毎日が観光

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おと・な・り

2010年05月02日 21時59分05秒 | 映画
 男は、風景写真を撮りたくてカナダに行こうと考えてるカメラマン。
 女は、フラワーデザイナーを目指しフランス留学を考えている花屋さん。二人は壁一枚隔てた音筒抜けアパートのお隣同士。実際には会ったこともない二人は、隣から漏れてくる音だけでお互いの存在を感じていた。
 っていう話。
 けどさ、わかるけど、その音ってえのが、コーヒー豆を擦る音とか、フランス語練習とか、加湿器の警告音とか。
 AV見てハアハアとか、男連れ込んでギシギシとかじゃないのよ。この映画のカメラマンとフラワーデザイナーはそういうことしないの。たぶん下痢とかおならもしないの。どちらも、いい年の独身男女なんだけど、生身じゃなくて、記号的だから。
 たとえば、試験の朝洗濯干してて、急に気づいたように腕時計を見て、「あ、行かなきゃ」と。ないって。大事な試験の朝に、行かなきゃって気づきはあり得ないって。でも、ドラマとかの演出でよくあるよね、「あ、行かなきゃ」って記号的表現。これで映画が一発で安っぽく見える。
 この記号的表現は、乱入してくる女もそう。あれ、なに? 演出がわざとらしくて、監督のあざとさを感じてしまう。で、大雑把で押し付けがましくて、でも主人公が気づかない「本当の愛情」みたいなものを感じている、とか。そんなヤツいないけど、陳腐な表現としてあるよね。
 あと、この映画、わざとだろうけれど、微妙にカメラを揺らすんです。それもずっと。心の揺れの表現? 手持ちで撮る意味がわからない。それとも、何? 芸術風味付け? たまに「あえて逆光を恐れない」みたいなとこもあって、あれもあざとさを感じたけど、芸術的味付けだよね。「ハートロッカー」的表現じゃないでしょ、きっと。
 そうした映像にこだわってますよ的サインをチラ見せしながら、「基調音」を言葉で延々説明する映像的敗北。「心音もそのひとつ」という台詞に「心音?」と聞き返させることで、長々と続く一人ゼリフを回避させようとする陳腐な台詞参加に端を発する長ゼリフ。「だから人はときどきそういうのを運命って呼ぶんだと思います」って、言わせちゃだめでしょ? 音は大事なんです、人が何気なく聞いている生活の基調をなす音は大事なんです、そうした音と出会えることは運命なんです、ってセリフで言わしたら、この映画いらないでしょ。ああ、そうですか、そうですね、ためになりました、ってDVD停めるよ。
 で、そのセリフにかぶせるように山口湖(狭山湖? どっちか)の橋の上で楽しそうに母子が歩いているのを見て、お腹をさする乱入女。ああ、なんという陳腐な表現。昔の石坂浩二と水前寺清子のドラマを見ているようだ。
 そのあとのセリフも長いこと長いこと。いっそのこと映画なんてやめて、朗読劇にしちゃえばいいのに。
 で、あと心配なのは、もう留学が迫っているってえのに、練習してる内容が「ご機嫌いかがですか?」「私は元気です。あなたは?」って、おい。大丈夫か? それ。だって、英語で言えば4月に中一になったばかりのピヨピヨくんが、ピヨピヨくんのまま、留学するってレヴェルじゃないか。あり得ないっしょ。そこはセリフとして「私は元気です」ってことばが必要だったんだろうけれど、じゃ、脚本変えろよ。なんというか、安易すぎるだろ。
 もう最後に至っちゃ、あれっすよ。「ねえよ、んなこたあねえよ」ですよ。謝恩会の写真も麻生久美子のだけ、明らかに被写体深度違うし。ああ、なんか陳腐なくせに観客馬鹿にした表現が山ほど(馬鹿にしてるから陳腐なのか、この程度でヤツら泣くって、大丈夫大丈夫と)あって違和感を感じる。
 文句たらたらで、ほんと下品ですね、私ったら。でも、私は綺麗事で済む記号ではなくて、生身の人間っすから。
 日本のトップモデル専属のカメラマン(「東京ですごい成功してるんだって」ってセリフもありながら)でも、音筒抜けのアパートにしか住めない日本のカメラマン業界の現状と、色恋になると職場放棄OKな日本の大人の現状を憂う一方、お門違いな会話の数々を心から楽しませて頂きました。「プロのフラワーデザイナーになるために何本の花犠牲にしてきた?」とか真顔でおっしゃるセリフ、最高にいかしてます。
 きれいな俳優さんと女優さん揃えて、きれいでおしゃれなセットに、静かな音楽流し、たまに「自分に嘘をつくなよ」などと激昂してみせたりする、お上品でおきれいな映画でありました。
コメント (4)
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