教育のヒント by 本間勇人

身近な葛藤から世界の紛争まで、問題解決する創造的才能者が生まれる学びを探して

教育学の変貌とは何か?

2009-10-04 21:11:58 | 
変貌する教育学

世織書房

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☆教育学というものが哲学や思想から遠のき、実証主義的方法論に陥っていることを批判的に考察し、教育学の再構築を論じている。

☆思想と哲学から自立することによって、教師文化の内部で醸成し閉塞状況に陥っていることを批判している。

☆しかし、この教育学の殿堂こそ東大教育学部だったではないか。

☆だから、逃げ道として、外部からの透明性・開放性という名の抑圧が、かえって教育の本来性を隠蔽してしまっているという防衛機制も働いている。

☆日本の公教育における教師の中で自発的に行われてきた「授業研究」が、教育政策によって、そこに光がはいるどころか、無用のものにされようとしているという危機意識を前面にだしてもいる。アメリカでは、この「授業研究」を「レッスンスタディ」として教育改善の有効な機会として、日本から輸入しているとさえ論じている。

☆しかし、その防衛機制が論じられれば論じられるほど、世界精神とは全く別の教育学の自閉された世界、教師のローカル理論がどのように形成されていくか、その過程が明らかにされていく。

☆決定的に無視されているのが、変貌するといいながら実は外部から隔絶された内部の中での変貌で、世界のパラダイムの変貌に対応しているのではないという点だ。

☆なぜなら、内外の同時変貌を可能にするには、教育関連法規が改正されねばならない。学習指導要領が根本から改正されねばならない。教育が国家から国民、国民から市民の手にシフトするというのであれば、市民の手による法改正の議論がなければならない。

☆どんなに変貌を提唱しても、知識と能力ベースの学びの構造が法律によって定められている限り、いかにミニマム原理だといわれても、それを限界にするのが現場である。

☆教育学が実証主義的なのは、そもそも法律が法実証主義をベースにしているから当然なのである。悪法も法なのだ。だから法律をまず変える。実証主義をただ批判していても変貌などあり得ない。実証主義のルールに合わせて法改正をするのが現実的なのだ。

☆法律論もない、経済原理もない、思想もない。これが教育学の現状である。

☆あるのは、国内の法枠組みの中で展開される教育政策をどのようにうまく活用するかどうかというノウハウ論だけなのだ。

☆学としての教育学を論じるなら、教育そのものが学問の自由を保障できるのかどうか確認することからはじめるのが市民としての目線である。

☆教育関連法規に基づいた文科省の教育政策を解体できない教育学に、学としての教育学はあり得ないと考えるのが市民としての公共的な立場である。

☆結局、学尊民卑としての教育学、官尊民卑としての教育政策なのである。政権交代によってこれを変えねばならないというのが、本当の変貌する教育学なのだろう。

☆鈴木寛氏は、どこまで辣腕をふるうことができるのだろう。大いに期待したいところではある。

★そうそう。この教育学の対象は、公立学校である。私立学校については、建学当時から、すでに本来的な変貌する教育学の希望と光を放っている。ここに対する研究がなされていない教育学が学になることはあり得ない。研究せずして経済格差の拠点として批判する教育学や教育社会学は、すでに学としての基礎を無視しているといえる。

★それから、公立教育の中で本来的な教育を保守しているのは、一部の教師と生徒のコミュニケーションである。しかも制度化されたコミュニケションではなく、個々の教師の良心である。この良心を制度の中にとらえかえすことこそ本来的な教育学なのに、子ども不在の変貌する教育学は、まさに沈黙の切り株である。