民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

年会参加記 4

2005-10-14 18:15:24 | 民俗学
 1日目の懇親会、そして、我県の面々に加えて群馬のI氏、横浜のY氏、京都のA氏らを加えた2次会の熱い議論を経て、2日目の研究発表となった。前日の議論で腹いっぱいの観があり、研究発表はもうよいかという思いもあったが、勉強勉強と言い聞かせ、会場に足を運んだ。
 さて、2日目の研究発表は11会場に分かれて、118名の発表があった。ものすごい発表数であり、これだけみれば民俗学は多くの研究者をかかえて安泰である。本当かな? 発表の内容を、要旨から私が勝手に分類してみた。社会生活9 人の一生6 生産生業9 年中行事8 民俗誌15 住居1 信仰35 口頭伝承8 民俗知識5 民俗芸能4 方法論3 学史2 フォークロリズム21である。
分類のしようがなく、つまり私なりに「これは民俗学ではない」と思われるものは除外したが、大方の傾向はわかっていただけるだろう。信仰が多いのはわかるとして、今回の研究の流れとして、便宜的に私がフォークロリズムと名づけたものが多かった。どんなものかといえば、例えば「民俗と行政」「地方行政政策の展開と民俗芸能」「国策旅行ブームと宮崎観光」といった、「民俗」を所与のものとして、どう利用するか、関わるか、といった内容のものを分類してみたら、信仰に次いで多かったのである。
 新たな調査による報告がこれからはあまり期待できないことから、既存のデータをどう生かすかに学生が走るのも仕方ないかもしれないが、それって民俗学か。そんなことが面白いの、と古い民俗学研究者は思ってしまう。何を面白がろうが、余計なお世話だといわれれば、確かにそうだが、行政がいかに利用したら有効に民俗学が生かせるかは、役に立つ民俗学かもしれないが、それは行政学であって、民俗学の面白さではないだろう。学生がこれからどうやって飯を食っていくかは、大学における指導者の切実な課題だろうが、メタ民俗学のようなことをしていては、ますます民俗学の源泉は枯れてしまうだろう。民俗学は、少なくとも私にとって民俗学は、生身の人間のトータルナ生活をこそ聞き書きで明らかにせんとしたものだ。それが、「野の学問」といわれる所以だ。だからこそ、私はこの学問と一緒に生きてゆこうと思ったのだし、これからも生きていくつもりなのだ。民俗学を行政でどう利用するかを考えていた学生は、卒業したらおそらく研究からはきっぱり足を洗うだろう。そうしてこの学問は、アカデミズムに属する者だけが担う、細々としたものになるだろう。