入り口から廊下を右に折れると、突然仏たちの空間が広がる。しばらくの間、ただただ「うわああああ」と小さく声を出したままだった。壮観というより、濃密に立ちこめる異様な雰囲気に、ただただ圧倒された。次第にその空間に目が慣れ、その濃密な空気に肌が慣れ、千体仏をマッスとして感じるのではなく、個別の造形として見られるようになると、今度はそのすばらしさに圧倒される。
まず入ってすぐの雷神像に心奪われる。鋭い視点と広げられた手の指がぼくの頭上40センチほどのところに収斂する。その求心的な造形。その中心に射すくめられたまま、魅入られる。120メートルのお堂の最初1メートルから先に進めない。
その求心的な像の背後には、千体の仏の世界が濃密な空気とともに広がりを見せている。なんと言っていいかわからない。
やがて雷神の呪縛を脱して、少しずつ少しずつ進んでいく。でも、「うわあ」という小さな声は止まらない。ようやく半分まできて、丈六の千手十一面観音座像まで。ここで不思議な感覚にとらわれる。この半分の量じゃなぜだめなんだろう、と。つまり、この五百体と丈六仏じゃだめなのか。
なぜ千じゃなきゃならないのか。
この濃密な空気には、もちろん千体の仏がかもす浄土世界の密度があるのだろうけれど、歩いていく内に、これを作った人間の執念のようなものを感じ始める。980や999ではだめで、1000という数字にこだわる執念。
数字にこだわる人間の業と言ってもいいだろう。
深草少将の百夜通い、弁慶の千人斬り(異性関係でこの言葉を使うムキもあるが、いずれにしても千、だ)などなど。そしていずれもあと1つというところで失敗している。このあと1つの失敗は、ぼくが思うに旧約聖書に出てくる「バベルの塔」だ。成就することによって人を超えた領域に達するのを阻まれたのだ。この失敗のドラマが人間の限界を象徴している。
逆に言えば失敗したからこそ、弁慶も深草少将もバベルの塔の住人たちも、人間の側にとどまっていることができたのだ。
たとえば「千手観音」という言葉がある。この「千手」とは「一杯の手」ということで、本当に千本あるわけではない。この「千」というたとえを、まさに千体という具体的な数字で実現してしまった人間の業は、明らかに弁慶や深草少将を超えている。この三十三間堂で、ぼくたちは、千体の観音を通じて浄土を表してしまった人間の強すぎる業と向き合っているのだ。
謡曲「鉄輪」の女のように、深く深く業を突き詰めることによって、人間の業を超えてしまう強い何かを感じることができる。それと向き合ったら、ぼくのような弱い人間はただただ「うわああ」としか言いようがなかったのだ。