蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

残念!「さるさる日記―佐藤立志のマスコミ日記」の佐藤立志氏逝去

2008-06-26 01:26:08 | 日常雑感
6月25日(水)曇り一時晴れ、暑し。

  ここのところ珍しく拙ブログへのアクセスが増えている。といったところで百そこそこに過ぎないが…。アクセス元を辿ると「さるさる日記―佐藤立志のマスコミ日記」からである。そこに、以前、私がこの日記について書いた記事から跳んでこられるようである。

  そこで初めて、佐藤立志氏がつい先日、亡くなられていたことを知った。亡くなられる直前の「篤姫」についての記事は読んでいた。成る程と、いつもどおり感心して読んだばかりである。
  このところ入院されていて相当具合が悪そうだとの印象はあった。しかし、以前にもそう書かれていたあとで、又元のように元気な記事が続いたので、今度もそのような経過になるものと期待していた。

  ところが今回の下記の記事である。

■2008/06/22 (日) 佐藤立志氏逝去
6月19日午前9時27分、保険評論家の佐藤立志さんが東京都内の病院でお亡くなりになりました。55歳。葬儀は近親者で行われました。
常に軸足を弱者においた報道姿勢には定評があり、各マスコミ媒体でもご活躍されました。
6月20日付の同日記は、危篤状態に陥る前に佐藤さんが書き残したメモです。遺品のなかから見つかり、ご遺族の方から託され更新しました。
弱者救済――保険評論家、いち個人として、この信念を貫かれた佐藤さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌。(友人一同)』

  亡くなられた年齢の若さに驚いた。毎回の記事からはもう少し年配の方かと想像していた。
  同感させられる記事が多かった。読むのが楽しみなブログの一つだった。惜しまれる。
  私がブログなるものを始めて2年余りだが、結構これは面白いと思っているブログが何やかや姿を消していくのに遭う。
  「新じねん」さんのことも未だに忘れられない。厳しい日々の日常の中で内容の濃いブログだった。こちらも若い死だった。
 
  ブログの著者は匿名が多くそのプロフィールは記事を通じて、自ずから伝わってくるものでしかない。
  だが、不思議と気に入って毎日のように目にしていると、なんともいえない親近感を感じるようになってしまうブログがいくつかある。
 そんな一つが、ある日、突然記事が途絶えて、「おや?」っと、思っていると、近親者からの訃報記事が掲載される。何とも言えない哀惜の情に囚われてしまう。

 そして、死者は当然もう二度とこの世界について、語ることはない。その事実に、生と死を分ける当然ながらの断絶を改めて知る。
  反面、そうであるならば、少々何を言ってみたところでと虚しい気にもなってくる。
だがそう言いつつも、誰かに何かを言ってみたくなる。それが、私が今生きていると言う事だろうかとも思ってみる。

改めて佐藤立志氏のご冥福をお祈り申します。興味深い記事ありがとうございました。



秋葉原通り魔(連続殺傷)事件に思う-傍観者への怒り?-(その2)

2008-06-22 01:38:43 | 時事所感
6月21日(土)曇りのち雨

  この事件について改めて考えてみると、これは今の日本社会突きつけられた一種のテロ事件ではないのか。ここでテロについての定義を探してみたらウイキペディアに次のようにでていた。

『テロの定義
テロの定義に関しては、テロリズムの研究者の学術的な定義や各国政府の行政機関による定義付けをしているケースもあるが、その定義自体が政治的意味合いを含む為、様々な論争がある[1]。たとえばアメリカがときどき発表する「テロ組織」の指定要件の1つには「その組織の活動は、合衆国国民の安全あるいは合衆国の国家機密(国防、国際関係、経済的利害関係)を脅かすものでなければならない」という要件も入っている[2]。

日本の国内法においては「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で多数の人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊する行為」(自衛隊法81条の2第1項)など複数の文言がある(基準策定の動き参照)。』

  今回の加害者加藤智弘は、政治上やその他の主義主張を明確に表明して犯行に及んではいない。だが、彼が今日まで置かれてきた派遣労働者としての社会的状況を垣間見せられた時、そこに感じるのは、彼自身を含めてそのような絶望的な状況に追い込んでいる社会への絶望的な抗議行動とみえてしまう。
  これに対して、何処かのブログで『犯人は労働三権を知らないのだろうか。それに基づいて抗議するべきであった』と書いてあるのを見た。
  だが、今時、公務員や大企業の社員ならいざ知らず、底辺に置かれて労働者にそんな権利がどうやって行使できると言うのだろうか。労組を作ろうとしただけで、そんな働きかけを仲間にしただけで、使用者・経営者側にそれと察知されたら忽ち解雇に追い込まれるのは火を見るよりか明らかなのが現実である。
  
  そのような社会的弱者がこの日本社会の底辺にジワジワと滞留し増大化していく中で、世の中の大部分の人は食べるに困るほどの状況に追い込まれてはいない。
国家財政は1千兆円もの借金地獄というのに国民の総資産は1400兆円もあるとか。だが日本国は、借金借金と言ったところで、外国から国債で借金している訳ではない。
いざとなれば、法律一本作って税制を改定し税率を改めれば、国民の資産は忽ち国庫に移動し借金なんか忽ち雲散霧消するとたかをくくっているのではないか。
  そんな政府と大多数の国民を前に少々の泣き言を言ってみたところで、誰もまともにはその耳を貸そうとはしないのだ。

  だとなれば、ここは一発メチャメチャをやってのどかな平和惚けの市民感覚に一発かますしかなかったということではなかったか。
  今回の事件で被害に遭われた方々には真に酷な言い方ではあるが、それは今イスラエルで、あるいはイラクで爆弾自爆テロの被害で亡くなられた方々とまったく同じということではないだろうか。
それらの被害者やその遺族の方々が、加害者をいくら恨んでみた所で何の癒しにも解決にもなないのではないか。
 やはり、向けるべき非難告発の対象は、この社会を一応表面的に取り仕切っているらしい、それにより莫大な歳費と数々の特権を享受していながら自らの為すべき事をせず、次代を担う若者たちの過半数近くに絶望しか与えられないこの国の為政者集団の怠慢に向けるべきではないのか。
 そして又、そのような無作為な国家権力為政者集団の存在を許している我々一人一人へではないだろうか。
 いわば社会的政治的傍観者国民多数への怒りである。
 今、起きている社会的事象を傍観していることは、一種の不作為としてのな共犯者であるということが私のあたまの隅にある。

 私は、昨日のNHKの夜の特番を視て強くこう思った。
 こういう事件が起きて、社会が悪いというのはいけないということを、これまで素朴に信じてきたが、いまやそうでもないと思い始めた。
 犯罪の中の多くはやはりこの社会の歪であるものが大部分ではないか。その歪に耐えたれる強さを持った者ばかりなら何も問題は起きないだろう。
  だが、この人間社会、そんな強者ばかりではないのだ。
  傷つき易くこらえ性の無いものも多いのだ。

この世の中から、今回のような不幸な出来事を少しでも無くし、起きないようにしていくためには、我々はそのような弱者の存在を常に頭に置いて、限りなく社会的弱者への共感を持つようにつとめ、この社会の問題点を少しでも良い方向に変えていこうという意思を明らかにしていくほかないのではないだろうか。


 それにしても、いつの世も、政治と言うものは常に、事有れば、不可避的に人間の血の生贄を必要としているのではないだろうか。
 その象徴の一つとして私の頭をよぎるのは、古代アステカ文明における国家の安寧と穀物の豊穣を願って彼らの神に捧げられた美少女の犠牲のイメージである。
 人類は、いつになったらこの呪縛から解放されるのだろうか…。

秋葉原連続殺傷事件、ヤケッパチ、八つ当たり殺人!…?

2008-06-16 05:42:16 | 時事所感
6月16日(月)晴れ

 先々週の日曜日、秋葉原で起きたこの事件。何とも無惨でやりきれなく嫌な事件であった。一番無念で悔しいな思いをされたのは亡くなった方々であり、そのご家族をはじめ身近な方々だろう。

 だが、新聞記事やワイドショーのTV画面の向こうに日々他の無数の事件の一つとして視聴しているこちら側の安全地帯にいる身には、いま一つ生身の痛苦となって伝わってこないもどかしさを感じてしまう。
 同時にその鈍感さに対して、何か後ろめたさのようなものをも感じる。といってはそれすらも偽善だろうか…。

 私がこの事件で感じたのは、被害者加害者の別なく生身の人間の物理的(?)な壊れやすさのようなものである。
 どんな立派な業績を積まれた方であっても、これからの人生の表舞台で活躍を期待される若い方々であっても、一片の凶刃で一瞬の内に敢え無く無に帰させられてしまうことである。
 人間という生身の肉体がこれほど壊れやすく果敢ない存在であることを改めて思い知らされる。反面、そのことを私たちはどれだけ日常的に意識しているだろうか。
 この事件現場でさえもそうである。車という疾走する鉄の塊とガラス器のように壊れやすい人間が平気で同じ空間を共有させられている。
駅のプラットホームでも同じことである。

 他方、多数の中で他者から追い詰められたと感じる人間の怖さである。窮鼠猫を噛む…そんな月並みな俚諺が先ず浮かぶ。

 それは個人も集団をも問わないのではないか。

 今回のように個人が引き起こした時は、極めて特殊な理解不能な人間の起こしたことのように、識者・コメンテータの方々は様々に論評される。
 しかし、それ以上に民族とか、国家とかの集団で起こした場合はどうだろうか。

 身近なところでは先の戦争もそうではないか。
 ABC包囲網とかで乾坤一擲をかけて、多数国民の運命を顧慮することも国の命運の前後の見境も無く、奇襲攻撃をかけてその戦果に一瞬の溜飲を下げた気分になるのとどう違うだろうか。

 ナチによるアウシュビッツもまたしかりである。

 こうした悲劇を少しでも少なくするためには、できるかぎり人が人の存在を意識し尊重しあうほかないのではないか。
 それは、家庭における親子、夫婦関係ばかりでなく、社会にあっては、先生と教師、経営者と従業員、民族と民族、人間存在のすべての関係性のなかでいえることではないだろうか。
 こんなあたりまえのことを改めて心してみることが、被害に遭われた方々の犠牲を無にしないことではないか。
 
 そして、今回の事件に即して言えば、人間をロボットか何かの部品扱いを許すような非正規雇用の仕組みだけでも何とか改善していくことではないだろうか。