蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

参議院本会議特別中継を見てー何故出欠状況を公表しないのか

2005-09-30 00:16:45 | 時事所感
 今日、参議院の本会議国会中継を見ていたら、議場の議員席に結構名札が倒されたままの空席がめだった。

 議員は国会の会議に出るのが先ず基本的な職責ではないか。にも係わらず本会議を欠席するとは何事かと思った。

 そこで、参議院のホームページにアクセスしてみたが、議員の出欠状況を記録したような資料は全く見当たらなかった。

 国会議員には一人1億円程度の国費が掛かっていると聞く。少なくとも最低の義務である本会議をはじめ所属する委員会への出欠状況や欠席の理由等を、各議員個別に公表すべきではないか。

 国民は知る権利がある。今のインターネットを使えば簡単な事に思える。衆参合わせて700人近い議員諸氏は高い歳費を貰って一体何をやっているのか。

 大体、今度の参議院の体たらくを見ていても、全く経費と手間の無駄使いに思える。
 今回の、杉村何とかと言う議員や、麻薬をやっていても周囲の議員が見抜けないような
節穴議員に、どんな国政が議せられるというのか。

 大体、ラーメン屋を開くのにさえ、いちいち食品衛生管理者の資格を取らせる国家が、国民の生命、財産をさえ左右する国会議員や、地方議会議員になるのに、被選挙権が年齢条件と公選要件のみというのは、おかしいのではないか。

 無報酬の名誉職ならともかく、一人当たり何やかやで1億円近くもの国費を要するのであれば、選良にふさわしい最低限の資格制度を設けるべきではないか。
 
 その資格試験においては、最低限憲法、民法、刑法、地方自治法、財政法、労働法等の基本法の知識、日本歴史、世界歴史、経済学の基本ぐらいは課すべきではないか。この資格試験は何も司法試験や国家公務員上級試験なみにしろいうのではない。
 少なくとも、官僚のいう事が普通に理解できる程度は必要ではないかということである。官僚の言うことが理解できなくて、政治が官の上に立てるわけがないと思うからである。少なくともせっかくの政治家のアイディアを骨抜きにされないためにである。
 
 さすれば、少なくともただタレントかなにかで名が売れているだけの者でも、今のようにすぐにしゃしゃり出てきて議員でございなどというやからは排除できるのではないか。

 今や国政を初めどんな小さな自治体の議員であれ、ただ口が利けて頭を下げることだけでつとまる仕事ではないはずだ。
 
 皆さんはどう思われますか?
 

佐藤優「国家の罠」ー国策捜査?何故こんなことが!

2005-09-29 15:06:06 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
読書してますか!
 この本、多くの人に是非読んでもらいたいものと思いました。鈴木宗男議員がらみで外務省のラスプーチン(帝政ロシア末期ニコライ皇帝一家に取り入り国政を誤らせたとされる不死身?ロシア正教の怪僧)と言われた著者、若き優秀な外交官の世評(マスメディヤの無責任報道による虚像)とのあまりに大きな落差。国策捜査と称する権力の横暴。等現在の小泉政権の権謀のすさまじさ。読み始めたら面白くてやめられません。何よりも日頃我々に難しい外交問題、特に日露間の北方領土問題の背景が良く理解できます。
 概要を、私のブログに紹介しておきましたので興味のあるかたはぜひ目を止めてみてください。

読書の楽しみ 同感です。

2005-09-29 12:42:27 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
読書してますか!

 本を読むことほど、安くて楽しい楽しみは無いと思っています。
 そこには自分の知らない世界。空間、時間を越えて広がる無限の世界があります。
 皆さんとそんな楽しみについて、ブログできたらと思い投稿してみました。
 ブログ初心者ですがよろしくお願いします。

佐藤優「国家の罠」を読むーこんな事があっていいのか?

2005-09-29 02:13:55 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
 「国家の罠」外務省のラスプーチンと呼ばれて

 ー帯ー「これは国策捜査だ」外務省、検察庁を震撼させる衝撃の内幕手記
    「背任」と「偽計業務妨害」容疑で東京拘置所での拘留生活512日。第一審判決    懲役2年6ヶ月、執行猶予4年。有能にして傑出した情報マンー。国を愛し、国の    ために尽くしたにもかかわらず、全てを奪われた男が、沈黙を破り、「鈴木宗男    事件」の真実を明らかにする。
        新潮社 定価:1600円 発行2005.3.25 6刷5.25

 著者:佐藤 優 1960年生まれ。
    1985年、同志社大学大学院神学研究科終了の後、外務省入省。95年まで在英日本    大使館、ロシア連邦日本大使館に勤務した後、95年より本省国際情報局分析第一    課に勤務。2002年5月に逮捕、現在起訴休職中(元主任分析官)。

■ 概 要
 2002年5月14日、著者は、外交資料館で執務中のところを「背任」と「偽計業務妨害」容疑で、東京地検特捜部により逮捕される。逮捕直前、著者は鈴木宗男議員に電話で「鈴木大臣より前にお待ちし、鈴木大臣が出られてから私も小菅を後にします」と告げたとおり、それから、5百12日間の東京小菅拘置所での独房生活が続く。

 本書は、この間の容疑事実を巡る著者と担当検察官との息詰まる攻防。取調べの過程で担当の西村検事が次第に被疑者である著者に対して、理解を深め一種の畏敬の念すら抱くかにみえるとともに、著者もまた西村検事の真摯な態度に好感を抱いていくヒューマンドキュメント。日頃知ることの少ない拘置所内での生活の細部。
 事件の背景となる、田中真紀子外務大臣と鈴木宗男議員との確執。北方領土問題を中核とする小渕総理大臣以下の日露外交方針の転変。外務省内の外交政策を巡っての暗闘。ソ連邦崩壊からプーチン政権に至るロシア政界の内幕。等が登場人物は全て実名で生々しく息もつかせない迫力で展開される。
 そして、今、わが国の最高政治権力の強さが、司法権力を行使して自分に都合の悪くなった政敵をいかにして駆遂していくかをまざまざと見せ付けられる思いがする。
 今回の衆院選の「刺客」騒動。小泉首相というのは、安政の大獄を出現させた大老井伊直弼に匹敵する権力政治家かもしれないと思うのである。
 当時と違い、現在の政争は生身の血がながれないだけである。それが救いでもあるが。

■ 読み終えて
 8月19日、郵政解散で俄然面白くなった選挙戦。刺客報道でうきうきの週刊誌を物色しに立ち寄った書店の平積みで本書が目に飛び込んできた。
 「国策捜査」!。私には今まできいたこともない単語だ。何だこれは?。それに佐藤優てのは確か外務省のノンキャリアでありながら優秀な外交管ではあるが、あの疑惑のデパートといわれた鈴木宗男の腰ぎんちゃくになった男のことではなかったか。
 私の頭を洗脳したマスメディヤからのイメージと上記本書の「帯文」との落差の大きさ。
 とにかく何だか面白そうだ。買って帰ってすぐに読み始めた。次から次へとおもしろくてやめられない。398頁を読み終えて時計を見たら翌朝の8時だった。

 結論ー帯文のとおりだった。
 現在の日本の官僚の中に、まだ40台そこそこの若さでこれだけ情熱に富んだ人間的で折り目正しく胆力ある人物がいたのかと言う驚きと感銘である。彼こそは真の武士だと思った。幕末の勤皇の志士である。高潔なサムライである。彼のような官僚が今の日本に百人いたらこの国の未来は何と素晴らしいことかと思った。少なくとも彼ほどの熱意を持った外交官があと十人でも主要国向けにいたとしたならば日本の国際的地位、国益は数倍するものがあったのではないか。外務省が彼のような人材を失うことの大きさはいかほどのものであろうかと思う次第である。
 しかし、氏の才能をもってすれば他日必ずや別の形で国家に貢献されることを期待すると共に、必ずやそのときが来ることを予感するものである。

 次官の決裁まで得て白昼堂々と開催された国際会議の費用を「外務省関連の国際機関、支援委員会」から支出したことが委員会の趣旨に違法で背任罪となるとされ、その主導者として有罪の判決が下される。
 こんな見当違いの言いがかりで一々有罪とされていたらたまったものではない。
 一体、こんな事案を背任事件として起訴する検察権力とは何なんだ?。またその筋書き通りに唯々諾々と有罪判決を下した一審裁判官は何なんだ?。
 これではまるで戦前の特高警察が些細な言いがかりで狙いをつけた獲物をひっかける治安維持法時代と変わるところがないではないか、と我が目を疑い司法権力へ激しい怒りと疑念が湧いた。
 今まで耳にしたこともない「国策捜査」これが実態なのだ。現職の検事が宣言するのだ。
 そして西村検事は「国策捜査」について以下のごとく著者に語る。

 本書P.287-
 国策捜査を巡る西村氏とのやりとりは実に興味深かった。
西村氏は「本件は国策捜査だ」と明言し、その上で「闘っても無駄だ」ということを私に理解させようと腐心した。
私は「僕もついこの間まで末端だけれども国家権力を行使する側にいたので、国家が本気になったとき、他の如何なる集団や個人も太刀打ちできことはわかっている。ただ死ぬときは自分がどうしてしぬのかをきちんんと理解してから死にたい」と答えた。
 西村氏は、「外ではマスコミも、検察庁もそして弁護団も熱気に煽られいるんだろうけど、君は意外に冷静なんだね」とつぶやいた。このときから西村氏と私の間では、国策捜査とはなんであるかについて、ときおり議論するようになった。
 国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要だというのは西村氏がはじめに使ったフレーズである。私はこのフレーズが気に入った。
「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです。」
 「見事僕はそれに当たってしまったわけだ」
 「そいうこと。運が悪かったとしかいえない」
「しかし、僕が悪運を引き寄せた面もある。今まで、普通に行われてきた、否、それよりも評価、奨励されてきた価値が、ある時点から逆転するわけか」
「そういうこと。評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下がってくるんだ」
「僕からすると、事後法で裁かれている感じがする」
「しかし、法律はもともとある。その適用基準が変わってくるんだ。特に政治家に対する国策捜査は近年驚くほどハードルが下がってきているんだ。一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万円程度なんか誰も問題にしなかった。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのすピードで、ハードルが下がっていくんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対してよりも厳しくなっている。時代の変化としか言えない。」
「そうだろうか。あなたたち(検察)が恣意的に適用基準を下げて事件を作り出しているのではないだろうか」
「そうじゃない。実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準はきめなくてはならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じでその基準で事件に対処しなくてはならない。外務省の人たちと話していて感じるのは、外務省の人たちの基準が一般国民から乖離しすぎているということだ。機密費で競走馬を買ったという事件もそうだし、鈴木さんとあなたの関係についても、一般国民の感覚からは大きくズレている。それを断罪するのが僕たちの仕事なんだ」
「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショーと週刊誌の論調で事件ができていくことになるよ」
「そういうことなのだと思う」それが今の日本の現実なんだよ」
「それじゃ外交はできない。ましてや日本のために特殊情報を活用することなどできはしない」
「そういうことはできない国なんだよ。日本は。あなたはやりすぎたんだ。仕事のためにいつのまにか線を越えていた。仕事は与えられた条件の範囲でやればいいんだよ。成果が出なくても。自分や家族の生活を大切にすればいんだよ。それが官僚なんだ。僕もあなたを反面教師としてやりすぎないようにしているんだ」
西村氏は、自分にいい聞かせるようにそう言った。
 鈴木氏が逮捕される直前、西村氏は「鈴木先生だって、納得できないと思うよ。『やまりん』なんて、既に国会質問でクリアーされた事件で逮捕されるんだから」と切り出した。…
「賄賂だって、汚いのとそうじゃないのがある。鈴木さんの場合はそうじゃないほうだ。潰れかけているかわいそうな会社を助けたわけで、道義的には恥ずかしい話じゃない。しかし、賄賂は賄賂だ。この辺は法適用のハードルが低くなってきたんだから諦めてもらわなくてはならない」
 
 その他、本書から私が強く印象に残ったところを抜粋してみる。

 本書P.218-
 取調べの初期段階で、西村氏(担当検事)が真剣に耳を傾けたのは、私と鈴木宗男氏との関係についてだった。それを聞いて、西村氏の目が挑戦的に光った。
 「あなたは頭のいい人だ。必要なことだけ述べている。嘘はつかないというやり方だ。今の段階はそれでもいいでしょう。しかし、こっちは組織なんだよ。あなたは組織相手に勝てると思っているんじゃないだろうか」
 「勝てるとなんか思ってないよ。どうせ結論はきまっているんだ」
 「そこまで分かっているんじゃないか。君は。だってこれは『国策捜査』なんだから」
 西村検事は「国策捜査」ということばを使った。これは意外だった。この検事が本格的に私との試合を始めたということを感じた。逮捕三日目、5月16日のことだった。

 本書P.227-
 特捜流取調べの常識では、「官僚、商社員、大企業社員のようないわゆるエリートは徹底的に怒鳴り上げ、プライドを傷つけると自供をとりやすい。検察が望むとおりの供述をする自動販売機にする」という。私に関しては、自動販売機にならず黙秘戦術をとる危険性があると見て、軟弱路線にきりかえたのではにかということだった。

 本書P.228-

 さらに私が要請(弁護士に)したのはクオーター化の原則である。この原則は情報の世界では当たり前のことであるが、全体像に関する情報をもつ人を限定することである。知らないことについては情報漏れがないので、秘密を守るにはこれが最良の方法だ。檻の中にいる者には極力情報を与えず、檻の中から得る情報については弁護団だけが総合的情報を持つようにするという考え方である。
 弁護団は「ふつう中にいる人は外の様子を少しでも多く知りたがり、自分の置かれた状況について知りたがるんですが、ほんとうにクオーター化してよいのですか」と念を押すので、私は「獄中という特殊な状況に置かれている以上、この方法しかないと思います」と答えた。
 クオーター化の原則を貫いたことで、結果として余計な情報が検察に抜けなかった。
 この国の国家権力を相手にする闘いで被告人側の勝利ということはありえないのだが、すくなくとも「マイナスのミニマム化」には成功した。
 
 「奇妙な取調べ」の始まり
 西村検事に対しては、逮捕されて比較的早い段階で、本件捜査に関して4点のこだわりを伝えた。
 第一には、国益、つまり日本外交に与える悪影響をミニマム化することである。…
 第二は、特殊情報に関することが表に出ないようにすること。「外に出さない」と約束したことが外に出れば、私はその責任を一生追及される。この世界の人たちに時効はない。
 第三は、私の「チーム」メンバーに犠牲者をこれ以上拡大しないことである。
 第四は、私の事件を鈴木宗男氏逮捕の突破口にしないことである。

 第一、第二点については、検察との間で手を握ることが出来るとの感触を得た。…

 結論から言えば、西村氏は耳を傾けるという決断をした。ここから奇妙な取調べが続けられることになった。背任事件については、険悪なやり取りが続く。しかし、日露平和条約交渉や外交情報、特殊情報に関しては、検事が被疑者のレクチャーを聞き、それをまとめる。私が推薦した参考文献を西村氏はよく読み込み、ときどき適切な質問をしてくる。
 このような関係は、取調べが終わる8月下旬まで続いた。
 恐らく西村氏には、国際政治について、特に複雑な日露平和条約交渉について、正確な理解をしておくことが鈴木宗男氏と私の間に事件を組み立てる上で有益だという検事としての職業的勘がはたらいたのだろう。それと私の見立てでは、この検事は知的好奇心が強い。司法官僚として事件を作り上げることだけでは満足できず、ほんとうは何があったのかということを自分で納得したいという性格なのだ。西村氏を職人型の性格であると私は分析した。

 本書P.234-
 「あなたは不思議な人だ。罪を他人になすりつけようという姿勢もない。外務省に職場復帰しようとしているわけでもない。僕にたいしても好意をもってくれているようだ。しかし、供述については歩み寄ろうとしない。何でなんだ。前島は佐藤に言われていやいややったとあんたに全部押し付けているよ。あなたも席取で少しでもいい場所をとるように考えたほうがいい」
 私は感情を出さずに答える。
 「いい席は前島にあげてくれ」
 「もうどうしてそういう態度なんだ。もっと自分のこと、将来のことを考えろよ」
 
著者の「田中真紀子」観
 本書P.77-
 私は、田中真紀子女史は「天才」であると考えている。田中女史のことばは、人々の感情に訴えるのみでなく、潜在意識をうごかすことができる。文化人類学で「トリックスター(騒動師)」という概念があるが、これがあてはまる。
 「トリックスター」は、神話や昔話の世界によく見られるが、既成社会の道徳や秩序を揺さぶるが、同時に文化を活性化する。田中女史の登場によって、日本の政治文化が大きく活性化されたことは間違いない。しかし、問題は活性化された政治がどこに向かっていくかということだ。

 本書P.89-
 私が見るところ、外務官僚の最大公約数は以下のことを考えていた。
「田中が狼なら鈴木は虎、真紀子が毒蛇ならば宗男はサソリ、お互いに噛みつき合って、両方とも潰れてしまえばよい。そして外務官僚によって居心地のよい『水槽』の秩序を守ることができればよい」-

 鈴木宗男と著者の関係
 本書P.88-
 親鈴木宗男の立場を公言する外務官僚は、私を含めすくなからずいた。主として、これまで鈴木氏と外交案件を共に進め、鈴木氏の外交手腕と政治力に一目を置いている外務官僚だった。しかし、この中にも温度差があった。カラオケバーである後輩が酩酊して、私に絡んできた。
 「僕だって鈴木さんは重要と思いますよ。しかし、あの人は総会屋だ。総会屋は病理のある企業に巣食う。だから病んだ外務省にとって与党総会屋の鈴木さんは重要なんです。佐藤さんは総会屋担当の係長だったけれども、今や鈴木さんの利益を体現する企業舎弟になってしまった。佐藤さんを慕っている後輩は多いんですから、少し鈴木さんと距離を置いて下さいよ。身内では鈴木さんに対する批判もきちんとすべきですよ」
 
 本書P.88-
 今から考えると、この時に、その後、国策捜査の対象として鈴木宗男氏、そして私が狙われる複線が潜んでいたのだが、そのことに私は気付かなかった。正確に言うと、いくつかのシグナルが入っていたのだが、その情報の評価を私は誤ったのである。
 深刻な警告は〇二年初め、ロシアではない別の外国政府関係者から寄せられた。
「小泉総理周辺が外交に与える鈴木宗男先生の急速な影響力拡大に危惧をいだいている。半年後に鈴木先生は政界から葬られているだろう」
 それから暫くして、ある外交団の幹部が、山崎派参議院議員の実名をあげ、「この人が、鈴木宗男排除を小泉総理は決めたので、鈴木を窓口とする国は早くチャンネルを変更したらよいとの話をながしている」との情報がはいった。
 日本人政治ブロカーからも少しタイムラグを置いて、同内容の情報が入るようになった。情報の筋が一貫しているにので、どこかに司令塔のある情報であることは間違いなっかった。

 本書P.365以下-
 拘置所内で31房の隣人
 …これで私は隣人の氏名をしることになった。
 30年以上前、共産主義革命を目指して大きな事件を起こした人物だった。この事件については、当時の警察関係者が手記を書き、それが映画化されたり、種々の評論もでており、この事件をモデルにした小説もいくつか書かれている。

 保釈になった後、私がいちばん最初に買い求めた本はこの隣人が書いた獄中手記だった。その本の中で、隣人がソ連・東欧崩壊を真しに考察し、自らの過去にそれを重ね合わせ、新しい世界観を作ろうとする努力が感じられた。
 …私にとって重要なのは、あの閉ざされた空間のなかで、真しに自分と歴史に向き合う31房の隣人の姿なのだ。一言もことばを交わさなかったが、私は獄中でこの隣人から多くのことを学んだ。
 看守が、「面会。おかあさんだよ」と言うと、「おふくろ。すぐに行きます。」と言って、独房から廊下を小走りに面会場の方へ向かっていくうれしそうな隣人の後姿を私は一生忘れることはないと思う。

 本書P.375ー
 保釈と別れ
 …それから両隣の確定死刑囚に対しても、私だけが自由な身になるのが申し訳ないような気がした。また、拘置所の職員たちと別れるのも何か淋しい。監獄の看守と言うと乱暴な人たちと言う印象が強いが私の知る限りそれは事実と異なる。もちろん囚人と看守が激しく言い合うこともあるし乱暴な口をきく看守もいる。しかし私の経験では、拘置所の職員たちは、済ました顔で大使館のパーティに集まる外交官や政府高官や霞ヶ関の官僚たちよりも人間を人物本位で見ることのできる人々だった。
 被疑者や被告人が外でどのような犯罪を起こしたかは、拘置所職員にとっては本質的問題ではないようだ。檻の中での各人の生き方、それに対する看守の共感・反感が彼らの基準になっているように私には思えた。
 裁判所への護送の途中、ある老看守が、「ここにはいろいろの人が来るからね。俺たちは人間(ひと)を見る眼だけは肥えるからね。若い看守でやたら怒鳴り上げるのは、ここに来ている人たちが怖いからなんだよ。人間を見る眼がついてくると怒鳴らなくなるよ」と述べていたことが印象的だった。

 エレベータの中で担当(看守)が、「規則とはいえ、いろいろキツイことを言ってすみませんでした。外に出てからは是非活躍してください。楽しみにしています」と言って深々と頭を下げた。
 私も頭を下げ、「なにをおっしゃいますか。こちらこそたいへんお世話になりました。感謝しています」と答えた。

ー追記ー
 本書を読了して鈴木宗男氏に対す私の印象も百八十度変わった。自分が本人に直接接していないので本当のところはわからない。本書中で佐藤氏の後輩が佐藤氏に向かって投げた言葉にも一面の真相があるのではないかと感じる。
 しかし、今回の選挙で48万票の支持を得たと言うことはやはりただ事ではないのではないか。選挙期間中、鈴木氏の19歳の娘さんが必死に父への支持を訴える姿にも、私はこれほど人間観察眼に富んだ佐藤優氏の眼力の確かさを感じるのである。
 今週の某週刊誌によれば、外務省は鈴木宗男氏の逆襲に戦々恐々の有様にあるという。むべなるかなである。
 とにもかくにも私が本書から学んだことは、巨大メディヤの言説は鵜呑みにできないことである。大朝日新聞の記者が平気で会ってもいない大政治家?の会見記事を平気で掲載する時代である。今や、週刊誌に必死で取材記事を持ち込むフリー記者の記事の方にこそより真実のかけらは散見されるのではないだろうか。
 とにかく、今の時代は自分なりに各種の情報を咀嚼し、自分なりの「見立て」をする以外ないように思う。
 その意味において、このようなブログを通じて”草の根”が連携することが大きな意味を持つ時代にきていると思う次第である。

 

 

ブログの楽しさを知る。ー誰かに届くこの思い!-

2005-09-27 03:52:03 | 日常雑感
 ブログを始めてほんの一週間ちょっと。
 すっかりその楽しさにはまってしまった。
 今まで、日常生活の中で感じた様々なこと。
 誰も話す相手がなかった。
 とはいえ、私、独り暮らしではない。元気に外で働くことが大好き人間の老妻との二人暮し。携帯電話指で触れば子や孫の声も聞ける。

 しかし、家族との会話にはおのずとある範囲があり、意外と何でも話して真面目に聞いてくれるかというと、それとはちょと違う。

 私たちは東京で生まれ、東京で働き暮らしてきた人間。しかし、定年退職してみれば東京に老人の居場所はない。
 何か、東京という街は働く人の街であり、若い人の街である。
 そう感じた私たちはというよりも余り乗り気ではない愚妻を、天性の詐欺的話術(?)で口説き落として、退職金を全てつぎ込み、小さな終の棲家を建てて田舎暮らしを始めた次第。
 しかし、いざ越してみれば愚妻以外は語る相手も無く、尋ねあう知人友人も今のところ無く話し相手の無さに寂しさを次第に深くしていく毎日。
 そんな今日この頃、ふとこのブログなるものを知り、始めてみみればとっかかりはいとも簡単。
 今まで、もやもやしていたことをパソコンに叩き込めばたちまち見てくれいい読み物に仕立て上げてくれ、しかも見ず知らずのかたからコメントもいただけるというもの。

 精神衛生上こんな素晴らしいものは無いと思う次第。

 小さな一つ一つの呟きが、今まではたちまちそよ風に吹き飛んでいた草の根の言霊がこれからは、この無限に近いネット空間に飛び交い、テーマによっては巨大な世論となって天地を揺るがすかの予感を覚える次第。

 まあ、とにかくそんな壮大な夢想はともかく、申し訳なくも閑暇年金暮らしの身には格好の自己発散の場を得た次第です。
 

琴欧州よ頑張れ!

2005-09-26 13:48:16 | 日常雑感
 大相撲秋場所が終わった。
 昨日の一番、朝青龍と琴欧州の決定戦面白かった。朝青龍の強さは今更いうまでもないが、これに比べ琴欧州は残念ながらやはり実力的にはまだまだだと思った。

 聞けば、朝青龍は先場所琴欧州に苦杯をなめた後、遠い佐渡ケ岳部屋まで出稽古に行き6番とったとのこと。その際、琴欧州は親方からもっとやれと言われたにも係わらず、逃げてそれ以上胸を借りようとしなかったという。
 この消極性が今回の大勝負に結果として出たということらしい。

 確かにこんな姿勢ではだめだ。そんなことは本人が一番わかっているはずだろう。どうか、次回は琴欧州の方から朝青龍のほうへ出かけて稽古場で五分に戦えるようになってほしいものだ。

 今の相撲協会の規定では外人力士の入門を一部屋一人に制限しているそうだが、そんな狭い了見は撤回してほしい。

 世界各国出身の様々な力士が裸でぶつかり合えばもっと面白くなるのではないか。

 そのことが、日本文化の奥行きと歴史の深さを世界中の人々によりよく知ってもらえる契機となるのではないか。

 朝青龍など、今や日本語も自然であり、人種的にも日本人と同じモンゴロイドということもあってか、ぜんぜん違和感がない。

 琴欧州や露鵬だって大銀杏を結いまわしを締めたすがたはそんなに違和感がない。

 日本人力士にハングリー精神がなくなり面白い相撲が取れる力士が少なくなってしまった現在、当面、外国人力士にもっともっと活躍してもらうことである。

 そして、やがては「すもう」も「柔道」のように日本発の世界的スポーツとなり、オリンピック種目になればと願う。

 文部科学省は、当面このような国策的見地からも相撲協会に「外人力士規制撤廃」をはたらきかけるべきではないか。

 

悲しきかな付和雷同ー自民圧勝に思う。

2005-09-26 02:04:33 | 時事所感
 今回の選挙後の世論調査では、「自民勝ちすぎに不安を感じる」というのが過半数を超えている。

 ということは、今回の選挙で自民党に入れた人でも「そう思う」という人が多かったということであろう。

 かく言うわたしもその一人である。従来は自民党なんかに一度も入れた事がないのに今回は、8月8日の小泉演説をTVで視て変心したのである。
 それは、彼の演説に近頃の政治状況のもやもやを吹き飛ばす一種の爽快感があったからである。其処には、日頃小泉首相に言われている中身のないパフォウマンスの匂いすら一瞬消し去る魔力があった。それを承知の上での一票である。
 結果的には付和雷同の一人である。

 世論というものは、或いはもっと大きく言えば時代の流れ空気とは、このようにして大きく変わっていくのだろうか。
 8月8日の小泉演説の快感は、恐らく、1941年12月8日の米英への戦線布告を聞いた当時の多くの国民感情に非常ににていたのではないか?。
 後になれば、まさかあのような破滅的な敗戦という代償を払うようになろうとは夢にもおもわなかったと。

 今回の小泉自民党の圧勝の代償も後日いかほどのものとなって、「こんな筈ではなかった」と私たち一人一人に重くのしかかってくることか、現時点では全く分からない。    
 先読みのできる人々は言う。憲法改悪、徴兵制の足音が背後に迫ると!。そして弱者切捨ての重税官僚天国国家になると。

 しかし、悲しいかなお人よしで、目の前のものしか見えない愚人には、その脅威が実感できないのである。

 私の父が、フィリッピンへ送られる途中、最後に送ってきた台湾「キールン」からのはがきで敵機の撃墜されるのみて「痛快」と書いているように。              
 私は、それでもしょうがないと思う。人間とは所詮ひとから何と言われようと、理性よりもその時の感情で行動してしまうことがほとんどではないだろうか。

 だからこそ、戦争なんてくだらない、馬鹿なこととは誰でも知っていながら、今も世界中で戦火の止むときがないのではないか。

 護憲を言う理想主義者の人々の言説は、精緻で立派である。しかし、所詮は少数者の宿命をいかんともしがたいだろう。

 何故なら、私のような愚者が大多数であるからだ。そして大多数の国民の本音は「うだうだあれこれ考える」ことが辛気臭くて大嫌いだからだ。分かりやすくいってくれよ。ひとことで言やあなんだよ。俺ら忙しいんだよ、と。

 私も若く貧しい時代には、社会主義、共産主義こそ人類が到達すべき理想郷と信じた。しかし、ソ連崩壊、中国、北朝鮮の事例を見る今、そんなものがいかに非現実的なイデオロギーでるかがわかった。

 それは、一人ひとりの人間は皆白紙の状態で生まれてくるという冷厳な真実があるからだ。しかも生命体の本能として自己保身のDNAが深く刻印されているということだ。

 共産主義や社会主義社会を実現するためには、このDNAを自らの手で摘出し利他主義の高邁な精神に取替えない限り不可能である。

 だが人生は短い、その間に何人が学習してそのような境地に達せられるだろうか。

 人間は、知識だけでは絶対に変身することはできないのではないか。どんなこともやってみなくては、自分が痛い目にあってみない限り本当の知恵にはならないのではないか。

 戦争の真の悲惨さは、恐らく死んでしまった人にしかわからないのではないか。生き残った人間がいくらその悲惨さを訴えても、鉄砲の音一つ聞いたことのない人間には永遠に実感できないのではないか。実感できない人間にいくら戦争の悲惨さを説き聞かせてみたところで馬の耳に念仏でしかないのではないか。

 だからこそ、古代から現在ただ今も世界各地で、性懲りもなくなんだかんだと相手方に難癖つけて戦争ごっこに血道をあげているのではないか。

 人間の愚かさは大河の流れのようにとうとうとうと巨大であり、いささかの人知をもってしていかんともできるようなしろものではないと思う。

 私たちは、嫌も応もなくこのとうとうたるながれに身をまかせるしかないのではないか。

 それは、人類もまたこの地球上で億兆の生命体たる種の興亡消滅の一環である宿命ではないのか。

 今の私はこのような悲観論しか持ち得ない。そして、愚かしくも小泉パフォウマンスの一時の酔いに身をまかせてみるのである。
 

人は何故、群れて住みたがるのか?

2005-09-24 02:16:54 | 田舎暮らし賛歌
 定年を機に、東京の雑踏、住居の狭さ、息苦しさが嫌で3年がかりで関東一都六県走り回って漸くたどりついた、ここ茅が岳山麓の赤松林に囲まれた現住所。
 地主さんが、「残りは私の目の黒いうちは誰にも売りませんから」というのを半信半疑しつつも、希望的観測をもって自分を納得させたしだい。
 そして退職金を全部はたいて漸く建てた終の棲家。
 月の夜、風呂上りにヴェランダで人目気にせず裸で出て飲むビールの旨さに大満足の日々。
 
 しかし、そんな私の桃源郷はたった三年で夢幻と消えようとしている。
 けさ、我が家の敷地入り口付近でなにやら怪しげな人の気配、メジャー片手の不動産やらしき男たちがうろうろ。
 さては、来たかと一仕事終え止めた車で帰ろうとしているのを捕まえて問えば、案の定
隣地に家を建てたい人が居るというのでとのこと。

 この地域、まだまだ誰も住んでいない山林原野がいっぱいあるというのによりによって何故わざわざ私の隣に来たがるんだよ?と問いただせば、
 意外と売り地は少なくて、どうしてもこうなってしまうとのこと。
 地主が、何と言おうと、契約の際、買戻し特約でもつけない限り、しょせんしょうがないこと。地主さんだって農業収入は見ていると労多くして割の合わない収入。考えれば独り息子が嫁さんもらって孫でもできて、家の一軒もと思えば、なけなしの先祖伝来の山林でも売るしかない現実。それもわからないではない。

 しかし、この辺既存の集落を見ても、土地は広くいっぱいあるというのに、もちろん農地がだいぶぶんだが、なぜか一箇所にちまちまとほとんど町屋のように建て込んで住んでいる。
 これを見ると、どうもなんだかんだと隣近所の付き合いのうるささを口にはしても本心はちがうらしい。隣同士喧嘩しても肩寄せあって暮らしていたいものらしい。
 どうやら、私みたいなのが少数派ということか。

 大体、思えばここにきて驚いたのが、山林原野は都市計画法、除外。無指定。何を建てようとお構い無なのだ。
 だからかの悪名高きオウム真理教の工場を思わせるサティアンと称する不気味な建物群が、日本人の魂のふるさととも言うべき神聖な富士山麓に立ち並ぶわけ。
 せっかく自然豊かな山里になけなしの全財産をはたいて家をてててみれば、たちまち目の前の雑木林は伐採されて産業廃棄物の捨て場に変じても誰に何も抗議できないありさま。
 今、田舎暮らしにあこがれる人が多いと聞くが、ゆめゆめこのような目にあわないよう老婆心ながら忠言もうします。

 これもみな日本の国家、地方自治体の都市計画行政の不備がもたらしたものではないか。
 今、自然景観の保護が叫ばれている。そのためには、山林原野こそ原則、開発、改変不可とし、個別申請によって解除していくようにしなければ絶対ダメだとおもう。
 白馬山麓の無様な安マンション、ホテル群による景観の破壊。群馬県水上の高層マンション、ホテル。自分の部屋からの眺めさえよければ、ほかのことは知っちゃあいないというエゴイズムの醜さ。
 谷川連峰を前えにしたV字がたの狭い谷間いっぱいに、巨大な積み木をおったて、臆面もなくこの眺望をおたのしみくださいという巨大新聞広告が誰に咎めれれる事もなく許されている、この日本の無神経さ。

 今、ヨーロッパへ行く日本人は無数であある。皆何をみてくるのか。ヨーロッパ各国のあの調和のとれた町並みと、それとは隔絶する郊外の畑や草原森林の美しさ。
 其処には、ばかばかしくけばけばしい広告塔、看板などは皆無である。
 それにくらべて、GNP世界第何位とかのこのわが国の景観の乱雑さ、醜さはどうしたことか。
 
 一昔前の日本の景観の美しさは二度と戻ってこないのだろうか。漁村の漆喰目地の屋根瓦の美しさ。白壁と古びて黒光りした柱の民家作りの家並みは。
 今や、家家はハウスメーカの展示場からそのまま、てんでんばらばらに引っ越してきたかと思うありよう。垣根ひとつとっても、ブロック。トタン、フヘンス、バラ線、生垣の醜いパッチワークだ。
 
 こんなことをかきつらねてもただただむなしくなるばかり、このへんで今日は筆を置きます。

 何方か、コメントいただければ幸いです。
 
 


今、憲法9条改定の是非について考える

2005-09-18 02:57:03 | 時事所感
 9月15日(木)に読売新聞が発表した「国家観」世論調査では、「日本人であることを誇りに思う」との回答が88%だったという。

 にもかかわらず、他国に侵略された場合、「武器をもって抵抗する」との答えは、
17%。

 「安全な場所に逃げる、武器以外の方法で抵抗する」という回答は35%だったという。

 これはどこまで本気での回答だろうか。

 普通の人間であれば、人から暴力を振るわれ、人格を辱められたら本能的に反撃にでるのではないか?。

 少なくとも、私は極めて単純な性か、わが身の非力をも省みず、不当な暴力や侮辱を受けたら渾身の力を振り絞って反撃する覚悟でいる。そのため命を落とすようなことがあってもそれはそのときが自分の運命と思う。

 まして、他国の侵略により自分の家族、同胞がむざむざと蹂躙されることなど座視しえない。

 今、憲法9条改定がますます現実味を帯びて議論されつつある。

 私もこれまでは安易に改定すべきではないと考えてきた。

 それは日本が幸いにも四海海に囲まれた地勢学的に極めて恵まれており、外国(現実的には中国、北朝鮮)からの侵略など現実感がないからである。

 しかし、今の世界の状況を見るとき、そんな暢気にしてていいのかなという大きな疑問にとらわれ始めた。

 同盟国アメリカのイラクへの一方的な侵略行為。北朝鮮の軍国主義による自国民への圧制。中国での天安門事件。さらなる中国軍備増強。日本近海での示威行動。ロシアとの合同軍事演習。

 これらの状況を目の辺りにするとき我が崇高なる憲法前文の精神など何ほどの支えになるのであろうか?

 所詮、現在の世界は、アメリカという今や超親分をはじめとして、その有する暴力装置の大小により国家としての発言力、存在感が決まるということは一目瞭然ではないか。

 世界各国が一斉に武装解除し、唯一国連警察軍が世界の治安に任じるように成らない限り、我が日本だけが軍隊を持ちませんといっても通用しないのではないだろうか。

 一旦、侵略されてから抵抗するなどというのはあまりにも犠牲がおおきすぎるのではないか。それよりは、やはり相応の国力に応じた軍備を持ち、侵略者に相応の多大な代償なしには目的が達成できないことをしらしめるべきではなかろうか。これは従来も「戸締り論」としてさんざん言われてきたことではある。
 
 北方領土問題が解決しないのも日本が無力だからではないか。

 今回、国連の安全保障理事国にさえもなれないのも日本が丸腰だからではないか。国家財政が1000兆円もの赤字だという中で、国連分担金だけ24%(?)も負担させられているにもかかわらず、それにふさわしい位置は得られないとはおめでたいにもほどがあるというものではないか。

 中国の学者でさえ「軍事的貢献のできない日本には安保理の資格はない。」と論じていると聞く。

 軍事力を持つことは、先の大戦にいたった経緯を省みるまでもなく国家にとって諸刃の剣である。
 
 しかし、現実の世界が遺憾ながら弱肉強食のままである以上、わが国だけが地政学的な安住の地にいて、きれいごとや理想郷を夢見ていることがいつまで許されるだろうか。

 元弘の役が遠因となって鎌倉幕府は滅びたのではなかったか。

 それから戦乱のない平和な徳川時代に至るまで日本は二百年近くをり苦しまねばならなかったではないか。

 今後の世界は、アメリカ一国覇権主義を許すべきではない。そのためには、当面、米国以外の主要国との連携を強め、国連主導を推進するほかあるまい。

 国連主導を言う以上、日本の国連軍参加は不可欠の要件と考える。そのためには、自衛隊を明確に国防軍にあらため、国連派遣との整合性をとるべきではないか。

 国防軍と位置づけるに当たっては、憲法により文民統制、情報公開、国民的な第三者機関にによる強力な監視機構の付置を不可欠の要件とすべきではないか。
 
 戦前の日本が、無謀にも太平洋戦争に突入していった最大の要因の一つは、「統帥権」の名の下に軍事権に対して議会、国民の掣肘を外し、軍部独裁の道を容易に開かしめたためではなかったか。
 
 羹に懲りて膾を吹くではなく、勇気をもって過去の過ちを奇禍とし、現実に対処すべきではないかと思う。

民主党 前原新代表 当選おめでとう!

2005-09-17 16:27:16 | 時事所感
 9月17日(土)16:13
 
 たった今96対94の僅差で前原新代表が選出された。民主党議員総会のインターネットライブ中継を見た。

 選挙直前の前原代表の短い演説は財政再建に向けて、切るべきものはきる。そして年金、介護 、子育て、教育もっと必要なものに重点的に振り向けると未来志向で力強く抱負を述べた。

 新しい力強い若きリーダーの誕生をみた。感動した。これならやれるぞと感じた。

 おこがましいが今朝の私なりの見立てがあたりそれもうれしい。

 ということは再生民主党への期待が皆同じだということだろう。

 民主党の議員は現状の危機をよく認識したのだ。

 話し合いでなく、他のグループの支援の有無を右顧左眄することなく正々堂々の真っ向勝負を挑んだところに前原新代表の勝因があったと感じた。

 おめでとう!前原新代表。祈る。打倒小泉見せ掛け改革自民党!