短歌とは全く縁がなかった自分が、窪田空穂記念館のお守をしなければならない巡り合わせとなり、当初やらねばならなかったのは、空穂さんについて学ぶことでした。同時代人には与謝野晶子や柳田国男、折口信夫がいます。折口とは同時に歌会始の選者を務めていますし、柳田が亡くなった時は別れの短歌も作っています。こんな人を知らなければならないということで、頭を抱えてしまいました。幸いにも、空穂はある時期自然主義の小説家に転向しようと思ったみたいで、かなりな小説や随筆を残しています。それらは、自分の生い立ちや故郷の風物を如実に反映した作品ですから、読むことで空穂の人となりを想像することができました。
空穂はある時期、大学から博士号をとるようにいわれたが、自分は歌人であるといって拒否したそうです。その空穂の歌ですが、いったいどのように評価されるものなのか。
短歌は態度の芸というのが空穂の時論だった。生活態度がまず先にあって、その頂点のあらわれが歌であるというのである。作品だけよくしようと思っても不可能である。人生を離れて芸術などはないと考えていた。「歌は精神の現はれである。随っていい歌を詠まうとすれば、いい精神を持って居なければならない」(『歌の作りやう』)それゆえに、芸術至上を訴えるさまざまな短歌の動きにも超然としていた。歌は自分の気分にそって詠めばいいのだという。その地点にくると、空穂は強かった。揺るがない。(小高賢「窪田空穂の生涯」『窪田空穂-人と文学-』)
空穂の歌は生活詠であり、根っこには確かな自分がいます。明治10年生まれのなのに驚くほど自我が強固なのです。花鳥風月を詠むのが短歌ではなく、自分の心を詠むのだと最初から言い切れる空穂さんは、すごいと思います。だから、東京に行かなくては田舎では暮らせなかったのです。空穂ほど、郷里や父母を詠った人はいないとかいいますが、郷里や親についてたしかに多くの歌を詠み散文を残していますが、世間のありきたりの評価を裏切るような、こんなことも実は書いているのです。
「君は郷里は好きですか」
「郷里が好き?」M君は反問するようにいった。そして急に緊張した顔になって、暫く私の顔を見詰めてゐた。
「あれでせうか?本当に郷里が好きだなんて人間が、ゐるものでせうか?」
私もM君の顔を見かへした。平べったい、眼と眼のあひだの広過ぎる、うまい綽名をつけたものだと感心すると共に、一種の親しみを覚えさせられる顔は、その時は緊張の爲に一種の峻しさを帯びて来てゐた。
私のM君について記憶してゐることはただこの事だけだ。或はこの事によってM君を記憶してゐるかも知れない。とにかく、その後M君のことは、一再ならず思ひ出した。そしてその度び毎に、M君はいいことをいったものだと思ってゐる。(「故郷」)