江戸庶民の住居といえば、長屋、それも裏長屋を思い浮かべます。
当時、江戸の人口を100万人として、半分の50万人が武士で、残りが町人の人口になります。 がそのうち約30万人が長屋に住んでいたと考えられています。
長屋というのは、歴史的に見て、伝統的な都市住居として広く見られる形態でした。
お城でも多門櫓と称して長屋を塁上に造り、防衛の建物として威力を発揮していました。
又、城内や大名屋敷の敷地内のも長屋が作られ、家臣などが住んでいました。
御殿女中の住居も長局と呼ばれ、江戸城大奥での長局は戸別にトイレ・キッチン付きで2階建てで、長さは80mもありました。
神田明神下の風景 遠くに長屋も 彦根城の多門櫓 お城の長屋
明治初めの撮影です・・・
町民でも中層階級の商家などは、表通りに独立した店を構えていましたが、それ以外の町人や職人は、ほとんどが裏長屋の借家住まいでした。
落語などでも知られているように、裏町の長屋で密集した中での生活であったのですが、人情こまやかで、相互扶助的な生活をおくっていたようです。
江戸時代の長屋は、ほとんどが平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所(土間、約1畳半)であり、部屋はせいぜい4畳半程度でした。
島津家、大名屋敷の長屋門
現在は、品川駅前のホテルがあります。
1棟分の間口が9間、奥行きが2間半を6等分したのが、1世帯の住居となります。
これが、江戸の「九尺二間」の棟割6軒長屋といわれるものです。
一所帯の面積は間口が9尺、奥行きが2間半、面積は約3.7坪(12.4㎡)
路地に共同トイレがあり、風呂はありません。(火事の危険性が高く、防災上の理由で禁止されており、入浴は銭湯を利用)
水は、共同井戸がありましたが、この井戸は地下水を汲み上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取り口なのです。
江戸での水道等については、次回に掲載します。