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江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑦ -八百八橋ー

2013年12月26日 12時31分59秒 | 江戸時代とは・・・・・

「江戸は、八百八町」、「京都は、八百八寺」 そして「大坂は、八百八橋」と言われています。
この八百・・・と言うのは、数の多さを比喩的に示す言葉で、仏教用語でもあります。
「〇〇三千」と言う如く、「嘘八百」とか「八百万の神」とか「八百屋」などと言われています。

つまり、八百・・・は、正確な数字ではなく、要は多くありますと言うことです。

 
   
 中之島に架かる橋             

 

江戸の町数は、18世紀半ばでは、1680町程あったようです。
実際の数が、比喩的な数字より多いと言うのは、なかなか珍しいことだそうです。

では、大坂の橋の実際の数は、どのくらいだったのでしょうか?
確かな事は不明ですが、ほぼ200程あったと言われています。

  
   明治5年頃の中之島東部                 明治初年に架けられた難波橋    


しかし、江戸も大坂に劣らず川や堀が多くあり、江戸には約350程あったそうです。
江戸の方が多いのに、大坂はなぜか、「八百八橋」と言われています。

 
 
  昭和初期 1930年代の難波橋界隈     難波橋は、別名ライオン橋とも云われている
 現在の橋は、1975年(昭和50年)に大阪市によって大改修されました。           



これには、江戸に対抗する大坂の意地があったようです。
つまり、江戸の橋は、半分が「公儀橋」と呼ばれ、幕府が架けた橋ですが、大坂の「公儀橋」は、天神橋、高麗橋、難波橋など12橋しかなく、その他は全て、大坂の町人たちが生活や商売のために架けた橋なのです

それだけに、大坂の人々は、生活に密着してきた橋に愛着があり、、橋を大事にしてきました。
それ故、江戸よりは少なくとも、自分らで架けた橋を 「浪速八百八橋」と言って誇示してきたのです。



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