民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

改めて「ヤマはマチだ」

2017-05-08 15:14:20 | 民俗学

5月3日に民俗の会の例会が長野市鬼無里であり、参加してきました。もう何日か経過してしまい自分の中で新鮮味が失われ、ブログに書こうとしていたことも薄れがちです。行ってきてから、グダグダと考えていてなかなか書けなかったのです。それはなぜかといえば、かつて善光寺町で調査をしたとき、戸隠や鬼無里との麻を通じた結びつきをお聞きし、華麗な彫りを施した屋台を見て、山の中に町を見出し、田畑の作物に頼らないという経済的ありようはマチとヤマは同じだとひらめいたのです。「ヤマはマチだ」という思いは今も変わりません。というか、むしろそれを深めてこなければならなかったのに、日本民俗学会の松本年会で話した段階のまま、停滞しているのです。このあたりが、学者といわれる人たちとアマチュアとの違いであると思います。このことを追求していけば、何か新しい領域が開けてくるなというひらめきは感じますが、いつも温めていて次の興味へと移ってしまいます。最近でも、石信仰について自然石を道祖神として祀る習俗は従来の道祖神信仰とは違った、もう一つの信仰の流れかもしれないという思いはありますが、そればかり追求しようとはなりません。

 

鬼無里の氏神をまつる神社ごとに屋台を1基制作して引き回しました。いずれも欅の木から彫り出した見事な彫刻が施されたものなのです。江戸時代に山の中の道を、お囃子を乗せたこの屋台がひかれていくと、ここはどこの場所かと思われたでしょう。相当なお金のかかった屋台です。山の村の人々の負けん気が伝わってきます。鬼無里は炭焼きと麻が現金収入の道でした。炭焼きの村を揶揄した物の言いようは、日本中各地にあります。そんなムラビトに、オラッチのムラの屋台を見てみろ、どこにも負けねえぞ、という誇りを与えた気がします。事実、ある地区の屋台は近代になって、長野市のマチに買われたようです。鬼無里では欅の木目を生かした白木の屋台だと自慢していました。今もしています。ところが、購入したマチでは彩色を施してもっと立派にしたといいます。しかし、鬼無里では価値のわからないマチの者が、せっかくの白木の彫り物に色を塗って価値を下げたといっているみたいです。こうなるとヤマとマチの意地の張り合いです。

こうしてみると、少なくとも江戸時代までは文化の中心地はいくつもあって、必ずしもマチを中心にした同心円ではなかったことがわかります。わが里の誇りは各地にあったということでしょう。ところが、今や完全に東京など大都市を中心とした文化のありように、人々は何の不思議も感じなくなってしまいました。