蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

「衆議院議員総選挙期日前投票所立会人」を務めてみて…

2009-08-31 23:40:37 | 時事所感
8月31日(終日小雨時々曇り)

  一昨日の8月29日(土)、生まれて初めて、『貴殿を平成21年8月30日執行の衆議院議員総選挙及び最高裁判所裁判官国民審査における○○市△△町期日前投票所投票立会人に選任させていただきたくご依頼いたします。…○○市選挙管理委員会委員長…』なる文書をいただき、立会人を務めた。

  指定された当日の8時20分、役場の一室に用意されて投票所に出かけた。会議室らしい部屋に入ると、正面に投票箱が3個置かれ、その向こうに並べられた長テーブルに名札立が置かれその二つには選挙立会人、一番右の一つには選挙管理者と書かれてあった。部屋の右手に受付があり係員が3名ほど詰めていた。

  8時半、関係者といっても、我々を含めて8人ほどだが、みんなそろったところで、事務局職員に促されて、選挙管理者が投票所開所の宣言を厳かに行なった。
すると間もなく、早速、投票者が入ってきた。

  受付に投票所入場券を示す。そこで期日前投票宣誓書に署名させられる。係員が記載の仕方を説明する。当日行けない理由にチェックを入れる等、見ていると1、2分を要する。係員は手元のパソコンの画面にその内容を入力するらしい。
  それが済むと隣に座っている係員から、小選挙区用のピンクの投票用紙が手渡される。それを受け取った投票者は一方の壁際に設置されている記載台で候補者の名前を書き、立会人の目の前の投票箱に1票を投じていく。立会人はその瞬間を見届けるのが役目なのだ。投票用紙を入れるふりをして持ち帰らないかどうかを見届けるのである。

  見ていると、投票した人はそこで先ず、やれやれといった表情をみせて、次はどうするのか?という表情を見せる。係員が待ってましたとばかり、「次は比例代表と最高裁の国民審査をこちらでお願いします」と呼びかける。
  投票者は救われた表情で係員に近づき薄青の投票用紙と、氏名が殺風景に印字された裁判官の国民審査の用紙を受け取り、反対側の壁際に設置された記載台に向かう。

  ところが、比例代表の方はスムーズに記載する人も裁判官の方は一様に首をかしげて困ったなーと言った風情である。
さらに、それをそれぞれの投票箱に入れる段になると、たいていの人がどっちの用紙を残り二つの投票箱のいずれに入れるべきか、また迷っている。

  そこが我々の出番である。待ってましたとばかりに、「裁判官の白い用紙は一番端へ、比例は真ん中の箱へ…」と助け舟をだすだ。

投票を終えた方々は、皆さん一様に帰り際に、丁寧にお辞儀をされていく。こちらも一斉に「お疲れ様でしたー」とお送りする。

  穏やかな選挙風景である。それを見ていて私は先日のTVのニュース番組で、今問題のアフガニスタンでは、大統領選挙を巡って、タリバンの指導者らしき男が、「投票所へ行く奴は殺す」とマシンガンを抱えて平然と言い放っている画像を思い浮かべた。この地球上で一寸場所が離れただけで、何たる違いだろうか…、と。

  それにしても、期日前投票なんて、態々投票しに来る人がそんなにいるのだろうかと思っていたら、これが意外に多いのに驚いた。ほとんど切れめ無しで次から次といった感じだ。
  中には、車椅子を介助者に押してもらってくるひと。目の不自由な人。介助者に手を引かれての知的障害のある様子のひと。若いカップル。ニッカーボッカーの職人さん風の人。実に様々である。
  何方もが記載台の候補者や政党名の一覧表をしばし見つめて記載する様子。実に真剣である。

  その姿を見ていて、一体候補者は、この真剣な投票者の姿を知っているだろうか。少なくとも自分に入った何万票という抽象的な数字に凍結したものの中身がこのように吟味された、それぞれの思いを込めたものの集積であることを思ってみたことがあるだろうか…、と思った。

  今回、私が立ち会った投票所では、8月19日から29日までの期日前投票期間中に、有権者約4千人のうち6百5十人余りが期日前投票を済ませたと聞いた。凄いことである。いかに今回の選挙への国民の関心が高かったことか。
  昨日、夜、深夜まで開票速報を見続けた。その結果は事前に報道されていた、世論調査のとおり、民主党の圧勝であった。

  それは、あまりにも自民党の官僚べったりの、官僚の操る木偶でしかない人形芝居に国民の堪忍袋の緒が切れたということではないか。
  しかし、その陰での国民一人ひとりがその1票に託した切ない思いのたけに思いをいたすことを忘れたならば、その怒りのほどが如何ほど大きなものとなるか、今から覚悟しておくべきではなかろうか。

  私にとっても、今回の歴史的選挙に朝8時半から、夜の8時まで、終日、様々な方々の投票する姿を目にしたことは、またとない掛替えのない貴重な経験をさせてもらえたと思った。
  今後の両党が果たして国民の期待に如何応えていくのか、その動きを見るとき、その背景に絶えず、今回目にした投票者の方々を思い浮かべることだろう。



民主党に期待すること!官僚・公務員の意識改革にいかに取り組むか?

2009-08-25 12:06:15 | 時事所感
8月23日(日)晴れ、涼。

  散々じらされ待たされた衆議員選挙まで後7日となった。各種世論調査によれば、民主党の圧勝ということらしい。早くその結果を現実のものとして目にしたいものだ。
  以前は、事前に優勢と報じられると、有権者の天邪鬼が働いて必ずしも予想された結果に反することとなることも多かったようである。
だが、最近は誰もが勝ち馬志向となったためか、良い方はますます勢いが付く半面、悪く報じられた方はますます見放されてより悲惨な結果となる傾向にあるという。

 ということからも、よほどの突風が吹かない限り民主党圧勝はゆるがないのではないか。
さて、となると、民主党に対して、私は唯一つ期待することがる。

 それは、明治維新政府の大久保以来といわれる官僚主導政治の打破である。明治新政府時代は、まだ大久保を始めとして、政治家に明確な国家ビジョンがあり、これに基づき長期的な見地から各般の行政機構が有機的に運用され日清、日露の国家的危機を潜り抜け新生間もない日本国家を世界の大国へ仲間入りさせた。

  ところが、その成功が逆に明治維新を主導し大久保、伊藤といった大政治家が亡くなるとともに、官僚機構(軍部も含めて)が勝手に一人歩きをはじめ、先の大戦への破滅へと日本国家を引きづり落としたのではなかったか。
そして戦後、一部の指導者は、アメリカを筆頭とする占領軍により、戦犯として処刑され、公職追放とはなったものの、米ソの冷戦が始まるや否や、これら指導者はまたぞろ息を吹き返し、この間、解体された軍部を除き官僚機構は旧態依然として残された。それが今日まで続いてきたのだ。

 それでも戦前の官僚機構には、天皇の臣として、天皇への忠誠を通じて間接的には国民への奉仕というか、国民(公)のためにという観念が働いていたのではなかろうか。しかし、戦後の新憲法の下、公僕となった公務員は、天皇という目に見える国民を抽象(客体)化した存在を失った。いわば、国民という抽象化した透明な空気のようなものを主人と仰がなくてはならなくなったのだ。

 同時に、この官僚機構に君臨し使いこなさなくてはならないはずの政治家についても、戦前の明治憲法下の現人神たる天皇という厳然たるナマ身の存在を失い、自分の行為を見守り責任を問うものは、これまた透明な国民という空気でしかなくなったのだ。
 ここに両者相まっての誰からも面と向かっては責任や失政を問われることの無い無責任な政治体制が日本の戦後政治を長く支配することとなったのではなかったか。
 その結果、誰も自分たちの行為や結果責任を厳しく問うものが居なくなったのを幸いに、国民や国家利益なんてものは雲のかなたに消し飛び、誰も文句を言うもののいないところで、政治家は政治屋に堕し、公僕は私僕と化して、国家財政のつまみ食いのし放題というていたらくになったのではないか。

 戦後半世紀に渡る自民党政権は口先では靖国だの国家だの愛国心だのと格好の良いことを言いながら、その実は一見麗しい美辞麗句の大風呂敷に、自分たちががめつくあさった既得権益を後生大事につつみこんできたことにあるのではないか。
今回の敗北は、其の欺瞞性が漸く白日の下に明らかとなり国民に見放されたということではないだろうか。

  翻って、民主党は、果たして、この頭と手足がばらばらな官僚機構をいかに真に国民の手足として再生させ遣いこなせるようになるであろうか。
 そのためには、民主党の指導者が、国民を如何に可視化して自分たちを厳しく見つめる存在として誠実に意識し続けるかということではないか。
 又、官僚に対しても、国民一般というものを抽象的存在としてではなく一人ひとり生きた声を出す存在として意識し、各自の職務を通じて誠実に対応させえるかどうかではなかろうか。

 民主党が真に国民の負託にこたえ得る政権でありえるか否かは、ひとえに官僚や公務員の意識を日本国憲法にいう真の公僕に意識改革ができるかどうかにかかっているのではなかろうか。
 官僚や公務員が真の公僕意識を持って働くならば、この日本は、現下の不況や格差社会からたちまちに再生するのではなかろうか。

  それにしても民主主義国家というものは、難しいものではないか。普通の人間というもは抽象的概念に極めてなじみにくく弱いのではないか。私はこの宇宙、そして私たち人間を含めて全てのものは、我々の眼には見ることもできない絶対的創造者によって創出されたものと確信している。
  多くの宗教者はこれを神と呼び、仏とよぶのではなかろうか。だが私はその絶対的創造者というものを特定のキリストとか、釈迦とか、そうしたものに擬したいとは思はない。
  このこととは次元は違うが、国民とか国家への忠誠といった場合にも、戦前の天皇制やどこかの独裁国家ならその大将軍という目に見える存在としてならば、わが身がどんな遠い位置にあろうとも、何かを、如何ようにか誓いやすいだろう。

   だが、どこにもそんな絶対者の存在しようのない民主主義国家においては、よほど個々の人間が高尚になり抽象的概念の世界で呼吸できるようにならないかぎり至難の業ではないのだろうか。
  民主党は、果たして、この大難題にいかにこたえていこうとするのであろうか。
  私が具体的に一つ提案できることは、公務員試験を始め、あらゆる公的な職員の採用試験には、知能・知識が優れていることは勿論論だが、何よりも他人に対して思いやりのできる、想像力の豊かな人格であってほしい。そのためには、採用試験の実務上どんなに難しくとも人格考査に重きをおくべきではなかろうか。
 他人への想像力の無い、思いやりの無い人間だけには絶対に公職に就かせるべきではない。
  さらに終身雇用を廃して、全て10年単位でその間の勤務実績を審査したうえで、一定の成績を示したものだけを再任用していく有期雇用制とすべきではなかろうか。
  何故ならば、社会保険庁の事例で顕著なように、現在の仕組みでは官僚や、公務員の人事管理ができないからである。安定した条件の下では、組織をそこで働く人間を腐敗させやすいのである。
  中国共産党の腐敗、旧ソ連邦の崩壊又同じ轍ではないか。

渋滞!渋滞!―道路建設は不要か?―

2009-08-08 00:13:18 | 時事所感
8月7日(金)じめじめ天気いまだあけやらず。

  先日、親戚に不幸があって久しぶりに山梨から神奈川へでかけた。中央高速、八王子までは平日の午前中とあってか苦もなく着いた。
  八王子ICを下りて、16号線にのった。とたんに大渋滞である。ほんの僅か立体交差の自動車専用道路が続いたと思ったらあとはほとんどが平面交差の一般道だ。ところどころ立体化工事現場らしきところに出たが、何故か工事が活発に行われているふうはみられない。

東京に住んでいた時から16号線と聞けば魔の渋滞道路と条件反射で思い浮かべていた。その状態が未だに解消されないで続いているのだ。もう半世紀にもなるのではなかろうか。
  よくまあ、東京近辺の首都圏に住む人々はおとなしくも我慢していられるもんだと今更ながらその我慢強さに感嘆するほかはない。
  私のように半隠居爺で何時着いてもかまわない者ならいい。だが、渋滞の中で周りをみれば、トラック、ライトバン、皆、何がしの業務用と思われる車ばかりである。よくこれで仕事になるもんだと感心しきりである。

  これが、我が山梨県内であれば、どこを走っても道はすいすい、ほぼ予定通りで目的地に着ける。ありがたいことである。猿か鹿しか通らないような道でも二車線の素晴らしい道路が縦横にはしっている。県内で舗装されていない道を走る時はよほど気をつけなければならない。いきどまりかなにかであるからだ。

  これに比べて、首都圏はどうだろうか。東京を中心とした放射線道路は高速道路を主として随分整備されてきたが、これを環状に結ぶ道路の建設が一向に進んでいない。
   東京外環、圏央道、ですら肝心の南側方面、神奈川方面へはいつのことやら皆目不明である。よくもこんな状態を放置しておいて、あの夜郎自大都知事閣下は再度の東京オリンピックなんてほざけたものではないか。
  これもみんな民主主義の最大のおかげなのかもしれない。全く民主主義という奴は、我慢強くなくてはいけないらしい。

  この、不景気。地価もさがり、人も余ってっているときこそ、一気に国策としてこれらの環状道路を整備できないだろうか。ちまちました景気対策を小出しにやっているよりなんぼか景気浮揚を期待できるのではないだろうか。
地方の美しい自然を切り裂いて猿や狐のための立派な無駄な道路を作ろうというのではないのである。

首都圏での道路作りは、ごちゃごちゃとスプロール化して、火災や震災に弱い既成市街地を美観に優れ環境の好い都市再生への大いなる起爆剤になるのではなかろうか。
  こういう使い方なら赤字国債も次代へのいたづらな付けとはならないのではなかろうか。

  ところで、このような首都圏の道路整備がいつまでも進まないのは、いまの都道府県の枠組みも大きな足かせとなっているのではなかろうか。
  もし、関東州というものができれば、このような状態を放置できるものでもなく、もっと早く関係者の協議がまとまり実現への運びとなったのではなかろうか。

  久しぶりの渋滞、川崎市旭区の親戚の家につくまで2、30キロしかない行程に2時間以上を要した。その道々こんなことを強く思った。恐らくは我が目の黒いうちにこの渋滞が解消されるのを見ることはあるまい…。
  これが、我が日本の民主主義行政の有難い成果なのだろうか。

平成不況の大波せまる!―いかにしてこの苦境から脱するか?―

2009-08-03 00:32:19 | 時事所感
8月2日(日)雨雲去来往々、山雨降々。

  徒然草155段に云う。「死期は序(ついで)を待たず。死は前よりも来たらず、かねて後ろに迫れり。…沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満が如し。」と。好きな言葉だ。
  
  ところで、この“ 死期”と言う言葉を現下の“平成不況”に置き換えてみると、今の私の心境にぴったりくる。
  
  現下の不況、今日までは申し訳ないことながら、年金生活者の私にとっては、今更どうあがきようもないどこか他所事、まさに“沖の干潟”と思ってきた。
  しかし、夏休みで、息子や、娘一家が久しぶりにやってきて、こもごもその近況を聞いて驚いた。
  先ず、息子の会社はその業容の大半を自動車業界に負っている。そのため会社は受注の大半を失い、危急存亡の中にあるとか。そんなな中で、独身の息子は半ば強制的に給料3割カットで1カ月のリフレッシュ休暇をとらされることになったという。
 また、娘婿の会社は不動産業界。こちらもマンション不況で会社は危急存亡の淵に瀕しているという。
  まさに“平成不況”という大波は、“磯より潮の満が如し”なのである。

  何故、急にこんなことになったのだろうか? 息子の会社も、娘婿の会社もつい2、3年前は株価が急騰して、将来のストップオプションに夢を咲かせていたのにである。
  
  二人の話を聴いていると、この先、近い将来には、とても明るい展望はみいだせないという。
  長く公共企業体しか知らないできた私にとって、民間企業というのは、まさに板子一枚下は地獄の漁師の世界と何ら変らないのだということを改めて思い知った。

  それに比べて、私が生きてきた公共部門というのは、何と世間知らずの能天気の極楽トンボの世界だったことか。
  
  今、この不況、格差社会からの脱出を謳い文句に、与野党が口角泡を飛ばしている。だが、その候補者たちにどこまで現下の状況の深刻さと状況打開の困難さを真に自覚し、それに渾身の力を尽くそうと志している者がどれほどあろうか?
 
  少なくとも今回の選挙では、あまりにもその待遇に天と地の差ができた、公的部門の全てを見直して、少しは民間で働く者の痛みを癒してくれるような、ダイナミックな政策を断行してくれる政党を選ぶ事でしかないと思う。
 
  しかし、聞くところ見る所では、自民党は高級官僚の代弁者・走狗に均しく、民主党以下の野党は、下級・現業公務員の利益擁護に汲々とするかに見えてしょうがないのはどうしたものなのだろうか。
  一体、いつになれば、国民多数の福祉実現のために、公務員を文字通りパブリックサーバント(公僕)として、使いこなせる政党が出てくるのだろうか…。思うや切である。
  そのためには、国家行政組織法、国家公務員法、地方公務員法等の抜本的見直しが急務ではないか。