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江戸は燃えているか

2006年12月04日 16時37分56秒 | 読書
前に読んだ「幕末気分」が大変面白かったので、同じ著書の「江戸は燃えているか」を読んだ。これも同じように面白いが、取り上げられている人物が「幕末気分」よりは有名どころを揃えている点が異なる。
それでも、なおこの本においても江戸末期の何か言うに言われぬ匂いは感じられる。

「生活の調子がかわるとき、はじめてルネサンスはくる」(ホイジンガ「中世の秋」)

為政者のやりとりだけが歴史ではない。生活の調子の変化も歴史なのだ。ホイジンガが言うルネサンス同様、江戸も明治も、そんな風にして変わっていったはずだ。だから、まさに「幕末気分」なのだ。この著も基本的には同じ。事柄がよく整理されていて、物語に滞りがなく、またその当時の雰囲気をよく感じさせてくれる。
たとえば清河八郎のこんなくだり。

「過ちさえ天意の恩寵と感じるのだ。手の付けられないナルシシズムである。
この強烈な自己愛から生まれた満々たる自己確信が、周囲の人々に清河八郎を信用させる気迫になった。本人を動かしていたのは驚くほどの主観主義だったが、たとえたんなる大言壮語でも多数がそれを真剣に受け取ったら、実際に《客観情勢》が形成される。一人の妄想は、集団では共同幻想に転化する。清河八郎の舌先三寸で幕末史が動いたのである」

幕末のせっぱ詰まった雰囲気になんと清河八郎という山師が似合うことか。思い詰めることが人として当たり前だった時代もあったのだ。
こんな風に全7編。これがなかなか読み終わらない。読み終わるのがもったいなく感じられるレトリックと思考の妙。
孝明天皇を描いたところ。

「孝明天皇は有名な夷狄嫌いであった。理屈抜きの外国嫌悪(ゼノフォビア)である。条約調印に断固反対の立場を表明したのも、自分の代に開国通商が始まったのでは伊勢神宮はじめ歴代天皇に対して身の置きどころがないという過剰な責務の自覚からであった。天皇の拒絶の意思表示は、純粋に心情的であり、一本気であり、非政治的なものであり、いっさい打算なしだったが故にいっそう強硬で難物であった。相手を甘く見ていた幕府当局者はあわてた。《非合理》の力はまったく計算外であった。
(中略)
なんと、戦争になってもやむを得ないと言い切ったのである。孝明天皇に勝算があったとは思われない。売り言葉に買い言葉であった。交渉はもちろん決裂し、京都朝廷は幕府に対して「ノーといえる」政治勢力として認知された。歴史の新しい頁を切り開く力はいつも《非常識》なのである」

他にも権力の二つの側面を解体し、それぞれがどのようにお互いに依存しているか描いたり、裏側にある明確な思考とそれを表現するにあまりあるレトリックが楽しくて楽しくてたまらない。
秋の夜長の友としてゆっくり味わわせて頂いた。
コメント
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