クラシック 名盤探訪

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武蔵野の面影を求めて~善福寺池から妙正寺へ

2012年02月26日 | ウォーキング
コース順路:コース満足度★★★
JR西荻窪駅 → 東京女子大学 → 善福寺公園 → 井草八幡宮 → 浅間神社 → 観泉寺 → 妙正寺 → 妙正寺公園 → 天祖神社 → 井荻駅

友人が子供の頃に毎日のように訪れよく遊んだという善福寺公園、八幡宮、それからお寺などを訪ね、昔の思い出話などを聞きながら散策を重ねる。
東京女子大学の初代学長は「武士道」の著作で有名な新渡戸稲造、「われ、太平洋の橋とならん」の言葉でもよく知られている。
日本に女子の大学教育がなかった時代に、国際社会を見据えた女子高等教育をここから始めたと言ってよい。
昭和6年(1931)に建てられた東京女子大学の本館はアントニン・レーモンドによる設計で、のびやかな軒の形が特徴とされていて見学したかったのだが、残念ながら要予約ということで門前払いの憂き目に合う。
すぐ先の善福寺公園に到着、中心をなす善福寺池は古来より武蔵野台地からの湧水池として知られていて、まだ農村だった江戸時代には、貴重な水源とされていた。
善福寺の名は、池のほとりにあった寺の名前に由来しているが、その寺は江戸時代に廃寺となっている。
ややこしいことに近辺に「善福寺」という名の寺があるが、これは福寿庵という元々違う名前だった寺で、本来の池の名前の由来にはなっていない。
 

源頼朝が奥州征伐の際にこの地に宿陣、飲水を探して弓筈で各所に穴をあけたが水の出が遅かった。
ここの地の旧名が「遅の井」と言われた所以とされている。
弁財天に祈りやっと水を得たという言い伝えにならい、建久8年(1197)に江ノ島弁財天を勧請したのがこの市杵島神社の始まりで、旱魃の折には雨乞い祈願に、近隣の練馬や中野の村から多くの人が訪れてきたという。
井草八幡宮は旧上、下井草村の鎮守とされ、明治時代まで遅野井八幡宮とも呼ばれている。
源頼朝が奥州征討の戦勝を祈願して手植したという境内の大きな松を探したが見当たらない。
説明板によると、残念ながら枯れてしまったらしい。
 

戦国大名の今川家の菩提寺で、累代の墓所があるという観泉寺を訪れる。
菩提となった経緯を調べてみると、「・・・今川氏は室町戦国時代は駿河国などを治めた一大大名であったが、桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に敗れてしまう。義元の子、今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、後に江戸で没する。氏真の孫、今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績により徳川家光から井草村を含む知行地を与えられる。江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点となり、領民からの年貢の取立てや裁判などを寺の門前で行っている。その今川氏も明治時代に断絶してしまう。・・・」とあり、ここの地名<今川>の由来となって、今川氏はその名を残している。
 

最後に、文和元年(1352)の創建で三十番神堂として知られる日蓮宗の寺、妙正寺を訪れる
三代将軍徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄り、神前に武運長久を祈願して葵の紋幕と朱印地五石を寄進し、以来「御朱印寺」として有名になっている。
近くの天祖神社の由来を見ると、「・・・新編武蔵風土記稿・多摩郡下井草村の条に”十羅刹堂”とあり、妙正寺御朱印地ノ内ナリ即此ノ寺ノ持・・・」と記されている。
十羅刹とはもとは人を食う悪魔だったが、後に法華経を守る守護神となった十人の羅刹女といわれている。
日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀った言われがよくわかる。
 

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