旧愚だくさんブログ

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今年最後の「密教の哲学」

2005年12月13日 | 仏教・仏像

今日で第6回目を終了したこの講義。
家族の協力の賜物で、これまで一度も欠席せずに来られたものの、はてさてその成果たるや如何に。
うーん・・・・相も変わらず「今日は、これこれこういう事を学びました」とクリアに言語化出来ぬ体たらく。
だって、難しいんだもん。それに、そう簡単に言葉で括れないのが哲学であり仏教じゃなかろーか。
なーんて開き直りばかり立派だったりして。

動物と違って人間は言葉を持つ。
心でも物でもないのが言葉。言葉は心と物の中間。
言葉の実体観が物を価値化し、それが我々の行動を決定する。言葉に囚われ差別化して見るのが我々の世界。
時に有るものを無いと言い、無いものを有ると言う様な虚妄性に満ちた言葉「戯論(けろん)」に我々が囚われる事で数々の煩悩が成立する。
想(想念)があり、想を実体化するのに戯論が起こり、人がそれに囚われて精神的な苦痛を感じるのであるから、戯論、そして想そのものを滅すれば良いわけだが、此処で釈尊は想を滅しようとせず、想を意識しない時に真に想を滅したことになる、と教える。
想うのでも想わないのでもない識別作用の止滅。
有る・無いの判断そのものの止滅。
あらゆる物への執着を断ち切り、無明(生老病死の苦しみの根本原因)と我執(自我に固執する見解)をうち破って、世界を「空」なりと感ぜよ。
※無明と我執で無我

・・・が、釈尊の教えの根幹で、これが大乗仏教の根幹ともなり、何れは密教に反映されて行く・・・なるところで、今日の講義終了。
「では皆さん、良いお年を」で終った。
それにしても・・・・嗚呼!むずっ!

講義が退けて、すっかり元の凡夫に戻ったカメは、子カメ達にデリシャスなお土産を・・・と思って銀座三越のデパ地下に行った。
そうしたら、何と琴欧州関がお付の人に囲まれながらスィーツ選びしてるじゃないのぉ。
流石は関取、大きかった~!
「今年は有名人と縁があるなぁ」と喜びながら、すぐさまケータイバチバチでご自慢メール。ヘヘ・・
まったく、これだもんなぁ。
つい先ほどまでの有り難い講義は何処へやら・・・・。
しかしですね、カメが大好きな言葉が
「煩悩即菩提」
あ~、救われるっ!
これだから仏教って好きよぉ!