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流出雑記 

2016/6/9

2016年06月10日 | Weblog
晴れていたが昼過ぎ雨が急に降りまた晴れ

梅雨どきは特に晴れ間さえあれば洗濯をしたいので、天気予報に意識的になる。
洗濯機が洗ったりすすいだり、働く音を聞いていて、全部手洗いだった時代があったのかとシリアルを食べながら月に何度か届く市民新聞や軽く読める本を読む。

誰だったか詩人が、書きたいものを書ける訳ではなく、書けるものしか書けない。けれど読むものを選ぶ自由がある。というようなことを書いていて、確かにそうだと思った。読んだものが即自分の語彙になるわけではないけれど、言葉の選択やひとつの事柄を言うのにどれくらいの言葉を費やすか、スピード感や密度、語り口、そういうものの集積が自分の文体を構成していく。
というのは確かだと思う。
最近写真を撮っているけれど、それと同様なことが写真にもある。何に目を向けるか、視線の方向と切り取り方の多様さは人の目から教わった。昨夜、東松照明やアラーキーの写真集を改めて眺めていて、私は特にアラーキーの撮る都市や街がとても好きだと思った。いろんなものを撮る人だし、くどくてあんまり見ていられないものもあるけれど、アラーキーに撮られた都市や街の澄んでいること。そこにある音や声やにおいから切り離された、ただただ写真である像の持つ力がある。写っているもののおもしろさに加担したり助長するようにシャッターを切っているのではなくて、あるものをあるがままに撮っているのに、写真でしかできないことをやるのはこういうことだと思わせられる説得力がある。何というか、撮り手の作為が写り込んでいない。もちろんアングルから何から選び抜かれ、またその選び抜いたことさえも検証されているはずで、撮るという作為以外の何物でもないはずなのに。