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江戸時代の上方 庶民の生活とは・・・①

2013年11月16日 19時32分35秒 | 江戸時代とは・・・・・

なぜ、関西特に大阪を 上方 と言うのでしょうか?
上方漫才、上方歌舞伎など、関東に比べて関西方面のものをわざわざ「上方」と称しています。
でも、もっと広範囲に 上方 とも言っていますが・・・・本当のところはどうなのでしょうか?

これは、当然のことながら、関東と違うところがあるからこそ、上方を強調しているのです。
では、その関東とどのように違うのか、なぜ違うのかを、このシリーズで考えて見たいと思います。

では、何時から上方と言われるようになったのでしょうか?

通説では、鎌倉時代の狂言の中に、
「上方を見学致さぬによって、この旅 都へ上りここかしこ見学致し・・云々」
とあり、ここに出てくる「上方」が日本で、初めて使われたと言われています。

鎌倉に武士政権が成立したことによって、日本は、天皇の治める西武士の治める東の二つに分かれてしまい、京都の朝廷と鎌倉の幕府による二重統治の時代が始まりました。

そこで、当時の人は、特に鎌倉周辺の人にとって、京都方面の呼び方を”お上”のおわす土地として敬称を付けて”上方”と称したものと一般的には考えています。

では、その”上方”の範囲はどこまでを指すのでしょうか?
始めは都のある京都だけだったのですが、段々とその範囲は広がっていったようです。

 畿内と7道
    律令制の基本行政単位である国の地方行政区分。
    畿内を”上方”の範囲とする時もありました。

 

江戸時代の書物によると「上方とは、五畿内三州」と書かれています。
五畿内とは、大和(奈良県)、山城(京都府の南部)、摂津(大阪府と兵庫県の一部)、河内(大阪府東部)、和泉(大阪府の南西部)。
三州とは、近江(滋賀県)、丹波(京都府と兵庫県の一部)、播磨(兵庫県の南西部)。

もっと広範囲に言う場合もありました。
江戸時代の代官管轄で関東と上方とに分けているが、上方代官とは、三河(愛知県東部)以西をいい、又、関ヶ原の戦において、東軍に加わった豊臣系大名を関東から見て、上方の東海以西にあったため上方衆と呼んだこともありました。

つまり、関東から見て、京都・大阪を含む愛知以西を広範囲に言っているようです。
でも、このシリーズでは、大阪、京都を中心に調べていきたいと思います。



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