蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

秋の夜長、読書の楽しみ―水上勉著「停車場有情」―

2011-10-15 23:53:59 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
10月14日(土)曇り後小雨、降ったり止んだりの肌寒き一日。

 この頃、何故かあれほど夢中だった絵を描くことへの興味が薄らいだ。それよりはこれまで生きてきたことのあれこれを、書いてみることが面白くなってきた。
そうなってみると、文章での情景描写とか心理描写あるいは人物描写を、著名作家たちはどう書いているかが気になりだした。
  そこで本棚から昔買って一度読んでそのままになっている何冊かを取り出してみた。その中に、今から30年前にもなる昭和55年12月、角川書店から刊行された水上勉著「停車場有情」があった。
  著者が、それまでの人生で乗り降りした数々の駅にまつわる思い出を綴った一冊である。読むと、その一遍一遍が、それぞれに味わい深い短編小説のように感じられた。
   今夜はその中から、一読、改めて涙した次の一遍を、まだお読みになられていない方に、そのさわりの部分を抜書きしてご紹介させていただくこととした。

『小浜線青郷駅―孝ちゃんのこと (P101~105)
「…ここは青葉山の麓である。東のほうから見ると富士に似て見えるこの山は、麓の駅からでは、富士の形に見えず、三つ切りたった峯が南北にかさなって、北は成生岬の方へなだれいた。この中腹に、高野、今寺という、全戸かぞえて四十戸そこそこの寒村があって、ここの分教場に私は約二年間奉職していた。…

 私が赴任した日の翌日、見知らぬ農婦が分教場を訪れてきて、その娘の就学を懇願した。きけば、孝ちゃんは、智恵おくれではあるが他の生徒に危害を加えたり、勉学の邪魔になったりするわけではない。ただ、智恵がおくれているだけのことで、年齢もふつうなら三年生になっていなければならないのを、分教場へくる教師が、その就学を嫌って、通学を拒否したというのだった。母親が必死になって義務教育だけはさせてやりたいと拝むのに打たれた。それでその翌日、今寺という上のへ出かけ、谷口家を訪れた。谷口孝子というのが孝ちゃんの姓名だった。

「あしたから、学校へおいでよ。みんなといしょにならんでおいで」
 と私はいった。この今寺から五人の生徒が来ていた。私は上級の子に言い含めて、翌日から孝ちゃんをつれてくるようにと言った。五人の子らは、新任教師の命令ゆえに、素直に聞いて、登校をいやがっていた孝ちゃんを無理やりひきつれてきた。孝ちゃんは年下の子らと一しょに一年生に入学し、私の複複式授業の仲間となった。字もよめなかった。書けもしなかった。絵だけは少し描いたが、画用紙をくばると、彼女は、すぐくちゃくちゃにしてそれで鼻をかんだ。一つ教室だから、全生徒はその孝ちゃんの行動を笑った。けれども、孝ちゃんは授業になれて通学を喜ぶようになった。冬がきて、大雪が続き,荒れた日は今寺は遠かったため、私も父兄たちが子を休ませることを祈っていたが、そんな猛吹雪の日でも、五人の子らは、ひとりの智恵おくれの子をつれてやってきた。白い雪が、電柱も森も埋めて、巨大な布をかぶせたようにみえる山頂から、六人の黒い行列がやってきた。私はその数をかぞえながら涙ぐんだ。
 …
 この蕗採りのある一日、孝ちゃんの姿が夕暮れになっても見えなかった。私たちは、孝ちゃんの行きそうな谷という谷をさがして廻った。陽の落ちた山はなすび色になった。ある生徒が遠い地獄谷という、大人もゆかない恐ろしい谷の岩下から、背負籠いっぱいの蕗を背負ってくる孝ちゃんを見とめて走ってきた。
 「孝ちゃん、いたぞオ」
 ときこえた。私たちはほっとしてその声の方へ走った。鼻汁をたらした孝ちゃんが、頬を赤くして、蕗の山をいっぱい背負っていた。
 「孝ちゃん、孝ちゃん」
 二十二名の生徒らは、みな泣いた。

 八月十五日に敗戦となり、私は、九月にこの分教場を降りて、退職した。私が生家のある大飯町へ帰る日、分教場の全生徒二十二名が父兄に引率されて、青郷駅に集まった。
 その中に智恵おくれの孝ちゃんもいた。孝ちゃんの母親は、汽車の窓から首をだした私に向かって合掌していた。

 青郷駅は、孝ちゃんが鼻汁たらしながら、私を見送っていた駅である。時々、京都から、故郷へ帰る途次、急行がこの小駅を黙殺して通過する。私は窓から身をのりだして、中腹台地の畑の中の分教場を見つめるのである。
 黒い建物が一つ。その向こうで、孝ちゃんが、蕗を背負ってやってくる。

―追記―
 一読、冒頭の部分。さらには文中の『五人の子らは、ひとりの智恵おくれの子をつれてやってきた。白い雪が、電柱も森も埋めて、巨大な布をかぶせたようにみえる山頂から、六人の黒い行列がやってきた。私はその数をかぞえながら涙ぐんだ。』
 いづれも目に見えるような的確で美しい情景描写である。
 そして、今、子供たちの間でいじめが盛んに言われる中でここの子供たちの何んと優しいことか。
その一方で、教師の側には、昔もこんな小人数の生徒たちに対しても、面倒な手間のかかる子は排除して平気な者がいたと言う事である。
それにしても水上勉の優しさはどうだろうか。終生、周囲の多くの女性の心を捉えた聴くが、この本の中に出てくる他の話からも、その秘密が十分に納得できる。
私も4歳から12歳まで水上勉の故郷とは舞鶴を経てその反対側の宮津で育った者として、裏日本いな日本海側の秋から冬にかけての独特の曇天と雨や雪、時雨の多い湿っぽい地方に育った中で、水上勉の作品の底に流れる気分に身近な親しみを感じるのである。