毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

マット・ラフ「バッド・モンキーズ」

2010年05月05日 00時24分33秒 | 読書
マット・ラフ「バッド・モンキーズ」   文藝春秋社


 そんなに他人を全面的に信頼するわけなんかなくって、口じゃそう言ってるけどほんとは違うこと考えてるんじゃないか、とか、普段他人と接しているとき、いろいろ思うことあるんじゃないか、と思う。
 でも、なぜか、小説を読むときは語り手の言う事を全面的に信用してしまう。ああ、そんなことがあったんだ、と。
 現実の他人には真意を問うのに、なぜ小説の語り手は疑わない? もしかしたら、前未来形で自分を語っているのかもしれないじゃない? 語ることによって、自分をそう思ってもらいたいという欲望に基いて物語を語っているかもしれない。語りは、いつの間にか騙りへと変貌し、文学空間とはすなわち騙りの地平に広がっていく曖昧模糊にしていくつもの内側へ折り重なる襞によって形作られるのかもしれない。
 たとえば田山花袋の「蒲団」は、確かにいやらしい自己意識が解剖学的に語られているけれど、あれがすべてだったかどうか、誰にも断言できない。もっと卑劣なことを考えたり、もっとスケベなことを蒲団にしたことを隠蔽するために書かれたという見方を誰が否定できるだろう(この場合、田山花袋が考えたこと、したことではなく、あくまで「蒲団」の語り手のこと)。
 書かれたことが読者に与えられたすべてであるにも関わらず、それが何かを隠蔽するために書かれたテクストであるかもしれない疑いを私たちはぬぐい去ることができない。
 小説を読むときに語り手を疑う。これは小説の楽しみ方の一つとして重要なんじゃないか、と思う。
 たとえば「そんな風にして私は殺されました」という文。もちろん、コンテクストからレトリックとしての死が語られたんだと了解される場合もあるだろうけれど、どうやら、おいおい、この主人公、ほんとに死んじゃったみたいだよ、という場合、私たちはどうしたらいいのだろう。この主人公はどこから語りかけてきているのだろう(それを逆手に取って「うまい」小説を若くして書いたのが乙一。彼の「夏と花火と私の死体」は、しかし、あのジャンルだから許されている部分もあるんじゃないか)。
「オンリーワンで本当の私」なんてもんが気持ちの悪い妄想のように、「本当の語り手」など存在しない。小説とはすべて騙りの地平で編まれながら、良質なものは真正な力を持つ不思議な存在だと思う。
 で、長々とマクラを振ってきて、この「バッドモンキーズ」。語られる内容はまるでパルプ・フィクションなんだけれど、そのパルプぶりが最近楽しいと思うようになってきた。インチキっぽい光線銃、悪と戦う秘密結社、斧を持って後部座席で控えていた助っ人(のようなもの)、どれも薄っぺらいパルプぶりで、その薄っぺらな活躍が楽しい。
 そして、この小説の荒唐無稽さを支えているのが、語り手が信用できるのかできないのか、その判別を保留にしたまま語られる危うさにある。ものすごいバランスの上に成り立っている小説だと思う。そしてその心意気は、実はアニーという、いつもワケの分からない言葉を口走っている登場人物に現れている。この小説、ぼくが一番評価するのはアニーという登場人物を存在させたこと。アニーという存在は、まんま小説全体を象徴している。ワケの分からない言葉を口走っているアニー、頼りになって誠実なアニー、その二面性は語り手であり、人間そのものであり、この小説の枠組みそのものだって、そしてただのパルプ・フィクションじゃなくて、ちょいメタで異化作用のある作品なんだよ、という作者の「気づいてよ」サインのようにも思えた。
 なかなか楽しめた作品。装丁も本文の紙質もパルプ・フィクションっぽくていい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする