蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

春の憂鬱…

2008-03-31 12:41:34 | 日常雑感
 3月30日(日)曇り後雨、花冷え。

  今日この頃、目が覚めて着替えをしょうとすると鼻の奥がむずかゆくなりたて続けにくしゃみが出て止まらない。そして鼻水。目が痒く拳でこすると涙が止まらない。これはなんだろうか。風邪だろうか。しかし熱はない。だとすれば、これが花粉症というやつだろうか。

  花粉症と聞けば今までは他人事に思ってきた。だが、どうもこれらしい。加齢とともに免疫力が落ち、とうとう我が身にもとりついたということだろうか。
  とにかく鬱陶しい。目がとくにそうである。これは絵お描くことを生活の中心としている身には甚だこたえる。
  集中できない。
  それでなんとなくインターネットをクリックして様々な記事を拾い読みしてうたうたと時を過ごしてしまう。

  そんな中で福田首相がNHKのインタビューに一人で答えている画像が目に付いた。一瞬見て驚いた。その首筋がばかにうそ寒く見えたのである。それは、周囲に頼りになる人間が誰も居ない孤立の陰影だろうか。そして俄かに年齢相応の一人の老人に見えた。
   
  もう、この人の政治生命は、長くはないなと感じた。

  それにしても、民主党もしつこいものだ。いい加減にしたらどうだろうか。何かあまりにも図に乗っていわしないか。道路特定財源を21年度から一般財源化することで十分ではないか。
  ガソリンの暫定税率なんてやめたところで、どうせ形を変えて要る金はどこからかとらなきゃならないのだろうから…。

  そして目を転じれば、チベットの問題。少数者と多数者。政治的弱者と強者の問題。何故人間はお互に国家とか、民族とかの呪縛にがんじがらめになって、いがみ合い、殺し合い奪い合わねばならないのだろうか。
  こういう姿を見ていると、愛国心なんてまっぴらごめんだ。

  人生なんて所詮遊びではないか。一度限りの二度とは繰り返しはきかないのだ。一度、死んでしまえば全ての義理も観念も、真理も主義も、この身にとっては、雲散霧消ではないか。
  それなのに腹に爆弾を巻いて同朋のためにと、むざむざ爆死を遂げて、死にたくも無い人々を巻き添えにするはた迷惑。
 人間とは、なんとあほらしいことをするものだろうか。

 午後、仔犬を散歩に連れて出る。ご近所の大きな犬に出会う。我が仔犬はたちまちじゃれつく。我が身の幼さも省みず大きな相手に立ち向かう。
 相手は最初はとまどいながらもあまりにこちらがしつこいと喉もとめがけて、ガバとばかりに咬みつこうとする。
 とたちまちこちらはひっくり返ってお腹を見せる。それでおしまいだ。相手は、「なんだ!おまえは…」とつまらなそうにたちまち憮然と攻撃態勢を中断する。
 
  人間は、万物の霊長などと自惚れながらこの犬たちにも劣るのではないか。

  相手が降参しようがしまいが、そんなことには、ごうもとんじゃく無く我が理屈の前には咬み殺してしまうのだ。

 人間は、いつになったら、お互いさまそれぞれが天から与えられた己が人生を心行くまで楽しんで、穏やかにその生を終えることができるようになるのだろうか…。

 それにしても、この春の憂鬱は、いつになったらすっきりとするのだろうか…。
  
 そしてこんな一行詩を想いだした。

 「てうてう(蝶)が一匹 韃靼(ダッタン、間宮)海峡を渡って行った。」 
                           安西冬衛 (現代詩)

  人間も、いつになったこの一匹の蝶のように、国境なんてものが文字通り消えてなくなり、好きなところへ自由にひらひらとゆききし、この地球の好きな場所で暮らせるようになるのだろうか…。

土浦8人無差別殺傷事件、岡山駅突き落とし殺人事件…一体、何故なんだ!?

2008-03-27 00:13:53 | 日常雑感
3月26日(水)晴れ、暖。

 茨城県、土浦市で私服警官が8人も張り込んでいる目の前で、咄嗟の間に8人もの無関係な通りがかりの人たちが殺傷される事件が報じられている最中、今度は夜の岡山駅で残業帰りの38歳の県庁職員が、18歳の少年にホームから突き落とされて、入ってきた電車に轢かれて亡くなったという。

 何と言うことだろうか。

 最初の事件報道を聞いただけでは、ああまたかという思いはしたが、何か書いてみようとまでの気にはなれなかった。

 だが、今夕のニュースで被害者の男性が、二人の幼い姉妹の父でマイホームを建てようとしていた矢先の子育ての真っ最中だということ。
 そして加害者の18歳の男の言い分が「人を殺して刑務所に入りたかった…」というのを聞いて黙っていられなくなった。

 この男には、はなから人を殺しても、たかだか何年か刑務所に入れば済むんだという安易な観念しか無いということだ。人を殺したら自分の命も引き換えだという観念は皆無なのだ。誰がこんな考えを植えつけたのか。今の日本の刑法の犯した罪に対する罰の軽さではないか。

 そして今、最近、またまた死刑廃止論がたかまりつつある。私は死刑廃止には、断固反対だ。現在の人間の知的レベルは、死刑廃止に値するほど高いとは思えないからだ。応報刑がどうしていけないのか。殺したら殺される。これこそが最低限の殺人の抑制力になるのではないか。少なくとも、このことが万人の社会通念となっていれば、今回の岡山の事件は起こりえなかったのではないか。

 死刑廃止論を言う前に、戦争撲滅こそが先決ではないか。人類が戦争行為を廃絶することができて初めて、死刑廃止論が説得力をもつのではないか。戦争を抑止することのできない人類の知的レベルでは、死刑廃止は時期早少というものではないか。

  ところで、被害者のお父さんは「加害者に対してはらわたが煮えくり返る」と言われながら、他方で「罪を償って更生して欲しい」と寛大な心を示されている。
  これをどう受け止めたらいいのだろうか。今の私には言葉が無い。
 
  しかし、どうして絶望するには早すぎる年齢で、こうした事件が立て続けに起こるのだろうか。

  それは、今の社会の前途について、若い人々が希望を見出せないからではないか。
さらに言えば、それは、企業利益を上げるためには、人間一人一人の価値を極限にまで切り刻んで屁とも思わぬ企業繁栄至上主義価値観の蔓延に対する儚くも虚しい抵抗の牙ではないのか。

この頃、腹の立ったこと。田舎道でのシートベルトは、これいかに!

2008-03-10 00:57:06 | 日常雑感
 3月9日(日)晴れ、暖

 先日、小用があって軽トラで出かけた。たまにしか対向車に出会わない田舎道である。珍しく向こうからパトカーがやってきた。
 
 私は慌てててハンドルから右手を離して手探りでめったにしたことのないシートベルトの一端をまさぐって右肩から引っかぶった。
  その瞬間パトカーと擦れ違った。警官が二人乗っているのが見えた。私はそ知らぬ顔でアクセルを踏んだ。

 何と次の瞬間、背中の後方でパトカーのサイレンが聞こえた。バックミラー越しに音の方を見ると、走り去った筈のパトカーがわざわざUターンして、相当のスピードを上げて追走してくるではないか。私は、潔く観念した。徐行して路肩に停車した。

  定年の近そうな助手席の警官が降りてきて、私の運転席に顔を寄せて囁いた。
  「今、シートベルトしてませんでしたね。こちらにきてください」と有無を言わせず、私をパトカーの後部座席に招じいれた。
  やれやれである。そして早速、定石どおり免許書の提示である。

  私は無駄と知りつつささやかな抗弁を試みた。
「こんな田舎でシートベルトしようとしまいと大きなお世話ではないですか。事故して怪我するかどうかは私の問題でしょ。誰にも迷惑かけるわけじゃなし…。こんな事まで国が法律で強制するなんて余計なことじゃーないですか。軽トラなんて頻繁に乗り降りするのに、その度に一々たすがけではたまったもんじゃないですよ」と。
  だが、全ては無駄だった。そんな私のごまめのはぎしりなど将に馬耳東風である。
 「運転席に座ったらシートベルトをすることになっているんです」と。
 
相手は事務的に切符をきると、「減点1点です。罰金はありません。ここに署名して拇印をおしてください」と、淡々と事務的にこれで一丁上がりと言った感じである。

 私は再び観念して思った。これでまた、あこがれのゴールド免許は永遠の彼方に飛び去ったと。

 そして、悔しくも胸のうちで毒付いてみた。
「こんな田舎道で態々Uターンまでして田舎爺を捕まえる暇があったら、もっと警察がつかまえなきゃーならない巨悪がわんさかいるだろうに」と。

 憎っきパトカーと泣く泣くお別れして、改めて対向車の紳士淑女を見てみれば、皆さん皆粛々と襷がけである。
 何と我々民草は御し易く、お上のおっしゃることに何と従順なる子羊の如きことか。これではお上は何恐れることなく、やりたい放題のわけではないか。