6月25日(水)曇り一時晴れ、暑し。
ここのところ珍しく拙ブログへのアクセスが増えている。といったところで百そこそこに過ぎないが…。アクセス元を辿ると「さるさる日記―佐藤立志のマスコミ日記」からである。そこに、以前、私がこの日記について書いた記事から跳んでこられるようである。
そこで初めて、佐藤立志氏がつい先日、亡くなられていたことを知った。亡くなられる直前の「篤姫」についての記事は読んでいた。成る程と、いつもどおり感心して読んだばかりである。
このところ入院されていて相当具合が悪そうだとの印象はあった。しかし、以前にもそう書かれていたあとで、又元のように元気な記事が続いたので、今度もそのような経過になるものと期待していた。
ところが今回の下記の記事である。
『
■2008/06/22 (日) 佐藤立志氏逝去
6月19日午前9時27分、保険評論家の佐藤立志さんが東京都内の病院でお亡くなりになりました。55歳。葬儀は近親者で行われました。
常に軸足を弱者においた報道姿勢には定評があり、各マスコミ媒体でもご活躍されました。
6月20日付の同日記は、危篤状態に陥る前に佐藤さんが書き残したメモです。遺品のなかから見つかり、ご遺族の方から託され更新しました。
弱者救済――保険評論家、いち個人として、この信念を貫かれた佐藤さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌。(友人一同)』
亡くなられた年齢の若さに驚いた。毎回の記事からはもう少し年配の方かと想像していた。
同感させられる記事が多かった。読むのが楽しみなブログの一つだった。惜しまれる。
私がブログなるものを始めて2年余りだが、結構これは面白いと思っているブログが何やかや姿を消していくのに遭う。
「新じねん」さんのことも未だに忘れられない。厳しい日々の日常の中で内容の濃いブログだった。こちらも若い死だった。
ブログの著者は匿名が多くそのプロフィールは記事を通じて、自ずから伝わってくるものでしかない。
だが、不思議と気に入って毎日のように目にしていると、なんともいえない親近感を感じるようになってしまうブログがいくつかある。
そんな一つが、ある日、突然記事が途絶えて、「おや?」っと、思っていると、近親者からの訃報記事が掲載される。何とも言えない哀惜の情に囚われてしまう。
そして、死者は当然もう二度とこの世界について、語ることはない。その事実に、生と死を分ける当然ながらの断絶を改めて知る。
反面、そうであるならば、少々何を言ってみたところでと虚しい気にもなってくる。
だがそう言いつつも、誰かに何かを言ってみたくなる。それが、私が今生きていると言う事だろうかとも思ってみる。
改めて佐藤立志氏のご冥福をお祈り申します。興味深い記事ありがとうございました。
ここのところ珍しく拙ブログへのアクセスが増えている。といったところで百そこそこに過ぎないが…。アクセス元を辿ると「さるさる日記―佐藤立志のマスコミ日記」からである。そこに、以前、私がこの日記について書いた記事から跳んでこられるようである。
そこで初めて、佐藤立志氏がつい先日、亡くなられていたことを知った。亡くなられる直前の「篤姫」についての記事は読んでいた。成る程と、いつもどおり感心して読んだばかりである。
このところ入院されていて相当具合が悪そうだとの印象はあった。しかし、以前にもそう書かれていたあとで、又元のように元気な記事が続いたので、今度もそのような経過になるものと期待していた。
ところが今回の下記の記事である。
『
■2008/06/22 (日) 佐藤立志氏逝去
6月19日午前9時27分、保険評論家の佐藤立志さんが東京都内の病院でお亡くなりになりました。55歳。葬儀は近親者で行われました。
常に軸足を弱者においた報道姿勢には定評があり、各マスコミ媒体でもご活躍されました。
6月20日付の同日記は、危篤状態に陥る前に佐藤さんが書き残したメモです。遺品のなかから見つかり、ご遺族の方から託され更新しました。
弱者救済――保険評論家、いち個人として、この信念を貫かれた佐藤さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌。(友人一同)』
亡くなられた年齢の若さに驚いた。毎回の記事からはもう少し年配の方かと想像していた。
同感させられる記事が多かった。読むのが楽しみなブログの一つだった。惜しまれる。
私がブログなるものを始めて2年余りだが、結構これは面白いと思っているブログが何やかや姿を消していくのに遭う。
「新じねん」さんのことも未だに忘れられない。厳しい日々の日常の中で内容の濃いブログだった。こちらも若い死だった。
ブログの著者は匿名が多くそのプロフィールは記事を通じて、自ずから伝わってくるものでしかない。
だが、不思議と気に入って毎日のように目にしていると、なんともいえない親近感を感じるようになってしまうブログがいくつかある。
そんな一つが、ある日、突然記事が途絶えて、「おや?」っと、思っていると、近親者からの訃報記事が掲載される。何とも言えない哀惜の情に囚われてしまう。
そして、死者は当然もう二度とこの世界について、語ることはない。その事実に、生と死を分ける当然ながらの断絶を改めて知る。
反面、そうであるならば、少々何を言ってみたところでと虚しい気にもなってくる。
だがそう言いつつも、誰かに何かを言ってみたくなる。それが、私が今生きていると言う事だろうかとも思ってみる。
改めて佐藤立志氏のご冥福をお祈り申します。興味深い記事ありがとうございました。