民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

窪田空穂とは誰か2

2014-08-18 09:52:19 | Weblog

 短歌とは全く縁がなかった自分が、窪田空穂記念館のお守をしなければならない巡り合わせとなり、当初やらねばならなかったのは、空穂さんについて学ぶことでした。同時代人には与謝野晶子や柳田国男、折口信夫がいます。折口とは同時に歌会始の選者を務めていますし、柳田が亡くなった時は別れの短歌も作っています。こんな人を知らなければならないということで、頭を抱えてしまいました。幸いにも、空穂はある時期自然主義の小説家に転向しようと思ったみたいで、かなりな小説や随筆を残しています。それらは、自分の生い立ちや故郷の風物を如実に反映した作品ですから、読むことで空穂の人となりを想像することができました。
 空穂はある時期、大学から博士号をとるようにいわれたが、自分は歌人であるといって拒否したそうです。その空穂の歌ですが、いったいどのように評価されるものなのか。

 短歌は態度の芸というのが空穂の時論だった。生活態度がまず先にあって、その頂点のあらわれが歌であるというのである。作品だけよくしようと思っても不可能である。人生を離れて芸術などはないと考えていた。「歌は精神の現はれである。随っていい歌を詠まうとすれば、いい精神を持って居なければならない」(『歌の作りやう』)それゆえに、芸術至上を訴えるさまざまな短歌の動きにも超然としていた。歌は自分の気分にそって詠めばいいのだという。その地点にくると、空穂は強かった。揺るがない。(小高賢「窪田空穂の生涯」『窪田空穂-人と文学-』)

 空穂の歌は生活詠であり、根っこには確かな自分がいます。明治10年生まれのなのに驚くほど自我が強固なのです。花鳥風月を詠むのが短歌ではなく、自分の心を詠むのだと最初から言い切れる空穂さんは、すごいと思います。だから、東京に行かなくては田舎では暮らせなかったのです。空穂ほど、郷里や父母を詠った人はいないとかいいますが、郷里や親についてたしかに多くの歌を詠み散文を残していますが、世間のありきたりの評価を裏切るような、こんなことも実は書いているのです。

「君は郷里は好きですか」
「郷里が好き?」M君は反問するようにいった。そして急に緊張した顔になって、暫く私の顔を見詰めてゐた。
「あれでせうか?本当に郷里が好きだなんて人間が、ゐるものでせうか?」
 私もM君の顔を見かへした。平べったい、眼と眼のあひだの広過ぎる、うまい綽名をつけたものだと感心すると共に、一種の親しみを覚えさせられる顔は、その時は緊張の爲に一種の峻しさを帯びて来てゐた。
 私のM君について記憶してゐることはただこの事だけだ。或はこの事によってM君を記憶してゐるかも知れない。とにかく、その後M君のことは、一再ならず思ひ出した。そしてその度び毎に、M君はいいことをいったものだと思ってゐる。(「故郷」)


窪田空穂(うつぼ)とは誰か1

2014-08-18 09:14:02 | 文学

 ようやく少し落ち着いて身辺のことを考えたり、自分の立ち位置を客観的にながめられるようになってきました。今までは敷かれたレールの上をわけもわからず、脱線しないように走ることに追われていました。

 そこで、まずは今所属する施設は窪田空穂記念館ですから、空穂というのはどういう人なのか紹介し、その中でこの半年近くの間に考えたことを綴ってみたいと思います。

 窪田空穂(くぼたうつぼ)は明治10年に松本市郊外の和田村に生まれました。本名は通治といいました。そんなに広く知られているわけではありませんが、多分次の短歌は中学校の国語の教科書に載っています。 鉦ならし信濃の国を行きゆかば ありしながらの母見るらむか  空穂の母は、空穂が20歳の時に59歳で亡くなってしまいます。この歌は亡くなって4年後に発表されています。空穂は母が39歳、父が41歳の時の子どもでしたから、かなりかわいがられわがままに育ったようです。その分、母が亡くなった時にはかなりショックを受けました。逆にいえば、若くして母が亡くなったからこそ鮮烈な印象を残し、こんな短歌ができたともいえるでしょう。空穂は歌人でありますが、早稲田大学国文科の教員として古典文学を研究した学者でもありました。坪内逍遥に認められて早稲田に設けられた国文科に専任講師として招かれました。43歳のことです。それまでは新聞記者をしたり女子美の教員をしたりしています。早稲田に招かれる以前の仕事としては、読売新聞の身の上相談欄の執筆が有名です。

 空穂は昭和42年90歳で亡くなりますが、発表されているだけで14000首以上の歌を亡くなる直前まで読み続けます。亡くなったのが4月12日。次の歌は4月7日のものです。                             四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し

 遠のきつつまた戻る意識を自分が見つめていることがわかります。こう見ると、死ぬことも怖いことではないと感じさせられます。