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ららら科学の子

2006年12月13日 12時35分10秒 | 読書
矢作俊彦著「ららら科学の子」     文藝春秋

 「のだめカンタービレ」というマンガにパリプラージュのシーンがあった。夏の間セーヌ河畔に砂を敷き、海辺のバカンスに行けないパリジャンも楽しめるという企画。浜で寝そべっている横を車が通るなんて論外。だから期間中その区間は車は通行禁止。環境問題に関心の強い社会党のドラノエ市長になって実現したものだ。
 でも、すでに今から約40年前に、パリのプラージュ(海岸)は舗石の下にあると叫んだ若者たちがいた。若者たちは他にも「学問を忘れよう!夢を見よう!」とか「ぼくはグルーチョ・マルキシスト」とか「ポエジーは街に」と主張した。サルトルが第三世界はパリ郊外から始まると言った、パリ郊外、ナンテール大学で起こった異議申し立ては各地で大きな渦となって広まった。
 世界中の若者たちが自分たちの親に、親の世代に反抗した。ジョン・レノンは「Don't trust anyone over thirty」と若者たちを煽り、ジャン・リュック・ゴダールは赤い星のついた人民帽をかぶったフランス人女優に世界を戦場に変えろとあじらせた。
 日本では、佐世保のエンタープライズ寄港反対デモや三里塚、ベトナム反戦運動、新宿駅騒擾事件があった。新宿駅はベトナム反戦運動の象徴でもあった。前の年にアメリカ軍のジェット燃料を積んだ貨物列車が運転手のミスで大爆発していた。国民には知らされていなかったが、日本で一番乗客数の多い新宿駅を、発火点40度、わずかな衝撃で大爆発を起こす列車が走っていたのだ。

「日本の国有鉄道が、街のど真ん中で、アメリカ軍の兵站を担っていた」(以下、引用は「ららら科学の子」)

 同じ頃、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れていた。党での発言力や影響力が低下した毛沢東一派が主流派を修正主義と批判。毛沢東の原理主義を信棒する若者たちが紅衛兵としてこの革命をリードした。

「子どもが大人を批判し、訴追し、公開で処刑めいたことまでする。むろん、そこにいるのは子供だけではない。しかし、大人たちは子供の熱狂にまきこまれ、まともに大人として振るまおうとはしなかった。熱狂が引くこともなかった。一度鎮火しても、町のあちこちでまた必ず火がつき、あたりを焼き尽くさずにはおかなかった」

 造反有理、革命無罪。1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言する頃までがその絶頂だっただろう。それにしてもこの記述は中国の文化大革命にも当てはまるし、カンボジアのクメール・ルージュ、古くはサヴォナローラに支配されたフィレンツェの状況にも当てはまるだろう。歴史から何かを学ぶには悲劇が必要なのかもしれない。
 そして、そのどれもが行きすぎと行きすぎに対する反動という2つの悲劇を用意する。
 中国ではこの期間中、chinaの語源にもなった景徳鎮など伝統工芸は破壊され、職人たちはブルジョワ的ということで迫害を受ける。やがて迫害は知識人にも及び、これがその後中国にとって大きな打撃となった。文化大革命中の虐殺者の数は2000万人とも5000万人とも言われている。

 「彼」が中国に密航したのは、まさに文化大革命の嵐の絶頂期だった。逆に言えば、折り返して反動が来る前夜だ。世界中の若者たちを客人として扱っていた政府は次第に態度を硬化させていく。文革は70年代まで続くが、68年の段階で過激な紅衛兵に対する圧迫は始まっていたのだ。

「義父の言う通りなら、彼が日本を発つ二ヶ月も前に、紅衛兵運動は事実上終わっていた」

 彼は他の紅衛兵とともに電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、その後何時間も歩いて行かなくてはたどり着けないような農村へ農村支援の名の下に下放される。
 そして30年。
 蛇頭の船に密航して彼は再び日本の地を踏む。昭和が終わる頃までテレビも村になかったような場所から彼は戻ってきた。

 「足の太さが上から下まで同じの女の子。白いギプスのように膨れた靴下。赤い髪。青い髪。金色の髪。ビルに挟まれたしもた屋。水を商品にして売り買いする世界。金をとって酸素を吸わせるバー。黄色い馬という麻薬。宇宙船の中の麻薬パーティー。世界中の電話がアメリカに盗聴されている世界」

 互いが互いを見ようともせず、地べたにしゃがんで携帯電話をいじっている子どもたち。亡き父の墓参りに行けば、モニターと作り物の蝋燭のある「宇宙船の操縦席」のようなところに連れて行かれ、モニターで指示するとモーター音とともに骨壺が運ばれてくる墓地。
 しかし、それが彼に絶望をもたらすことはない。少なからず文明批評はありつつも、彼はそれを静かに受け入れる。
 国に何も望まない人間は国に絶望することはない。

「子供の時から、国家に何かを望んだことはなかった。毛沢東の国だろうと、それはまったく変わらない。兵士として駆り出され、虜囚として南方に放り捨てられた父と、戦後、進駐軍の洗濯工場で働き、長く一家を支えた母が、唯一残した家訓のようなものだったのかもしれない。「国なんてえのは、銭金に汚いくせにやたら見栄っぱりの家主みたいなもんさ」というのが父の口癖だった。
国家が、一人の国民のために何かをしてくれるだろうか。するとしたら、逆に中国政府に依頼して、自分という存在を抹殺しようとするのが関の山だ。岸信介の弟の政府だったら間違いなくそうするだろう」

 はからずも現在は、岸信介の孫が政権を握っている。
 彼はかつて、一緒に中国に渡ろうと約束したものの最後とどまった友人の援助を受け、東京を旅する。30年の時間を経て、彼は戻ったのではなく、少し見覚えがあるが、圧倒的に見覚えのない新しい街を旅するのだ。
 そこで出会うへんてこな連中。夜の風情。まるでフェリーニの「甘い生活」の夜を見ているようだ。
 彼は一つずつ確認するかのように東京を歩く。ホームレスにトンカツ弁当をおごってもらったり、ビールを飲んでる女子高生と知り合ったり、友人の部下と食事をしたり、蛇頭に見つかって半殺しにあったり。
 この旅での光景を彼は知っていたのだ。だから30年の時を越えて訪れた東京を前にしても絶望も抱かなければ驚愕もない。

「何事にも、心底びっくりしないのはそのためだ。俺は、この景色を知っている。どの景色も、とっくの昔に知っている」

 彼はそれを、未来の東京を「鉄腕アトム」で見ていた。

「電車が地上高くに上りつめ、右手の窓に空き地が広がった。そこはまさに、あの夢の島だった。ブッコワース光線が東京を隅々まで破壊し、ロボットにすり替わった首相が電子冷凍器でこの世界を永遠の冬に閉じこめようとしたごみ捨て場だった」

 そこで彼は静かに自分の30年前と向きあう。その静かな悲しみが伝わってくる。悪漢に捕らえられ、はるか南洋の海底で奴隷労働を強いられている少女を救うために、アトムはロボット法を犯す。彼も、そしてそのとき、科学の子だったのだ、と。
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