3月30日(日)曇り後雨、花冷え。
今日この頃、目が覚めて着替えをしょうとすると鼻の奥がむずかゆくなりたて続けにくしゃみが出て止まらない。そして鼻水。目が痒く拳でこすると涙が止まらない。これはなんだろうか。風邪だろうか。しかし熱はない。だとすれば、これが花粉症というやつだろうか。
花粉症と聞けば今までは他人事に思ってきた。だが、どうもこれらしい。加齢とともに免疫力が落ち、とうとう我が身にもとりついたということだろうか。
とにかく鬱陶しい。目がとくにそうである。これは絵お描くことを生活の中心としている身には甚だこたえる。
集中できない。
それでなんとなくインターネットをクリックして様々な記事を拾い読みしてうたうたと時を過ごしてしまう。
そんな中で福田首相がNHKのインタビューに一人で答えている画像が目に付いた。一瞬見て驚いた。その首筋がばかにうそ寒く見えたのである。それは、周囲に頼りになる人間が誰も居ない孤立の陰影だろうか。そして俄かに年齢相応の一人の老人に見えた。
もう、この人の政治生命は、長くはないなと感じた。
それにしても、民主党もしつこいものだ。いい加減にしたらどうだろうか。何かあまりにも図に乗っていわしないか。道路特定財源を21年度から一般財源化することで十分ではないか。
ガソリンの暫定税率なんてやめたところで、どうせ形を変えて要る金はどこからかとらなきゃならないのだろうから…。
そして目を転じれば、チベットの問題。少数者と多数者。政治的弱者と強者の問題。何故人間はお互に国家とか、民族とかの呪縛にがんじがらめになって、いがみ合い、殺し合い奪い合わねばならないのだろうか。
こういう姿を見ていると、愛国心なんてまっぴらごめんだ。
人生なんて所詮遊びではないか。一度限りの二度とは繰り返しはきかないのだ。一度、死んでしまえば全ての義理も観念も、真理も主義も、この身にとっては、雲散霧消ではないか。
それなのに腹に爆弾を巻いて同朋のためにと、むざむざ爆死を遂げて、死にたくも無い人々を巻き添えにするはた迷惑。
人間とは、なんとあほらしいことをするものだろうか。
午後、仔犬を散歩に連れて出る。ご近所の大きな犬に出会う。我が仔犬はたちまちじゃれつく。我が身の幼さも省みず大きな相手に立ち向かう。
相手は最初はとまどいながらもあまりにこちらがしつこいと喉もとめがけて、ガバとばかりに咬みつこうとする。
とたちまちこちらはひっくり返ってお腹を見せる。それでおしまいだ。相手は、「なんだ!おまえは…」とつまらなそうにたちまち憮然と攻撃態勢を中断する。
人間は、万物の霊長などと自惚れながらこの犬たちにも劣るのではないか。
相手が降参しようがしまいが、そんなことには、ごうもとんじゃく無く我が理屈の前には咬み殺してしまうのだ。
人間は、いつになったら、お互いさまそれぞれが天から与えられた己が人生を心行くまで楽しんで、穏やかにその生を終えることができるようになるのだろうか…。
それにしても、この春の憂鬱は、いつになったらすっきりとするのだろうか…。
そしてこんな一行詩を想いだした。
「てうてう(蝶)が一匹 韃靼(ダッタン、間宮)海峡を渡って行った。」
安西冬衛 (現代詩)
人間も、いつになったこの一匹の蝶のように、国境なんてものが文字通り消えてなくなり、好きなところへ自由にひらひらとゆききし、この地球の好きな場所で暮らせるようになるのだろうか…。
今日この頃、目が覚めて着替えをしょうとすると鼻の奥がむずかゆくなりたて続けにくしゃみが出て止まらない。そして鼻水。目が痒く拳でこすると涙が止まらない。これはなんだろうか。風邪だろうか。しかし熱はない。だとすれば、これが花粉症というやつだろうか。
花粉症と聞けば今までは他人事に思ってきた。だが、どうもこれらしい。加齢とともに免疫力が落ち、とうとう我が身にもとりついたということだろうか。
とにかく鬱陶しい。目がとくにそうである。これは絵お描くことを生活の中心としている身には甚だこたえる。
集中できない。
それでなんとなくインターネットをクリックして様々な記事を拾い読みしてうたうたと時を過ごしてしまう。
そんな中で福田首相がNHKのインタビューに一人で答えている画像が目に付いた。一瞬見て驚いた。その首筋がばかにうそ寒く見えたのである。それは、周囲に頼りになる人間が誰も居ない孤立の陰影だろうか。そして俄かに年齢相応の一人の老人に見えた。
もう、この人の政治生命は、長くはないなと感じた。
それにしても、民主党もしつこいものだ。いい加減にしたらどうだろうか。何かあまりにも図に乗っていわしないか。道路特定財源を21年度から一般財源化することで十分ではないか。
ガソリンの暫定税率なんてやめたところで、どうせ形を変えて要る金はどこからかとらなきゃならないのだろうから…。
そして目を転じれば、チベットの問題。少数者と多数者。政治的弱者と強者の問題。何故人間はお互に国家とか、民族とかの呪縛にがんじがらめになって、いがみ合い、殺し合い奪い合わねばならないのだろうか。
こういう姿を見ていると、愛国心なんてまっぴらごめんだ。
人生なんて所詮遊びではないか。一度限りの二度とは繰り返しはきかないのだ。一度、死んでしまえば全ての義理も観念も、真理も主義も、この身にとっては、雲散霧消ではないか。
それなのに腹に爆弾を巻いて同朋のためにと、むざむざ爆死を遂げて、死にたくも無い人々を巻き添えにするはた迷惑。
人間とは、なんとあほらしいことをするものだろうか。
午後、仔犬を散歩に連れて出る。ご近所の大きな犬に出会う。我が仔犬はたちまちじゃれつく。我が身の幼さも省みず大きな相手に立ち向かう。
相手は最初はとまどいながらもあまりにこちらがしつこいと喉もとめがけて、ガバとばかりに咬みつこうとする。
とたちまちこちらはひっくり返ってお腹を見せる。それでおしまいだ。相手は、「なんだ!おまえは…」とつまらなそうにたちまち憮然と攻撃態勢を中断する。
人間は、万物の霊長などと自惚れながらこの犬たちにも劣るのではないか。
相手が降参しようがしまいが、そんなことには、ごうもとんじゃく無く我が理屈の前には咬み殺してしまうのだ。
人間は、いつになったら、お互いさまそれぞれが天から与えられた己が人生を心行くまで楽しんで、穏やかにその生を終えることができるようになるのだろうか…。
それにしても、この春の憂鬱は、いつになったらすっきりとするのだろうか…。
そしてこんな一行詩を想いだした。
「てうてう(蝶)が一匹 韃靼(ダッタン、間宮)海峡を渡って行った。」
安西冬衛 (現代詩)
人間も、いつになったこの一匹の蝶のように、国境なんてものが文字通り消えてなくなり、好きなところへ自由にひらひらとゆききし、この地球の好きな場所で暮らせるようになるのだろうか…。