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流出雑記 

2016/2/13

2016年02月13日 | Weblog
開演前、舞台袖に無駄に早くついている。単に袖が好きだから。

観客の足音と話し声、かばんに付いたキーホルダーが座席の木の手すりに当たる音、紙の音などが聞こえる。モニターに映る客席に徐々にいろんな色が増えて、埋まっていく。客入れ中の明かりがともるまだ始まっていない未劇の舞台上。

1時間やそこらの会話や動きの最良の瞬間のために、同じことを何度も繰り返してきた。演劇の欲望は繰り返せない瞬間の連続にある私たちの生の不可逆性の実感、に根ざしているのだろうか、とかそんな頷けそうなことを暗がりで思う。それでも何公演あってもその日その日の本番はやっぱり繰り返せない1回なんだけど。

客席でも舞台上でもない舞台袖は、見えてはいけない、見せない、あるけどない隙間のような場所。袖には見切れ線、というここから先はお客さんに見えてしまいますよという線が引いてあり、見えないように気を付け、足音を殺すため床にはパンチが張ってある。舞台袖はいながらいないで生身の緊張のピークを味わう場所でもあり、また緩まる場所でもある。

真横から舞台上を眺める開演前の宙吊りの時間。灯体のシルエット、吊られている美術、置かれている美術、操作盤、小道具、着替えの衣装。

良き瞬間を切望する。たった一言、たった一歩の足の運び、それが重なっていく時間を。繰り返しのなかで私の意思よりも先立って、良きものを希求する存在の欲深さがある。
この衝動を引き出すには私の外への宛先が必要で、それは観客を含めた作品に関わる人たちのため、とも言えるけれど、もっと別の、人型を充てがわれたときに交わした覚えのない約束、らしきものがある、と思うことがある。
覚えてないのに約束があることは知っている、というのは矛盾している。でも求めるものはいつも矛盾の真ん中にある。例えばそれは混沌を殺さないまま目鼻を穿つことのように。
良きものを希求する、それは必ずしも善ではなく、一義的な美でもなく、例えば残虐さの中にさえあって、なおかつ約束の形をしている。これは一体何なのだろうか。