民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

福島正則と一茶

2017-05-30 17:35:20 | 歴史

今日は高山村の一茶館と福島正則の居館跡を見て帰ってきました。まずは一茶です。一茶は信濃町の柏原で生まれた俳人です。なんで高山村で一茶なのかと思いましたが、高山村の豪農が一茶のパトロンで、離れを一茶のために用意して養い、一茶は1年の半分もそこで門人の指導をしながら暮らしたのだそうです。実は、先週の土曜に信濃史学会の総会があり、記念講演で高橋敏先生が百姓弥太郎としての一茶を取り上げ、ちょっとひねった話を聞かせてくれたので、興味をもって見ることができました。高橋先生の話は、皆一茶は芭蕉と並ぶ俳人として偉がるが、本当にそうか?柏原の地域社会の中で一茶を見たら、10年も江戸へ出て家のことは全く顧みないでおいて、いきなり帰ってきたと思ったら、勤勉に家を守り農地を増やして百姓を継いできた義弟から、何年も訴訟をして財産を奪い取るというひどいことを平気でできた人だ。人としてどこがそんなに偉いのか、といった話でした。句を読めば、いかにも弱弱しくいじめられて育ったかのように思われるが、本当は平気で弟から財産をぶんどれるような人なのだ。ということで、資料をまとうに読めば、一茶の違った姿が見えてくるというのです。一茶が足しげく高山村に通ったのも、生地では相手にされず飯を食うためにパトロンのところに食客として居候していたともいえます。一茶のいた離れを移築して保存してありましたが、なかなかしゃれた数寄屋風の家です。

福島正則屋敷跡は寺になっていました。石垣が残るのみですが、居館とはいえないほどの広さです。広島50万石から川中島2万石、越後魚沼に2万5千石の領地を得てといっても形ばかりの領地を与えられて、体よく流されたのでしょう。館跡は県史跡となり、高井寺(こうせいじ)がたつ。うろうろしているのに気付いた寺のお大黒が、戸を開けて本堂に上げてくれました。「(福島正則が)なくなったあと、一か月も見に来なかったんだそうですよ。はめられたんですね」問わず語りに、今も昔もひどいことをしますねと話してくれました。福島正則は病死ですが、幕府の検視が来る前に荼毘にふしてしまったとお咎めを受け、領地は全て没収されたとか。福島正則の嫡子は若くしてなくなっていますが、それも毒殺じゃないかといいます。寺のお大黒はそんな話もしてくれました。