二瓶マリーさんも、自分の子供が大病を患った際、周囲の日本人から献血を受けて命が助かったのを機に、故国フィリッピンでの献血活動に献身的な活動をしている。先年、アヨロ大統領から国民栄誉賞を授与された。
 人から受けた愛は、誰かにまたお返しするのだという。彼女も語った。日本とフィリッピンのコミュニケーションを深めたいと。

 ロシア人の久郷アンナさんは、ハバロスクワ大学で法律を勉強し、弁護士になるところを、たまたま日本文化の勉強で来日した。そのとき、寺院仏閣を案内してくれた20歳も年上の美術教師の久郷氏と意気投合し、会って8ヶ月後には結婚したと。今は、夫の実家で義母との三人暮らし。空いていた、自宅一階の店舗を、自分で改装し手作りのロシア料理店で繁盛している。店の什器備品は、近所の人の持ち込みという。
今、二世誕生を心待ちとか。生まれた赤ちゃんは、自分のウエディングドレスで作った産着に包(クル)むのが、故国ロシアでの生まれてきた子の幸せを願う仕来り。何と、優しい話ではないか。これでは母殺し、子殺しなんて起きっこないに違いない。

 九州大分では、イギリス人の吉村ビクトリアさん。夫君がお寺の住職ということで、自分も勉強して僧職の資格を取り、袈裟を着けての副住職。立派な金髪、有髪のお坊様である。これでは英国国教教会の方はどうなったのであろうか?愛のためには改宗も厭わないということだろうか?

 どの人たちを見ても、肌と髪が違うだけで、周囲への心遣いや優しさ、働きぶり、家庭の切り盛り、さらには自分の故国との絆を大切にする心、素晴らしい奥様たちばかりとお見受けした。
 そして彼女たちの適応力のなんと強靭で柔軟なことか。

 同時に、このような素晴らしいお嫁さんを、世界中から連れてきた旦那たちも、我が同胞としてなんと頼もし句、誇らしいことではないか。
 この立派な男たちは、世界中の人に対して、日本人だ、何人だなんて、ちっぽけでケチな了見など微塵もなくて、堂々と世間の風圧に立ちはだかって、自分の選んだ妻子を守り抜く、気概に満ちたこれぞ男の中の男である。

 これを、視ると、日本を一度、破滅の淵に引っ張り込んだ片棒担ぎのお孫君が、「私は祖父を尊敬しています」と、抜け抜けとの給い、“美しい国へ”―自信と誇りのもてる日本へ―なんて、時代錯誤もいい加減にしてもらいたい。

 私の大好きな名優、アンソニークイン演ずる「その男、ゾルバ」だったか?人間には、二種類、悪い奴と良い奴がいるだけだと。けだし名言ではないか。

国民には、愛国心を説いて、命差し出せ。財産差し出せ。散々出させた挙句の果ての大博打。命は二束三文、虫けらのごとく、北の大地に、南のジャングル、海の藻屑と捨てさせて、号令かけた奴らばかりが生き残り、甘い汁吸っての金襴玉楼夢枕。誰がその手に載るものか。

 靖国、靖国、そうヤスヤスとは言ってもらいたくもないもの。あの戦争で、少しは死者に思い致すなら、世界中の人間が、肌や髪の毛色に囚われず、仲良く暮らせる世の中に、少しでも近づけようとするが供養であるまいか?

と、思うこの頃、さて皆様はいかがお思いでしょうか?

ー追記ー

 世の諸賢様方には、ユメユメ、ブレーメンの笛吹き男の甘い音色「アイコクシン、アイコクシン、…」なんかに惹かれませんよう、老爺心ながら一言、蛇足をつけさせていただきます。